憲法 - みる会図書館


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1. 昭和天皇 上

ついて述べる場合の言葉だった。昭和天皇の「ファシズム、の否定も、 ( 増田が推測するように ) 彼の側近を批判し、 明治憲法体制を変革しようとする者とは、政治的に相容れないという信念に由来するものだった。天皇は首相に安心 できる人物を必要としていた。たとえファシズム思想を持っていようとも、首相が絶対に忠実かっ従順であり、クー デタによる変革に反対するかぎり、天皇はそれで満足だった。例えば、二年後に天皇は陸軍の中心概念である「国防 国家」に何ら異議を唱えなかったが、この言葉はナチス・ドイツに由来し、明治国家とはまったく異なる方向へ国家 を再編することを意味するものだった。 もう一つの天皇の意思である「明治憲法の擁護」とは、おそらく、一八八九年の憲法が異常な運用をされていると 天皇が理解していたことを示唆する。憲法は権力の行使の手引きでも、日本臣民の制限された自由と権利を擁護する ものでもなかった。なぜ天皇は改憲を許さなかったのだろうか。憲法はすでに合法的に、実際「立憲的に」、天皇や 権力エリートが望んだどんな類の政治的ル 1 ルもっくることができたからである。 天皇の最後の望みは、「国際平和」に基づいた外交を行うことだったが、それはワシントン条約体制の肯定、その 現状維持ではなかった。彼が言及していたのは、侵略によって満州国を建国した後の新たな事態に対する現状維持だ った。「帝国、はいまや新たな領土を併呑したが、日本は、依然、経済的にはその主たる批判対象であり、敵対者で ある英米勢力に依存していた。この状況下、天皇は、当然ながら英米との新たな摩擦を避けようとしていた。それゆ え、満州併合が「平和的」でなければならないことについて熱心だった。 犬養暗殺の一〇日後、天皇は老齢の海軍大将斎藤実を首班に任命した。斎藤は、内田康哉外相、高橋是清蔵相、新 ごとうふみお おかだけいすけ 官僚の指導者である後藤文夫農相、荒木貞夫陸相、海軍大将岡田啓介海相らからなる挙国一致内閣を組閣した。この 変内閣は、一九三四年七月、帝国人絹株式会社をめぐる贈収賄スキャンダルで崩壊するまでの二年余りに、国会を四会 期切り抜け、たび重なる閣僚交代を行った。この間、斎藤は満州国建設、日本の国際連盟脱退、そして政府機構の部 満 章分的再編を指揮したのである。 第斎藤は直ちに満州国承認の準備に着手した。それは諸条約への違反を必要とし、米国との従来の関係を危険にさら

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皇太子の教育過程には終わりがなかった。その最終目標は、政府と統帥部から提出される政策文書に示された判断 と決定を、文書の作成過程をめぐる政治的闘争や対立の外に立って理解し、現実的に評価できるようにすることだっ た。さらに無敵で神聖な日本の政治組織に均衡を保たせ、官僚間の派閥抗争を統合と合意に導けるようにすることだ った。このような機能を果たすのに、彼は論理を重ねて疑点をただし、理論的に討議するという方法は取らないだろ う。というのは、日本の指導者たちは、問題をはっきりさせ、論争を解決するために議論が効果的だとは信じていな かったからである。むしろ彼は、文武にわたる自分の詳細な知識と聖なる権威とが、どのように論争を合意に向かわ せるかを学び、それによって役割を果たすようになる。彼がその役割を適切にこなしてゆけば、その決定と意思は支 配機構内のすべてのグループに浸透し、一致が生まれるはずだった。その際、自身の平凡な身体の特徴ーー。ほっそり かんだか した体格、甲高い声、ごく平均的な知性ーーーがうまく作用して、皇太子を危険な神話的宣伝から引き戻し、現実に いカり 育つなぎ止めておく錨のように働いた。皇太子は物事を直感的に理解するような人物ではなかったが、必要に応じて短 皇時間に、十分学ぶ能力は身につけた。 けの学説としてはつねに敬意を払ったが、それを多少とも自分自身の行為の基準にすることはなかった。絶対主義論 かたよ 彼よ事実、いかなる立憲君主制理論。 こも偏らなかった。憲法は彼にとって重 者の神学的理論に従うこともなかった。 , 。 要な政策決定の基準にはなりえなかった。祖父と同様、自分がすべての国法の上に立っていると信じたからである。 彼の行動を真に規制したのは、明治天皇の精神的遺産を含めて、憲法に関わるものではなかった。状況の要請によっ ては彼は憲法を無視さえした。

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( 四所功、前掲一三六ページ。 天皇制の構造ー憲法学者による解読』日本評論社、一九九〇年、 ( れ ) 白鳥庫吉、前掲七一一ー七七三ペ 1 ジ。 二四七ページに引用。 ( 犯 ) 所功、前掲一三七ペ 1 ジ。 訂 ) 清水は天皇と国家の関係を有機体の脳と身体の関係で比喩的 ( ) 所は、杉浦が歴史的な素材を用いてそれを独自に「演繹的」 に説明したが、また「国家を統治権の主体なりと為し同時に天皇 に解釈したのに対し、白鳥は日本の歴史の展開過程を「帰納的」 を統治権の主体なりと為すに於て矛盾する所なく又斯く論ずるに あら に説明したと指摘する。白鳥の教科書は、皇位継承の事情と、歴非ずんば我が国の国体は之を説明するを得ず」とも述べている。 代の天皇がいかに人民の幸福の増進に意を用いたかを簡潔に述べ清水澄『国法学第一編憲法篇』日本大学、一九〇四年、改訂増 ている。所によれば、その記述は歴史的に「的確公正」で、とき補、一九一九年、一一一ページ、鈴木安蔵、前掲一一六六ページに引 には天皇の失政や欠点にも言及している。所は白鳥の『国史』を用。 北畠親房の「神皇正統記』 ( 一三三九年 ) になぞらえているが、 ) 内閣制度が創設された一八八五年から一九四五年まで、日本 親房の論点には触れていない。所のこの比較は、『国史』には の総理大臣で、衆議院議員経験者はわずか四人だけーー原敬、加 「今日なお説得力が」あり、「近代版の『神皇正統記』といってよ藤高明、浜口雄幸、犬養毅ーーである。首相は事実上議会の多数 いかもしれない」という指摘を導くための修辞にとどまってい 党の支持をえることはあっても、必ずしもそれを率いているわけ る。所功、前掲一四〇ページ。 ではなかった。首相を選任するのは「元老」であり、昭和天皇の ( 料 ) 岩井忠熊、前掲五ページ。 治世下では、彼自身と宮中グループが選任者になった。彼らは、 菊 ) 永積寅彦『昭和天皇と私』学習研究社、一九九一一年、七六ペ その目的のために必要なときには衆議院の保守的多数党の意向を 考慮したが、それを無視することもたびたびだった。それが日本 ( 色鈴木安蔵『日本憲法学史研究』勁草書房、一九七五年、一一六帝国の「政党内閣」制なるものであり、議院内閣制にはほど遠か 〇ー一一六七ページ。 った。とはいえ、戦間期のイギリスでも議院内閣制モデルが民主 ( 町 ) 同前一一六 的に機能していたわけではない。 ロイド・ジョージもラムゼイ・ ( ) 同前一一六三ページに引用。 マクドナルドも、与党第一党の指導者ではなかった。日本の政党 ( 的 ) 近衛篤麿「君主無責任ノ理由」『国家学会雑誌』第五巻第五機構と英国モデルの議院内閣制との比較は有意義な課題である。 五号 ( 一八九一一年九月 ) 一一三四ー一二三一ページはその典型例 である。 第三章現実世界に向きあう ( ) 美濃部達吉『逐条憲法精義』有斐閣、一九二七年、五一一ペ ージ。山内敏弘「天皇の戦争責任」横田耕一 / 江橋崇編著『象徴 ( 1 ) 一九一九年五月一一八日、外相内田康哉はパリの日本大使に電 ヾ 0

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あった。昭和天皇が、天皇の意思の絶対性を否定し、議会は天皇が裁可した法や勅令を自由に批判することができる と説いた美濃部を、公的な場から追放することを容認したのは、このためだった。そして、日本人は、まるで天皇が 生きた神であると考えているかのようにふるまうことを奨励されたのだった。 しかし、昭和天皇はみずからの自由が奪われるような運動を、個人的には、けっして快く思っていなかった。ま た、天皇は、一般の国民が国体明徴について政府批判の議論に参加することは、特権的な国家エリ 1 トの信頼を損な 、天皇自身のカリスマ的な権威を減少させるものであると理解していた。それでも、皇位を取り巻く運動の喧騒 が、新たな熱狂主義へ到達することを止めようとはしなかった。たとえ、昭和天皇が軍や右翼の思想と行動を間違っ ていると考えていたとしても、けっしてそれを軍に伝えるようなことはしなかっただろう。本庄との冷めたやりとり せっちゅう から主に次のようなことが言えるだろう。つまり、天皇は折衷主義者であり、軍が側近を批判することに苛立ち、加 えて、祖父明治天皇のもとでつくられた憲法秩序は、権威主義的ないずれの形態の政府とも両立しうるという信念を 持っていた。天皇は政治的、軍事的意思決定において積極的に行動するように教育されてきたし、みずからもそれを 意識してきた。そして、天皇は、美濃部の学説を非難する人々の多くは、まさにこの見地から美濃部を否定していた ことがわかっていた。 かたく 頑なで一貫して狂信的な本庄は、天皇に神格に関する考え方を変えるよう繰り返し奏上した。一九三五年三月二八 日、本庄は、「軍に於ては天皇は、現人神と信仰しあり、之を機関説により人間並に扱ふが如きは、軍隊教育及統 帥上至難なり」と主張した。翌日、天皇は何とかして本庄を教化しようとした。憲法を引きながら、「憲法第四条天 皇は『国家の元首』云々は即ち機関説なり、之が改正をも要求するとせば憲法を改正せざるべからざることゝなるべ し」と指摘したのである〔大日本帝国憲法・第四条は「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ」と規 定している〕。 しみずとおる 昭和天皇の憲法観は清水澄の影響を受けていた。清水は「天皇機関説」に反対だったが、しかし、上杉の学説にも 間違いがあるとしていた。清水と同様に、天皇もこれら二つの解釈のいずれにも依拠していた。天皇は、美濃部の擁 258

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ていることについての、新世代の日本の研究者の努力に加え、また幾多の新しい文書、日記、回想記、学術研究が近 年出版された。そのおかげで、近年われわれは欧米でも日本でも、昭和天皇の一生を形成した知的、倫理的、社会的 な力をほば理解することができるようになった。史料上の制約はまだまだ大きいが、これらの新史料は、総力戦時代 のもとでの彼の歩みを再構成するのに有力な論拠を提供している。 日本の研究者は、天皇がいかに国民から遊離していたかについても明らかにしている。熱狂的な自民族崇拝の中心 あらひとがみ となり、ある人々からは現人神とあがめられながら、天皇はどの町に行ってもけっして一般的な意味での「人気者」 になることはなかった。官僚的君主制の枠内で行動し、端的に近代中央集権国家の「機関ーの一つであって、しかも その「意思」がすべての法を超越する、そのような存在と見なされていた。新史料は何よりも、天皇が、ほかの日本 人にはできないかたちで、近代日本の政治的発展の矛盾した論理をどのように体現してきたかを認識させてくれる。 この発展は、昭和天皇の祖父、死後に明治「大帝」と呼ばれた天皇睦仁の時代に始まった。一八六八年に天皇にな った睦仁は、国家の近代的改革の指針となるように育てられた。一九世紀末におけるその権力の確立と制度化の過程 は、結局その後一九四五年まで続く日本政治史の展開の特質を規定することになった。宮廷は、ヨーロッパの君主制 を手本に政府から分離され、再編成された。成文憲法がそれに続いた。一八八九年に明治天皇から「賜り物 , として 国民にさずけられた憲法は、天皇が絶えることのない聖なる血統の男子後継者であること、そのことを基礎に、君主 制のもとに政府が存在することを宣言している。憲法は天皇を神聖不可侵の国家元首、軍隊の最高統率者 ( 大元帥 ) 、 そうらんしゃ すべての国家権力の総攬者と規定した。天皇は、帝国議会の召集・解散を命じ、法律に代わる勅令を発し、国務大臣 や文武官を任免してその俸給を定める権限を持った。この憲法は、天皇が法の源泉として憲法を超越しており、憲法 発布の目的もその権力を制限することではなく、反対に天皇を保護し、彼に無限の権威を発揮させる機構を提供する ことにある、ということを基本原理にしていた。このような政体は、立憲的外見をとってはいても、とうてい立憲君 主制とはいえないものだった。 むつひと

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アイデンティティ しい国家的な帰属性を獲得した。臣民とは、理念上全国民を天皇の「赤子」と見なし、天皇をこの拡大された家族 の両親 ( 父であり母でもある存在 ) と考えて、天皇に絶対的な忠誠をささげ、奉仕することを意味する倫理的 イデオロギ 社会観念である。臣民はすべて、勤勉と競争を心がけ、国家の起源神話を尊び、神道をうやまい、国家への奉公と天 皇への服従を個人の利益や快楽に優先させるべきものとされた。迪宮もまたこの同じ天皇制イデオロギーのもとに、 だがすべての忠誠と奉仕を一身に受けるという、臣民とは逆の立場で育った。 迪宮が生まれたとき、天皇崇拝はすでに公的に確立していた。天皇をおとしめるような一 = 口論などは一八九三年の出 版法、天皇、皇族の肖像と菊花紋に関する一八九八年、および一九〇〇年の内務省の命令で禁じられ、一九〇九年、 抑圧的な新聞紙法がこれに続いた。天皇と皇室に関するマス・メディアの報道は、特別な敬語を用いた画一的なもの になった。天皇の写真撮影も警察法で規制された。 明治時代のきわめて両義的な遺産のなかで、明治天皇から孫に渡された憲法体制と支配イデオロギーとは、最重要 のものだった。憲法によって受け継いだ独裁支配の政治的伝統は、天皇がその大権を行使する際に自制的であるべき だとする精神と結びついていた。のちに皇位継承準備の教育が始まると、彼は天皇が初めに同意しなければ法律も勅 令も制定できないことを学んだ。宮廷と内閣は天皇自身によってつながっており、彼においてこの二つの世界が一つ になるのだった。しかし宮廷と政府の組織上の区別は、直ちに両者の意思疎通の問題を提起する。成長するにつれて 彼はこの区別を体得し、憲法秩序の創設者が国家の最上層に制度化してしまった困難につねに直面することになる。 憲法は、天皇が立法権の行使を帝国議会と共有するように規定しているが、明治天皇とその側近は、議会はそれ自 身の意思ではなく、天皇の意思のみを反映することを前提にしていた。天皇と議会が対立したときは、天皇は裁可を 留保することで拒否権が発動できた。天皇の賜物として成文化された憲法秩序は、裕仁の誕生前夜にはすでに変化し ていた。一九〇〇年、伊藤は新政党立憲政友会を創設し、寡頭政府への議会の支持を取りつけ、憲法の機能を守ろう としていた。 主に大地主と実業家の利益を代表する政友会は、議会において政党政治を支配するようになった。元老は明治天皇 せきし

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範囲」は議会によって慎重に制約されなければならない。そうでなければ、極端な場合、軍部の勢力が「国政を左右 し、軍国主義の弊、窮まる所なかるべし」と美濃部は警告した。 美濃部は軍の政治干渉への警告を止めなかっただけではない。彼は明治憲法の第三条 ( 「天皇は神聖にして侵すべ からずしについても、これを、単に天皇は、法によって国事行為上の判断に関して責任を求められることはない、 と解釈した。美濃部によれば、もし、天皇がみずからの意思において自由に政治行動ができるのなら、「君主の無責 きずつ 任ということは実際に望むべからざる所であって、皇室の尊厳を傷くる結果は避け難い所であります」ということに なる。換言するならば、美濃部は、日本ではたとえ個人として天皇だけが責任を持たないとしても、〔結果論としては〕 憲法は君主の権限に制約を課している、と考えたのである。しかし、それは政治責任を担う「絶対的な」支配者を天 皇に求めるためではなく、当時、陸軍の指導者が唱えていた天皇の親政という考えや独裁制に反対の立場を取るため だった。美濃部はさらに、国事行為について出された勅令は「神聖にして不可侵」ではなく、議会や国民によって批 判することができると論じた。道徳問題に関するものと、国務大臣の署名のないものだけが、批判の対象外になると した。 意のままに事を進めたがっていた陸軍指導層の多くは美濃部に反対し、「神聖」と「不可侵」を対置させて、神権 を述べた憲法理論を引き合いに出した。彼らは、自らが求める第三条の解釈を、上杉慎吉の著作に見出していた。 あらひとがみ かむながら 天皇は天祖血統の御子孫であって、現人神として国家を統治したまう。本来惟神至聖にましまし、臣民と比倫 〔生まれながらの格〕を異にしたまう。 ( 中略 ) されば、我が憲法第三条たる、諸国の憲法に ( 中略 ) 同様の規定が あるのとは、全くその意義を異にして居る。 章上杉の解釈は西洋的な立憲君主を前提とせず、軍の統帥権を侵害するものでもなかったために勝利したのだった。 さらに、天皇の絶対的な地位を強調した上杉の見解は、薩長の寡頭支配から政党内閣制への移行を正当化しようとし きわ 2 5 5

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されると論じた。清水は国家を独立した道徳的人格と見なし、天皇は理の当然としてつねに国家の利益のために行動 すると主張した。天皇がどんな場合にも国家利益に沿って考え、行為するものである以上、天皇と国家が対立するこ とはない。清水にとって、どちらが優先するかの問題は起こりえないのであった。こうして清水は、歴史上、天皇は つねに国家利益のために行動してきたとする杉浦の教えを補強した。 憲法を「国体」の優越性の観点から解釈することは、美濃部には必然的ではなかったが、清水はそうすることによ って、国内の不一致から「国体」が破壊されるのを防ぎたい保守的イデオローグの、戦前から戦後初期にかけての標 準的議論に与した。これらの人々は、危機の時代には、天皇制イデオロギーをもっとも強固に保持する官僚たちの進 出が、政治制度の発展よりはるかに重要であると考えた。忠実でよく訓練された官吏が支配しているかぎり、「国体」 は内側からの転覆をつねに免れるはずだった。 清水は、議会とその権限、枢密院、元老などの憲法外機関の問題などに直接触れることはなかった。彼は、議会主 義の原則や、天皇に助力する何らかの法的国家機関の権限を制限することに基本的に反対だった。清水は、天皇にと かんが ってあらゆる国家機関は同列であり、同一限度の権力しか持ちえないことを裕仁に教えこんだ。天皇は、状況に鑑 み、どの側近の意見を尊重すべきかを決め、天皇もそれに同意したうえで決定を下すのだが、側近の意見が一致して いようと分かれていようと、天皇がつねに彼らに従わなければならないわけではなかった。 ノンアカウンタビリティ 清水が、政治的行為に対する天皇の無答責という問題を論じなかったのは注目すべきことである。明治憲法に は君主無答責の明文規定はないが、憲法成立の当初から注釈家たちはみな、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラ るス、の「侵スへカラス」という文言にその意味があるとしてきた。そのため、もし天皇が国内法上非合法に行動して 育罪を犯しても罰せられない 。また、もし政府が非合法の行為を行っても、国家元首である彼が責任を問われることは 皇ない。天皇が憲法に違反する可能性に対する唯一の保障は、国務大臣の輔弼とその責任を規定した第五五条であり、 章責任を問われなければならないのは、あくまで国務大臣だった。 第 しかし以上のような制度は、じつは無答責を真に保障するものではなかった。なぜなら国務大臣は統帥権に関わる ほひっ

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いた。しかしそれらは公認の歴史観にしたがってそれをつめ込むものであり、民族的起源に関する日本人の固定観念 を授け、国力、威信、そして帝国の推進者としての天皇の役割を注入するものだった。 Ⅳ 学習院教授清水澄は、杉浦や白鳥と違って、れつきとした学界の第一人者というわけではなかった。清水が憲法の ほづみやっか 教師に選ばれたのは、小笠原や元老たちが、穂積八束、上杉慎吉、美濃部達吉といった当時の代表的憲法学者は、皇 太子を指導するにはあまりに問題が多いと考えたからにほかならない。清水はとくに学派に属さず、一九〇四年に憲 法を叙述した大冊を出版していた。一九一五年、彼は宮内省の嘱託になり、御学問所に勤務した。そこで、のちには ( 恥 ) 宮廷で、清水は憲法上の政府権限の範囲について有力な二つの学説を解説した。ひとつは穂積、上杉らの天皇親政説 で、天皇に絶対性を認め、天皇は国家の諸機関を監督する責任を持ち、その官吏任免権を直接行使するものと説い た。これは陸軍の多くの将校 ( 宇垣一成は注目すべき例外である ) と、東郷、小笠原らの海軍将校に支持された。も うひとつの説は、自由主義的な美濃部の「天皇機関説」で、内閣を天皇の単一の最高助一一一一口者とし、天皇に協力する憲 法外機関の権限を制限することで、専制権力を抑制する立場だった。 くみ 清水は折衷的で矛盾した思想を持ち、表面上はどちらにも与しなかったが、行文からは美濃部よりはるかに穂積に 近いことが明らかである。清水は憲法解釈問題の中心点を「統治権」に置き、これを天皇にも国家にも認めた。彼に よれば、国家は「土地、人民及び統治権の ( 三者が ) 不可分的に結合した」もの、「法理的観念に於て人格を有し統 治権の主体たるもの」であつが。そして彼は、「我が国に於ては統治権は国家に帰属すると同時に天皇に帰属し国家 と天皇とは此点に於て相同化し一ありて二なきものにして統治権の主体は即ち天皇なりとす」と続ける。 このような主張は、清水が君主と国家との関係を結局は明快にできなかったことを意味している。東京帝大におけ る穂積の弟子の憲法学者上杉は、天皇は国家そのものであって、彼の行為はどんなに恣意的なものでもすべて正当化

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奈良は続いて山県との会話を記録している。山県は、以前皇太子に拝謁していくつか質問をしたとき、彼が何も答 えず、山県に質問するでもなかったことを思い出したのである。 あたか ひっきよう ( 汚れ ) はなはだ ・ : 恰も石地蔵の如き御態度ロロ甚遺憾を感ず畢竟浜尾の箱入り御教育の如き方針に基因すると思ふ、今 后一層開放的に御教育申上げ御自由御活発の御気性を養成せざるべからず、御外遊も之に依て必要を感ずるなり ( 6 ) 是非実行せざるべからず、 : : : 浜尾が愚図々々し居るは遺憾なりと : 奈良は、思春期後半の皇太子が相手に何らかの「人格、を示せず、挙措がぎこちなく、依然として声が高いとい う、弟たちには見られない点にも注目しただろう。だが、その無口をどう考えたらいいのか。それは経験不足と自信 のなさの表れなのか、他人がつくりあげた性格のひとつなのか、君主教育が意図的に助長したものなのか。声が年に 似合わず高いのはなぜか。これまた人工的な環境の産物なのか、ホルモンの分泌が遅いのか。 弟たちもそうだが、皇太子は人一倍強い感情を持ち、しかもそれを表に出さない人間だった。彼はまた孤独であ り、中等科時代から、緊張するとひとりごとを言うくせがあった。ほとんど彼に話しかけなかった祖父を模範と仰い だことも、おそらく若いころの彼の寡黙を助長した。そのうえ白鳥は、少ない言葉で多くを語るという、中国儒教の ( また一般の仏教の ) 理想的君主像にかなった祖先の天皇の例を数多く彼に示した。言葉少なさは、教師連中のおせ つかいな目から自分を守る戦略だったのかもしれない。 彼が言語表現の妙技に欠けるのは、さらに言えば日本の文化的・美的伝統にかなっているのかもしれなかった。祖 父がまったくの専制君主だったのに対して、皇太子には明治憲法のもとでの ( 厳密には憲法のもとに、あるいは憲法 によって守られての ) 立憲君主という強い自覚があった。彼にはなすべき憲法上の義務があり、それを果たすには素 顔を見せず、それを隠すようになる。この仮面は、彼が宗教的・儀礼的義務を行うとき身につける祭服に似た、心理 的衣装の一つだった。そして彼のもっとも大切な義務は、日本の道徳を体現することだった。 きよそ