めの北伐を再開した。それ以後、日本の外交政策は以前に比べ顕著に干渉主義的になり、中国の内戦が拡大するのに 応じて、その地の日本人の生命と財産の保護を名目とする派兵の可能性が高まった。田中を首相にするのに主導権を しまや憲法に基づく新政権に、彼らの政治的な路線・目標を押しつけようとした。 発揮した宮中グル 1 プは、 ) 田中は、政治に決定的な役割を演ずる強い意志を持った天皇の前には、一政党の党首の政治生命など、まったくあ われな存在でしかないことを思い知らされた最初の総理大臣である。田中が首相になると同時に、天皇とその側近は 彼の言動に積極的な関心を払ったが、じきにその政策の多くに違和感を持つようになった。彼らは政友会が露骨な人 事政策で勢力を拡大するのを好まなかった。天皇は、儒教的で武士道的な教養から、官吏は政治的な判断や人間関係 によってではなく、あくまでその能力に基づいて任命されるべきだと考えていた。 一九二七年六月一五日、天皇は牧野を呼び、田中の人事政策に不満を漏らした。牧野も、政党とくに政友会が、若 い天皇を軽視していると感じていた。彼は問題を田中に伝えると約した。政党が「国体」を政治の道具にすることを 嫌悪し、議会での彼らの挙動を嘆く牧野には、天皇の政治への関心は「国事多難の際、国家、皇室の為め最も祝福す 彼よ天皇の政治的積極性に何ら問題を感じておらず、それを「聖徳培養の為め側近者奉仕の効」に べき事」だった。 , 。 帰している。 義田中は天皇が彼の人事になぜ不満なのか理解できなかった。つまり政友会員をなるべく多くの官職につけるのは、 家田中に言わせれば原敬時代に戻り、「憲政の常道」のもとでの伝統的手段に従ったまでのことだった。同年夏に拝謁 した際に、田中は二定の期間における事務官の更迭は従前に比し特に員数を増加し居らず」と天皇に報告して し 新 いる。しかし田中の指摘はただ天皇を苛立たせるだけであり、彼は再度田中に清廉であるよう指示した。 室 皇 し 新 章 五 一方で天皇と宮中グループは、来るべき即位の礼にいっそう集中していった。大正天皇のための国家的服喪の布告 第 きた
制支配の正当性そのものの生きた象徴となった。一九一二年七月二九日、五九歳でのその死は、この複合的象徴の消 滅を意味し、以後の天皇制のありかたを模索させることになった。 、無気力で、政治的 三三歳で天皇になった父の嘉仁は、明治天皇の遺産を受け継ぐことができなかった。体が弱く 決定が行えない彼は、いまや最高司令官であったが、軍事知識は何ひとっ持ち合わせなかった。その即位で大正時代 ( 一九一二ー二六年 ) が始まってひと月たたないうちに、新聞は侍医の増員を報じた。一九一二年一二月、海軍大将 まっかたまさよし やまもとごんべえ 山本権兵衛は、次期総理大臣に推薦された元老の松方正義に、大正天皇は ( 才智において ) 「先帝の場合とは恐れな しゆっろ たとえ がら異なるところあり。自分の所信にては仮令 ( 大正天皇の ) 御沙汰なりとも出盧国家の為に不得策なりと信ずれば 御沙汰に随はざる方却て忠誠なりと信ずる」と語っている。 制度上は何の変化も起こらなかったが、一九一二年の父の即位は、このように国政運営の重要な転換点になった。 元老とくに山県は、宮廷への関与をさらに強め、新天皇の衝動的で予測不可能な意思を抑制し始めた。法律と同じカ があり、統制しにくい議会や国務大臣に対抗して最近まで寡頭政治家がよく利用してきた勅令は、とっぜん激しい論 争の的となり、少なからず権威を失った。新しい憲法解釈、国家を至高の位置に置き、君主も諸機関の一つとして国 みのべたっきち 家に従属するという、美濃部達吉の「天皇機関説」が登場した。議会政治家の間では、明治天皇の保護で日本を統治 してきた「薩長閥」の恣意的支配から憲法を守るため、「護憲運動」が新しく台頭した。〔一九〇〇年の衆議院議員選挙法 産の改正で〕日露戦争後は選挙権保持者が二倍になっていたため、多くの政治家は男子普通選挙法の制定も要求するよ うになった。 歴史家は、一九一二年の政治変動を頂点とする日露戦争後の時代を、日本の「大正デモクラシー」運動の始まりと 家とらえている。この米英起源の用語は、男子普選、多数党の党首が組織する内閣による政治、議会に超然とした古い 藩閥支配に代わって議会政党が主導する政治の実現を求める、政治家、ジャーナリスト、知識人らを中心とした一連 の民衆運動を指す。第一次世界大戦後には、「大正デモクラシー」はアメリカの文化的・政治的産物、生活様式、個 第人主義などの社会観念の受容も含意するようになった。なかでも個人主義の思潮は、個人を基礎にしない独自の道徳 したが かえっ
で、「国体」イデオロギーの正統版と天皇の権威とをともに強化することで、これに対処しようとした。 摂政時代に、国民の上下を問わず盛んに交わされた「国体」論議は、君主制への信頼が目に見えて弱まっているこ と、将校団のある層と皇室との精神的きずなが薄れていること、そして正統「国体」観念それ自体への崇敬がゆるん でいることの反映だった。摂政期の最後には、「国体、なる言葉は、非現実的な神話の概念を離れて、誰であれ不満 の是正を求め、敵を攻撃し、権力を強め、あるいは日本国民の政治的将来を切り開こうとする個人やグループの必要 ゅうずうむげ に応じて、融通無碍に使われ、流布したのである。 日本の一九二〇年代は、思想的・文化的に激しい抗争の時代だった。政府と摂政と宮中側近が、みな公的な「国 体」解釈に無批判にしがみついていたのに対して、各分野で努力を重ねて改革を志向する人々は、日本国民の社会観 念を、近代の科学的な思考に適合させ、非人間的な官僚支配に対抗できるようなものに変えようとした。「国体」は 政界で、軍人の間で、宗教界で、大学の教授たちの間で論じられた。そこでは、議論は相変わらず天皇統治の正統性 ( 新 ) と、天皇および天皇制が日本社会に保持し、または保持すべきひとつの道徳的価値を強調せざるをえないのだった。 少数派の自由主義者は、皇室と大正デモクラシーの精神を調和させようとした。時代の大勢が「国体」を論ずるな 危かで、彼らは西洋式の議会制民主主義に沿った政治制度を模索し、皇室を政治から完全に切り離して存続させようと 一した。しかしほとんどの改革論者は、国民の政治的地位を正当化する「起源神話」を単に手直しすることしか考えな シ ラかった。彼らの前には、「国体」の基礎をもつばら天皇の血統の継承に求め、皇位を受け継ぐ男子の天皇による親政 ク モと、彼らの絶対的な政治的権威とを強調する、伝統保守主義者が立ちはだかっていた。伝統主義者は日本が西洋に従 デ 大属することに憤慨し、民主主義を取り入れることに反対した。彼らには「国体、は不変の存在であり、天皇を単なる 代象徴にしようとする者は不敬罪に相当するのだった。 時 政支配エリートにとって、「国体」論議は必ず危険思想の取り締まりと結びついていた。日本の政治には、信頼でき る安定した道徳基盤として、「国体」が広く受け入れられることが必要なのだった。しかし「国体」が議論の的にな 章 四 第り、問題にされ、解釈されればされるほど、それを広い道徳基盤にしておくことは難しくなった。民主主義的潮流に対抗 139
道、オホーック海の樺太 ( サハリン ) の南半部を獲得し、これらは明治天皇の画期的な偉業として讃えられた。 昭和天皇が世界権益に参画したのは、アジアと太平洋における帝国間競争の新時代のまさに夜明けの時代であり、 その天皇のもとで、日本の政治劇は戦争と敗北の破滅的な結末を迎えた。国民と真に調和することがなく、国民の生 活に無知で、その全面的な現実の支持を得られなかったこの人物が、どのように戦争と占領を生き抜き、世紀後半に は天皇制の伝統を継続するため、どのように皇位を保持したかを検討することによって、われわれは日本の政治につ いて新しい観点を得られるだろう。 天皇と日本の国民は、感情と社会観念を基礎に政治的に一つの単位を形成し、また、戦争の記憶を共有していた。 その生涯を見れば、天皇とその国民との司こゝゝ 尸。し力に深い共生関係が存在していたかがわかる。そしてこの関係を操作 し、利用するのはいつでも天皇の側だった。戦前、戦中、そして敗北の衝撃の直後、天皇は伝統的に高みから国民を 見おろす雲上の存在であり、けっして欠点を見せない理想化された存在としてのみ国民の前に現れた。国民からは、 現人神かっ理想の父のモデルとして、崇敬し、畏怖するものと見なされていた。国民は天皇の権威の高揚に奉仕し、 その権力行使の責任を、理論上は取りようがない天皇に代わって負うものだった。国民は、国民としての彼らの生活 のこのような規範と組織原則について、どこに欠陥があるかなどとはけっして考えない存在だったのである ( とはい いつの時代にも少数の人々はそれを考えていた ) 。 一九二六年の即位以来、日本の政局は内外の政治問題で沸騰した。政治、軍事の指導者は国家の政体 ( 国体 ) の意 味をめぐって論争を始めた。皇室を中心とする国体は、日本の国家と社会にとって最良の可能な原理と考えられてい た。社会不満が高まるにつれ、天皇の権威を借りて改革を行うべきだという信念が広まった。この信念から、新しく 精神主義的で強力なナショナリズムである「皇道」 ( 天皇の道 ) が唱えられ、広く流布された。皇道とは、日本の過 去と現在を文字どおり一身に具現する天皇を、他に対する倫理的卓絶性の範例であると考える政治理論の根拠になっ た。それは一種の思想戦を意味すると同時に、実際の行動計画でもあった。皇道は、西洋民主主義、自由主義、個人 主義、共産主義などの外来の「主義」から日本を解放するものだった。解放された日本は自尊心を取り戻し、西洋の
教師たちが皇太子の教育に当たって軍事面に力を注ぐよう留意したのには、皇室が国家のどの機構より軍事組織に 深く関わっていることを彼に教える意味があった。しかし彼には軍事教育とは別に、統治技術、教育問題、国際関係 など、君主教育のもうひとつの側面が用意されていた。すなわち「帝王学」であり、これは東京帝国大学と学習院の 教育者・専門家によって公式の授業として授けられた。明治憲法は、軍事的権力に劣らず重要で強大な国務の権限を 天皇に与えており、彼はいかにそれを行使するか学ばなければならなかったのである。明治憲法がもし真の立憲君主 制を創設し、独裁体制と訣別したものになっていれば、天皇の教育がこれほど強調されることもなく、英国の何人か の王・女王のように、不十分な教育を受けたままだったかもしれない。 る て 育 また政治・宗教両面において帝王学が要請したのは、民主主義思想に対抗するため学校で注入されている公的イデ 皇オロギーだった。明治維新期に国家の行為を字教的に意味づけてきた、宗教祭祀と政治とが統合された神権政治とい 。 ( 一 ) 00 。、 0 」」「 0 』。 = 0 。 = 』 000 《。 00 0000 0 《。。 0 』「 0 は、天皇はつねに「文明開化を先頭にたって推進するカリスマ的政治指導者」でなければならないとする、維新期に 第 第一一章天皇に育てる
しみずとおる や軍令機関の長からすれば、彼らは自分が天皇に直属しているように思えたが、天皇から見れば、清水澄がつねに強 調したように、彼らはその憲法上の役割の違いにかかわらず、権力の上ではみな同一の水準に並列していた。 宮中グループの構成員は時期に応じて変化してゆき、その政治思想、特殊性、日本の政治構造における他の勢力へ の対処戦略なども、不変のものではなかった。しかし彼らはどの時期にも、政治問題に関して天皇の先を行くことが ないよう注意を払った。天皇は通常、内大臣の進言がなくても、自分の意図 ( 聖旨 ) を政治過程に反映させるよう積 すれかの機関やその代表者に意思を伝えさせた。つまり彼は、パイプ役として以 極的に側近に命じ、必要があればい、 外、彼ら自身には何の力もない側近グル 1 プを「指揮」したのであり、側近は彼の意図を体するかぎりで彼の代理人 閣僚や各省に強い影響力を発揮することができたのである。 として助言や忠告を行い、 一九二七年以来、宮中グル 1 プは君主制を新しいイデオロギー的枠組みに位置づけ、大正天皇の病弱で一五年近く 続いた天皇権力の衰微を挽回しようと努力した。彼らはそのために、「立憲君主」としての天皇という便宜的虚構を 利用した。もちろん彼らの考える「立憲君主制」とは、西洋のそれのように、君主の強大な権力を制限する方策では なかった。それは単なる隠れ蓑に過ぎず、天皇は裏で権力を自由に行使し、事情が許せばそれを拡大さえしながら、 責任は負わないのであった。昭和の新時代の発足に当たって宮廷側近が目指した目標の核心は、昭和天皇が真に統治 義権を行使できるようにすること、彼が総理大臣を選任するのを補佐すること、彼の意思が内閣の決定に確実に組み込 家まれるようにすることだった。彼らの一一一一口う「憲政の常道」においては、内閣の意思は若き天皇の意思を反映していな ければならないのである。 し 新 内閣のあらゆる決定が公式に天皇に報告される以前に、首相、閣僚、統帥部長が日常的に非公式な報告を行い ( 内 皇奏 ) 、それに対して天皇が質疑する ( 御下問 ) という過程をとおして、この意思の集約が図られた。天皇の同意を得 しるためのこの一連の手続きによって、彼は政策決定と高級軍人の人事に十分関与することができた。この過程はま 章た、宮中グループが「国体」の意味をどう認識していたかを示すものでもあった。彼らにとって「国体」とは、天皇 五 に、単に君臨するのではなく、統治権の行使を保障する政治制度なのであった。 第
党内閣の最後の二年間となった一九三〇年から三二年の間、彼はたちまちのうちに不可欠の助言者・情報収集者 ( 十 一会を通じての ) であることを立証した。軍部の台頭後、宮廷のしきたりの改革に主導権を発揮したのは、牧野とい うより、むしろ原田熊雄と密接な木戸だった。近衛と同様、彼は伝統主義者ではなく、基本的に一九三〇年代型の 「変革者」だった。一九三七年に近衛が最初の内閣を組織すると、木戸は宮廷を去って文部大臣に就任し、近衛の助 言者になった。一九四〇年から四五年に至る政治生活の最後の局面で、彼は宮中に戻り、天皇のもっとも重要な政治 顧問〔内大臣〕として後継首相の選定に参画する任についた。彼は宮廷と軍部との合意を築くために精力的に活動し、 両者の連合の形成に貢献した。日本の米英への宣戦はそれを基礎にして可能になった。 昭和時代の初頭から、天皇を取り巻く少人数の視野の広い宮中グループは、まったく憲法の外にあって彼に助言 し、援助してきた。それは伝統的な支配層と、明治以後新しく授爵され、富裕化した階層からなる特権階級の飛び地 であり、日本の権力エリートの中核であった。日本社会の階級、権力、富のピラミッドの頂点にあって、宮中グルー プは、軍部を含む日本帝国のすべての支配階級の利益を代表していた。当時の西洋人観察者や、その後も型にはまっ たアカデミックな歴史家が言うように、彼ら宮中グループをまったく軍部と対立するものとのみ見ることはできな じきみや 。また彼らを皇室、とくに天皇の弟たちと切り離して論ずることもできない。直宮は宮廷の周辺にいて、しばしば 彼らと密接な相互関係を保っていたのである。 宮中グループのメンバーは、英米の大使館も含めて多方面から政治的情報を集め、処理し、天皇に伝えた。天皇は 彼らの情報に加えて、政府と軍部から口頭または文書で直接報告される膨大な量の政治軍事情報を独占することがで きた。また彼は皇族の長として、弟の秩父宮の政治的活動についての報告を、秩父宮の執事から秘密に受け取った。 多方向に広がる大きな網の中心にいる静かな蜘蛛のように、彼はその糸を政府の各組織と軍の機関に伸ばし、それら が提供する情報を吸収し、記憶した。 天皇の側近が網を張りめぐらして正確な情報を彼に提供することができたのは、天皇制国家の各機関、内閣、議 会、枢密院、陸海軍統帥部、官僚組織などが、みな個々に独立して直接天皇に結びついていたためである。国務大臣 150
今朝の新聞紙に、首相が西園寺公を訪問せし談話の要領とも云ふべき直話、一斉に掲載せらる。果して首相の あず 談ならば、 ( 1 ) 斯かることを公表するは事理を弁ぜず、 ( 2 ) 立憲政治に与かるの資格を疑ふべし、 ( 3 ) 思慮 あた 足らず、稚気憂ふべし。西公の意を解する能はず。故に国民をして失望せしむること之より大なるは莫しと云ふ みずのれんたろう 河井がこう記して間もなく、政友会の政治家で田中内閣の文相水野錬太郎が、久原の入閣に反対して辞表を提出し た。改造田中内閣の倒壊を避けるため、翌日天皇は辞任を思い留まるよう水野に伝えさせた。五月二三日、水野は ゅうじよう 「天皇の優諚」によって留任を決意したと述べて辞表を撤回した。この発言はたちまち政治上の大問題となった。天 皇が民政党をさしおいて政友会に肩入れしたことを意味するからである。民政党は、政友会が政権に居すわるために 天皇の意思を不当に利用していると非難し、党内に優諚問題実行委員会を設置して、立憲政治と国体を擁護する一大 国民運動を開始することを決め。民政党はその目的を「吾人は皇室中心基調、国体擁護のため、断然田中内閣の倒 壊を期す」とあいまいに表現している。 もしこのとき天皇が水野問題を熟考していれば、彼は自分自身の存在に固有の矛盾に気づいたはずである。そのな かでさらに、なぜ彼の政治行動は絶対に秘密でなければならないかについて、もっと適切に認識するようになったか もしれない。しかし彼はまだ若く、そのため経験に乏しく、いささかの反省も起こる余地はなかった。やがて、彼は 自分の難しい立場になにがしかの洞察を得、そのため神経質の度合を増してゆくことになる。長年にわたる心理的重 君圧は、神聖なる君主制そのものに、彼自身と日本国民との間に深く染みわたった、しかしけっして認識されない摩擦 治に根ざしているのである。 国体をめぐる政治論争が再燃し、宮廷があらゆる点で田中内閣と対立するなかで、その後の日中関係と日本の政策 ノ。しオすなわち済南事件 ( 一九二 ルに長く影響する四つの出来事が立て続けに起こった。天皇はそれらすべての中むこゝこ。 これ 175
支配エリート層との利害を積極的に代表した。政府の公式・非公式の決定や工作に関するその知識は、ほかの誰より も豊富だった。〔敗戦前後に〕皇室の存続を国家の存続と同一視したのは、自分本位の判断の結果であり、間違いであ った。昭和天皇は、まさにその存在自体に、近代日本のもっとも深刻な政治的困難さを体現した一個人だったといえ よう。彼は黒幕の策謀家でも独裁者でもなく、あえて言えば、二〇世紀の日本における主要な政治的・軍事的事象へ の指導的関与者であり、それらを理解するための鍵であり続けた。そして、戦後日本の憲法における民主主義の諸理 念を骨抜きにし、支配制度と社会秩序を永続させる努力で、ほかの誰よりも緊張し、苦悩し、自分自身をむりに納得 させてきた、と私は考えている。
本書の執筆中、私の念頭を去らなかったことがもうひとつある。アメリカ合衆国の指導者たちが、国際法を蹂 ~ 躙してベトナム戦争を推進したにもかかわらず、そのために死んだ何百万人ものベトナム人に対してまったく責 任を取らなかったことである。 の 本 日 一九三〇年代後半、第一次・第二次近衛内閣のもとでの日本と同様、一九六〇年代後半から一九七〇年代初頭 りん た。ただし天皇の私的な記録は、宮内庁が国民への公開を拒み続けている。 さらに、その時期に冷戦が終結し、軍国主義者と軍国主義が退潮し、とくに先進工業国における政治改革の推 進要因になった。世界のいたるところで、民主主義的な思想・行動が息を吹き返した。私が昭和史の研究に没頭 していたとき、日本の指導者たちは、バブル経済崩壊への対応と、銀行の経営陣、大蔵省の役人、周辺の利権屋 たちの癒着が引き起こした不良債権問題への対策に追われていた。高級官僚や経営トップに対する刑事罰を含む 民主主義的な説明責任制度がない日本では、政権与党は公共の利益より既得権益の擁護を優先してきたのであ 日本の経済状況が悪化の一途をたどる中、国民は政治改革を求め、それが主要な政治課題となった。これと時 を同じくして、国家主義を促進する新たな動きが現れ、その声は次第に大きくなった。新旧の国家主義者は、社 会的基盤を広げて政治の主流となり、国の安全保障や憲法改正をめぐる論議に影響力を発揮しはじめた。軍が重 要な役割を演じることはもうないだろうし、日本の国際的立場と東アジアにおける戦略的地位は第二次世界大戦 前とは異なっているが、過去の重い歴史が消え去ったわけではない。本書の英語版が刊行されたとき、日本で は、アメリカの提督ペリーが開国を迫った時代から続けられてきた議論が再燃し始めていた。すなわち、国内の 民主主義を深化させる要求と、対外政策の実施におけるいっそうの自立性の発揮とをどう結合させるか、であ る。 じゅう