満州国 - みる会図書館


検索対象: 昭和天皇 上
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1. 昭和天皇 上

皇は、木戸の助言に従い、事件の重大生について発言をすることを控え、テロについて思ったことを直接、公にする叫 ことをいっさい避けたのである。事件について天皇は発言を控えたが、報道は天皇が爆発で傷ついた二頭の馬に「恩 賜の人参三・五キログラム」を下賜したことを伝えた。 その間、中国やソ連からの軍事的な反撃に遭遇することなく日本は満州や内蒙古への侵略を続けた。一九三一年一 二月三一日、境界の定義があいまいであった満州北部・ソビエト極東周辺へ日本が侵攻したことで、ソビエト政府は 大いに混乱し、日本に不可侵条約を提案した。ソ連の提案に対する天皇の反応が ( 仮にそれを知っていたとしても ) どのようなものであったかはわかっていない。しかし、犬養内閣はこれを無視した。日本の拒絶回答は一年後の一九 一一三年一二月になされた。スターリンは条約締結の申し出を一九三三年末まで続けたが、そのころには日本の脅威は 一時的に収まったと判断するようになっていた。 一九三二年二月一六日、関東軍司令部は奉天で中国の指導的立場にある対日協力者とともに東北行政委員会を設立 するため会議を開いた。翌々日、同委員会は新国家満州国の独立を宣言した。三月一日、満州国建国が正式に宣言さ れた。関東軍司令部は、犬養内閣が陸軍の政策を実行することに自信を持ち、新国家をすみやかに承認するよう東京 に圧力をかけた。一一日後、犬養内閣は中国からの満州ならびに内蒙古の分離、そして「独立。国家の設立を承認し た。しかしながら、犬養は、新国家の法的承認というきわめて重要な問題については手間取ることになった。 この件について犬養は、軍部、森内閣書記官長、そして外務官僚と対立していた。外務省は他の対外公務や調整案 件の中でも、とりわけ満州国に対しては自らが責任を負うつもりでいた。犬養は陸軍急進派を押さえ込むことに努め る一方で、市場、技術、資本、原材料を依存していたアメリカとの関係が悪化することをよしとしなかった。 こうした中で、アメリカ合衆国大統領ハー ート・フーバ 1 政権は、犬養が軍部の錦州占領を承認した直後から日 本への態度を硬化させた。ステイムソン国務長官は重要な行動を起こし、その後、一九三〇年代におけるアメリカの 対日政策を決定づけることになった。一九一一三年一月七日、ステイムソンは合衆国政府は日本が満州に強制したいか なる政治的変化も承認することはできないと宣言し、日中に正式に通告することで圧力を強めたのである。

2. 昭和天皇 上

このころ、関東軍は熱河省攻撃の結果、北京ー天津間の地域への軍事行動を展開する兆候を示していたが、これほ ど、昭和天皇にとって心配なことはなかった。攻勢に先だって、東京の陸軍上層部は多くの関東軍幹部将校を更迭 むとうのぶよし し、満州の官僚機構を統合することで統制を回復しようと努めた。武藤信義大将が関東軍司令官、駐満州国特命全権 大使、関東長官の三官に任命された。これらの職分は公的には三つの機関に分かれていたものだつが。同時に関東軍 が増強された。 一九三二年一一月、天皇は関東軍が熱河省 ( 阿片という重要な財源があった ) を満州国の一部と見なし、春には侵 攻を開始する計画であることを知った。しかし、一二月二三日には関東軍の先遣隊はすでに、万里の長城の東端にあ る山海関に達していたが、そこは熱河省への入口だった。そこで張学良の軍隊との間に小規模な衝突があった。 間後の一九三三年一月一日、より大規模な衝突が起き、日本は町全体を占領した。天皇は、この侵攻が国際連盟との 関係を複雑にしかねないと懸念し、 ( 奈良を通じて ) 事変の拡大を認めないよう陸軍に警告しようとした。一週間後、 天皇はこの問題に対処させようと牧野に御前会議の召集を提案した。しかし、側近の意見は分かれ、結局、御前会議 変は召集されなかったのである。 一九三三年一月一四日、参謀総長閑院宮が満州への部隊増派の裁可を求めたとき、天皇は熱河省の件について注意 満 章を与えた。牧野によると ( 木戸の記録からも確認できる ) 、天皇は閑院宮に「満州に付ては此れまで都合好く進み来 いっき 第りたり、 誠に幸なり、今後功一箕〔簣〕を欠く様の事ありては遺憾なれば、熱河方面に付ては特に慎重に処置すべ 国際連盟のリットン調査団は、紛争に関する調査を行い、満州事変に関する報告書を一〇月二日の総会に提出し た。しかし、総会は日本政府が対応を整えるための時間を配慮して、報告書の審議を遅らせた。 22 ア

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さなければならなかった。いまや日本の政治家、ジャ 1 ナリスト、将校、知識人は国際連盟、国際法、西側諸国に強 烈な批判を浴びせていた。日中間の紛争に対する連盟の決議は、一八九五年の三国干渉に擬せられた。それは明治政 府に遼東半島の断念を余儀なくさせたものだった。ステイムソンの不承認政策を支持し、日本の行動をケロッグⅡプ リアン協定〔不戦条約〕や連盟の規約に反すると裁定した連盟を荒木陸相は、非難した。荒木は同時に、白人西洋国 家によるアジア抑圧論を述べ立てた。 対外的には独立国家の存在を宣言しながら、それは実際には植民地に対する宗主権の行使だった。八月二五日、内 田外相は第六三回帝国議会において、次のように発言した。 私は支那に対する帝国の態度殊に九月十八日事件発生以来、我方の執り来りし措置が極めて正当且適法のもの なること、満洲国は其の住民の自発的意図に依り成立せるものにして支那に於ける分離運動の結果と見るべきも およびか のなること、及斯くの如くにして成立せる新国家に対し帝国に於て承認を与ふるは九国条約の規定に何等抵触せ 、さること。 ( 礙 その上で、満州国について「挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を徹することに於ては一歩も譲らない」と述べ たのだった。 内田外相の演説を補って、森恪は「我国の外交が自主独立になったことを世界に宣言するが如きものである。 外交的に宣戦を布告した如きものである」との考えを述べた。このようなイデオロギッシュな大言壮語と虚勢は、日 本の政策が、少なくとも短期的には、国家の安全保障や経済的な安定とは無関係であるという異常な考えを明らかに 宣言するものだった。 一九三二年九月一五日、斎藤内閣は正式に満州国を承認し、日満議定書に署名した。日本は満州国の国防に責任を 負うとされ、それが承認されたが、秘密の付属文書では、日本が望むことは何でも満州で行えることが認められて こと かっ なんら

4. 昭和天皇 上

なかったために承認したのだった。 同月、関東軍司令部のスポークスマンは、熱河が満州国に併合されたと声明した。公式声明にはなかったが、併合 は中国本土河北省、察哈爾省の一部も含んでいた。併合の決定は内閣の事前承認を経たものでもなければ、「条約の タンクー 権利、に基づくものでもなかった。五月末、中国軍の指揮官が屈辱的な塘沽停戦協定に署名し、大満州国を事実上、 承認することとなり、河北省東部、万里長城の南側に非武装地帯が設けられた。満州事変はこの時点で、西洋の関心 事としては少なくとも一時的に終結した。 休戦で政治・軍事情勢の根深い不安定性は安定化したものの、対立する両勢力の距離は逆に広がった。中国の抗日 ゲリラは満州国内での戦闘を続行した。その後の四年間、満州国と華北の間にある「緩衝地帯」は、関内の華北の全 五省に関東軍が政治、軍事、経済的に絶え間ない圧力を行使するための基地に過ぎず、平和地帯というにはほど遠か ( 観 ) った。しかし、非武装地帯が単に存在するだけでも、ソビエトが東清鉄道を日本に売却しようとしており、またイギ リスが対日関係の改善を試みていることとあいまって、天皇に国際的な緊張の緩和を期待させた。 一方、蒋介石は、軍隊を立て直し、経済力をつけるまでの時間稼ぎのためにしばらくの間、日本に譲歩することを 決めていたので、いまや総司令官として中国共産党との戦いに専念することができるようになった。しかし、日本軍 が満州を支配し、華北から国民党の影響力を一掃する構えでいるかぎり、日中関係はけっして正常化しうるものでは なかった。蒋も、中国の民衆も、少なくとも侵略を見逃す気はなかった。 日本における諸勢力の対立もまた内向化した。皇道派の将官とその支持者たちは、依然、権力を握っており、海軍 と陸軍は相変わらず不和だった。重巡洋艦高雄に乗務していた二八歳の高松宮は、一九三三年六月一一日の日記に、 変陸軍は「ファッショの気分ーに包まれていることを政治家は理解することが必要であると記した。停戦合意は天皇を 喜ばせはしたが、それだけでは十分ではなかった。高松宮によれば、「今こそそれを何んとかして軍人の横車につき 満 ( 川 ) 章倒されず、財閥の我まゝをおさへて、よく治った和合の日本に立ちかへらせねばならぬ」。数週間後、高松宮は、「国 第民所得の九割を約一割の人口に当る金持ちがとってる様、と記した。七月二一日、彼の懸念は「充分に理解する人は 239

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よ人種的対立にとらわれ、日本がアジアにおける有力な国家として台頭しないことを望んでいるという見 皇は、列強冫 方をかなり以前から聞かされていた。さらには、近衛の考えは、世論形成の役をになう各方面のエリ 1 トにも、天皇 側近の宮廷官僚にも大きな影響力を持っていたと言える。 しかしながら、結局は短期的な政治的配慮によって天皇は軍部と連携することになった。ほとんどの国が日本の既 成事実を承認したということに、昭和天皇は自信を得ていた。これまでのところ満州国を承認した西洋列強はない が、しかし、満州侵略に対して経済制裁を実施した国も、いまのところない。昭和天皇の考えでは、もっとも必要な ことは、首相の暗殺、側近の襲撃、クーデタ未遂などで震撼した国内の政治情勢を安定させることだった。天皇が優 先すべきことは、関東軍司令官との対立の回避であり、それは満州国を守るためにも必要だったのである。 満州事変期、昭和天皇の私生活を伝える公刊文献は、河井弥八日記の中の二頁にわたる記述と、非公式に天皇と会 、宮中の文書を見たと称する小説家小山いと子による秘話以外はほとんどない。 一九三二年、昭和天皇と良子皇后は結婚して八年になっていた。皇后は、四人の内親王をもうけたが、無事に育っ たのは三名だった。そして、当時五番めの子どもを懐妊していた。この夏、彼らは満州情勢の緊迫化のため葉山御用 邸への避暑旅行を取り止め、東京に留まることを余儀なくされた。天皇夫妻は日々長時間、それぞれの側近と念入り に整えられた日々の仕事をこなしていた。天皇は、規則正しく七時半に、皇后はそれよりも少し早く起きていた。天 皇夫妻は召使の手を借りずに着替えをし、通常、二人の女官により用意された食事をミルクとともにとった。食事が 終わると、侍女の一人がベルを鳴らし、当直の侍従に、部屋に入り挨拶をしてもよいことを知らせた。天皇夫妻の一 変日は入浴から始まり、次いで、別々になって屋外で運動をすることにしていた。妊娠中の良子皇后の運動は、花壇の 事 手入れをするか、看護婦と一ラウンド、ゴルフをすることだった。正午になると、皇后と昼食をとるため天皇は執務 満 室〔御学問所の二階〕から戻り、そして四時ごろまで公務をこなし、ふたたび皇后とお茶をともにした。六時半ごろに 章 第夕食を済ませ、就寝前の九時ごろ、軽食をとってから通常一〇時には寝室に退いた。皇后は庭いじりをしないときに 2 3 7

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謀総長令 0 = と〕。 他方アメリカのステイムソン国務長官の勧告を受けて、連盟理事会は日中双方に対しケロッグⅡプリアン協定 〔不戦条約〕を発動した。そして、日本代表団の異議に対して連盟理事会は、一一月一六日を期限として占領地からの 部隊の撤退を日本に求める道義的決議を可決した。海外では日本の侵略に対する批判が高まったが、新聞、ラジオ、 興行界、帝国在郷軍人会に先導され、日本の世論は関東軍を支持し、中国と西洋を非難していた。南満州鉄道株式会 うちだやすや 社総裁内田康哉が、関東軍と呼応して満州で中国の新体制確立を呼びかけようと東京を訪れると、群衆は彼を熱狂的 に迎えたのだった。 と内蒙古を支配下に置くという強硬な決定に直 東京の軍上層部は、政党内閣に対する関東軍の強い不信と北部満州 えっぺい 面すると、部下の要求に屈し、北満州への侵攻を抑制する従来の方針を撤回した。天皇が熊本県での大演習を閲兵し ている間に、関東軍は満州北部の主要部に侵攻していた。一週間の進攻作戦ののち、主力は列車で南進し、満鉄の沿 線から遠く離れ、一一万五〇〇〇人の中国軍部隊が駐留する錦州へと移動した。 その時点で、天皇はわずかな機会ではあったが、金谷参謀総長、南陸軍大臣を通じ現地軍が錦州に総攻撃をかける のを止めさせるために決意ある行動をとった。しかしながら、東京の参謀本部が満州三省に「独立した」中国の政権 を設立し、将来のソ連侵攻に備え日本軍を満州北部に配置できるようにしたいという関東軍の考えを承認したとき、 天皇も、宮中グループも何ら異を唱えることはなかった。一一月二三日、幣原はニューヨークの通信に虚偽の声 ハルビン 明を送り、事変勃発の責任のみならず、満州北部斉斉哈爾、哈爾浜占領も責任は中国側にあるときつばり表明した。 「日本軍は鉄道周辺の単なる飾りものではない」と彼は宣一言し、「中国軍が攻撃して来た時、日本軍は彼らが当地で与 つまり、攻撃に反撃し、敵の反撃を防ぐ」と言明した。 変えられた職務を遂行せざるをえない、 錦州事件を乗り切ると、宮中グループの関心は国内の政治危機に向けられた。参謀本部の急進派、橋本欣五郎大佐 章の秘密結社桜会は一九三一年三月、そして一〇月にもう一度、政権転覆により一挙に問題を解決することを決定 第し。橋本の三月の計画は露見し、共謀者は逮捕された。原田男爵は三月事件のことを知り、満州の危機は「陸軍の

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近衛にとって、自明の必然性、不可避性、そして自己保存が日本のアジア征服を正当化するのだった。彼は西洋人 を次のようにとらえ、嘲笑した。 かざ 世界平和の名に於て、日本の満蒙に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振り翳し、或は不戦 こうふんろう あたか 条約を楯として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如きロ吻を弄するものさえある。 むし 然れども真の世界平和の実現を最も妨げつゝあるものは日本に非ずして寧ろ彼等である。彼等は我々を審判する 資格はない。 ソビエトの共産主義や中国の反帝国主義に備え、日本本土や植民地朝鮮のために「緩衝地帯」が必要であると感じ ていた日本人にとって、満州国「独立」という考えは強く訴えるものがあった。満州国を擁護する者は、莫大な資源 という大いなる経済的利点についても論じた。やがて満州は、日本の農村人口増大に対し土地、家、食料を提供する 生存圏になるはずであり、他方その石炭、鉄、農作物などの資源は日本経済の加速と成長を可能とし、その過程で長 期戦となる未来の対米戦への備えを可能にするものだった。 帝国日本を、アジアにおける西洋植民地諸国に対して有利に立てる自給自足の経済「帝国」へ転換させる考えは、 ある面では第一次世界大戦時の寺内内閣が進めた「アジア・モンロ 1 主義」の再現であつが。しかし、自給自足体制 は、西洋列強が不当に日本を圧迫していると見なされたときには広範な大衆の支持を獲得した。自給自足は日本の資 変本家層にも強く訴えるものがあった。当時、彼らは外国の資源や技術への依存の低下を模索し、国内投資を軽工業か 事 ら重化学工業へ移行させようとしていたからである。 満 満州事変の間、日本のオピニオンリ 1 ダーにより、誇張された利己的な国際情勢の解釈が数多く提起されたが、な 章 第かでも満蒙を日本の経済的、戦略的、道徳的な「生命線」であり、「生存の唯一の手段」であるとする主張ほど、陸 2 5

8. 昭和天皇 上

一九三一年当時、天皇は臣民に君臨するというほどの統治を実際にはしていなかったというのが妥当である。天皇 ささい の行動は、現状に遅れがちで、一貫せず、自己矛盾していたのである。些細なことに大権を行使し、より重大な問題 で反抗的な陸軍将校に譲歩をした。天皇は満州事変を画策した参謀将校よりも日本経済が欧米に依存していることを 理解していたため、外交的な孤立や経済制裁を懸念していた。しかし、公的にも、私的にも、けっして満州での陸軍 の行動が間違っているとは言わなかった。それどころか、過分な寛大さをもって、拡大行為のひとつひとつを裁可 し、不服従という違法行為を犯した高級将校を大目に見て、彼らを罰することを拒んだ。これは陸海軍の青年将校に とって天皇の主な関心は事変の成功にあるとのメッセージとして受け止められ、東京の参謀本部の統制に服すること は二の次となった。天皇が必ずしも側近の見解を最優先しなかったことは、「昭和維新 , を画策し、これを主唱する 者にとって、天皇が彼らを支持しているというサインとなった。このため昭和天皇は、軍がさらに不服従行為に走る ことを確実なものとしてしまった。その帰結は確かに彼が意図したものではなかったが。 若槻内閣は一九三一年一二月一一日に総辞職した。若槻は軍部の統制、不況の抑制、そしてもっとも致命的なこと まや第二の段階に入った。宮中は協議の結 として、宮中グループの支持を維持することに失敗した。満州事変は、い 果、より愛国主義的な政友会に後継内閣を組閣させることに決めた。当時、政友会は両院でも府県議会でも少数党だ いぬかいつよし った。政友会総裁犬養毅は、一九三〇年のロンドン海軍軍縮条約に反対の立場をとり、後には満州事変の正当性を断 変 ていた。彼はまた満州事変に関する国際連盟の勧告を公に拒絶し、日本は「弁明の外交より脱し」、「自主的新生 事 面を開拓す」べきだ三〇世紀の日本外交史の全般を通じて繰り返される言葉であるが ) と明言していた。 満 満州での軍部の放縦を許す犬養の姿勢を知って、宮中グループは、西園寺に犬養を総理に任命する際の条件につい 章 第て犬養自身と話し合うよう指示をした。そこには対外もしくは対内経済政策のいずれかにおいて急激な変化は避ける 2 0 1

9. 昭和天皇 上

ついて述べる場合の言葉だった。昭和天皇の「ファシズム、の否定も、 ( 増田が推測するように ) 彼の側近を批判し、 明治憲法体制を変革しようとする者とは、政治的に相容れないという信念に由来するものだった。天皇は首相に安心 できる人物を必要としていた。たとえファシズム思想を持っていようとも、首相が絶対に忠実かっ従順であり、クー デタによる変革に反対するかぎり、天皇はそれで満足だった。例えば、二年後に天皇は陸軍の中心概念である「国防 国家」に何ら異議を唱えなかったが、この言葉はナチス・ドイツに由来し、明治国家とはまったく異なる方向へ国家 を再編することを意味するものだった。 もう一つの天皇の意思である「明治憲法の擁護」とは、おそらく、一八八九年の憲法が異常な運用をされていると 天皇が理解していたことを示唆する。憲法は権力の行使の手引きでも、日本臣民の制限された自由と権利を擁護する ものでもなかった。なぜ天皇は改憲を許さなかったのだろうか。憲法はすでに合法的に、実際「立憲的に」、天皇や 権力エリートが望んだどんな類の政治的ル 1 ルもっくることができたからである。 天皇の最後の望みは、「国際平和」に基づいた外交を行うことだったが、それはワシントン条約体制の肯定、その 現状維持ではなかった。彼が言及していたのは、侵略によって満州国を建国した後の新たな事態に対する現状維持だ った。「帝国、はいまや新たな領土を併呑したが、日本は、依然、経済的にはその主たる批判対象であり、敵対者で ある英米勢力に依存していた。この状況下、天皇は、当然ながら英米との新たな摩擦を避けようとしていた。それゆ え、満州併合が「平和的」でなければならないことについて熱心だった。 犬養暗殺の一〇日後、天皇は老齢の海軍大将斎藤実を首班に任命した。斎藤は、内田康哉外相、高橋是清蔵相、新 ごとうふみお おかだけいすけ 官僚の指導者である後藤文夫農相、荒木貞夫陸相、海軍大将岡田啓介海相らからなる挙国一致内閣を組閣した。この 変内閣は、一九三四年七月、帝国人絹株式会社をめぐる贈収賄スキャンダルで崩壊するまでの二年余りに、国会を四会 期切り抜け、たび重なる閣僚交代を行った。この間、斎藤は満州国建設、日本の国際連盟脱退、そして政府機構の部 満 章分的再編を指揮したのである。 第斎藤は直ちに満州国承認の準備に着手した。それは諸条約への違反を必要とし、米国との従来の関係を危険にさら

10. 昭和天皇 上

まな視覚映像を映し出すことで、一九三〇年代初頭における日本の超国家主義の論理を改めて説明していた。 荒木陸軍大臣は一二のパートからなる映画のほば半分でナレ 1 ションを担当し、いくたびかアジア・太平洋の大き な地図や、ジュネープの写真を示して説明を行った。荒木は軍事力と道義を同一視し、神話を事変の意義を理解する ための視座として利用した。荒木には二つの重要な表現があった。ひとつは、神により「神国」に授けられた「大な る使命」であり、もう一つは中国と西洋列強の日本に対する敵対的な試みであり、それは日本を孤立させ、「大和民 族」が神聖な目的を認識し「東洋の平和を確保」することを妨害しようとするものだった。映画の後半で、荒木は戦 略と文化、双方の観点から日本の役割をより具体的に規定している。その使命とは、「東洋らしき平和の理想郷を作 る」ことであり、それは満州国の建設を意味し、満州では人種の調和が実現するというのである。結局、荒木は、満 州国において人種差別主義に反対するユートピアを実現する理想的な努力のひとっとして大日本帝国の膨張を主張し たのだった。 荒木にとって、日本が直面している国内の脅威は、対外的なものと同様に深刻なものだった。「一にも二にもたゞ たちま 欧米の心酔となってその文物は長短共に無条件にそれをとり入れる」と断言し、「遂に日本民族の自主的理想は忽ち 地を払はんとするに到ったのであります」と彼は主張した。荒木は、銀座のダンス・ホールで踊るモダン・カップ ル、繁華街の暗い街路を腕を組んで歩いているカップルといった一九三〇年代の初期の日本人に徐々に浸透していた 西洋文化の影響を示す光景を説明した。そして、その光景を満州の凍えるような寒さや、うだるような暑さのなかで も、つ 戦う皇軍部隊、教員の指導のもと兵士に慰問文を書く女子学生、神社に詣でる人々といった光景と対比させた。荒木 はダンス、ゴルフ、アメリカ映画、女性の化粧や人前での喫煙、共産主義者、そして退廃した西洋や個人主義、快楽 変主義、物質主義といった西洋の価値に屈服したものすべてを非難した。そうした穢れたものに代わるものは、伝統意 識、農村生活の実践、神道の信仰、軍隊であった。喫緊に必要なことは快楽の追求を止め、偉大なる民族の使命を果 満 章たすべくみずからが犠牲と痛みを甘受することだったのである。 第映画を通じて荒木は、当時、終結して間もない満州事変の意義を純粋なものへと高めた。それは日本人のすばらし