後の第三次ソロモン海戦で、レーダ 1 を装備したアメリカ艦隊により戦艦比叡、霧島を失うことになるのである。 ガダルカナル島をめぐる陸海の厳しい戦闘を通じて、昭和天皇は海軍軍令部にガダルカナル島を奪還するように心 理的な圧力を与えつづけた。八月六日、九月一五日、一一月五日、一一月一一日の四回、天皇は参謀本部に対し、危 機に瀕した海軍を助けるため、さらに多くの部隊と飛行機を投人するように要求した。当初、杉山は不承不承だっ た。ひとつには陸軍のパイロットには渡洋作戦の経験がなかったからである。また、杉山が北支那方面軍を増強し、 陸軍航空隊の援護のもとで重慶に進攻するための大攻勢をかけようと計画していたからである。しかし、天皇は粘り 強く陸軍の首脳を説得し続けていた。ソロモンの前線に陸軍航空隊を投入せよとの天皇の二度目の要請を受けた翌 日、杉山は陸軍がニューギニアならびにラバウルに航空部隊を派遣することを決定したと天皇に報告した。進行中の 作戦の変更に、陸軍上層および中堅将校は反対であった。それにもかかわらず、昭和天皇が作戦の変更を強要したの である。 九月一五日、杉山参謀総長が第二回目となるガダルカナル島への〔川口〕支隊の派遣とその総攻撃の失敗について 上奏をした。この攻撃には「多くを期待できなかった」と杉山が述べたのに対し、昭和天皇は陸軍航空部隊の戦闘へ の投入を要求し、いつになればニュ 1 ギニア東端のラビを占領できるかと、飛躍した提案を行った。ガダルカナルを 懸念する一方で、昭和天皇はすでにニュ 1 ギニアでの新たな攻勢を考えていた。 天皇は、一九四二年の秋、前線部隊へ自身の気持ちを伝えたが、中でも南西太平洋での海戦を取り上げ海軍の成功 を嘉賞した。このため、海軍はガダルカナル作戦の中止を奏請することが著しく困難となった。昭和天皇は、同様の 試圧力を陸軍にも加え、ガダルカナルの部隊に勅語で、「朕が信倚に副はんことを期せよ」と述べ、暗に部隊が天皇の の 天皇と東条はガダルカナル奪還が不可能で 期待に応えていないことを示した。しかし、一九四二年一一月にいたり、 大あることを、そしてガダルカナル放棄は必ずしも、ソロモン戦線全体の崩壊を意味しないことを悟った。実際、ガダ 章ルカナルを放棄すればそれ以外の戦略拠点での作戦は、容易となったであろう。 第当時、天皇はソロモン作戦と、ヨーロッパの戦況を懸念していた。この頃になると、欧州戦線も枢軸側に不利とな
っている日本軍の南方の拠点に最初の限定的な反攻を開始した。一万九〇〇〇名のアメリカ海兵隊はふたつに分かれ て、ツラギ島と隣にあるガダルカナル島に上陸した。赤道からさらに一〇度南下したソロモン諸島南端にある両島 まんえん は、高温多湿で風土病が蔓延していた。二日後の夜、ガダルカナル島近くのサポ島沖で、海戦が起きた。日本海軍は 砲撃、雷撃によりアメリカ艦隊の重巡洋艦四隻を沈没させた。ガダルカナルをめぐる陸上、海上の戦いは六カ月にわ たって繰り広げられ、海軍航空隊に回復不能な損害を与え、太平洋戦争の最初の重大な転換点となった。 ずさん 日本海軍のガダルカナル上陸作戦は当初から杜撰なものであり、天皇はこの点を懸念していた。また陸海軍が新た に獲得したソロモン諸島とニューギニア東部ーーポートモレスビ 1 への地上攻撃を始めるための準備が進行中だった これらの拠点を固めるために陸海軍がたがいの反目を克服して協力することができるのだろうか。ガダルカナル に対するアメリカ陸海空軍の攻撃に、東京の統帥部は混乱した。両統帥部長や作戦課の将校たちは、アメリカの大規 模な反攻が開始されることは一九四三年以後と誤った想定をしていたのである。七カ月前、日本が太平洋を越えパ レ、 ーで見事に成功させたのと同じことを、敵が信じられないほどの速さで行うことができるとは、まったく予 想できなかったのである。 杉山参謀総長は、米軍の増強を食い止めるためにガダルカナルに、すみやかに部隊を派遣して欲しいとの海軍の要 請に同意した。しかし、事態の深刻さを理解しておらず、グアムからわずか一支隊を投入したに過ぎなかった。 いちき この一木支隊 ( 約一五〇〇名 ) は上陸後、三日間で壊滅した。九月初旬、陸軍は再度、小規模な部隊を投入した。パ ラオから送られた川口支隊 ( 約三〇〇〇の兵力 ) は、九月一三日、アメリカの拠点に夜襲をかけ、ほば壊滅した。さ らに一〇月初旬、南太平洋に派遣されていた第十七軍は約二万人の精鋭歩兵部隊である第二師団をガダルカナルに上 陸させることを決断した。最初に投入した部隊で生き残っていた者は飢餓に陥っていた。第二師団はこれと合流し、 ジャングルの中にある米軍基地に自滅的な攻撃を二度行った。そして、結果はまたも失敗に終わった。その後、陸軍 は第三十八師団の一部を含むさらに強力な部隊を投入した。 ガダルカナルの喪失を招いた陸・海・空での戦闘のたびに天皇が示した反応を、さまざまな記録から知ることがで
きる。天皇は米軍上陸の報に接したとき、「それは米英の反攻の開始ではないか . と、ただちにその潜在的な危機を 察知し。しかし、原油、ゴムなどの資源の備蓄を着実に増やすには、攻勢を維持しなければならないと考えてい た。昭和天皇はガダルカナル島の戦いに執着することには疑問を抱いていた。それにもかかわらず天皇は動員できる あらゆる兵器と兵力を用いて強力な攻勢と痛撃を続けるようにと、ソロモンの司令官たちを督戦した。杉山は、一木 支隊が事実上、壊滅した後の九月一五日、「 ( ガダルカナルを ) 断じて確保できることを信ず」と奉答していた。天皇 は、陸海両軍が本当にこの作戦を行う意志を持っているのかどうか疑念があるとして、杉山や永野が自らの言葉を守 るように要求した。天皇が圧力を加えたため、ふたりはガダルカナル島を奪還し、確保する決意を固めたが、その結 果、天皇がまさにもっとも懸念していた消耗戦に陥ることとなったのである。 昭和天皇や東条首相にとって、ガダルカナル戦の当初一カ月間は、政治危機の時期でもあった。数カ月にわたり、 陸軍は台湾、朝鮮、樺太を除き、東南アジアならびに中国における全占領地域を管轄する大東亜省を新たに設置しょ うと画策していた。東郷茂徳外務大臣は、この計画に同意せず、陸軍にさらに政治的な権限を与える決定に妥協する ことを拒否した。さらにミッドウェーでの海軍の敗北、ガダルカナルの戦いについて知っていた東郷は、十分な戦力 一九四二年八月二九日、東条内閣の 増強に失敗したことを理由に、ひそかに内閣改造を望んでいたのかもしれない。 星野直樹書記官長は、陸軍としては次の閣議で大東亜省を設置する予定であると伝えたが、東郷はこれを固く拒ん だ。このため、東条は天皇に状況を説明するために参内した。昭和天皇は、東郷の倒閣の試みを直ちに押さえ込むこ とを決意した。東条に関していえば、問題は解決したのである。 昭和天皇の強力な支持に力を得て、東条は九月一日の閣議の冒頭に懸案事項を提出し、他方、東郷は辞任を強要さ 試 の れた。閣議が休憩の間に、外務省に戻った東郷のもとに、天皇はこの問題の斡旋のため嶋田繁太郎海相を遣わした。 大東郷は、妥協案を示したが、東条はその検討を高圧的な態度で拒んだ。こうして東郷は辞意を表明し、昭和天皇は直 一一ちにこれを認めた。翌日、天皇は東条が ( 一時的に ) 外務大臣を兼ねることを認めた。ソロモン諸島でアメリカが反 第攻に転じているとき、内閣の倒壊は何としても避けたいと決意した天皇は東条内閣を強力に支えたのである。こうし あっせん
た天皇の揺るぎない庇護のもと、東条はその「独裁」を強固なものにしていった。 一九四二年秋、昭和天皇がソロモンで続いている戦闘について、統帥部と検討し、木戸とも個人的に話をしている 間に、日本の戦闘機、軍艦、輸送船の損害や将兵の死傷者数は確実に増大していた。ガダルカナルの部隊は熱帯の風 土病、熱病、飢餓にさらされ、死者は続出していた。しかし、天皇は彼らに対して一層の敢闘を要望し続けた。一九 四二年末にいたり、ようやく、天皇はガダルカナルからアメリカ軍を排除しようとする望みを最終的に断念した。昭 さいな 和天皇の断固たる攻撃精神は統帥部に影響を与え、そして、おそらくはソロモンで飢えと栄養失調に苛まれながらも 最後まで勇敢に戦った将兵の士気にも影響を与えていた。同時に、そしてより重要なことは、ガダルカナル死守に天 皇がこだわったことは、海戦での決定的な勝利にこだわる海軍の考え方とあいまって、太平洋戦域での防御体制への 移行を大きく遅らせる原因となったのである。 一〇月一一三日から二四日にかけて陸軍が開始した攻勢が失敗に終わったあと、昭和天皇はガダルカナル戦線の作戦 に二度めの介入をした。その数日後、帝国海軍がアメリカ艦隊と二度めの大海戦〔南太平洋海戦〕を行い、アメリカの 、つがきまとめ 空母ホーネットと駆逐艦一隻を撃沈した。連合艦隊参謀長宇垣纒中将の日記によると、一〇月二九日、天皇は連合艦 隊司令長官山本五十六に勅語を渙発した。この勅語は「連合艦隊は今次南太平洋に於て大に敵艦隊を撃破せり。朕深 おも く之を嘉す、というものであったが、天皇はこれに次のような一節を付け加えた。「惟ふに同方面の戦局は尚多端な ますます るものあり。汝等倍々奮励努力せよ、と述べたのだつ。 その晩遅く、山本連合艦隊司令長官に宛てた勅語を永野軍令部総長に手渡した後で、昭和天皇が軍令部総長に与え た注意を伝える別電が宇垣に送られてきた。そのことを宇垣は日記に次のように書き加えている。「此の際附け加へ たき て申置き度は今の勅語の後段に関する事であるがガダルカナルは彼我両軍カ争の地でもあり、又海軍としても重要な る基地なるに付、小成に安んぜず速に之が奪回に努力する様に」。ラバウルの連合艦隊司令部に送信されてきた天 きよ、つく ごしんねん 皇の勅語とこの「お言葉」による警告に接し、宇垣は「ガ島の失策に対し御軫念の程を拝察し恐懼に堪へず、一日も 速に目的を貫徹せざれば誠に申訳無き限りなり」と日記に記している。海軍は「小成」に安住するどころか、二週間 よみ すみやか これ
地域での作戦は地勢、気候から見ても困難であることを知っていた。昭和天皇もまたこれをかすかに、抽象的にでは あるが知っていた。一九四三年一月二六日になっても、昭和天皇はニュージョージア島ムンダ飛行場 ( ガダルカナル から約二九〇キロ ) からのいかなる撤退にも反対していた。その理由は、それがほんの三週間前に同意した防御線か らの後退を意味していたからである。永野軍令部総長は、海軍がムンダを防衛する意図であることを改めて天皇に確 言したが、永野は、すでに一九四三年一月初旬以来、アメリカ海軍の砲撃下にあるムンダの確保は、あきらめた方が よいのではないかと、それとなく天皇に奏上していた。 数週間後の二月中旬、昭和天皇はムンダ、コロンバンガラの基地からガダルカナルを砲爆撃するように永野軍令部 総長に要求した。天皇は「ムンダ、コロンバンガラからガ島攻撃を実施しますと総長が奏上したが、その後いっこう にやらんではないか」と問いただしたのである。大本営は、間もなく、中部、北部ソロモンにおける長期の防衛戦に 関する具体的な作戦計画の草案を作成した。アメリカ軍は七月初旬、ニュ 1 ジョージア島へ上陸し、約一万名の日本 軍守備隊は天皇に忠節を尽くし、約三カ月、米軍の攻撃に持ちこたえた。その後、大きな島で日本が押さえているの はプーゲンビルだけとなった。 ソロモン中部、北部における防御線全域の戦況がしだいに悪化するに従い、昭和天皇は、海軍に決戦を行い、戦争 の主導権をふたたび獲得し、多くの島々にいる守備隊のすべてが孤立しないように補給を行うことを要求しつづけた。 三月三日、ラエに対する海軍の増強計画が失敗〔「ダンピールの悲劇」のこと。制空権のない状況下、第五十一師団の輸送を強 行、ダンピール海峡にて米軍の攻撃により船団が全滅〕した旨の上奏に際し、天皇は「何故直ぐに『マダン』へ決心を変へ かえ て上陸しなかったのか此度のことは失敗であるが今後に於ける成功の基にもなるならば却って将来の為には良い教 訓にもなると思ふ将来安心の出来る様にやって呉れ」と所感を述べた。「やって呉れ , とは、戦意に満ちた大元帥 を象徴する言葉となった。 ガダルカナル攻防戦に全力で立ち向かった海軍の敗退、なかでも、その航空隊がソロモンの戦いで甚大な損害をこ みとおし うむったことが昭和天皇を苦しめた。一九四三年三月三〇日、木戸は朝の拝謁のことを「戦争の前途、見透其他につ
アメリカのガダルカナル奪取により、太平洋における日本の攻勢の過度な拡大に終止符が打たれた。い まや、戦争 試は長期化と守勢の局面に入った。それにもかかわらず、依然、大本営は太平洋の防衛線の大幅な縮小を先送りにして の いた。アメリカ軍、オ 1 ストラリア軍、ニュージ 1 ランド軍は、ニューギニアのラエ、サラモア、フィンシュ、 たいじ 大工ンの各地で増強された日本軍と対峙し、密林で戦闘を繰り広げた。しかし、連合軍は、日本軍が占領した拠点を強 章化する前に、防戦へと日本を追い込んだ。昭和天皇と統帥部長は、図上で検討した上で、一言 1 ギニア、ソロモンの 第残された戦略拠点の強化を決定した。東京の参謀本部は、輸送、空軍力、食糧、火砲、弾薬の不足のみならず、この をやめただけでは承知しがたい。、 とこかで攻勢にでなければならない」と主張した。これに対して、杉山参謀総長は 「ニューギニア方面で攻勢をとり士気を盛り返します」と奉答した。ニューギニアでの新たな攻勢に希望をつなぐこ とで、またしても昭和天皇と統帥部は、太平洋における防衛戦への戦略的移行を遅らせたのであった。 あやべきつじゅ 一九四三年元日、新任の参謀本部作戦部長、綾部橘樹中将は、ガダルカナル撤退の昭和天皇の命令を伝えるため、 ラバウルへと飛んだ。天皇の方針により統帥部は次に、ソロモン諸島北部のニュージョージア島、サンタ・イサべラ 島、そしてニューギニアを背骨のように横断するスタンレー山脈北部の戦略拠点を確保する計画を立てた。戦闘の焦 点がニュ 1 ギニアに移ることとなった。海軍がニュージョージア島、サンタ・イサべラ島、そして中部ソロモンの他 の小さな島々の防衛を担当し、陸軍がプカ島、プーゲンビル島、ショ 1 トランド島を含むソロモン諸島北部の防衛を 担当することとなった。首相兼陸相の東条英機は、この作戦変更を実行するように統帥部に重圧をかけなければなら なかった。昭和天皇は、司令官らの新たな攻勢計画に満足してはいなかったが、これを許し、ガダルカナル島に生き 残っていた将兵 ( 最盛時約三万名いた兵力は、約一万一〇〇〇名あまりとなりその多くが負傷していた ) の撤退を裁 可した。その後、天皇がその進行をつぶさに見ていたこの困難な撤退作戦を海軍は一九四三年二月七日、完了しが。
り、このため陸軍は五号作戦の準備を中止した。しかし、ラバウルの第八方面軍司令部では、海軍に対する不信が根 強く、また参謀将校の多くは自尊心が強いためにガダルカナル撤退の必要性を公然と認めることができなかった。ま して、敗退を利用して陸軍全体を再編することなどできなかった。 あいつぐ人的、物的損耗からガダルカナル撤退の決定が下された。しかし、それは船舶や欠乏した原材料の配分を めぐり陸海両軍が激しく対立する新たな局面の始まりであった。日本の艦船の損害は、アメリカ海軍の損害にほば匹 敵していた。一九四一年一二月八日の開戦から一九四二年九月末の間に帝国海軍が喪失した輸送船は、月平均一三・ 五隻、月に約六万一〇〇〇トンであった。これに対して、一九四二年一〇月から一一月にかけて行われたガ島周辺で の二カ月の攻防戦で五九隻、総計三二万四〇〇〇トンの輸送船を失っていた。沈没した船舶の大半は兵員、兵器、補 給物資を満載した輸送船だった。その結果、東南アジアの原材料の輸送に当てていた船舶を、部隊や兵器の輸送に転 用するべきか否かをめぐり、陸軍省と参謀本部の間で対立が生じた。 帝国海軍は、軍艦、輸送船の損失に加え、一九四二年八月から一九四三年二月初旬の最後の撤退にいたる約半年の ガ島攻防戦で航空機八九二機と一八八二名の熟練パイロットを失った。山田朗によると、「これはミッドウェー海戦 における航空機喪失数の二・五倍、搭乗員喪失数の実に一五倍」に相当した。 消耗戦の莫大な損害は、天皇自らが避けたいと願いながらも、結局は、自らが招いたものであった。この損害に絶 ( 浦 ) 望した昭和天皇は、一九四二年一二月一二日、伊勢神宮参拝のため二日間の特別な行幸を行った。一二月二八日、天 はすぬましげる 皇は蓮沼蕃侍従武官長に、ちょうど両統帥部長により行われた一九四二年の戦況報告とその計画に不満があるとして 次のように述べた。両統帥部長は、ガ島からの撤退計画の提出を約していたが、「如何にして敵を屈服させるかの方 途如何が知りたい点である。事態はまことに重大である。ついてはこの問題は大本営会議を開くべきであると考え る。このためには年末も年始もない。自分は何時でも出席するつもりである」。 こうして天皇の意を受けて大本営御前会議が、一九四二年一二月三一日に開かれた。統帥部は、ガ島奪還を断念 し、一月末に部隊の撤退を開始することを報告した。昭和天皇はこの決定を裁可したが、「ただガダルカナル島攻略
に対し親電を発ては如何」。木戸は、総統がけっして天皇に祝辞を述べたことがないことを理由に、思いとどまるよ うに説得した。しかし、昭和天皇と統帥部は、インド洋のセイロン ( 現スリランカ ) への攻撃開始は、中東方面から の来たるべきドイツの攻勢に役に立つであろうとの結論を下していた。 七月一一日、昭和天皇は、フィジーならびにサモアの戦略拠点を奪取する作戦を取り止めたいとの永野の奏請を裁 可した。それは五月一八日、大本営が策定し、天皇が許可した作戦だった。天皇に説明をする間、永野はインド洋の しやだん 敵艦隊と交通網を破壊する作戦について次のような提案をした。フィジ—' サモア方面の作戦は「米濠の連絡を遮断 しか すみやか し濠洲をして米国の対日攻撃の拠点たらしむるを阻止し、速に我が不敗の態勢確立を目的としましたもの : し乍ら其の実施に種々困難を伴って参りましたこと及印度洋方面の敵艦艇撃滅及海上交通破壊戦が此の際実施すべき 最も有利な作戦となりましたことを考へますと当分本攻略作戦の実施を延期し当面の作戦の重点を印度洋方面に指向 する如く改めますことが大局上極めて有利と判断せられます」。 他方、東京から五〇〇〇海里〔約九二六〇キロ〕離れたトラック島の連合艦隊司令部では、ガダルカナルに飛行場お よび海軍の基地を構築するために設営部隊と労働者を派遣する計画が進行中であった。ガダルカナルの計画が完成間 近となった八月六日 ( ミッドウェーから二カ月後 ) 、杉山参謀総長はニュ 1 ギニア作戦の進捗を説明するために参内 したが、昭和天皇の下問は杉山を当惑させるものだった。このとき、天皇は、「ニューギニア方面の陸上作戦におい て、海軍航空では十分な協力の実を挙げることができないのではないか。陸軍航空を出す必要はないかーとしたので ある。それは海軍の熟練パイロットの損失を知っていた天皇であればこそ聞くことができた質問だった。杉山は、陸 試軍にそのような考えはないと回答した。さらに杉山は ( 実際には、彼は付け加えていないが ) 、大本営陸軍部は、重 の 慶に対する攻撃を開始するために南方から陸軍の航空部隊を、現に撤退させていると付け加えることもできた。重慶 大への攻撃は、天皇が〔杉山に〕五月に促したものだった。陸軍の戦闘機パイロットをはるかニューギニアやソロモン 章 方面に送ることを、陸軍が好んでするはずがなかった。 第翌八月七日、南西太平洋方面の司令官、ニミツツ提督とマッカーサー元帥指揮下のアメリカ軍は、防備が手薄とな あて
わた き珍らしく長時間に亙りお話あり」と日記に記している。このとき、ふたりはミッドウェー敗北以来の海軍の損害に ついて討議したが、昭和天皇は、もしこのような損害が続けば、海軍は制海権を失い、長く延びきった防御線を維持 することができなくなるのではないかと懸念していたのである。 そのうちに、昭和天皇の海軍に対する態度が変わったことが、しだいにはっきりとしてきた。数カ月前までは勝利 を楽観していたが、い まや情勢は失敗と敗北の連続であった。五月二九日、アリューシャン列島アツツ島の守備隊二 五〇〇名の玉砕に際し、昭和天皇は杉山陸軍参謀総長、永野海軍軍令部総長からそれぞれ別個にアリュ 1 シャン方面 の報告を受けた。このとき、昭和天皇は、陸海軍が事態の予想を誤り、それどころか「五月十二日に敵が上陸してか ら一週間かかって対応措置が講ぜられ」たことを叱責した。誤った判断と過信のために見通しを欠いていたことに、 昭和天皇はいらだっていた。「濃霧のことなど云々していたが」と天皇は蓮沼侍従武官長に次のように話した。 霧のことなどは前以て解っていた筈である早くから見透しがついていなければならぬ陸海軍の間に本当の 肚を打開けた話合ひが出来ているのであらうか一方が元気に要求し一方が無責任に引受けていると云ふ結果で いやしく はなからうか話合ひが苟も出来たことは必ず実行すると云ふことでなければならぬ協定は立派に出来ても 少しも実行が出来ない約束〔それは「ガダル」作戦以来陛下が仰せになりしこと〕を陸海軍の間でして置きなが ら実行の出来ないことは約束をしないよりも悪い 試そして、天皇はふたたび躍起となって海上決戦の決定的勝利を求めた。 の ママ 大 斯んな戦をしては「ガダルカナル」同様敵の志気を昂げ中立、第三国は動揺し支那は調子に乗り大東亜圏内 章 の諸国に及ばす影響は甚大である何とかして何処かの正面で米軍を叩きつけることは出来ぬか 第 はら わか
( 恆 ) カ軍は約七〇〇〇名が戦死し、一万九〇〇〇名が負傷した。昭和天皇は、必死の守備隊がアメリカ海兵隊の侵攻を苦 しめ、日本軍を上まわる損害を与えたことに満足していた。ガダルカナルがそうであったように、硫黄島も試金石だ った。そして、天皇は日本の敗北を認め、これに対処することを頑なに拒むことで、このような将兵たちの死に拍車 をかけたのだった。 もうひとつの島、沖縄の防衛戦を、昭和天皇は本土決戦のための捨て石と考え、信ずるところにしたがい、早い段 階からしばしば、作戦に介入していた。 天皇が梅津参謀総長に話したように、「此戦が不利なれば陸海軍は国民の信 頼を失ひ今後の戦局憂ふべきものあり」という判断からである。天皇には、そのとき生じていた事態を理解すること ( 鵬 ) ができなかったようである。「現地軍は何故攻勢に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」、「沖縄の敵軍 上陸に対し防備の方法は無いのか、敵の上陸を許したのは、敵の輸送船団を沈め得ないからであるのか」。アメリカ 軍の上陸から二日目、大元帥昭和天皇はこのように話していた。また、この日遅くには、「万事予想ほどには行ゝ ( 店 ) との感想も漏らしていた。 上陸から三日目、天皇は梅津に、攻勢に出るか、あるいは逆上陸をするかを牛島満中将指揮下の沖縄の第三十二軍 に命じるよう求めた。牛島は、中部太平洋での先任者たちの誤りを教訓とし、戦略的後退をし、待機し、巧妙に隠さ えんべいごう れた掩蔽壕から消耗戦を戦うつもりだった。ところが、天皇が介入すると、第三十二軍の上級司令部となる第十方面 軍司令部は牛島に「北、中飛行場に向かい攻撃すべし。攻撃開始は四月八日とすーと命じた。牛島は命令にしたが あえて 、大本営に「一人となるも敢為奮進し醜敵を滅殺すべし」と返電するしかなかった。こうして攻撃が行われたが、 その「醜敵」は生き残ったのである。天皇は、海軍に対してもあらゆる手段を用いて沖縄の防衛支援のために反撃せ よと、強要していた。 沖縄戦が熾烈になっていく間に、天皇は梅津に対し、陸軍が中国の防衛線を縮小し、北方の満州と朝鮮の防衛、さ らには本土防衛に部隊を再配置しようとしていることについて注意を与えた。四月一四日、天皇は「敵の宣伝に注意 せよ、 : この際敵地区の鉄道・村落破壊等により民心に悪影響を及ばさないか」と梅津に注意を促していた。しか うしじまみつる 1 12