侍従武官 - みる会図書館


検索対象: 昭和天皇 下
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1. 昭和天皇 下

大陸の部隊を南方へ引き抜いた。中国から、あるいは、関東軍、朝鮮軍から師団まるごと、または師団の一部が、中 部太平洋の戦略拠点や飛行場を守るため遠く離れた、死を待ち受けている島々へ急ぎ派遣された。しかし、アメリカ の攻撃の展開は非常に早かったために帝国陸海軍は防備を固め有利に反撃するのに常に後れをとった。日本軍は連合 軍の暗号を解読できなかったため ( 英米は日本の暗号を解読していた ) 、統帥部は連合軍を迎撃するのにどこへ部隊 を集結させるべきかについての確信をまったく持てなかった。 損害が拡大していたにもかかわらず、昭和天皇は落胆することなく、厳しく自己を律し、相変わらず攻勢の気運を 持ちつづけた。一九四三年九月二一日、城海軍侍従武官から「ニューギニア北東部に敵の輸送船多数集中しあり、警 戒中 , との報告を受けたとき、天皇は ( 報告書からアメリカ軍がフィンシュ、 ーフェンを目ざしていることを察知 し ) 「警戒中にては駄目、攻撃せなければいかんね」と応えている。 一九四三年一一月一日、ソロモン諸島の中で日本に残された最大の島、プーゲンビル島の飛行場は、アメリカ軍の 攻撃にさらされていた。一一月九日、永野は第二次プーゲンビル航空戦の大戦果を報告した。城海軍侍従武官は日記 に、昭和天皇は「御満足の御様子。武官府にて侍臣と祝盃を挙ぐ」と書いている。これより前の一九四三年一一月五 日に行われた第一次プーゲンビル航空戦の戦果について永野は、著しく過大な戦果を報告していた。それによると、 アメリカ空母「インデベンデンス、「バンカーヒル」が撃沈されたことになっていたが、実際には魚雷艇一隻が沈め られたに過ぎなかった。けっして天皇を騙そうとしたわけではなかったが、 実際、永野軍令部総長と大本営も最 前線からの報告を信じていた この挿話は、天皇にとってソロモンの正確な戦況報告を得ることが、い よいよ困難 試となったことを示していた。 の 一二月末、ビシー海峡とダンピール海峡ーーニュープリテン島とニューギニア北岸の間の水域ーー・の支配権喪失を 大受け、日本海軍はソロモンから撤退した。一九四四年一月二日、マッカーサーが新たに現地司令官として任命したロ 章 ート・アイケルバーガー将軍指揮下のアメリカ軍、オーストラリア軍はブナを占領した。次いで数カ月にわたって 第連合軍は西ではニュ 1 ギニアの海岸沿いに、東では中部・北部ソロモンの間をゆっくりと進撃した。こうして陸軍の 1 01

2. 昭和天皇 下

連絡会議の最終的な決定は、正式には御前会議に持ち込まれて明らかにされるが、その御前会議もまた、以前にま して頻繁に開かれるようになった。大本営も再編され、一九四五年までに、諜報、兵站、科学技術、占領地の軍政な どに対処する新たな機関や部署が加えられた。大本営の要員には宮中で職務につくものもいたが、その大半は宮中に 入ることはなかった。一九四五年五月までにその人員は一七九二名に増えた。 しかしながら、統帥部上層に見られたいくつかの重要な特徴、そして、そこで昭和天皇がとった手法には、依然、 変化がなかった。軍人と文民の輔弼集団が、別個の官僚的利害のもとに政策形成を続けていた。戦争遂行に関する指 針の原案は軍の指揮系統から提出され、交渉と合意形成の過程を通じて上にあげられていた。そして、終始慎重な昭 和天皇は、どんな報告に対しても矛盾や食い違いを探した。このようにして、陸海統帥部あるいは主要閣僚が正式に 上奏しても、それが矛盾している場合や、あるいはたとえ軍と政府が完全もしくはほとんど合意に達している場合で も、天皇は説明に納得ができなければ、その裁可を拒否した。 対英米戦争の危険が迫るにつれ、そして参謀本部の上層部 ( よく叱責された杉山参謀総長のように ) が、昭和天皇 の性格や天皇の軍事知識の広さを知るようになるにつれ、天皇のための説明資料を作成していた中堅将校たちは、彼 らの直接の上官がどうすれば天皇の叱責や自分たちに都合の悪い天皇の質問を避けることができるかを学んだ。命令 を決定 ( あるいは却下 ) する判断材料として昭和天皇に提出された資料の中には、少なくとも、歪曲とまではいかな ( 5 ) いまでも、陸海軍の駆け引きの結果として作られたものがあることは否定できない。複雑な意思決定機構は、しばし ば、優先順位をつけたり、単純化する手段であればまだしも、意図的なごまかしを招いたのである。 ちしつ 他方、昭和天皇は政策の審議過程がどのように機能しているかを知悉していた。天皇はほとんどの陸海軍や外務省 の重要な局長、部長、課長の名前とキャリア、その傾向を把握していた。宮中にある侍従武官府は、天皇の質問を迅 速に伝えたり、侍従武官自身の質問を伝えるために、参謀本部作戦課や軍令部作戦課、あるいは参謀本部と軍令部の 第一部との間に直通電話を敷いていた。昭和天皇は、作戦の実施と部隊配置に責任を持っ参謀本部第一部を統轄して いるのが誰か、そして、その中で誰が、第二〇班 ( 戦争指導 ) や第二課 ( 作戦 ) の責任者かを把握していた。さらに ほひっ

3. 昭和天皇 下

城は九州の御家人・菊池武房の末裔にあたり、その侍としての背景をなすのは、日本の国防史上最大の国難であ る。菊池は ( 『城英一郎日記』の編者・野村実によると ) 、一三世紀、蒙古の艦隊から日本を救う戦いに参加した。こ のとき偶然にも「神風」が吹き、上陸前の蒙古軍を打ち砕いた。その後、一九四三年六月、城が「神風」特別攻撃隊 の最初の詳細な計画を起草し、アメリカの艦隊から日本を守る決意をしたのは、きっとこのような背景があったから ゼロ ではないだろうか。城の考えは、若いパイロットから志願者を募り、訓練をして二五〇キロ爆弾を抱いたまま零戦で アメリカ艦船の甲板に突入するというものであり、後に、城が親しくしていた大西滝治郎中将により採用され、フィ リピン戦で実施されたものであった。 昭和天皇は明らかに城のことを気に入っていた。両者は科学と自然について共通の興味をもっていたからである。 侍従武官としての任期の間、城は詳細な日記をつけ続け、そして、繰り返し天皇の人間らしい側面を記していた。例 えば、城は、昭和天皇が日本とドイツのニュース映画に飽くことのない関心があったことを示唆していた ( 太平洋で の制空権、制海権を失ったあとですら、前線の日本のカメラマンは、しばしば、生フィルムの供給をなんとか受けて いた ) 。城は、天皇がくつろいでいるところや、神事や公務を執り行っているところを記していた。一九四二年二月 またが せんしよう 一八日、大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会の挙行に際し、天皇は白馬に跨り、皇居に通じている有名な二重橋の上 で、一〇分間、宮城前広場に集まった群衆に軽く手をあげて応えた。二月二〇日の夜には、常侍官候所で一時間半ほ どくつろいでいる。 昭和天皇は侍従武官と映画を見たり、トランプや将棋をしたり、あるいは天皇が集めた昆虫の標本について侍従武 官に話をしたりすることが、戦時中の変わらぬ夜の過ごし方だった。例えば、一九四二年五月二〇日の晩のことを、 城は次のように記している。 たまむしのずし 候所出御の際、昆虫の話より玉虫厨子の話となり、御座所の昆虫図鑑を御取寄せになり、着色図により御説明 あり。後に御夕食後奥より侍従を御召あり、宮城内にて御採収になりし玉虫三匹〔内一匹は黒玉虫〕の箱入り

4. 昭和天皇 下

じよ、フえいいちろう 戦中、多くの困難な局面で昭和天皇に仕えた海軍侍従武官として城英一郎がいた。一九三七年末、航空母艦加賀に よる中国の都市を初めて爆撃した計画に関わり、これを指揮したべテランのパイロットであり、気象学に関心を持っ 試アマチュアの自然科学者でもあった。日本に帰ると城は海軍軍令部に勤務し、海軍大学校、陸軍大学校で教鞭をとっ 帥た。第十三海軍航空隊副長として中国に再び戻ると、中国奥地に対する空爆作戦を指揮した。中国で一年過ごした 大後、城は侍従武官に任命された。その職務は、毎日、戦況について報告書を作成し、海軍の最高機密文書や命令を昭 一一和天皇に伝えることであった。さらに、天皇の「御下問」に対する軍令部総長や海軍大臣の「奉答」を天皇に伝えた 第り、使者、情報収集係として天皇を助けた。 た木戸は、その日のことを次のように記している。 こうむ 航空戦隊の蒙りたる損害誠。 こ甚大にて、宸襟を悩まさせられたるはもとよりのことと拝察せるところなるとこ ろ、天顔を拝するに神色自若として御挙措平日と少しも異らせ給はず。今回の損害は誠に残念であるが、軍令部 そそうきた なお 総長には之により士気の沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じて置 えいまい いたとの御話あり。英邁なる御資質を今目の当たり景仰し奉り、真に皇国日本の有難さを痛感せり。 海軍はミッドウェーでの敗北が将来の作戦に与える影響についてなんら事後分析を行わなかった。後に昭和天皇と 統帥部は、フィジー、サモア攻略と、インド洋の制海権の確立を目ざす計画を中止したが、ミッドウェー海戦は南太 平洋での攻勢を終了させる理由にはならなかった。しかしながら、連合艦隊は、十分な航空戦力もないままソロモン 諸島中部ならびに南部周辺での作戦の遂行を余儀なくされることになったのである。 ′」きよそ しんきん たいえい

5. 昭和天皇 下

参戦する見込みがあると警告していた。この情勢判断の報告を受けても、昭和天皇はソ連に対する見解を変えなかっ た。翌日、重光外相はこれと同様の警告を改めて天皇に内奏した。ナチス・ドイツは最後の段階を迎えつつあり、そ して「三国会談 ( ャルタ会談 ) ーは「英米蘇の大局的一致」を明確にしたと重光は断言した。重光は、日ソ中立条約 を当てにしてはならないと警告し、近衛と同じく共産主義による国内的な危機を力説した。しかし天皇は、ソ連に関 する重光の予想を問題外として取り合わなかった。一時間に及ぶ引見の最後に、天皇はヤルタの問題を無視し、「ド ィッ大使館の様子」について質問した。昭和天皇の気持ちは、一〇日後の二月二六日、東条が参内し、ソ連の対日参 戦が「五分五分」であると認めても、変わることがなかった。 よいよできそうもなくなってきた。三月九 一九四五年の春を過ぎると日本民衆はこれ以上持ちこたえることが、い 日から一〇日にかけてアメリカの太平洋空軍は、四三三四機で最初の焼夷弾による夜間空襲を東京の人口密集地に かいじん 対して行った。首都の約四割が灰燼に帰し、推計八万から一〇万名が焼死した。火炎はすさまじく、そのために河川 は沸騰し、ガラスは溶け、そして熱風に煽られて墜落した爆撃機もあった。九日後の一八日、昭和天皇は侍医と侍従 を伴い、車で首都を視察した。当時、別の車で随行した吉橋戒三侍従武官は、後に罹災者の様子を次のように回想し ていた。 焼跡を掘り返している罹災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。平時 の行幸とは違って予告していなかったとはいうものの、菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、三、四台も通る のだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、 陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただポーっとしているのか、この不幸な人達を真近に御覧になる陛 下の御胸中はいかばかりかと、拝察したわけである。 吉橋が目撃した「虚脱 . した民衆の表情は注目に値する。三月には、工場の生産性が低下し始め、欠勤サポタージ あお

6. 昭和天皇 下

重要なことは、天皇が連絡会議で審議され、天皇により検討された「国策、に関する文書の原案が作られる官僚的な 手順のひとつひとつに詳しかったことである。 一九四一年以降、統帥機構は、確実に精緻になっていった。昭和天皇はまさにあらゆる軍事情報に関わり、その範 囲はより広範で、より深いものとなった。詳細な想定問答集が、作戦課の将校により準備され、天皇のもとには戦況 報告が毎週、毎日、ときには一日に二回届けられていた。戦況の評価は、また毎月、そして毎年、天皇が吟味できる ように用意されていた。歴史学者・山田朗によると、昭和天皇は日常的に、作成中の戦争計画の原案や作戦に関して 十分な説明を受けており、詳細な地図とともに、その作戦が行われる理由や作戦を遂行する部隊について、説明を受 けていた。 太平洋戦争勃発後、戦闘報告や戦況報告は、毎日、宮中に届けられ、昼夜を問わず昭和天皇に提示された。それら の報告には、戦闘による死傷者数の項目、各部隊の展開場所での戦況、そして沈没した輸送船やそれにより失われた 物資といった詳細までもが、含まれていた。ときには、「第一線部隊から大本営にあてられた電報」が、交替で二四 時間仕えていた陸軍三名、海軍五名の侍従武官により、天皇に届けられた。これら侍従武官の職務の中には、定期的 に昭和天皇の手元にある作戦地図を更新することも含まれていた。 太平洋戦争の間、大本営海軍部は「戦況ニ関シ御 説明資料」と題された正式な報告書を昭和天皇に提出していた。その他の情報源とあわせると、天皇のもとにはかな り多くの情報が寄せられていた。しかし、この情報システムの欠点は、陸海軍がそれぞれ別個に機密情報を用意し、 昭和天皇に提出していたことだった。そのため、情報の全体像、ことに敗北については、天皇だけが把握していたの '@ である。 へ 湾 前線から報告された「事実」が不正確であれば、天皇の情報はいつわりの情報ということになる。しかし、山田に 珠 真よれば、天皇へ報告した者たちは、その情報を「みずからも『事実』と認定 , していたのである。たしかに、上奏の 一目的は天皇を欺くことではなく、軍の兵員、装備の損失についての正確な数値や、敵に与えた損害を報告することで 第あった。天皇が受け取っていた情報は、時宜にかなった、詳細で質の高いものだった。実際、そのようにすることが

7. 昭和天皇 下

義務づけられていた。というのは、天皇は戦争遂行の基本的な戦略展開を指導しただけではなく、参謀や現地司令官 による不可避な事故や見込み違いについても解決するよう要求したからである。 昭和天皇は、報告の正確性を確認することに加え、しばしば、正規の報告経路以外から情報を得るため、陸海の侍 従武官や弟たちをよく各地の前線に派遣していた。一九四二年三月から一九四五年一一月まで侍従武官を務めた尾形 健一によると、昭和天皇は「戦地によく武官を御差遣にならせられたが、この場合も、なしうる限り、前線に近く、 かっ将兵の最も苦労しておる季節を御選びにならせられ、また帰還後の復命は殊のほか御期待遊ばされたかの如く拝 謁された」という。国務大臣や統帥部に質問をする際、天皇は、頻繁にこうした報告を引用していた。このようにし て昭和天皇は、常に司令官たちに眼を光らせていたのである。 最後に昭和天皇は通常、一週間に二、三回、宮中にスクリーンを設けて国内外のニュース映画や映画を見る習慣を 続けていたという事実を指摘しておこう。天皇は検閲を受けていた日本の日刊紙に目を通しており、軍指導者に新聞 で読んだことについて、しばしば厳しい質問をしていた。このようにして、天皇は戦争の真相のみならず、検閲後の 報道や、徹底的に「洗脳されていた」日本人が受け取っていた報道についても知っていたのである。 早くも真珠湾攻撃の直前までには、統帥部は、天皇に十分な情報を提供するよう膨大な時間を費やすようになって いたが、このため作戦や戦略立案に携わる軍高官の能率は下がり始めていた。例えば、第一部長はその職務の大半 を、昭和天皇が事態の進展についてゆけるようにするために費やしていた。そのため、作戦や戦略の立案という本来 の職責に没頭することができなかった。一九四一年から陸軍参謀本部に勤務していた井本熊男は、このような天皇の 戦争指導の体制が、意図せざる結果として日本の敗因となったと見ている。昭和天皇に情勢を報告しつづけるには、 超人的な労力が必要であり、このため第一部長は、「課長以下」に、本来の職務を委任することになる。ところが、 その「課長以下」も、やがて「部長の戦争指導の動きに捲き込まれる。これでは事務はできても、大本営の統帥はで きない。その点について、大きな欠陥を生じた」というのである。 、」と

8. 昭和天皇 下

じようえいいちろう 海軍侍従武官城英一郎少佐の日記〔抜粋〕。 一九四一一年一一月一一日 ( 水 ) 晴当直 〇九四五—一〇二〇、紀元節御親拝。綾綺殿に御伴。御告文に戦線の中間報告文ありし由に奉る。 一九四一一年一二月一二日 ( 土 ) 晴 一三二〇、皇太神宮御参拝、御告文。森厳の気、満溢しあり。 御告文緒戦の戦勝を感謝、非常の国難に御身を以て国民を率ひられ、尚将来の神明の御加護を祈念あらせ らる。 一九四三年一月二八日 ( 木 ) 晴 一〇〇〇—一一三〇、御歌会始。鳳凰の間に御陪席す。両陛下の御歌は、誠に感激して拝聴せり。 一九四三年六月三〇日 ( 水 ) 曇 よおり 本日、節折の儀〔六月三〇日、一二月三一日に宮中で執り行われ、国民の犯した罪を祝う神事のこと。まず節折の儀が行われ、 ( 6 ) おおはらえ ついで大祓となる〕あり。聖上には、近時戦況の不振を御祓ひ遊ばされたりとの仰せ、武官長へ申されしとの由。 天皇は神道の儀式と宮中の年中行事を執り行わなければならなかったが、昭和天皇は、すすんで恒例の日程で伝統 的な慣習を受け入れていた。昭和天皇の性格には厳格な秩序が向いており、それがまた心労の解消となっていたから 試である。しかし、常に天皇に第一に求められたことは、大元帥としての役割に由来するものであった。 の 大 章 第東条内閣は、太平洋における第二次世界大戦の正式名称を「大東亜戦争」とした。それは三年と九カ月におよぶ戦争 りようきでん

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番目の脅威であると考えていたからである。 じようえいいちろう 木戸内大臣と海軍侍従武官城英一郎の日記から、「大東亜戦争」初日の昭和天皇の様子を、時々刻々と追うことが できる。城によると「〇一三〇、馬来部隊シンゴラ方面上陸開始、〇四三〇、上陸完了。〇二三〇、 ( 東郷 ) 外相拝 謁、ル大統領の親書奉呈ーとある。この親書に ( 侍従の回想によると ) 天皇は当惑したようだった。さらに城の日記 は続く。〔以下、原典の英文表記地名は片仮名に改めた〕 〇四〇〇 ( 日本時間 ) 対米最後通牒。 〇三三〇、ハワイ奇襲成功。 〇五三〇、シンガポール爆撃、効果甚大。ダバオ、グアム、ウェ 1 ク空襲。 〇七一〇、以上戦況概要奏上。上海方面にて米砲艦 ( ウェ 1 ク ) 捕獲、英砲艦 ( ベトレル ) 撃沈。 〇七一五—〇七三〇、軍令部総長戦況奏上。 〇七三〇、首相拝謁、宣戦詔勅内奏 ( 〇七〇〇より閣議 ) 。 〇七三五、参謀総長戦況奏上。 一〇四五、臨時枢密院会議臨御。 一一〇〇、宣戦詔勅発布。 一四〇〇、海陸軍大臣御召、陸海軍に勅語を下し賜う。陸軍大臣代表して奉答す。 一六三〇、参謀総長、軍令部総長同時拝謁、日独伊三国軍事協定案につき奏上。 二〇三〇、ハワイ空襲の成果につき軍令部総長奏上 ( 戦艦二隻撃沈、四隻大破、巡洋艦四隻大破 ) 本日終日海軍御軍装を召され、天機麗はしく拝し奉を。

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の友人。同前九七ページ。 、一ミ Bomb (University of South CaroIina Press, 1994 ) や 102. 決 ( 幻 ) 細川護貞『細川日記』中央公論社、一九七八年、三七三ー三 号作戦の英訳は、 R き 0 ミ s 、 Ge ミミ、ミミゝミミこををミ se 七四ページ、一九四五年三月三〇日付。 0 、ミ、ミこミ s ぎ the SO ミ 7 ミド s 、 Pacific 」 4 V01.2, part2 ( ) 『独白録』で天皇は、南京政府の裏面で活動しているような (Washington, D. C. 】 USGPO, 1966 ) , pp. 601 ー 607. ( 囹 ) 松浦総三『天皇とマスコミ』青木書店、一九七五年、三ー 人物を通じて和平交渉を試みた小磯大将を評して、「見識のない 事」と述べていた。この事件は、対中国交渉の方法をめぐる混乱四ページ。 と同時に、昭和天皇が手続きのル 1 ルに厳格であったことを物語 ( 四 ) 平和博物館を創る会編『紙の戦争・伝単ー謀略宣伝ビラは語 っている。寺崎英成 / マリコ・テラサキ・ミラー編著『昭和天皇る』エミール社、一九九〇年、一二五ページ。 独白録ー寺崎英成・御用掛日記』文藝春秋、一九九一年、一〇六 ( ) "Report on Psychological Warfare Against Japan, South- ー一〇七ページ。石源華 ( 伊藤信之訳 ) 「日中戦争後期における west Pacific Area, 1944 ー 45 Mar. 15 , 1946 , P13. Bonner F. 日本と汪精衛政府の「謀和』工作」軍事史学第一三〇号記念特集 FeIIers CoIIection, Hoover lnstitution Archives, Stanford, 号『日中戦争の諸相』錦正社 ( 一九九七年一二月 ) 二九四ー二九 CaIif. 五ページ。斎藤治子「日本の対ソ終戦外交」『史論』第四一集 ( 邑東野真『昭和天皇二つの「独白録」』日本放送出版協会、一 ( 一九八八年三月 ) 、東京女子大学読史会、五四ペ 1 ジ。 九九八年、七九ページ。 ( ) 『木戸幸一日記下』東京大学出版会、一九六六年、一二〇 ( ) 粟屋憲太郎 / 川島高峰「玉音放送は、敵の謀略だ。」 fTHIS 八ー一二〇九ページ。大江志乃夫『御前会議』中公新書、一九九 IS 読売』 ( 一九九四年一一月 ) 四七ページ。同報告は一九九四年 一年、二三五ページ。六月九日は、昭和天皇が侍従武官に東京を一一月、東京の日本図書センターから『敗戦時全国治安情報』と 離れるつもりはないと語った日であり、これにより、陸軍が天皇して全七巻で刊行されており、戦争終結時の日本人の意識を知る のために長野県松代に建設することを計画していた地下壕〔松代のに価値ある資料である。 大本営〕は、無視されることになった。 一三世紀末、「神風」は二度にわたって九州沖に侵攻してき 4 ) 前掲『木戸幸一日記下』一二一〇ページ。秦郁彦『裕仁天たモンゴルの大艦隊を壊滅させた。この「神風」という名前を用 皇の五つの決断』講談社、一九八四年、四六ページ、「尾形健一 いることで、連合軍艦船を攻撃したパイロットは日本の歴史上も 侍従武官日記」からの引用。 っとも強烈な記憶を蘇らせたのである。 為 ) 前掲『木戸幸一日記下』一二一 ( ) 油井大三郎「米国の戦後世界構想とアジア」『占領改革の国 ( % ) 山田朗 / 纐纈厚、前掲二〇四ー二〇六ページ。 際比較ー日本・アジア・ヨーロッパ』三省堂、一九九四年、一二 ) John Ray Skates, 77 ミ守 ~ ミ、ミミ・ , 、ミ・」ミこミ斗ミざ