九月一五日、マッカ 1 サーはついに宮城の真向かいにある東京の第一生命ビルに総司令部を設置した。 一八日には、ペンタゴン〔米国防総省〕から一通の秘密指令が、日本の改革に関するトル 1 マン政権の詳細な青写真の 最初の一部とともに到着しが。さらに二〇日には、マッカーサ 1 は吉田茂外相に対して、天皇による非公式訪問は望 ふじたひさのり ましいことを伝えた。同じ日、侍従長の藤田尚徳は宮廷からのメッセージを携えてを訪れた。天皇は、元帥が 健康に過ごされんことを望むと伝えた。これに加えて、彼は日本がポッダム宣言の諸条項を履行する決意であること をも伝えたかった。 このような占領初期の時期、マッカーサ 1 の「軍事秘書」でかって心理作戦部門の指揮官だったポナー・・フェ ラーズ准将は、ふたりの日本人クエ 1 カー教徒と旧交を温め始めていた。ひとりは一色 ( 旧姓渡辺 ) ゆりで、彼女 かわいみち がインディアナ州リッチモンドのアーラム大学に在学していた頃からの知り合いであった。もうひとりは河井道であ る。彼女はの元総幹事で、一九二九年に東京に恵泉女学園を創立した人物でもあり、フェラーズは一九一三 年に初めて日本を訪れたときに彼女と会っていた。再会の会見のなかでフェラ 1 ズは、真珠湾攻撃について天皇に責 任を負うべき根拠は何もないことを立証するという、差し迫った彼の関心事について率直に話した。やがてフェラー せきやていざぶろう ズは、河井とともに、彼の相談相手でありかっ協同者の役割を担う人物として、彼女の知人である関屋貞三郎と接触 するようになった。関屋は大正末期から宮廷と各省との間のパイプ役として重要な役割を果たした宮内高官である。 関屋もまた天皇が「平和愛好者」であることを証明したいと望んでいた。 主 こうして、天皇を擁護するための新たな二国協同作業が始まった。、天皇、日本政府の指導者、そして戦前 君 きずな 」に有力なアメリカ人との絆を持っていた日本人キリスト教徒たちの努力が相互に作用した結果が、戦争責任の追及か 直ら天皇を擁護する動きや彼の「人間宣一一 = ロ」、さらには皇室改革へとつながっていった。以後、それぞれの目的のため に天皇の権威を利用する過程のなかで、マッカーサ 1 と日本の指導者たちは、ちょうど戦前に誤り伝えられていたの 章 と同じように、裕仁の存在と独自性のきわめて重要な側面を誤り伝えなければならなくなる。 四 第天皇の訪問に関するマッカーサーの意向を受けて、一九四五年九月二七日の朝、シルクハットをかぶり正装のモ 1 いっしき
った。そのことは、逆にみるとこの戦争遂行を続けた中心が何であったのかを示している。しかし、これも原爆投下 の理由としては十分ではない。最後に残った理由として、ひとつには皇位の並はずれた影響力ばかりではなく、昭和 天皇の権力、権威、頑固な性格に理由があり、一方でハ リー・トル 1 マンの権力と決断と残忍さがあったのである。 アジア太平洋戦争の勃発当初から、昭和天皇は自らの周辺で進行する事態の主導者であった。沖縄戦の前まで、天 皇は一貫して決定的勝利を要求した。その後、天皇は早期講和の必要性を認めたが、即時和平の必要は認めなかっ た。そして、天皇は動揺しながらも、連合国との直接交渉を望むよりは、戦争継続を望んだ。最終的な危機が完全に 身辺におよぶようになったとき、残された唯一の選択は交渉なき降伏だった。そのときでさえ、なお原爆が投下さ れ、ソ連が参戦するまで、天皇は事態の引き延ばしを続けたのである。 一般的に、事前交渉なしの降伏を要求すれば、戦争終結の過程を幾分遅らせることになるのは事実である。しか し、この場合、アジア太平洋戦争を引き延ばしたのは連合国の無条件降伏政策や「完全な勝利、政策ではなく、むし ろ非現実的で、無能な日本の最高指導層である。指導層の戦意を支えた戦中の天皇制イデオロギーは、降伏のための 行動をとることをおよそ不可能にしていた。客観的には敗北していることを知りながらも、戦争が同胞にもたらす苦 しみに関心を払うことなく、まして、アジアや太平洋の人々、そして西洋の人々の命を奪うがままにしておきなが ら、天皇とその戦争指導層は、失うことなく敗北する方法、つまり降伏後の国内からの批判を鎮静化させ、その権力 構造が温存できる方法を探し求めていた。 皇室の命運に対する偏見にとらわれ、対ソ外交を楽観視していたこれら指導層は負け戦を終結させる機会を何度か 降見過ごした。昭和天皇とその非公式の戦時内閣である最高戦争指導会議は、一九四五年二月には、現実を直視し、講 ぎ和を求めるために決定的な行動をとることができたはずである。このとき、近衛上奏文が提出され、近衛と重光外相 遅はともに、日ソ中立条約は何ら日本を守ることにはならない、 ソ連はヨーロッパの情勢が好転すればためらうことな 章く極東に軍事介入するであろうと天皇に警告していた。陸軍情報部も、同じく夏にはソ連の対日参戦があると警告し 第ていた。その時点で、本土では小規模な空襲ばかりだったが、そのうちに都市爆撃は回を追うごとに激化する一方に 143
義務づけられていた。というのは、天皇は戦争遂行の基本的な戦略展開を指導しただけではなく、参謀や現地司令官 による不可避な事故や見込み違いについても解決するよう要求したからである。 昭和天皇は、報告の正確性を確認することに加え、しばしば、正規の報告経路以外から情報を得るため、陸海の侍 従武官や弟たちをよく各地の前線に派遣していた。一九四二年三月から一九四五年一一月まで侍従武官を務めた尾形 健一によると、昭和天皇は「戦地によく武官を御差遣にならせられたが、この場合も、なしうる限り、前線に近く、 かっ将兵の最も苦労しておる季節を御選びにならせられ、また帰還後の復命は殊のほか御期待遊ばされたかの如く拝 謁された」という。国務大臣や統帥部に質問をする際、天皇は、頻繁にこうした報告を引用していた。このようにし て昭和天皇は、常に司令官たちに眼を光らせていたのである。 最後に昭和天皇は通常、一週間に二、三回、宮中にスクリーンを設けて国内外のニュース映画や映画を見る習慣を 続けていたという事実を指摘しておこう。天皇は検閲を受けていた日本の日刊紙に目を通しており、軍指導者に新聞 で読んだことについて、しばしば厳しい質問をしていた。このようにして、天皇は戦争の真相のみならず、検閲後の 報道や、徹底的に「洗脳されていた」日本人が受け取っていた報道についても知っていたのである。 早くも真珠湾攻撃の直前までには、統帥部は、天皇に十分な情報を提供するよう膨大な時間を費やすようになって いたが、このため作戦や戦略立案に携わる軍高官の能率は下がり始めていた。例えば、第一部長はその職務の大半 を、昭和天皇が事態の進展についてゆけるようにするために費やしていた。そのため、作戦や戦略の立案という本来 の職責に没頭することができなかった。一九四一年から陸軍参謀本部に勤務していた井本熊男は、このような天皇の 戦争指導の体制が、意図せざる結果として日本の敗因となったと見ている。昭和天皇に情勢を報告しつづけるには、 超人的な労力が必要であり、このため第一部長は、「課長以下」に、本来の職務を委任することになる。ところが、 その「課長以下」も、やがて「部長の戦争指導の動きに捲き込まれる。これでは事務はできても、大本営の統帥はで きない。その点について、大きな欠陥を生じた」というのである。 、」と
Ⅶ 訴訟手続の不備やその複雑な政治的性格にもかかわらず、東京裁判は日本の国民に対して、そして敗戦に関する彼 らの見方に対して、深く多面的な影響を与えた。右派の一部は裁判にきわめて批判的で、恨みと怒りを抱き、日本の きしのぶすけ 侵略をけっして認めようとしなかった。例えば、岸信介は、巣鴨プリズン拘留中に書いた日記によれば、戦犯裁判を ある種の「茶番」と見ており、残された政治生命を裁判の影響を取り除くことに捧げた。他の右派の人々は、日本は はずかし 丸裸にされて世界の前で辱められたと感じ、裁判を無視するか、意識的に考えないようにし、そこからいかなる政 治的、文化的な教訓も引き出すことを拒んだ。例えば、保守主義者で元総理大臣の芦田均は、裁判は国内にはあまり 大きな波紋を与えないだろうと予測している。 共産党は、有罪を宣告された犯罪人に対する戦争責任の追及と厳罰とを積極的に求めた事実上唯一の存在だった。 けれども、学界では、マルクス主義を信奉する知識人は、東京裁判を日本に民主主義を根づかせる機会を失わせた出 来事として、その歴史的な重要性を認めようとしなかった。彼らは、国家元首の責任回避が可能になるように裁判所 憲章が改正されたこと、マッカーサーが天皇と、国の産業・財界の指導者を全面的に免責したため、訴訟手続が損な われたことを問題にした。その一方で、東京裁判が、戦争への道程を「極端な軍国主義者と穏健な政治指導者との対 抗を軸として見る」点で、エリ 1 ト史観を広める役割を果たしたと的確に指摘したマルクス主義歴史家もいる。とは いえ、学界の外では、例えばアメリカの国務省と軍部が一九四八年八月と一一月に作成した報告書によれば、日本人 瑟の大多数は、裁判と告発された国家指導者に対して「受動的な」態度をとる一方、指導者たちは与えられた状況のな 京 ( 祐 ) 東 かでは公正な裁判を受けたとも感じていた。評決言い渡し後の国民一般の裁判に対する反応は、日本を再建・改良 章 し、真の「平和国家、にする努力を積極的に続けていこうというものであった。 五 第 この点について、ある人は次のように付け加えるかもしれない。牧野伸顕文書から発見された、日付はないが幣原 225
任意識が強く、そのような観点から統帥部を監督していた。また、日本は本来、防御よりも攻撃において優れている という考えを支持していた。生来、楽観的なため、困難な軍事情勢に対しても、軍が懸命に戦えば勝てるとの態度で 臨んでいた。他方、作戦を裁可するまでは、用心深いのが常だった。昭和天皇は、戦況の悪化が懸念されることに目 を光らせていた。そしてまさに悪化の兆候を看取するばかりか、実際、天皇が言ったとおりの措置を統帥部がとらな ければ、どのような事態になるかまで予測していた。日中戦争でなかなか、勝利することができなかったために、昭 和天皇は非常に懐疑的な指導者となっており、参謀本部が指導する作戦に全幅の信頼を置いてはいなかった。天皇 は、ときにかなり厳しく統帥部の誤りを指摘し、その自信過剰を批判した。 他の国の最高司令官と異なり、昭和天皇はけっして戦場を訪れることはなかった。しかし、作戦の企画と実施の双 方において、天皇の関与は必ず現地の作戦に決定的かつ重大な影響力を及ばしていた。日中戦争初期の四年間、昭和 天皇は大本営で最上級の軍事命令を発してきた。そして、天皇の名のもとに伝達される決定を下した会議に、しばし ば臨席した。太平洋や中国の前線から帰ってきた陸海の将軍から拝謁を不断に受けていた。昭和天皇は、公に前線部 隊 ( 後には、銃後の組織も ) を督戦し、嘉賞した。「お言葉」やそれを伝える勅使を前線に送りつづけ、そして勅語 ( それはアメリカの司令官に贈られる大統領の感〔謝〕状よりもはるかに名誉と権威を持つものであった ) を軍功の あった将官に授けた。昭和天皇は、勅語で用いられる言葉が正確にその意を伝えられるように、注意深く手直しして いた。基地、軍艦そしてさまざまな陸海軍の司令部に足を運んだ。軍学校を視察し、生産を高揚させるために産業界 の指導者を引見し、兵器開発に非常な関心を寄せ、そして、国家の犠牲になることを正当化するメッセ 1 ジを国民に 徹底させていたのである。 しかし、戦時における昭和天皇の最大の力は、天皇生来の寡黙さや自制心をリーダーシップの資質に転換できた点 にあるといえる。昭和天皇のカリスマ性はむしろ、普通の人の資質とは異なる天皇としての存在そのもの、つまり神 代からの血統、幾世紀にもおよぶ皇位の伝統と義務、そして、近代になってから単にイメ 1 ジ操作だけによって作り 出された部分からなっていた。天皇が戦争で生き残ることができたのは、彼がさまざまな方法で君主として欠くこと
リカ検察陣の誤った思い込みも反映していたのかもしれない。 結局、一一六人の被告だけが起訴されることとなった。そのなかには、軍国主義や民族的狂信を煽るのに一役買った 実業家、大学の知識人、仏教徒、裁判官、ジャーナリストなどは含まれていなかった。四月一三日、ソビエト代表団 が遅れて来日すると、彼らは戦争経済の確立に指導的役割を果たした三人の実業家を被告に加えようと試みたが、結 局、梅津美治郎大将と外交官である重光葵のふたりを追加できただけだった。他方、裁判が終結するまでに、元外務 大臣の松岡洋右と元海軍軍令部総長、永野修身のふたりの被告が死亡した。さらに、被告のひとりーー大川周明 は精神障害と診断された〔その結果、審理から除外〕。 東京裁判の被告選定に見られ、その後、裁判それ自体がはらむことになる深刻な歪みは、アジア太平洋地域におけ るアメリカの圧倒的な軍事的・経済的支配力、そしてマッカーサーが持っ過度の権力から発したものであった。しか レアル。ホリティ 1 ク し、とりわけ、すべての連合国政府が国際法を現実政治に従属させたことから歪みが生じていた。各国政府は自国 の国家利益を最優先に考え、法と道徳は副次的なものと位置づけがちであった。裕仁と側近たちもまた同様の観点か ら、法的ドラマの展開の陰でひそかな営みを続けていた。 こうした状況のなか、ソ連代表団はスターリンの指示通り指導国に従うこととし、アメリカが主張した場合にかぎ り、裕仁の起訴を要求する方針をとった。アジアから裁判に参加したわずか三カ国ーー中国、フィリピン、インド の代表も、できるだけアメリカの政策との摩擦を回避しながら、独自の捜査方針を推し進めようとした。 日本の侵略でもっとも被害を受けたのは中国である。そして、蒋介石ほど日本の君主制と軍国主義との密接な関係 を深く理解していた連合国の戦争指導者はいなかった。しかし同時に蒋は天皇の存在が共産主義勢力の拡大を阻止す ると考えており、そのため、裕仁を起訴しない決断を下した。一〇カ所の都市に設置された国民政府の軍事法廷で は、八八三人の日本人を戦争犯罪の容疑で起訴し、裁判にかけたにもかかわらず、蒋は東京裁判には高い優先順位を 与えなかった。共産軍と蒋との戦いはまさに再開されようとしてした。 , 。 ) ' 彼よアメリカからの財政的・軍事的援助を必 要としており、その一方で、共産勢力との戦争で利用することを見据えて、日本の軍人に降伏後も引き続き中国にと あお 208
ひろたこうき 戦争終結に果たした昭和天皇の役割については、型通りの解釈では、ソ連への調停の依頼、つまり広田弘毅とヤコ さとうなおたけ プ・マリク〔駐日大使〕との会談や、東郷外相がモスクワの佐藤尚武大使に送った密電を、降伏のための重要な試み であると見なしてきた。しかし、六月から八月初旬にかけて行われた一連の予備交渉にたずさわった人間は、この交 渉は不可避となった降伏を単に先延ばしにするだけの外交戦術に過ぎないと見ていた。ソ連に期待を膨らませていた のは、自らの大権を喪失しかねないという事態に苦悶していた昭和天皇と陸軍統帥部だけだった。 戦後「独白録」の中で、天皇は対ソ交渉についてわずかに述べているが、その説明は誤解を呼ぶものである。 講和の仲介に「ソビエト」を撰んだのは、それ以外の国は皆微力であるから、仲介に立っても英米に押されて 無条件降伏になる怖れがある、ソ連ならカもあるし且中立条約を締結して居る情義もあるので、この二つの理由 からである。 然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるな ら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。 昭和天皇は、中立の見返りとして日本がソ連に割譲しようとした領土が、参戦の見返りとして連合国がスターリン 日本の最高指導層は、最後には民衆に「堪へ難きを堪へ忍び難きを忍び」と言って交渉もせず降伏したと伝えるこ ととなったが、なぜ、事ここにいたるまで降伏が遅れたのだろうか。かりにグルーおよび無条件降伏政策を批判する 者が、五月、六月、あるいはたとえ七月にでも主導権をにぎり、皇室の存続を保障する問題に決着をつけていれば、 日本の指導層はただちに降伏したのだろうか。あるいは、この問題には見た目以上の困難があったのだろうか。 かっ 13 0
一〇月一〇日と一一日、は五〇〇人近い共産党の政治犯を釈放し、「五大改革 . すなわち、女性解放、労働 組合の結成奨励、教育・法律・経済制度の民主化を指令した。これらの目標を公表したことで占領政策は新たな局面 へと移った。国民は自分たちの政府や天皇、さらには君主制を批判する自由を獲得したのである。諸政党はほどなく 活動を再開した。共産主義者は天皇を公然と批判するとともに、一〇年あまりの無益な戦争に関する天皇の法的、道 義的な責任問題を追及し始めた。 は一〇月一三日に教育改革と、軍国主義を主張し占領政策に敵意を示すすべての教師の追放を命ずる指令を 発した。以後も、各方面の戦時指導者たちは危機にさらされた。一九四五年一〇月三〇日、は、宮内省提供の 大幅に低く見積もられた数字に基づいて皇室の総資産を公表した。天皇の臣民はこのとき、彼が一六〇億円の資産を 有していることを知った。豊かな森林、牧場、株式、国債・都道府県債・地方債など莫大な保有物からの収入、さら に巨額の金塊や通貨を所有していたことからも明らかなように、天皇は他の追随を許さぬ大地主であり、もっとも裕 福な人間であった。幣原内閣と帝国議会の政治家たちは、民衆が天皇の有する巨額の富の問題に飛びつき、もっとも 高名な戦争指導者たちに対する批判が日々、紙面をにぎわし、さらには共産党が「天皇制」の廃止を要求するのを目 の当たりにして、「国体」ばかりか、自分たち自身の地位すら維持できるかどうか確信が持てなくなっていた。 さらにまた一〇月になると、退位問題が日本の新聞紙上に再浮上した。一〇月一二日、近衛公は天皇がこの問題を 意識している、とある記者に伝えた。近衛は二一日には、皇室典範には退位の規定がないと通信社のラッセル・ プラインズに語った。そしてその四日後、『毎日新聞』は、天皇はポッダム宣言を受諾し、これを履行する義務を負 っているため、おそらく退位することはないだろうと報じた。一〇月に流れた退位にまつわる風聞は宮廷の天皇擁護 者たちを狼狽させ、戦争に対する彼の道義的、政治的、そして法的な責任問題が未決着であることを浮き彫りにし た。宮廷官僚たちは、天皇が皇位に留まる意向を国民に伝える一方で、君主制をわずかに改革するという対応に 出た。このとき以後、天皇の退位をめぐる議論は、民族道徳の再建を通して「自立的な」民主化ーー裕仁が皇位に留 まるかぎりは実現できないことではあったがーーを目指す保守的知識人の動きと交差し始め。
日中戦争を始めた日本の支配層にとって、昭和天皇ならびに天皇制は絶対に必要だった。公には日本の戦争目的は 蒋介石の軍隊を懲らしめ、天皇の徳を広めることにあり、混沌や残虐を生み出すことを目的にしていたのではない。 この平和の理念と暴力的な政策の矛盾をあいまいにすることが昭和天皇の象徴的な役割だった。天皇はその人格によ って、軍全体の行為を道徳的、かっ合理的なものに見せていたのである。対外的に昭和天皇は日本社会の道義の規範 おおみこころ であり、高貴な民族の価値を体現した存在であり、自らが言う大御心の象徴だった。舞台裏で戦略の策定や戦争指導 大 拡にあたる最高司令官としての役割は、周到に隠されていた。しかし、国民党との四年間におよぶ戦争で、昭和天皇は最 高司令官としての役割を果たし、その体験を通じて、戦争全般に対する態度を変えた。そして、ついには、より大きな 'G 目的に向けて進んで危険を冒すこととなった。 争 戦 昭和天皇は中国を「近代」国家と見なさず、中国侵略が悪いとは夢にも思わなかった。中国に宣戦布告をすること 章 を控え、中国人捕虜の取扱いに際して国際法の適用を除外する決定を認めた。すなわち、一九三七年八月五日、陸軍 〇 第次官により出された次のような指令を個人として承認した。その指令では「現下の情勢に於て帝国は対支全面戦争を 第一〇章戦争の泥沼化と拡大
校の小グループにもバーンズ回答に反対するクーデターの動きが見られたため、昭和天皇は八月一四日、ふたたび「聖 断」を下すことを余儀なくされた。土壇場で、徹底抗戦派により皇居や厚木飛行場でクーデタ 1 が試みられたが、さ したる影響もなく、失敗に終わった。すでに、八月一〇日の天皇の決定により大本営の軍官僚の士気は完全に消沈 し、彼らは戦意を喪失していた。梅津陸軍参謀総長は、部下に天皇の「軍に対する御信頼が全く失われたのだ」と説 明し、徹底抗戦派の継戦意思は急速に消え去っが。 Ⅳ グルーが断言したこととは違って、日本の軍部により、政治過程や戦争指導がかって「完全に支配 , された時代は なかった。東条内閣が倒れて後、戦争が長引くにつれて、陸海軍の指導層は自らの権力を守るために、しだいに宮中 グループや天皇の周囲の「穏健派」に注目するようになった。それは宮中グル 1 プや「穏健派」が昭和天皇に近いか らというだけではない。彼らは天皇のために情報交換や情報収集を行っており、それは陸軍の国内情報網以上に有用 であった。 開戦時と同様に戦争終結時においても、そして戦争の全段階を通じて、天皇は、自らの名の下に行われた行為を支 持するのに積極的な役割を果たしていた。これが事実であることは、昭和天皇を大元帥として全体の構図の中に正確 に位置づけてみれば、あまりにも明白である。原爆投下の理由や日本の降伏が遅れた理由を考えてみると、 (<) か ってグル 1 も同じことを指摘したが、アメリカが君主制の存続の保障を適切な時期に声明し、確固たるものとするこ とを認めなかったから、あるいは (= ) 反ソの立場に立っていたトルーマンやバーンズは、おそらく外交交渉よりも 原爆投下を望んでいたから、というふたつが考えられる。しかし、これらはゝ、 しすれも、原爆投下と遅すぎた降伏の理 由としては不十分であり、それだけで説明は成り立たないのである。むしろ、昭和天皇は敗北という既成事実に渋々 と向き合い、そして、戦闘行為や、さらに帝国政府の公式な行為や政策を終らせるための決定的な行動を不承不承と 142