に向って、『今回の日独軍事協定については、なるほどいろ / \ 考へてみると、今日の場合已むを得まいと思ふ。ア メリカに対して、もう打つ手がないといふならば致し方あるまい』 , と語っている。近衛によれば、さらに昭和天皇 は、「万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだらうか。かくの如き場合が到来した時には、総理も、自分と労苦 ( 浦 ) を共にしてくれるだらうか」と下問したという。 昭和天皇は、三国同盟に消極的に同意したが、当時、動かしがたい歴史の過程に従ったまでであるとして、自らの 行動を正当化していた。昭和天皇は、一九〇二年の祖父明治天皇による日英同盟の裁可以来、対外関係で君主国のあ り方にもっとも根本的な変化をもたらす同盟を裁可したのは、様々な官僚勢力間で対立があったためだと暗にほのめ かしていた。しかし、昭和天皇は、三国同盟に関する自分自身の態度の変化が米国との戦争の可能性をもたらした転 換点であったことを、よく理解してした。 , 冫 ゝ ' 後こ、昭和天皇はこれについて主に松岡を非難し、また弟である秩父宮、 高松宮のせいであるとしたが、けっして、三国同盟を裁可した自分自身の判断の誤りを省りみることはなかった。 この頃、皇族内での序列に微妙な変化が起きていた。第二位の皇位継承者であり、昭和天皇をもっとも遠慮なく批 判してきた秩父宮が、重い結核にかかったのである。秩父宮は公的活動から身を引くこととなり、その結果、高松宮 が、天皇に不慮の事故があった場合には、摂政となる立場に置かれたのである。そのため、高松宮は以前よりも公文 書に目を通す機会が増え、天皇にも段々と助言をするようになったが、それはつねに昭和天皇にとって役に立つもの ではなかった。高松宮は、日本の対外政策の危機に際し、天皇と堅く結びつくよりは、むしろ秩父宮に近かった。弟 たちは三国同盟に現状を打破するものとして最高の期待を見出し、一貫して昭和天皇の能力には欠点があると見てい 木戸について見てみよう。木戸の回想によれば、木戸も昭和天皇も、「『渦中に入らず〔ヨーロッパでの戦争に関わるこ となくの意〕、しかも孤立を避けるための手としては、バランス・オプ・パワーの政策をとり、同盟の力を背景として 米に話をつけるより外に手がない』との近衛、松岡の説明を一応納得し、『好ましくないが仕方がない』」と考えてい たという。木戸は、昭和天皇と異なり、三国同盟に責任があるのは主に陸軍であり、海軍が決定的な役割を果たした
それでは、このような、すぐれた昭和天皇論が、アメリカで生まれたことの背景をどのように考えたらいいのだろ うか。まず指摘することができるのは、「昭和」から「平成」への改元前後の時期から、天皇の生々しい言動を記録 した側近や政府高官の日記などの新史料が次々に公刊され、さらに、そうした新史料に基づく研究が、日本側で大き な進展をみせたことである。本書の注をみれば明らかなように、ビックスは、実に丹念に日本側の史料や研究に眼を 通しており、こうした日本側の先行研究がなければ、本書の完成には、さらに長い年月を要したことだろう。また、 ビックスは、昭和天皇の戦争責任を否定する立場の研究も丁寧に読みこんでいて、この点での彼の貪欲さには、率直 に言って、脱帽の他はない。 見逃すことができないのは、この間における昭和天皇研究の進展が、日本社会の静かな変化を反映していることで ある。右に述べた昭和天皇関係史料を中心にした「昭和史プーム」については、そうした新史料の発掘を精力的に行 ってきた『中央公論』の青柳正美編集長が、その背景について、「昭和天皇が亡くなったことに加え、史料の継承者 が当人の子どもから孫の世代に替わり、遠慮感が薄れてきたーと説明している。さらに、青柳によれば、「史料に価 値判断を加えず発表するイデオロギー・フリーな雰囲気になってきている。〔中略〕読者の方も昭和天皇が亡くなっ て、単なる懐古趣味ではなく、昭和を歴史としてみる視点が強くなってきている」という ( 『朝日新聞』一九九〇年一一 月一八日付 ) 。 また、この点では、「天皇制の社会的実体を、右翼的、左翼的なプリズムを通すことなく解明しようとした加藤 雅信『天皇』 ( 大蔵省印刷局、一九九四年 ) が参考になる。加藤は、この本の中で、若年層の中に皇室に対して親しみや 関心をもっていない者が多数存在することに着目して、次のように書いているのである。 戦前においては、熱烈な天皇制支持と部分的ではあれ熱烈な反天皇感情が渦巻いていたわけであるが、戦後は 334
昭和天皇の戦争責任の問題については、国民感情と政府の公式見解、あるいはマスコミの論調との間に、微妙なず れが常に存在し続けてきた。国民感情の面でいえば、一方で、昭和天皇に対する強い崇敬の念や、同時代を生きた人 間としての共感が幅広くみられる。しかし、その反面で、この問題に関して深いわだかまりを抱き続けてきた人々 が、数多く存在しているのも事実である。一例をあげるならば、天皇の死去直後の一九八九年一月に行われた朝日新 聞社の世論調査では、天皇に第二次世界大戦の責任が「ある」とする者Ⅱ二五パーセント、「ない」とする者Ⅱ三一 ーセントであり、「あるーと Ⅱ三八パ 1 セント、「その他・答えない」 1 セント、「どちらともいえない」 「どちらともいえない」の合計は、六三パ 1 セントにも達する。 それにもかかわらず、日本政府は、昭和天皇の戦争責任を一貫して否定し続けてきた。また、マスコミでも、天皇 の戦争責任の問題を正面から追及することは、長い間、タブ 1 とされてきたのである。 こうした状況に変化がみえ始めるのは、やはり、「昭和」から「平成」への改元前後の時期からだろう。「昭和の終 焉」は、昭和天皇の歴史的評価をめぐる論争を、この国の内と外で再燃させることになったからである。注目する必 要があるのは、この論争の過程で、天皇の戦争責任に関するマスコミのタブーが、しだいに崩れていった事実であ る。例えば、『読売新聞』は、連載記事「二〇世紀どんな時代だったのかアジアの戦争」の中で、四回にわたっ て、昭和天皇をとりあげている ( 同紙一九九八年一一月一七日付—一一月二〇日付 ) 。そして、「人々の意識の中で、天皇の 戦争責任は今も、探究することのはばかられる深いよどみとなっているようだ」とした上で、昭和天皇にも責任があ るとする立場の研究者の見解と、ないとする立場の研究者の見解を「両論併記」する形で、戦争責任問題に言及して 監いる。慎重な形ではあれ、ここでは、タブ 1 への挑戦が意識されている。 監修者あとがき
チを併用することによって、昭和天皇の行動の特徴、その背後にある彼の思想や思考様式、さらには性癖に至るまで を、実に生き生きとえがき出すことに、本書は成功しているといえよう。 もう一つは、ビックスが、昭和天皇のある意味では矛盾にみちた意識のありようを、特定の理論的枠組みによって 裁断してしまうことを、慎重に回避しようとしていることである。この点に関しては、従来の日本側の研究には、私 自身のそれも含めて、昭和天皇の意識や行動の一貫性を強調しすぎる嫌いがあったように思う。戦後の日本社会にお いて、昭和天皇の歴史的評価について何らかの形で発言しようとする人は、戦争責任の有無という問題を避けて通る ことはできず、昭和天皇に対するその人の態度がどうであれ、ある意味では、戦争責任という枠組みの下でしか、昭 和天皇を論じることができなかったからである。 外国人研究者であるビックスは、こうした枠組みから相対的には自由であり、そのことによって、時には状況に流 されながら、不安にかられて妥協をくり返し、時には、「大元帥」としての自負に支えられながら軍部に対してさえ 主体的なリーダーシップを発揮し、その結果、戦争への道に傾斜していった昭和天皇の等身大の実像を過不足なく、 えがき出すことができたのだと思う。 本書の第二の特徴は、日米両国政府の政治的思惑が交錯する中で、昭和天皇の戦争責任が封印されてゆく過程を、 日米両国の厖大な史料に基づきながら、具体的に解明した点にある。アジア・太平洋戦争の終結直後から、昭和天皇 の免責に関しては、日米両国政府は共通の政治的利害を有していたのであり、その結果、東京裁判にみられるよう に、両者は水面下では連携しながら、天皇の戦争責任の免責に大きな力を注いだのである。 最近、ビックスは、天皇の戦争責任を追及する際の基本概念として、「アカウンタビリティ」を意識して使用して いるようだが ( 本書上巻三〇七ページの「著者ノート」参照 ) 、当然の事ながら、この概念は、アメリカの国家指導者にも き 適用可能である。事実、本書でも、ビックスの批判は、昭和天皇の免責に加担したアメリカの国家指導者にも向けら あ れている。その意味では、本書は、日本的システムの欠陥や、日本の国家指導者の政治的資質だけを外在的に批判あ 者 監るいは非難する、いわゆる「日本たたき」の論者の著作とは、明らかに異なっている。
がどれほど不満をつのらせていたかをよく知っていた。最後に、木戸は東南アジアにおける英、仏、オランダの植民 地の支配権を、奪取したいという陸海軍内での焦りにも似た感情を理解していた。 内大臣になると、木戸はこれまでのどの側近よりも緊密に昭和天皇の傍に仕えた。天皇の意図を知る一方で、より 強大な軍事力を備えた国家として眼前にある問題について注意を喚起することが、木戸の務めであった。木戸の家系 っちか や、一九三〇年から三八年の間に培った天皇との長い関係が、木戸と昭和天皇との結びつきを強固なものとしてい た。日中戦争の正当性と平和的な「南進」についての天皇の信念を、木戸はよく理解していた。このようにして木戸 は、天皇を陸海軍の指導層に近づけるように働きかけた。彼らは、中国に戦争を断念させることをせず、ヨーロッパ の戦況を利用して日本を窮地から救い出せると考えていた。そしてヨーロッパでの戦争はドイツが勝ったも同然と見 なしていたのである。 はたしゅんろく 一九四〇年六月一九日、閑院宮参謀総長、畑俊六陸軍大臣の上奏に際し、昭和天皇は「欧州の情勢も媾和が速に 来るといふことになるとき、蘭印及仏印に兵力を出すといふことがあるか」と質問した。この質問は、昭和天皇が、 ドイツのすみやかな勝利を期待していただけではなく、インドシナやオランダ領東インドへの派兵の可能性も検討し 始めていたことを示していた。機会主義的なことをよしとはしない昭和天皇の性格から、そのような考えにためらい を見せてはいたが、い まや、フランスとオランダはドイツにより征服されていたのである。 翌日、木戸との間で、仏領インドシナの件が再び取り上げられたが、昭和天皇は、仏印の情勢に強い関心を示す一 大 拡方、この無防備なヨーロッパ植民地をどうすべきか迷っていた。昭和天皇には、国民の道義の高潔さを守護する者と して国民から支持されなければならないという支配理念があった。そして、歴史的には「フリードリッヒ大王やナポ 'G レオンの様な行動、もあるが、しかし、「極端に云へばマキアベリズムの様なことはしたくないね、神代からの御方 はっこういちう 戦針である八紘一宇の真精神を忘れない様にしたいものだね」と述べていた。「八紘一宇」を明言し、マキャベリズム 章 を拒否したが、その一方で、中国人に対する毒ガスの使用を裁可していた。これらの矛盾した行為は昭和天皇の二面 〇 第的な性格を表していた。ここで昭和天皇は木戸に、暗にこう言いたかったのである。私は理念に基づいた行動を好む こうわ すみやか
それら そのつど 御上夫等については其都度注意したるにあらずや、杉山は虚言を申すや ゆる 永野総長御容しを得まして永野より奏上申上たきことこれあり、発言の御容しを乞ひ奉る 御上宜しい 永野総長古来兵に一〇〇パ 1 セント勝算ありといふが如きことなし、孫子に曰く : : 。独乙とセルビアと戦ふ いやしく が如きの場合はともかく苟も相近似する国家間の戦は決して成算を万全に期することは難し。但し 茲に病人ありて放置すれば死すること確実なるも手術すれば七分は助〔か〕る見込ありとの医師の診 まさ 断ありとせば夫は已むを得ざる天命と観ずる外なかるべし。今日の事態は将に然り。 : : : 若し徒に 時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強いらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり 御上よし解かった〔御気色和らげり〕 近衛総理明日の議題を変更致しますか如何取計らいませうか。 御上変更に及ばず。 永野の理屈に納得していなかった近衛は、方針を改訂するための最後の機会を天皇に申し出ていた。それにもかか わらず永野や杉山の強硬派の主張に説得されて、昭和天皇はこれを却下したのだった。 日本降伏後、間もなく、永野は戦中の同僚たちとの座談会で、この時の拝謁を回想している。永野はその晩、昭和 天皇が「いつになく御気色が強かった」ことを想起し、天皇は「国策」の基本方針〔帝国国策遂行要領〕を裁可するよ 'G う求められていた訳ではないと示唆している。さらに、「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」 湾〔期限付きの戦争決意と戦争準備を述べた第一項の「対米、 ( 英、蘭 ) 戦争を辞せざる決意」を、第二項の「米、英に対し外交の手段を尽 真し」と順番を入れ替えることで、外交を主とし戦争を従とするものに変えるという提案〕と質問したのは、外でもない、近衛では ( 浦 ) 一なく永野だった。これに対し昭和天皇は「原案の順序でよし」と答えている。対米戦争に反対の近衛であれ、戦争に 第賛成の永野であれ、彼らが行った質問自体は、重要ではない。問題は、天皇がこれは全面的、無制限な戦争を中止す どいっ いたずら
任意識が強く、そのような観点から統帥部を監督していた。また、日本は本来、防御よりも攻撃において優れている という考えを支持していた。生来、楽観的なため、困難な軍事情勢に対しても、軍が懸命に戦えば勝てるとの態度で 臨んでいた。他方、作戦を裁可するまでは、用心深いのが常だった。昭和天皇は、戦況の悪化が懸念されることに目 を光らせていた。そしてまさに悪化の兆候を看取するばかりか、実際、天皇が言ったとおりの措置を統帥部がとらな ければ、どのような事態になるかまで予測していた。日中戦争でなかなか、勝利することができなかったために、昭 和天皇は非常に懐疑的な指導者となっており、参謀本部が指導する作戦に全幅の信頼を置いてはいなかった。天皇 は、ときにかなり厳しく統帥部の誤りを指摘し、その自信過剰を批判した。 他の国の最高司令官と異なり、昭和天皇はけっして戦場を訪れることはなかった。しかし、作戦の企画と実施の双 方において、天皇の関与は必ず現地の作戦に決定的かつ重大な影響力を及ばしていた。日中戦争初期の四年間、昭和 天皇は大本営で最上級の軍事命令を発してきた。そして、天皇の名のもとに伝達される決定を下した会議に、しばし ば臨席した。太平洋や中国の前線から帰ってきた陸海の将軍から拝謁を不断に受けていた。昭和天皇は、公に前線部 隊 ( 後には、銃後の組織も ) を督戦し、嘉賞した。「お言葉」やそれを伝える勅使を前線に送りつづけ、そして勅語 ( それはアメリカの司令官に贈られる大統領の感〔謝〕状よりもはるかに名誉と権威を持つものであった ) を軍功の あった将官に授けた。昭和天皇は、勅語で用いられる言葉が正確にその意を伝えられるように、注意深く手直しして いた。基地、軍艦そしてさまざまな陸海軍の司令部に足を運んだ。軍学校を視察し、生産を高揚させるために産業界 の指導者を引見し、兵器開発に非常な関心を寄せ、そして、国家の犠牲になることを正当化するメッセ 1 ジを国民に 徹底させていたのである。 しかし、戦時における昭和天皇の最大の力は、天皇生来の寡黙さや自制心をリーダーシップの資質に転換できた点 にあるといえる。昭和天皇のカリスマ性はむしろ、普通の人の資質とは異なる天皇としての存在そのもの、つまり神 代からの血統、幾世紀にもおよぶ皇位の伝統と義務、そして、近代になってから単にイメ 1 ジ操作だけによって作り 出された部分からなっていた。天皇が戦争で生き残ることができたのは、彼がさまざまな方法で君主として欠くこと
重要なことは、天皇が連絡会議で審議され、天皇により検討された「国策、に関する文書の原案が作られる官僚的な 手順のひとつひとつに詳しかったことである。 一九四一年以降、統帥機構は、確実に精緻になっていった。昭和天皇はまさにあらゆる軍事情報に関わり、その範 囲はより広範で、より深いものとなった。詳細な想定問答集が、作戦課の将校により準備され、天皇のもとには戦況 報告が毎週、毎日、ときには一日に二回届けられていた。戦況の評価は、また毎月、そして毎年、天皇が吟味できる ように用意されていた。歴史学者・山田朗によると、昭和天皇は日常的に、作成中の戦争計画の原案や作戦に関して 十分な説明を受けており、詳細な地図とともに、その作戦が行われる理由や作戦を遂行する部隊について、説明を受 けていた。 太平洋戦争勃発後、戦闘報告や戦況報告は、毎日、宮中に届けられ、昼夜を問わず昭和天皇に提示された。それら の報告には、戦闘による死傷者数の項目、各部隊の展開場所での戦況、そして沈没した輸送船やそれにより失われた 物資といった詳細までもが、含まれていた。ときには、「第一線部隊から大本営にあてられた電報」が、交替で二四 時間仕えていた陸軍三名、海軍五名の侍従武官により、天皇に届けられた。これら侍従武官の職務の中には、定期的 に昭和天皇の手元にある作戦地図を更新することも含まれていた。 太平洋戦争の間、大本営海軍部は「戦況ニ関シ御 説明資料」と題された正式な報告書を昭和天皇に提出していた。その他の情報源とあわせると、天皇のもとにはかな り多くの情報が寄せられていた。しかし、この情報システムの欠点は、陸海軍がそれぞれ別個に機密情報を用意し、 昭和天皇に提出していたことだった。そのため、情報の全体像、ことに敗北については、天皇だけが把握していたの '@ である。 へ 湾 前線から報告された「事実」が不正確であれば、天皇の情報はいつわりの情報ということになる。しかし、山田に 珠 真よれば、天皇へ報告した者たちは、その情報を「みずからも『事実』と認定 , していたのである。たしかに、上奏の 一目的は天皇を欺くことではなく、軍の兵員、装備の損失についての正確な数値や、敵に与えた損害を報告することで 第あった。天皇が受け取っていた情報は、時宜にかなった、詳細で質の高いものだった。実際、そのようにすることが
日中戦争を始めた日本の支配層にとって、昭和天皇ならびに天皇制は絶対に必要だった。公には日本の戦争目的は 蒋介石の軍隊を懲らしめ、天皇の徳を広めることにあり、混沌や残虐を生み出すことを目的にしていたのではない。 この平和の理念と暴力的な政策の矛盾をあいまいにすることが昭和天皇の象徴的な役割だった。天皇はその人格によ って、軍全体の行為を道徳的、かっ合理的なものに見せていたのである。対外的に昭和天皇は日本社会の道義の規範 おおみこころ であり、高貴な民族の価値を体現した存在であり、自らが言う大御心の象徴だった。舞台裏で戦略の策定や戦争指導 大 拡にあたる最高司令官としての役割は、周到に隠されていた。しかし、国民党との四年間におよぶ戦争で、昭和天皇は最 高司令官としての役割を果たし、その体験を通じて、戦争全般に対する態度を変えた。そして、ついには、より大きな 'G 目的に向けて進んで危険を冒すこととなった。 争 戦 昭和天皇は中国を「近代」国家と見なさず、中国侵略が悪いとは夢にも思わなかった。中国に宣戦布告をすること 章 を控え、中国人捕虜の取扱いに際して国際法の適用を除外する決定を認めた。すなわち、一九三七年八月五日、陸軍 〇 第次官により出された次のような指令を個人として承認した。その指令では「現下の情勢に於て帝国は対支全面戦争を 第一〇章戦争の泥沼化と拡大
義務づけられていた。というのは、天皇は戦争遂行の基本的な戦略展開を指導しただけではなく、参謀や現地司令官 による不可避な事故や見込み違いについても解決するよう要求したからである。 昭和天皇は、報告の正確性を確認することに加え、しばしば、正規の報告経路以外から情報を得るため、陸海の侍 従武官や弟たちをよく各地の前線に派遣していた。一九四二年三月から一九四五年一一月まで侍従武官を務めた尾形 健一によると、昭和天皇は「戦地によく武官を御差遣にならせられたが、この場合も、なしうる限り、前線に近く、 かっ将兵の最も苦労しておる季節を御選びにならせられ、また帰還後の復命は殊のほか御期待遊ばされたかの如く拝 謁された」という。国務大臣や統帥部に質問をする際、天皇は、頻繁にこうした報告を引用していた。このようにし て昭和天皇は、常に司令官たちに眼を光らせていたのである。 最後に昭和天皇は通常、一週間に二、三回、宮中にスクリーンを設けて国内外のニュース映画や映画を見る習慣を 続けていたという事実を指摘しておこう。天皇は検閲を受けていた日本の日刊紙に目を通しており、軍指導者に新聞 で読んだことについて、しばしば厳しい質問をしていた。このようにして、天皇は戦争の真相のみならず、検閲後の 報道や、徹底的に「洗脳されていた」日本人が受け取っていた報道についても知っていたのである。 早くも真珠湾攻撃の直前までには、統帥部は、天皇に十分な情報を提供するよう膨大な時間を費やすようになって いたが、このため作戦や戦略立案に携わる軍高官の能率は下がり始めていた。例えば、第一部長はその職務の大半 を、昭和天皇が事態の進展についてゆけるようにするために費やしていた。そのため、作戦や戦略の立案という本来 の職責に没頭することができなかった。一九四一年から陸軍参謀本部に勤務していた井本熊男は、このような天皇の 戦争指導の体制が、意図せざる結果として日本の敗因となったと見ている。昭和天皇に情勢を報告しつづけるには、 超人的な労力が必要であり、このため第一部長は、「課長以下」に、本来の職務を委任することになる。ところが、 その「課長以下」も、やがて「部長の戦争指導の動きに捲き込まれる。これでは事務はできても、大本営の統帥はで きない。その点について、大きな欠陥を生じた」というのである。 、」と