午前十時半より三時十分迄、御前会議開催せられ、対米英蘭に対する方策決定せらる。三時四十分、東条首相 うんぬん くるす 来室、南方軍編成の件、来栖〔三郎、前駐独大使〕氏を米国に派遣云々につき話しありたり。 同時に永野海軍軍令部総長は、天皇に戦争の計画について詳細な説明をしていた。この「対米英蘭戦争海軍作戦計 画」は、連合艦隊司令部により戦艦長門の艦上で起草され、指揮系統に沿って提出される前に海軍軍令部に直接、送 られだ。昭和天皇が真珠湾攻撃を最終的に裁可したとき、その場には閣僚はだれひとり同席していなかった。 『杉山メモ』によると、昭和天皇は ( おおよその時間、場所、攻撃方法など、あらゆることを知っていた ) 、機密保 持を心配していた。天皇は、攻撃部隊がいつ出撃態勢を整えることができるのかを知りたがっていた。永野は正確な 日時がほどなく決まると奉答した。機密保持が重要であり、そのため部隊の前方展開が早くなりすぎないように細心 の注意を払わなければならなかった。どんなに注意を払おうとも、このような大部隊による作戦を、どのくらい秘匿 したままでいられるかを保証することは誰にもできないことだった。いつものようにソ連のことを心配する昭和天皇 は、永野に対し、ことに北方ではソ連に感づかれぬように用心せよと注意していた。 次に彼らは、中国に話題を転じたが、中国との間では四年と約五カ月間戦闘が続いており、日本は大部隊を編制し ぎしよう 終え、蒋介石の軍隊を打破する潜在的な力を持っていた。杉山は、大元帥昭和天皇にこう話していた。「宜昌 ( 揚子 江の地峡への入り口近くにある大きな河港であり、陸軍が四川省に進攻し、重慶を攻撃するのに格好の攻撃基地 ) か ら兵を退くのは此際適当でないので一部の兵力を内地から増加しなければならぬかとも考へて研究中で御座います」。 湾しかし、昭和天皇の意見は違った。「宜昌から退くのはよいだらう」。 真最後の発言は何か謎めいている。しかし、天皇が何を考えてこのような表現をしたのかはともかく、昭和天皇は宜 昌を必要としていた。宜昌は、一九四〇年以来、武漢の第十一軍が重慶を攻略するための足場であり、少なくとも当 第面は第二に重要な地域とされていた。このように天皇は、ひとたび主要な作戦が成功を収めれば、宜昌に戻る余地を
求め、報告を続けてくれることをただ念ずるしか道はなくなった。 政治的混乱は、吉田の後継者で、経済的独立に加え、 ( 早すぎて達成されなかったが ) 政治的自立も目ざした七一 歳の鳩山一郎内閣のときに始まった。彼が最初に組閣した五四年一二月一〇日、戦犯裁判で有罪になった外相重光葵 は天皇に報告のため皇居に赴いた。生来の保守主義者で、進取の気性に富む野心家の重光は、一九三〇年代末にはア ジアにおける「新秩序」と天皇親政を唱えていた。獄中に五年過ごしても、新秩序実現の理論構想への彼の熱意は変 わらなかった。天皇の忠実な臣下という強固な自己認識も、天皇は権力のはざまにあって、旧憲法下と同様になお国 務大臣に仕えられているとの信念も変わらなかった。 一九五五年をとおして、重光と天皇はほば月二回のわりで外交上の重要問題を協議した。国会で社会党が勢力を伸 ばし、左派と右派が統一したのを受け、保守政党側も合同して自由民主党を結成し、鳩山はその初代総裁になった。 日本経済も同年、貿易以外のすべての部門で戦前・戦中の生産高のピークを超え。鳩山が第九条の削除と天皇の地 位向上という憲法改定を模索するなかで、重光はソ連との国交正常化、対中貿易の拡大に向けて動いた。後者は、ア メリカが依然としてマッカーシズムにとらわれ、スターリン主義的独裁の道を歩む中国を承認さえしていない状況の もとでは、とりわけ困難が予想された。 天皇は重光との会見のたびに、ソ連と国交を回復すれば、共産主義が日本に浸透するのではないかと繰り返し心配 している。彼は重光に、日本が再びアメリカの戦略的対抗者になることがないよう警告した。重光によれば、同年八 月末、ニキタ・フルシチョフ〔ソ連共産党第一書記〕が権力の座にあって対日平和条約を構想したとき、天皇は栃木県 那須の御用邸で彼に「日米協力反共の必要、駐屯軍〔在日米軍〕の撤退は不可なり」と強調し。鳩山と重光は、天 皇のさしでがましい反共助言に手を焼き、報告を中止するようになった。国交正常化のための彼らのモスクワとの交 渉努力は、第二次大戦の末期にソ連が不法に占拠した南千島の返還に触れたため、失敗に終わった。外交当局には失 点だったが、天皇は双方の食い違いにほっとしたことだろう。 一九五六年頃には、新憲法の定着と経済状況の向上で、日本人は古い権威主義的政治意識からますます抜け出して 260
じゅうたん 歴史的に見て重要な争点は、一九四五年五月、四が東京に猛烈な絨毯爆撃を加えた直後に、トルーマン大統 と 領が、もし日本の民衆が皇室の維持を望むのであれば、降伏は現在の天皇制の廃止を意味するものではない、 正式に声明していれば、日本の降伏を早めることができたのか否か、という点にあった。 ( 中略 ) 日本占領後、 多くの日本の穏健な旧指導者たちが信頼するアメリカ人に話したところによると、天皇を輔弼する文官たちは、 明らかにポッダム宣言のはるか以前から降伏に向け活動していた。実に私が大統領と会談した五月二八日よりか なり以前から、彼らはすでに日本が敗北した国家であることを理解していたからである。彼らが克服しなければ ならなかった障害は、日本陸軍による完全なる政府の支配だったのである。 ( 中略 ) 天皇はあらゆる支援を必要 としていたのである ( 中略 ) もし、このような皇室に関する ( トルーマンの ) 正式声明が一九四五年五月に出さ れていれば、政府の中の降伏派に、早い段階で明確な決定をするための確かな根拠と、必要な力を十分に与える ことができたであろう。 ( 中略 ) 鈴木貫太郎首相は、降伏が天皇制の廃止を含まないことを明示さえしておけば、 ( 中略 ) 一九四五年五月以前においても降伏を考えていたのである。 グル 1 は、すぐさま国務省の同僚の「中国グループ」から猛烈な反発を受けることとなった。彼らは天皇を擁護 し、将来にわたって皇室の存在を保障することは、日本ファシズムの本質との妥協にほかならないと主張した。彼 ら、つまり、ディーン・アチソンや詩人で後に議会図書館に勤務するアーチボ 1 ルド・マクリーシュ、ジェームズ・ ーンズは、日本の政治情勢に対するグルーの認識が以前から間違っていること、彼が天皇や日本の保守層の「穏健 降派」をかばおうとしていることに気づいていた。中国派の彼らは、日本とその軍国主義や戦争の思想的な中心である ぎ天皇を、ドイツ以上に寛大に取り扱ったり、そのような寛大な処置により国内外から日本に宥和的であるとの好まし 遅 からざる印象を招くことは、とくに避けたかったのである。このような官僚間の見解の相違は、ワシントンの最高レ 章 ベルにおいてアメリカの戦争目的に関する明確な一致がなかったことを示していた。さらに重要なのは、一九四五年 第春から夏にかけて、戦争目的と戦後政治との相関関係が重要視されてきたことである。 ゅうわ ほひっ 12 5
伏 降 天皇と木戸は、天皇と皇位に対する民衆の批判が高まっていることを懸念していた。これ以上、戦争が続くのを放 遅置しておけば、遅かれ早かれ、民衆は指導者に暴力的な反応をするのではないかというおよそ被害妄想じみた恐れを 章 抱いていた。広島への原爆投下とソ連参戦という二つの大きな心理的衝撃と、こうした恐れとがあいまって、昭和天 第皇はポッダム宣一言の条件を原則として受諾することを最終的に認めたのだった。 人の復員と武装解除の点についても自主的な武装解除と復員を主張する陸海軍を抑えて連合国側に妥協する内容のも のだった。 さらに重要なことに「要綱」に添付された「解説」には「皇統を確保し天皇政治を行うを主眼とす。但し最悪の場 また 合には御譲位も亦止むを得ざるべし。この場合に於ても、飽くまで自発の形式をとり、強要の形式を避くることに努 む、とあった。さらに近衛と酒井には「天皇を戴く民本政治には、我より進んで復帰する」という「条件」の用意も あった。日本人が民主主義を敵性文化と見なしていた時期に、彼らは大正時代に「デモクラシー」を意味したこの民 本主義という言葉を用いたのである。天皇の権威に憶することなく自説を言上していた近衛にしても、添付された 「解説」を、あえて裁可を求めて天皇に提出できなかったことは、重大である。 皇位を守る「名誉ある講和、を工作するにあたって、近衛と酒井は、必要であれば密約によって有形の補償の代わ りに、同胞を強制労働に送りこむ意図があったことを示していた。すなわち「要綱」には、「海外にある軍隊は現地 に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同 意す」「賠償として、一部の労力を提供することには同意す」とあった。明らかにソ連経済のための強制労働に服さ せるために日本人捕虜を抑留する考え ( 後にシベリアの労働収容所により実行されることとなる ) は、ソ連だけのも のではなく、実際に天皇の側近の人物にその起源があったのである。 1 3 ラ
逐語的な記録が存在しないという事情もあって三〇〇二年一〇月、外務省と宮内庁は第一回会談の記録を初めて公開した〕、 この秘密会談の内容をめぐっては、のちにマッカーサーをはじめ、天皇とマッカーサーへのインタビューをもとに文 章をまとめたアメリカのジャーナリスト、さらには日本側の政府関係者や歴史学者たちによって、さまざまに矛盾し た説明がなされた。おそらく、彼らの第一回目の会談についてせいぜい言えることといえば、天皇とマッカーサーの 両人とも、それぞれの立場がまだ不安定で、再調整を図っていた時期に会談に臨んだということであり、またふたり とも会談が成功裡に終わったとの感触を得ていたということくらいだろう。裕仁は、マッカーサーが自分を利用しょ うとしており、戦争責任の問題を追及しなかったことを知って、ホッと胸をなでおろした。一方、マッカーサーの方 では、天皇が彼の占領遂行を高く評価し、協力を約束してくれたことに感動を覚えた。なお、推測ではあるが、ふた りとも自分たちの部下がすでに手がけていた天皇を戦犯訴追から守る努力については一言も触れなかった。 その後、連合国軍最高司令官は天皇を利用することになり、また、天皇も利用される形で協力することとなった。 ふたりの関係は、便宜主義的でかばい合いの様相を呈するようになったが、マッカーサ 1 よりも裕仁の方がより大き な政治的利益を得た。というのも、裕仁の方がいっそう多くのものーー皇位を象徴し、正統化するすべての権威 を失わなければならなかったからである。 しかし、アメリカと日本の指導者たちが友好的かっ協調的に影響し合うためには、天皇は自分を、軍国主義や東条 のような軍国主義者から完全に切り離さなければならなかったが、彼はそうするのをためらった。一方、マッカーサ 制 主 ーは、戦争中の、とくに真珠湾攻撃に際しての、天皇のいかなる行動についても彼に責任を負わせないことを確実に 君 する必要があった。さらにまたと日本の後継内閣は、戦争の本質と、天皇が戦争中に果たした役割に関する日 直本国民の歴史認識を改める努力を続けなければならなかった。 敗戦の廃墟のなかで暮らしていた大部分の日本人にとって、天皇・マッカーサー第一回会談の重要性は、このふた 章 りの指導者が相互に敬意と協力の精神を打ち立てたことではなかった。また、ふたりの会話として公表された内容で 四 第もなかった。日本の国民にとっては、アメリカ人力メラマンが撮影し、九月二九日に日本の主要な新聞各紙がこぞっ
本書は、アメリカ人の日本史研究者、 ート・ビックス ( ニ、ーヨーク大学ビンガムトン校教授 ) の大作 Hirohito and the Making of Modern Japan ( Ha 「 pe 「 co 三ラ N. Y. に 000 ) の全訳である。著者のビックスは一九三八年生まれ で、一九七二年に論文「日本帝国主義と満州 , でハ ード大学の博士号を取得している。また、一九九七年から二 〇〇一年まで、一橋大学大学院社会学研究科の教授をつとめ、二〇〇一年には、本書でピュリツツアー賞を受賞して いる。以下、ここでは、監修者としての立場から、本書の意義や歴史書としての位置づけについて、簡単に整理して みることにしたい。 本書の第一の特徴は、昭和天皇が、能動的君主として、しだいに国策の決定や重要な軍事的決定に深く関与するよ うになっていった事実を、豊富な史料に基づいて具体的に解明していることである。その際、分析の手法としては、 次の二点が重要だろう。一つには、ビックスが、昭和天皇の言動を記録した諸史料の分析を通じて、天皇の思想と行 動の特質を明らかにしようとしているだけでなく、天皇に影響を及ばすことのできる立場にいた人々の思想からも、 天皇の思想と行動の特質を読み解こうとしていることである。具体的にいえば、侍従長、内大臣、「御学問所」で教 師の役をつとめた軍人や学者、「御進講」を担当した官僚や学者などである。こうした直接・間接の二つのアプロー さらに、印象的だったのは、二〇〇一年八月一五日付の『朝日新聞』の社説である。この社説では、「戦後の原点 に立ち返るとき、どうしても避けて通れないのは、昭和天皇の戦争責任をめぐる問題である」としながら、「陸海軍 を統帥し、すべて天皇の名において『皇軍』への命令が下されたことを考えてもやはり天皇の戦争責任は免れない、 というほかあるまい」と結論づけている。主要全国紙の終戦記念日の社説の中で、昭和天皇の戦争責任の問題が正面 から論じられたのは、これが初めてである。 日本社会自体が、こうした変化の途上にある中で、本書は刊行された。そうした変化によって、日本での本書の刊 行が可能になったともいえるし、本書の刊行が変化をさらに加速させることになればと思う。 3 3 2
さらに重要なことに、六月八日以来、モスクワの佐藤大使は、東郷外相に、ソ連が日本を助けるとは到底、想像で きようく きることではないと伝えていた。七月一三日、佐藤は東郷に対し、「特使派遣は天皇陛下の御意志にして恐懼に堪へ ず」としながらも、それはソ連にとってまったく意味をなさず、皇室に災いをもたらす結果となるだけで、「もし陛 下より日本政府案を提示したとしても、具体性に欠け従前の考えの列挙に限られる」と警鐘を鳴らした。 あいまい 七月一九日、佐藤大使は、ソ連が「目的が曖昧との理由から」実際に特使の受け入れを拒絶した ( それは佐藤が一 貫して主張してきた通りの結果であった ) と東京に伝えた。その翌日、同大使は情勢全般についての感想をまとめ、 彼としてはもっとも感情をあらわにした電報を東郷外相に送った。その中で、佐藤は ( 七月九日に拝謁した有田や、 二月以来、戦争終結を主張していた近衛と同様に ) 、国家は倒壊寸前にあり、すみやかに降伏すべきであるとした。 また、佐藤は「国体保持の問題 , については「国内問題なりとして講和条件より除外すること」もひとつの方法であ ると強調した。換言すれば、講和に際し君主制の保障を求める必要はなく、佐藤にとっては天皇の大権を意味する国 体は、すみやかな降伏によって護持され、再び日本が独立を回復すればこれを復活させることができるだろう、とい うのだった。 しかし、東郷は天皇の意向により繰り返し佐藤に対し、日本政府は講和案を事前に明らかにすることはできないこ と、ソ連の意図を察知し、天皇の特使として近衛公爵を受け入れさせることに集中すべきことを伝えた。八月二日、 ごしんねん 東郷は佐藤に、「御上におかせられても本問題の推移に深き御軫念を有せられ総理、軍首脳部も目下此一点に関心を 繋ぎ居る次第なり。就いては右の事情篤と御考量の上、御意見の次第あるも何とかソ連側をして特使派遣に対する執 意を起さしめ、これを受諾せしむる様、にとさらに訓電を送っが。東郷の訓電を受けた後、佐藤はふたたび外相にポ ツダム宣言即時受諾をうながす返電を送っている。 佐藤大使、元外相の重光葵、有田八郎のいずれも、ソ連の仲介で戦争終結ができるとは思っていなかった。東郷外 相自身もこれに疑問を持っていた。しかし、東郷は、大権について国際的な保障を求めていた天皇の意に沿って事を 処理しようとしていた。そのため八月四日、下村海南情報局総裁が東郷宅を訪問して、「ソ連だけを相手にしていた つな しもむらかいなん 13 2
民族自決の原則は、連合国にとって戦時外交の重要な問題だったが、昭和天皇自身はこれを認めていなかった。ま叫 しげみつまもる して、植民地の台湾、朝鮮との関係を見直すことを求めはしなかった。東郷外相やその後継外相の重光葵と同じく、 昭和天皇は「分」相応の観点から考えていた。それは条約により保障された日本の特権を伴い、日本が主導する序列 ふさわ 化された「共栄圏」の範囲内で、個々の人種の集まりに相応しい位置を与えることを意味していた。だが、天皇は戦 況悪化につれて、急迫した情勢に意志を曲げ、ふたたび政治的主導権を発揮した。昭和天皇は、「一号」作戦の攻勢 により作られた機会を、いかに利用すべきかを東条と議論していた。彼らは延安に対する政策の変更を決定し、実 際、重慶政府と対立させることを目的として、延安の毛沢東率いる共産主義政権に対し、暗黙の承認を与えた。これ は同時に、ソ連に対する宥和政策でもあった。 天皇は南東アジアに対しても注目していた。一九四四年一月七日、天皇はビルマからインドのアッサム州に攻撃を 行うことを裁可した。その目的は、ビルマ奪還を狙う連合軍に先制攻撃を加え、できればイギリス支配に対するイン ド民族主義者の蜂起を促すことにあった。昭和天皇がこの異常な攻勢を積極的に推進したことを示す文献はないが、 戦争の全期間を通じ昭和天皇が推進した作戦に見られた特徴、つまり攻撃的で近視眼的な特徴をそれは持っていた。 イノヾール作戦は、ひとつにはビルマ防衛のため、もうひとつには軍の士気を回復するために裁可された。三月八日 に開始され、四月初旬には泥沼化した。当初から作戦に懐疑的であった東条と杉山は、現地に視察団を派遣し、天皇 に悪化する状況について最新の情報を伝えた。結局、七月四日、天皇は東条の勧めに従い、悲惨なインノ 。、ール作戦の 中止を命じた。その時点までに約七万二〇〇〇名が死傷していが。 相次いで大敗北を喫し、その衝撃が重なっていたにもかかわらず、天皇と統帥部の決定は、依然として、大胆だっ た。一九四四年六月中旬、アメリカの大艦隊がマリアナ諸島の重要な日本軍基地を攻略するためサイバ、冫 ノこ接近する
トナムを爆撃するが沖縄の基地から発進することに抗議した。佐藤はアメリカの北ベトナム侵略に全面的に協力 した。戦争の激化によって、アメリカにとっての日本と沖縄の重要性はともに高まった。六四年一〇月、中国が最初 の原爆実験を行った。その二年後、文化大革命の混乱に陥りつつあるなかで、中国は東アジアのどこへでも核弾頭を 打ち込めるミサイルを試射した。ワシントンの消息筋には、大陸中国が間もなく核兵器の備蓄を始めることがすぐに 知れわたった。これは、沖縄の重要性がいっそう増すことを意味した。米中関係は見直す必要があった。 中国の最初の原爆やその後のミサイル発射についての天皇個人の意見は明らかではない。しかし中国が核ミサイル の開発に乗り出した状況でも、天皇や佐藤がアメリカの「核の傘」の有効性を疑ったとは思われない。佐藤によれば 天皇の懸念は、アメリカとの間で増大する経済紛争に向けられていた。繊維問題のような場合には、佐藤はその進展 の具合を天皇に逐一伝えている。また彼らはベトナム戦争の行方、佐藤内閣の学生運動対策、ジョンソンや、もっと 意図の分かりにくいニクソンの政策などについても話し合った。天皇は佐藤の外交・内政の手腕を評価する一方、自 民党の議員や閣僚による汚職に不満を示すことがあった。 佐藤内閣のとき、天皇は〔焼失した明治宮殿にくらべて〕小規模の新しい宮殿に移り、東京オリンピックの開催に参列 し ( ともに一九六四年 ) 、「近代化に成功した、一〇〇年を祝する「明治百年記念式典」に出席し ( 一九六八年 ) 、大 阪万国博覧会を皇后と二度訪れた ( 一九七〇年 ) 。これらの行事は日本の経済的達成に対する誇りを高め、国の権威 遺を誇示した。国家の誇りと尊厳は、佐藤の沖縄返還交渉によってさらに高まった ( 一九七二年 ) 。しかし、日米双方 が沖縄をアメリカにとっての「太平洋のジプラルタル」に留めておくことを望んだため、アメリカは引き続き大兵力 の駐留を認められた。東京での返還式の際、天皇は外国の高官と会見し、式典では戦中と戦後の沖縄県民の犠牲に対 なして哀悼の念を述べた。 穏 静佐藤と自民党保守勢力が権力を握っている時期には、高齢の天皇にとって、積極性をとり戻し、国家元首に戻るこ 章 とを再び夢みることさえできた。 , 。 彼ま外国の高官や王族と会見を続けていた。かっての若い頃のように、宮中晩餐会 七 もちろんそれらの意味は以前とはまったく異なっていたが 第や優雅な園遊会を催した 。国民体育大会に臨席 271
リアでマッカーサ 1 率いる南西太平洋陸軍司令部に加わった。 ( マッカ 1 サ 1 と同じ飛行機で ) 日本に到着したフェ 彼の最重要目標 ラーズはすぐに、天皇を彼が戦争中、そして終戦時に果たした役割から保護する仕事に着手した。 , は、自身の戦時宣伝計画の効果を確かめることにあり、それと同時に、裕仁を戦犯訴追から守ることにあった。 フェラーズは、約四〇人の日本の戦争指導者に対して個人的に尋問を行った。後にもっとも重要な級戦犯として 告発されることになる多数の者が含まれていた。尋問は主として東京の巣鴨プリズンでふたりの通訳を介して、一九 四五年九月一三日から翌四六年三月六日までの五カ月間行われた。フェラーズの活動は、すべての主要戦犯容疑者に 側の特別な関心事について注意を喚起し、天皇が起訴を免れるような筋書き作りへの調整を行うことを可能に した。このように、検察官たちが戦犯容疑者を裁く際に使用する証拠を収集していたとき、フェラーズは無意識のう ちに容疑者たちを支援していたのである。検察陣はほどなく、どの日本の戦争指導者たちも事実上、同じ考えを述べ ていることに気がついた。すなわち天皇は、戦争を終わらせるために、みずから英断を下したというのである。そし て、このテ 1 マこそ ( 検察官には知られていなかったが ) 、自身の対日心理作戦の実効性を明らかにしたいと望むフ エラ 1 ズの目標と一致したのである。 同様に、日本の戦争指導者が天皇を守るのに役立ったのは、アメリカ戦略爆撃調査団の文官と軍人 たちが、一九四五年九月末から一二月にかけて行ったインタビュ 1 であった。その調査目的は、米軍の空爆が日本の 降伏決定に与えた効果、とくに原子爆弾の影響を評価することにあった。のスタッフはまた、戦時下にお ける日本の政治体制の機能についても探ろうとした。もちろん、木戸内大臣をはじめ、総理大臣経験者である近衛文 麿、米内光政、鈴木貫太郎、そして鈴木の秘書役の迫水や同じく木戸の秘書役だった松平康昌、さらには高木惣吉海 軍少将など日本の最高政治・軍事指導者は調査団との接触を「国体」護持の一手段として位置づけていた。きわめて 東協力的な態度で質問に応じたこともあって、彼らは降伏過程に関する証拠の主たる情報源となり、また自分たちの調 章 書を、終戦時の天皇の役割に関するアメリカの公式見解に反映させることができた。 五 第被疑者に対する個人的な尋問を終えたその日、フェラーズは第一生命ビルの彼の執務室に米内大将を呼び出した。 199