人びと - みる会図書館


検索対象: 天声人語にみる戦後50年 下
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1. 天声人語にみる戦後50年 下

丨こ恐れおののきながら、そこに神の姿、神の怒りの姿をみたの 人びとは、闇を裂く巨大な赤い月し だろう。土地の人びとにはまことに申し訳ない話だが、写真でみる巨大な炎は恐ろしくて、美し 、刀ナ′ 昔の人びとは、神の怒りに恐れおののいていただけではなかった。火山は災害をもたらすだけ ではなく、たとえば火山活動にともなう降灰が島に生命のもとになる土を造ってくれることを知 っていた。 中村一明東大教授によると、伊豆大島では百数十年ごとに、巨大噴火が周期的に起こってきた そうだ ( 『火山の話し。今回の大噴火もおおざっぱにいえばその周期を刻んだものであるらしい 噴火はこれからも繰り返されるだろう。だが、人びとは位牌をしかと持って、島に帰る。 「藪の中』間接税編 ゃぶ 芥川竜之介に『藪の中』なる短編があった。さよう藪の中では大型も新型も日本型もごちやご ちゃになる。 えんま オし」と由・し 閻魔に問われたるカザミドリの話。さようでございます。「大型間接税を導入しよ、 たのはわたしに違いございません。わたしはなにしろ「死んだふり上手のカザミドリ」の異名を もっ男でございます。大型間接税に死んだふりをさせて選挙に勝つなぞは造作ないことです。マ ル優廃止も上手にごまかしました。 1- っ

2. 天声人語にみる戦後50年 下

154 三菱銀行北畠支店事件 1 大阪の三菱銀行強殺監禁事件では、深夜、現場に押しかけたヤジ馬たちが「警察は何をやって つばいやりながらテレビ るんだ」「はやく突っこめ」とテレビのアナウンサーにいっていた。い を見ていて、おもしろ半分に現場にかけつけたという様子だ。テレビカメラに向かって、人びと は愉快そうに騒いでいた。 何よりも人質の生命重視だと人びとはいう。人質に同情するとヤジ馬たちもいう。しかし恐ら くは、目の前で銃撃戦が起こることを期待し、ドラマを見るようなつもりで集まった人もいるだ ろう。期待して来たけれど動きがない、寒くてやり切れないから早くやってくれ、といった調子 の表情が画面に映っていた。 銀行内でどれほど残忍なことが続いたかは断片的にしかわからないが、テレビの生中継を見な がら「現実」と「劇」について考えた。テレビ中継は血なまぐさい事件を茶の間に流すことで、 劇的な現実を劇そのものに仕立てあげているのではないか。現実の劇化、あるいはテレビショー イがますます進んでいるように思う。 血だらけの犯人がたんかで運ばれる時、一瞬、画面を静止させたのはこの衝撃的なテレビショ ーをしめくくるみごとな演出だった。それはちょうど、ボクシングでされた選手の姿を最終 画面で静止させるのに似ている。

3. 天声人語にみる戦後50年 下

124 忘年会やお花見では、この音頭を集団で踊りまくる。「中世の欧州にも舞踏病というのがあっ たが、日本にも念仏踊りや『ええじゃないか」の伝統がある。踊る宗教もそうだが、人びとは踊 ることで宗教的な恍惚感、解放感、現世離脱感を得ることができる」というのが社会心理学者、 南博氏の説だが、「電線音頭」の場合はどうだろう。 うつくっ 十三世紀の一遍は「とも跳ねよ、かくても踊れ」と歌 0 て鬱屈した農民や流民の心をとらえた。 現代は一遍のかわりにデンセンマンが飛んでくる。 長びく不況の中で、相変わらす倒産が多い。先月の企業倒産は史上最高の件数だったという。 横浜市では三十五歳のガラス店主が三人の子を残して自殺したが、不況で仕事が減ったこともそ の原因の一つにあげられている。 経済政策についていえば、日本だけではなく、世界中が同じ悩みをかかえている。不況対策に 力を入れすぎるとインフレの心配があるし、インフレ問題を重視しすぎれば不況の解決が難しい そういうどうしようもない手づまり状態の中に生きていることが、人びとをいっそう息苦しくさ せている。 こういう時期だからこそ、「電線音頭」のような現世離脱型の歌や踊りがますますデンセンし てゆくのでありましよう。 土くさい野人

4. 天声人語にみる戦後50年 下

182 戦時中、東京は約百回の空襲を受けた。十六万七千人の死傷者があり、約七十七万戸が焼けた。 家や親を失った戦災孤児が街にあふれた。林忠彦のカメラは、栄養失調の浮浪児やヤミ市や焼け 跡でかせぐ女たちをとらえ、あの時代の雰囲気を的確に描きだしている。 地下道に寝る裸の浮浪児を横目に、黙々と歩み去る人びとの写真がある。「生きるのに精一杯 なんだ。人のことになんかかまっていられない」という顔だ。街は変わり、人びとの身なりはよ くなったが、 黙々と歩む群衆の表情はいまも変わらない。 ・以後、「臣民の道」は「民主主義」に変わり、「鬼畜米英」は「カムカムエプリバディ」 に変わったが、それは表面だけのことで、私たちの深層部にあるものはあまり変わっていないの ではないか。変わった変わったといわれてきたのは表層部分だけではないのか。 たとえば、大勢順応を重んする生き方、長いものには巻かれよ式の権威主義、制服好き、女性 蔑視、滅私奉公的精神、人種的偏見、そして「生きることに精一杯なんだ。政治のことなんか関 心ない」式の政治的従順。 これらの、深くよどんでいる部分がかって戦争とどう結びついたのかを考え抜いておかないと、 ふたたびカストリ時代に直面することになるかもしれない。 さらば有楽町 有楽町に朝日新聞本館のいたく古びし城砦は見ゅ ( 高橋達雄 ) 。その城砦ともお別れである。

5. 天声人語にみる戦後50年 下

博士は説く。ソ連社会のいちばん大きな欠点は「自由のないことだ」といってはばからない。 反対意見を暴力で封じ、少数意見をやじり倒すような集会には、討論の自由はない。公民権運 動を主張する黒人指導者を暗殺してそのロを封する時、そこにも一一 = 口論の自由はない。官僚が情報 を独占する社会では情報入手の自由は奪われているし、大勢に順応して異論をひかえる風潮、商 業主義に支配される風潮の中では、知的自由は育たない。 博士のいう「三つの自由」はむろん、ソ連だけの問題ではない。 * っ 4 ・ 4- 幼い難民を考える会 「ある時期をすぎればジャーナリズムはカンポジア難民のことを伝えなくなるでしよう。人びと もいっか忘れ去るでしよう。しかしそういう時こそ、ここで救援活動を続けるねばり強さが大切 なのではないでしようか」。難民キャンプで働くイギリスの看護婦さんにそういわれたことがあ 年る。自戒のことばとして、それをきいた。 和昨秋以来、多くの日本人が救援活動を志して現地へ行った。ことばの壁にぶつかって悩む人も いたし、なにをしていいかわからす途方に暮れる人もいたという。無名の人びとの地道な活動は 年 尊い。しかし援助にのりだした以上、それは効果的で組織的で息の長いものであってもらいたい。 このほど国連の難民高等弁務官事務所から日本の保母さんたちの組織「幼い難民を考える会」 に難民の子のための保育園活動をまかせる、という連絡が入った。すばらしい知らせだと思う。

6. 天声人語にみる戦後50年 下

162 花のししゅうがぜいたくだといって怒ったのか。一本のサツマイモ、一杯のお汁粉が当時はどん なに大切なものだったのか。機銃掃射をあびて死ぬとはどういうことなのか。たとえ断片でもい 、当時の子どもの戦争体験がこの映画によっていまの子に伝えられればと思う。 映画を見た九歳の少女が書いている。「私は、せんそうがとてもざんこくなものだと知りまし た。一つのせんそうがあるため国はメチャメチャになり、ほのおの海になってしまうのです。だ れがせんそうなんて考えだしたのでしようか」。ガラスのうさぎは、大切だけれども壊れやすい ものの象徴である。 * 8 ・ ガリ版「沖縄タイムス」 筆者のてもとに、数十枚の、ガリ版刷り、タブロイド型の新聞のコピーがある。三十年前の 「沖縄タイムス」である。一部七十五銭、とある。十万人の住民の命を奪った沖縄戦の後の焦土 の中で、こういう形で新聞が発行され続けていた、という事実に驚く 戦火を逃れて生き残った人びとは、こじきのようなかっこうでキャンプ生活を送っていた。肉 親を失い、村に戻ることさえできない人びとは「情報」に飢えていた。しかし当時は新聞の活字 もなく、印刷機もなかった。 焼けくずれた首里城を後にして逃れる時、旧「沖縄新報」の同人である高嶺朝光氏、豊平良顕 氏らは「また生きて会うときは一緒に新聞をつくろう」と誓いあったという。米軍占領下の沖縄

7. 天声人語にみる戦後50年 下

「現実そのものを、よくできた迫力あるドラマとして見る。この傾向が強まれば日本人の現実感 覚が変わるのではないか」と南博氏はいう。たしかにその通りだ。ショーが終われば、人びとは たちまち事件を忘れ、また新しい、刺激的なショーを求める。いまに、政治問題も、社会問題も、 現実を劇化し、ショー化しないと人びとは興味をしめさなくなるのではないか。 射殺された支店長の遺族の悲しみの表情をテレビは執拗に追う。ライトを浴びせる。あるいは また、救助された銀行員との記者会見で、遺体の頭はどちら向きになっていたか、見取り図を書 けとせまる。少し無神経すぎるのではないか。自省をこめてそう思った。 * 0 乙・ 三菱銀行北畠支店事件 2 三菱銀行強殺監禁事件は早くも忘れられつつあるが、一週間前、「私はあの事件で殺された者 の姪でございます」という投書が「声」欄にあった。二十四歳の女性である。 事件の直後、犯人になぜ猟銃許可を与えたのかという批判について、作家の佐木隆三氏は「少 和年時代のことまでさかのばって区別するのはおかしい」とのべていた。投書の主はこの意見に対 して「殺意をもって人を殺すという最大の犯罪を犯した者に、どうして猟銃使用の許可が下りる 年 のでしようか」と訴えている。 「人を殺した人間が、一つの趣味を断念することが、どれほどの苦しみでしよう。猟銃は、野球 のバットやミットではないのです。それを持たなければ、更生した人間は、人なみの生活ができ

8. 天声人語にみる戦後50年 下

命名が絶妙で、それが人びとの心をつかみ、政治の場である種の力を生む。いかにも広告時代 にふさわしいできごとだった。末来の選挙運動の姿を暗示するような、新しい試みでもあった。 「勝手に」の三文字を分析すると、既成政党の硬直した選挙戦術の弱点があぶりだされてくるよ うな気がする。 元日大全共闘の書記長で、今は羊を飼っている田村正敏さんやフォーク歌手の稲村一志さんが、 去年、横路さんに知事選出馬をすすめたのがことのはじまりである。横路さんは断った。それな ら「勝手にかつぎだす」といって勝手連をつくった。 大きな組織の押しつけでもなく、カネを積まれたわけでもなく、自分の気分で、自分の責任で、 勝手に応援を買ってでる。楽しく騒いで、運動の輪をひろげる。そのあたりが、閉塞の時代の若 者、若者の心を持った中年をひきつけたのだろう。 「たる酒飲み放題コンサート」なんていう催しを繰り返すうちに、あちこちに勝手連が生まれた。 学生勝手連や、大正生まれの勝手連が生まれ、自然保護運動の活動家も参加した。 保守の根城と思われていたすすきのにも、すすきの勝手連が生まれた。その気になれば「女一 和人の勝手連」でもいいのだ。その数は四十以上になった。 勝手連の幅の広さは横路という政治家の幅の広さにもつながるが、この活動が人びとを燃えた 年 たせたのはやはり「おもしろおかしく騒ぐ」ことを選挙運動にとりいれたことにある。思想も歌 もいたすらも反核も、勝手にまじりあって同列にある、という運動の新しさにある。 文化が硬直してくると「新儀をひらく」動きがでてくることを歴史は教える。勝手連なんて勝 227 へいそく

9. 天声人語にみる戦後50年 下

312 に連動する。 二人が何回も演説を繰り返したのは、世界の人びとに訴え、米ソ両国民に訴えることで、国際 世論の支持をねらい、その支持を背に米上院の批准を手中にし、ソ連内強硬派を抑えようという 意図があったからだろう。 メディアぐるみの、メディアを利用した国際政治のありようが定着した、という意味で今回の 米ソ首脳会談は記憶されることになるだろう。ソ連の書記長は「理性の勝利」を強調したが、も し会談が成功すれば、それは「演出の勝利」でもある。

10. 天声人語にみる戦後50年 下

涙である。 事実、古賀さん自身、熱中してくると、五線紙やギターの胴に涙をボタボタ落としながら作曲 を続けたという話をきいた。不況風の吹き抜ける中で「影を慕いて」のうたごえがひろがり、 「誰か故郷を思わざる」が大戦中の兵士たちに愛唱された秘密はここにある。 代表作の「湯の町エレジー」「悲しい酒」などの慕情の歌はすべて、涙ボタボタの中で生まれ たのだろう。それは、不遇、逆境の身をなぐさめるため、「おもかげ」にすがりつこうとする庶 民の歌である。 ー」などの、「あこがれ」を基 むろん暗い歌ばかりではなく、「止を越えて」「東京ラブソディ 調にした軽快な歌も多かった。「おもかげ」と「あこがれ」は、古賀メロディーの主柱だったよ , つに田 5 , つ。 「私は音楽の専門的な教育を受けなかった。私は、この世の中から歌の心を学んだ」と書いてい るが、独学だったからこそ、旧来の殻を破って、人びとの心をじかにつかむ曲を作り得たのかも しれない。一部の知識人には古賀調をいやしむ風潮があったが、曲は生き続けた。若者の間では 和いまも、酔えば「人生の並木路」や「影を慕いて」が飛びだすという。 ・没歳 ) 古賀さんの生涯の作曲数は三千五百とも四千ともいわれている。 年 145