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検索対象: 天声人語にみる戦後50年 下
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1. 天声人語にみる戦後50年 下

456 あとでわかったことだが、男は米国在住の日本人だった。飛行機は反転、羽田に降り、用意し た金を乗せた別の飛行機に、乗客と男を乗り移らせる段取りとなる。そして、乗り換えさせたと ころで捕らえた。乗客も乗務員も無事だった。乗客には江利チェミがいた 印象的なことがある。加藤機長は地上への連絡をしながら、刺激しないように注意して犯人と 言した。地上の対応から時間かせぎの必要を感じとると、長話で時間をかせぐ。ある場面で説得 することを考えたが、これはできなかった。 仮面のためだ。相手がどういう人間であるかを知ることが緊要だが、素顔が見えないと難しい これは単独犯だ、と確信したのは男がピストルを向けたままで、袋の中に放尿した時だった : 状況を地上に具体的には説明できない。一方、地上では状況を想像しながら救出の仕方を考え 、イジャック事件の特徴だ。そして、そこにつけこむの なければならぬ。双方のもどかしさが、ノ が、犯人の卑劣なところである。 大勢の人々を人質にとる。どういう動機、目的のためであろうと許せない犯罪だ。

2. 天声人語にみる戦後50年 下

しいものを美しいと評価でき、大切なものを大切と認識して大切に扱う人。ぜいたくを避ける意 味で、金銭感覚が自分と同じ人であってはしい そして「話す時も控えめではあるが、必要な時にはしつかり自分の意見をいえる人。外国語も 小和田雅子さんは、かって本紙に「・仕事を持つのは当然、結婚と両立させた できた方がいし」 い」と語ったことがある。将来の皇后という重要な「仕事」との見事な両立を、祈りたい 横綱曙 * 1 「曙」という字の中の「者」には、点がなかった。「自ら天 ( 、点 ) をとって来い」という意味で 外してある、と東関親方が言っていた。色紙の文字に、親方が朱筆で点を入れたのは、曙が大関 に昇進した昨年五月である。 それから半年あまりで、横綱となる。めきめきと強さを増し、実力で天を獲得した。りつばな のものだ。ハワイから来て、けいこに励みながら一一一一口葉や風習の違いになじむのは並大抵の苦労では 成なかっただろう。仕送りを続けている。豊かな日本の若者にない強さ、か。 今後が楽しみだ。横綱は安定した強さを期待される。しかも長い間、それが持続できなければ 年 ならない。強さと、それを支える不断の精進、そして、土俵上に漂う気品を、たつぶり味わわせ てもらいたい。みごとな肢体に恵まれてもいる。 それにしても、今回、いささか釈然としないのは、Ⅱ勝 4 敗に終わった貴花田の大関昇進への

3. 天声人語にみる戦後50年 下

はやらせて下さったあなたのことですから、今度はどんなに珍奇な流行語をつくって下さるのか と、実はそれも、ひそかに楽しみにしておりました。事件の重要人物といわれるあなたや児玉が 共に病床にあるのは急性ピーナッ病じゃないかなんて悪口をいうものもおりますが、まさかそん な気の弱い方々ではありますまい 生死を共にし、首を切られても悔いないのが刎頸の友ですが、その友田中角栄の拘置所入りを きき、病状が悪化したという友清美談も伝わっております。ただ前回喚問のあと、あなたは「も うあんな所 ( 国会の委員会 ) には二度と行きたくない」とロ走られたそうですね。その直後から 自民党があなたの再喚問に反対しだしたのも事実です。「二度と行きたくない」といえば、行か なくてすむようになるのが「実力者」というものでしようか。この辺りは奇々怪々です。 『コーチャン回想』によりますと「小佐野氏はトライスター売り込み工作の有力な協力者」とな っており、あなたの国会証一一 = ロとの食い違いがますます明らかになりました。大韓航空とのつなが りもナゾです。もし潔白であるなら、偽証を恐れる必要がどこにありましよう。 あなたは故郷の英雄武田信玄に心酔しておられるとか。 和信玄といえば風林火山ですね。たしかに、ワイキキ海岸のホテルの大半を買い占めるなどの伸 しんりやく はや 展ぶりは「その疾きこと風のごとく、侵掠すること火のごとく」でありました。しかし、その 年 鱆乱世の雄も最近は専ら「しすかなること林のごとく」のようですね。健康を回復されて早く国会 に現れて下さい。それを待ちます。こちらもまた「動かざること山のごとく」に待ちましよう。 8 何日でも。

4. 天声人語にみる戦後50年 下

大小の川をさかのばって人々の腹を満たした。 「太陽」誌の特集日本を知る 100 章」に海」という章があり、人類学者の河合雅雄さんが 興味深い指摘をしている。大陸文化の輸入にあたって日本は牧畜という生業を取り入れなかった、 というのである。 ぎよ 「獣肉と乳酪製品を拒み、蛋源を専ら魚介類に求めた民族は世界的にみても少ない。 農耕・漁 ろう 撈を生業の基盤にして、高度な文化を発展させ維持してきた国は日本をおいて他にはな、 その独自性は、結局、海産物と関係があるのだろう。河合さんは「日本の基層文化の重要な部 分を海産物との関係で考察」することの大切さにも触れている。海産物は栄養源であるだけでな 、祭事の神饌にも使われた。そして、その旬や初物好みは日本人の新し物好きなどとも関係が ありそうだ 私たちの生活は、食の分野以外でも海と深く結ばれている。海の影響を受ける気候、国境が地 上になく自然の堀に囲まれている感覚、そして海の外への関心・ 最近は海と聞くと遊びを連 年想する人が多い。ますは海の力をよく知ることが必要だろう。 成 年 * 8 ・ 遺産としての原爆ドーム 優れた建築物は、設計者の思想を宿しながら歴史を刻んでゆく。一九一五年に建造された広島 県物産陳列館の場合は、設計者の思いもよらなかった歴史的価値を担うことになる。 しんせん

5. 天声人語にみる戦後50年 下

書き出しで始まる伊吹武彦氏の名訳を何度繰り返して読んだことだろう。「実存主義」は難解だ ったが、『水いらす』のリュリュは新鮮で、自由で、圧倒的な存在感があった。 オーボワールさんが付き添っていたという。十数年 眠るように逝ったサルトル氏のわきには、 : 前「私にとって恐ろしいことは、サルトルの死以外にありません」といい切ったのは、ほかなら ぬこの人だった。目が不自由になった晩年のサルトルのために本を読み上げることを、彼女は日 課にしていた。二人は歩いて五分ほどのところに離れて住んでいたそうだ。 二人の出会いは、五十年も前の話だ。「しばらくの間、共同生活を」という契約で住み始めた 時、サルトルは例の有名なせりふを吐く。「ばくたちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も 知る必要があるよ」。 以後、サルトルが他の女性と親しくなったこともあり、ポーボワールが恋をしたこともあった が、二人の愛と信頼は変わることがなかった。二人はお互いの自由を認め合い、男女の自由な結 びつきを模索した。 サルトルの政治参加も、根底は、人間の自由の主張と結びついていた。反共主義者を攻撃する 和一方で、ハンガリー事件やチェコ事件を起こしたソ連を糾弾し、アメリカのベトナム介入を非難 する一方で、晩年はインドシナ難民を救う運動を続けた。韓国の詩人、金芝河氏の釈放を求める 年 連動にも熱心だった。自由人の立場を守り抜いたために、左右両翼からの非難を浴びた。 かって広島を訪れた時のサルトルの言葉を思い起こす。「原爆ドームが保存されなければなら き一つりく ざんがい ないのは、それが醜いものの残骸だからだ。この廃墟は、あの殺戮を二度と起こさないために生

6. 天声人語にみる戦後50年 下

1972 年 ( 昭和 47 年 ) は首飾りだの耳飾り、腕輪などを好み、一々こまかな細工をほどこしたり、小鈴をつけて、手を 動かすたびに鈴の音がしたという。見ていてチリ、チリ、鈴の音がきこえるようだ。 文化史的値打ちは法隆寺の壁画にも匹敵する、と発見者が語っている。法隆寺の壁画の優美さ、 精巧さ、完成度に比べると、写真でみる今度の古墳壁画はやや稚拙で線があらい。時代のすれか、 技工の差か、それとも法隆寺は仏さんで、こっちは一種の風俗画だからだろうか。その稚拙さが また、いかにもかわいらしくていし 美人像のほか、男子像、青竜、白虎、山、雲、月、太陽、それに金箔の星を朱線でつないだ星 座の図もあった。これら壁画の意味するものは何か。年代はいつごろか。だれが葬られたのか。 国が派遣する調査団には考古学者や美術史家のほか天文学者が加わるという。 なにやら謎解きの興味も夢もあって、久々に楽しい話だ。なにしろ昨今、穴さえ掘れば白ろう 化した裸の男女のリンチ死体ばかりが出てきたあとだから。 * 4- ・ LO 外交秘密 外交交渉をまとめるのに秘密保持が必要なことは、これは常識である。交渉だから、当然、対 立する自国の立場と相手国の立場があり、いろいろ経過が公開されたら相手は迷惑するだろう。 どの国でも、重要な外交交渉ほど国民感情は排外的に傾きやすい。交渉につきものの譲歩や妥 協が途中でもれ、それで反対の国民感情が燃え上がったりすると、理性的な交渉ができなくなる。

7. 天声人語にみる戦後50年 下

九〇年の創作四字熟語 一九九〇年の世相を四字の熟語に表現すると、どうなるか。住友生命が募集した「創作四字熟 語」に二千四百余りの作品が集まった。さっそく「四時塾児」などというのがある。たしかに、 子供たちには遊ぶひまもない。「飼育偏重」の教育だ。 成校門での圧死事件を思い出させる「心緊校則」症の恐ろしさ。子供が少なくなり、高齢化が進 うおうさおう ー画うじたろう んでいる。「少子多老」の世の中である。どちらを向いても「右翁左媼」。男と女のあり方も、確 年 実に変わってきた。「婦唱夫随」と書いた人が六人もいた。「取捨洗濯」が二人。 夫や父親の洗濯物を別扱いにする、という話を近ごろ聞く。箸でつまむ、ともいう。本当だろ うか。何といっても、腹が立つのは土地の高騰と住みにくさ。七人もの人が「一画千金」と書い 人が国会の見学に殺到した。宇宙特派員の実現は、宇宙への輸送を外貨稼ぎの事業とするソ連の 新政策のためだった。国会の方は、国会開設百年を記念しての特別参観。会期三日間に十万七千 人という熱気だ。 いつもは国会議員の紹介が必要だという。百年記念に、手続きを簡略化したらよい。米国の国 会議事堂には市民や観光客が自由に出入りしている。民主主義制度の博物館の観すらある。三日 間で赤じゅうたんには毛玉ができたそうな。じゅうたんは不要。権威は何によって保たれるか、 1 ー一ワ」

8. 天声人語にみる戦後50年 下

174 保母さんたちは、去年の暮れ、カンポジア語の絵本、お話のテープ、楽器などを持って、キャ ンプへ行った。親や兄弟を失った子、栄養失調の子、戦火の恐怖で心に深い傷をおった子、そう いう子どもたちが童話の本やテープに熱中した。ひさしぶりに笑顔がよみがえった。 子どもたちは、金網の中の密集した仮小屋で暮らしている。必要なのは医療だけではない。安 心して遊べる空間、だれかが常に自分を気づかい、 一緒に話し、一緒に遊んでくれる場所が必要 なのだ。 その大切な保育園の園長役や事務長役を引き受けてくれ、という注文だ。保母さんたちの実力 が認められたのだろう。この仕事が軌道にのり、組織的で息の長い救援活動が実ることを期待し よ , つ。 もう一つ、カンポジア語の絵本を復刻して送る運動もぜひ実らせたい。さいわい、ユネスコ・ アジア文化センター ( 東京 ) には、かってカンポジアで発行された二十数種類の絵本がある。こ れを大量に復刻し、一冊でも多く現地へ送りたい。流浪の民であればこそ、子どもたちは「心の 糧」に飢えている。 自由人サルトル サルトルの『水いらす』が翻訳されたのは敗戦後のいつごろだったか。「リュリュが真っ裸で 寝るのは、シーツにからだをすりつけるのが好きなのと、洗濯賃が高くつくからだった」という

9. 天声人語にみる戦後50年 下

あり、親しみやすさがある。羽田氏となるともうどこにでもいそうな普通の顔だ。「化け物面」 とはほど遠し とはいえ、氏は金権政治の自民党田中派で力を培った人物だ。背後にはなかなかすごみのある 人物の影がちらついてもいる。権力の二重構造といった懸念される事態を抑えこみ、柔和な顔で 真価を発揮できるかどうか。「器」が問われるのはこれからである。 ハイテク機の墜落 先端技術の粋を備えた、高性能の飛行機。いわゆる、ハイテク機。 それを操縦する人々の間で、こういう話が語られているそうだ。「いまに、操縦室には人間一 人と犬一匹がいればよいということになる」。人は犬にえさをやるために必要。犬は人がよけい な手を出さぬように見張るために必要、というのである。 年そのくらい最近のハイテク機は自動化されている、ということだろう。機械が何でも自動的に 成処理してくれるということになると、操縦士は操縦の感覚を失いかねない。それが過ちにつなが ると大変だが、ハ イテク機は人間の間違いを取り除くという思想で造られているそうだ。 年 実際、機体に原因があるという事故は昔より減っている。整備に原因がある事故も同様だ。設 7 計思想や、整備点検の思想・技術が向上しているためである。では、事故の原因は何かというと、 最も多いのが乗員の問題で、七割以上になる。

10. 天声人語にみる戦後50年 下

った。一円の金平価を一ドルにしようという主張である。それをいれた新制度が発足し、その後、 日本は金本位制を二度経験した。 円は、しかし、誕生から第二次大戦まで、減価の歴史をたどる。それを右の本は詳しく描いて いる。私たちの記憶に新しいのは戦後の一ドルⅱ三六〇円時代である。一九三五年からの日米の 物価上昇率を根拠にして算定した為替レートだった。 それが、一〇〇円時代の到来である。いまの円高は、投機の要素もあろうが、米国経済の低迷、 欧州通貨の混乱という情勢下で、突出した日本の貿易黒字への警告だろう。輸出産業への悪影響 は気になるが、差益還元、規制緩和による競争促進など消費者の生活を考えた経済・社会構造改 革の機会にしたい。 米市場開放 「米を一粒たりとも輸入しないという論理は世界に通用しない」と言 0 た閣僚が首相から厳重注 成意を受けたのは、四年近く前のことである。 年 米市場の開放がついに目前に迫ったが、こういう歴史的な方針転換がこの国でどのように運ば れたかを振り返ると、実に奇妙である。閣僚〈の厳重注意があるかと思えば、与党自民党の実力 者たちは、米市場の開放に柔軟な対応が必要だ、と散発的に発言していた。 そろそろ覚悟が必要か、という空気がつくられていたのである。しかし、農民を含む一般の