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検索対象: 天声人語にみる戦後50年 下
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1. 天声人語にみる戦後50年 下

小野田少尉 * 3 ・ⅱ 彼ことって、この日は「陸軍記 三月十日、小野田陸軍少尉はジャングルを出て、山を下りた。 , し 念日」であったに違いない。日露戦争での奉天大会戦の勝利を記念する、輝かしい帝国陸軍の日 だった。他の人にとって、この日は「東京大空襲の日」であったかも知れぬ。八万数千人が逃げ まどい、一夜で焼け死んだ。この二つの記念日の間に、日本の栄光と悲惨が横たわっている。 「救出」のニュースで心うたれたのは、和歌山にいる両親の表情だった。八十八歳の母親は「三 十年でございました」と、テレビで絞り出すように言っていた。この母にとって、それ以上の一言 葉も、それ以下の言葉もなかったのであろう。 小野田少尉の救出にいたるまでのニュースで感じることは、一種の美意識といったものが軍人 野田さんはあの写真を撮られるとき、昔の武士の出陣のよう を支えているということだった。小 に、ありたけの物で自分を飾ったに違いない。その表情に「将軍の顔だ」という感想もあった。 また彼が一度受けた命令を、三十年間守りつづけたことが人々を驚かした。それを「カッコ良 さ」と感する人もいた。きようの事を明日信じていられるのかどうかさえ不安な時代に、それが 新鮮な驚きになったともいえるだろう。 だが、小野田さんはすっと格好よく、ジャングルにいたのだろうか。おそらく、殺されること におびえ、動物のように逃げ回り、風の音にもとび起きる日々だったにちがいない。戦争も軍人

2. 天声人語にみる戦後50年 下

ヒトラーの恐怖政治さえ顔色なからしめた、と彼はいう。その実態をこれほど詳細に伝えた記録 は他にない、と欧米の専門家も太鼓判を押す。 ソルジェニーツインはノーベル文学賞に決まったとき、スウェーデンに行かなかった。一度国 外に出れば、再び帰れぬ片道切符になるこどを知り、亡命者より殉教者の道を選んだのであろう。 祖国愛と人間の尊厳のためには屈することを知らぬ巨人に、脱帽する。 金婚式 あすは天皇、皇后ご夫妻の金婚式。内輪のことであり、国家的な行事はやらないそうだが、五 十年間つれ添いとげるというのは、おめでたいことである。ことし金婚式を迎える夫婦は、五十 年前に結婚した百組につき十二組しかいないという。 あすは土曜日だが、大正十三年一月二十六日の御成婚の日も土曜日だった。本当は二十七日を 婚儀としたかったのだが、日曜だと奉祝の群衆が多くなり、凶漢がまぎれ込みやすいという理由 眸 稲で一日早くした。当時の社会不安の深刻さがうかがえる話である。児島襄『天皇』 ( 文芸春秋 ) 昭 によると、当日、お二人は近衛兵に守られてそれそれ宮城に向かったが、警視庁は「バンザイ」 年 を禁止するほどの厳戒体制をしいた。沿道は静まり返り、耳に入るのはラッパと号令、子供の打 ち振る紙の国旗の音だったという。 秋に予定されたこの婚儀が年越しになったのは、九月の大震災のためだ。「船頭小唄」や「籠

3. 天声人語にみる戦後50年 下

イ市民と「私たちは過去をみつめる」「過去を繰り返さないために何ができるか」を話し合う。 一方、広島市内の教会とハワイの教会とが、日本時間で八日の同じ時刻に「平和記念礼拝」を することをきめた。「謝罪・和解のとりなし・平和を祈る」ための合同の試みだという。 日米だけでなく、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国のすべての戦争犠牲者に思いをはせる。広 うしろく 島では、真珠湾攻撃に参加した海軍兵学校卒の後宮俊夫牧師が説教をする。ハワイの教会では、 韓国人牧師にも和解のメッセージを依頼した。 その牧師は「日韓の根深い問題を真珠湾攻撃の日と抱きかかえにして卸売り的に扱うのは不 快」ではあるが、韓国語で和解のメッセージを語ろう、と承諾したそうだ。ハワイの教会は、真 珠湾とヒロシマが平和の祈りで結ばれる、その象徴に「おむすび」をつくって配る。 真珠湾攻撃五十周年の意味を考えようとするなら、今年が同時に柳条湖事件六十周年であるこ わゆる満州事変の始まった年。日本の中国大陸への侵略、アジ とを想起しなければならない。い アでの様々な行動の延長線の上に、真珠湾攻撃が来る。 毎年八月になると、ひとは戦争を回顧する。敗戦の日が戦時中の苦しさや悲しさを思い起こさ せる。それは往々にして被害者としての自分への同情の念をかき立てる。戦後への自賛につなが ることもある。 だが、あの暑い夏をなぜ経験したのか、忘れがちだ。開戦にいたる過程、そして、隣人たちに 与えた被害 : : : 。開戦の日の回顧こそ重要である。

4. 天声人語にみる戦後50年 下

194 相系の開発会社だという記事があった。 地本主義巨頭の分身は湖底にも隠れていたのか。 日昇丸沈没 * 4 ・ ああアメリカよ、君を泣く / 君逃げたまうことなかれ / 機密大事の軍なれど / 軍は凶器を泳が せて / あて逃げせよと教えしゃ / 罪なき船をもくすにし / 人を見捨てて逃げよとて / 潜水艦を造 りしゃ。 ああ艦長よ、君を泣く / 君逃げたまうことなかれ / たとえ視界が悪くとも / 悪からずとて何事 そ / 見て見ぬふりの見殺しは / 君は知らじな船乗りの / 海のおきてになかりけり / みだりに人の 血を奪い / 海底深く逃げよとは / 逃げるを人のほまれとは / 人道主義のあるじにて / 卑劣をにく むレーガンが / もとよりいかで思されむ。 米原潜が日昇丸を沈没させた事件後の十一日、一つのニュースを待った。「日本政府が、米政 府に厳しく抗議」というニュースである。しかし政府は抗議しなかった。「ます真相解明」と慎 重だった。 十二日も筆者はアメリカへの「抗議」を待った。だが政府にはその動きがなかった。抗議をし ないどころか、国会では「米国の調査を待っ」という答弁を繰り返すばかりだった。そして、問 題の原潜が戦略型か攻撃型かについてさえ「たずねるつもりはない」と突っぱねた。十三日、や

5. 天声人語にみる戦後50年 下

マザー・テレサ * 5 ・ 7 年 和本紙「こころ」欄のマザー・テレサ語録を読んで、「なくても与える」ということばが強く印 象に残った。自分の持っているものの一部を分ける、不要の古着や古本を送る、これならできな 年 いことはないが、「なくても与える」となると、これは難しい 愛は数や量ではない、 とマザー・テレサはいう。四歳の少年が小さなビンに入った砂糖を彼女 のところに持ってきたことがある。少年が何日間か砂糖を食べすにためたものだ。たとえ一ビン はり抗議はなかった。十四日、抗議なし。十五日、なし。 日昇丸乗組員の二人の命が奪われ、十三人の命が奪われそうになり、しかも米側の通告が三十 五時間後だったという事件である。主権国家として厳重に抗議するのを政府はなぜはばかるのか。 抗議しないことを異常だと思うほうがむしろ異常なのか。それが安保体制というものなのか。い や、是は是、非は非として、時には厳しく抗議することこそが、かえって日米間のきすなを強く するのではないか。 ああ外務省、君を泣く / 君逃げたまうことなかれ / 政府のかげに伏して泣く / あえなく消えし 船乗りの / 家族の嘆き思いみよ / 民の怒りと無念さを / 君わするるや、思えるや / 日米安保の友 なれば / ひたすらもみ手、腰かがめ / 君が卑屈に黙すれば / ああまただれをたのむべき / 君逃げ たまうことなかれ。

6. 天声人語にみる戦後50年 下

電通年賀会 毎日、雪との格闘です、積雪は四メートル五十センチになりました、と北陸の知人から電話が あった。きのう十五日、雪国では成人式を行わないところが多か 0 たのではないか。昔の農村で は小正月のこの日に豊作を願う田植え踊りをしたものだが、いまはもうこれもすたれた。 正月の行事といえば、毎年、電通が主催する年賀会があるが、これほど、こんにちの日本を象 徴している行事はそうめ 0 たにはあるまい。年賀会は九日北海道、十二日東京と続き、十六日の 九州で終わる。 東京では、帝国ホテルの二、三階六千四百平方メートルを借り切る。主会場、模擬店、お祭り 広場、民謡酒場、味処、富士浅間神社のお札処と並ぶ。会場にはりめぐらされた電通独特の幔 幕の長さは四百メートルにおよんだ。 出席者は五島昇氏、中内切氏ら約四千三百人、大半は電通のお得意さんである。車は千七百台。 卓にだされた料理のうち、ローストビーフだけでも五百四十キロ ( 牛四十五頭分 ) 、シタビラメ 千一一百匹。のべ五百人のコックが動員された。接待のおかみや、芸妓たちの数二百二人になる。 味処で消化されたどじようは、約二万匹。舞台には都はるみ、森進一、金沢明子らが立ち、舞台 の外では、バナナのたたき売り、南京玉すだれの実演が続いた。最新鋭の映像の手法も公開され

7. 天声人語にみる戦後50年 下

254 ト沢昭一の一人芝居「唐来参和」 ( 井上ひさし原作 ) を紀伊国屋ホールで見た。放浪芸的新劇 寄席型の熱演であった。芝居に入る前の大道芸人的な講釈もおもしろい 「一時間四十五分ほど休憩なしでやります。例のご用のある方は今のうちに。どうせたいしたこ としゃべってませんから」などという。立ち上がる客がいる。「は、、おひとり」で場内がわく。 「こういう時お立ちになるのはなかなか大変でして」。このあたりの呼吸が実にいい。 小沢の話芸を支えているのは客との呼吸のやりとりであり、やりとりを客と共に楽しむ間のと り方である。舞台は上で客席は下だ。だが演技空間の中での小沢の目は、客の目のやや下にある。 終わると舞台にはいつくばって、あいさつをする。 政治家の多くは聴衆を見おろしている。せめて対等の目の高さでものをいってくれたら、少し は、いにしみる言葉がでてくるのではないか。 い人幻面相 また日曜か、と巴う。「かい人幻面相」から各新聞社に送られてきた脅迫文には七日の日曜日 の消印があった。九月に送られてきた挑戦状の消印も、二十三日の日曜だった。 むろんほかの曜日の消印の脅迫状もあるが、日曜が多い。大体、江崎グリコの社長が誘拐され た事件発生の日が三月十八日の日曜だったではないか。事件に関連のある日では、土曜も多い なぜ週末が多いのだろう。

8. 天声人語にみる戦後50年 下

146 * 8 ・ 日中平和条約調印 日中平和友好条約の署名風景をテレビで見ていて、ごくささいなことだが、両外相の毛筆の持 ち方が違うなと思った。園田外相は親指と人さし指で筆を持つ。どちらかといえば日本人にはこ ういう持ち方が多い。黄外相は小指を除く四本の指で筆をささえる。そういえば周恩来氏も、署 名の時は筆をにぎるようにしていた。 少なくとも公式の場に関する限り、日中代表の筆の持ち方には微妙な差があった。同じ毛筆文 化をもっ両国でも、筆の持ち方になると、若干の差がある。同じ皮膚の色でも、両国の文化に大 きなへだたりがあることはいうまでもない。 中国人は世界有数の「屈強な談判者」として知られている。原理原則を主張してねばりにねば る。ある段階になると、大局的判断によって急転、妥協する。そのかけひきのうまさには定評が ある。こんどの「反覇権」交渉でも、中国外交術のしたたかさがめだった。 日本外交は、相手の主張をやんわりと受けとめ、譲歩しつつ活路を求める。柔道の極意である。 これからの日中関係では、この両国の交渉術の差、生活様式の差をおたがいに知り合う努力が大 切だろう。 戦前は、そうよ、、 。し力なかった。さねとうけいしゅう氏の『日中非友好の歴史』に、大正時代の 中国留学生代表と、留学生を逮捕した日本の警察署長の会話がでてくる。署長は、中国の政治の

9. 天声人語にみる戦後50年 下

岐・勝本町の漁民は困惑しているという。四日、またまたイルカの大群を発見した漁民たちは、 今回は生け捕りにする作戦をたてたが、みごとに逃げられてしまったという記事があった。 難しい問題である。イルカの死体が浜に並ぶ写真を見れば、だれしもかわいそうだと思う。む ごいなあという気持ちになるだろう。利ロもののイルカに特別の愛着をもつ人も多いだろう。し かしだからといって、漁民たちの行為を「野蛮だ」ときめつけることができるのかどうか。 イルカの大集団が漁場に現れると、魚は姿を消す。出漁しても一匹も釣れない。一千頭のイル 力が一日に食べる魚の量は約五万キロだという。勝本漁協の場合、最盛期でもプリとイカの水揚 げは合計で一日五千キロていどだ。イルカの群れはその十日分の水揚げを一日で食べてしまう。 しかも、回遊するイルカの総数は三万五千頭ともいわれている。漁民がその出現を恐れるのもむ アメリカなどの自然保護団体がいう通り、イルカを殺すことは、残酷な行為に違いない。 し、たとえばアメリカでも、一九七五年は約十三万四千頭のイルカが殺されている。マグロ漁の 年さい、漁網にかかったイルカが犠牲になるためである。七六年は、その数を七万八千頭に抑える 和方針だ、という記事を読んだことがある。 しいかえれば、それだけの数のイルカが殺されているのだ。残酷なのは、日本人だけではない。 年 アメリカ人だけでもない。アメリカ人のイルカ殺しは残酷ではなく、日本人のイルカ殺しだけが 残酷だ、という論理はなりたたない。「日本商品のポイコットを」という叫びは、見当違いもは よ↓ま、、こー」 十 / チ / 、し

10. 天声人語にみる戦後50年 下

しを伝える民俗学の資料だ。野坂君らが世にだしたのは、ほめられこそすれ、法にふれるとはと んでもない」という、石川淳氏のおとなの議論がいちばん印象に残った。 戦中派三人組 鶴見俊輔、山田宗睦、安田武の戦中派三氏は、毎年、八月十五日になると、一人ずつ交代で坊 主頭になる儀式を続けている。「丸坊主になるのは、戦争のころのことを一日でも思いだそうと いう気もちからすることだ」と鶴見氏は書いている。 「八月十五日」を思いだすため、この日に一家で雑炊やすいとんを食べるという人も案外多いら 。これも、戦争をかみしめるための一種の儀式だろう。敗戦前後の食べ物の記憶はトウモロ コシの粉の蒸しだんご、イモや米粒がわずかに浮いている雑炊、乾パン、イリマメ。そしてイモ ヅル、ソラマメの皮まで食べた。大根の葉入りのすいとんはショウュ不足で、塩味だけの時が多 年カった 稲戦後のヤミ市ではイモぜんざいやイモの汁粉が人気を呼んだ。十八銭の素うどんが一、二カ月 で十円にもなる時代だった。の第一回街頭録音の主題は「あなたはどうして食べています 年 9 ・カ」学 / チ′ 一九四五年 ( 昭和二十年 ) 十一月の本紙に「始まってゐる『死の行進』餓死はすでに全国の街 に」という記事がある。上野駅周辺の餓死者は、多い時には日に六人を数え、下谷区役所ではす 107 * 8 ・