のもお得意の手法である。それにあたる「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が設立さ れたのは 2 014 年川月 1 日。共同代表には櫻井よしこに加え、日本会議の前会長で現在 は名誉会長の三好達、現会長の田久保忠衛の計 3 人が並び、幹事長には日大教授の百地章、 事務総長には神道政治連盟幹事長の打田文博、そして事務局長には日本会議事務総長の椛 島有三が就いた。いわば日本会議を中心に結集する右派の″オールスター。的な顔ぶれと 「国民の会」設立の日、東京・永田町の憲政記念館で開かれた設立総会では、やはり櫻井 らが壇上に立って改憲を訴え、第 2 次安倍政権で首相補佐官に就いた生学連出身の参院議 員・衛藤晟一もこうエールを送っている。 「安倍晋三内閣は憲法改正のために成立した。最後のスイッチが押されるときがきた」 改憲に向けて押される最後のスイッチ その原動力となることを目指す「国民の 会」が掲げる当面の運動目標は次の 3 つである。 ・憲法改正の早期実現を求める国会議員署名及び地方議会決議運動を推進する。 ・全国町都道府県に「県民の会」組織を設立し、改正世論を喚起する啓発活動を推進す る。 、、 0 222
真光 ( 本部・岐阜県高山市 ) 、修養団体ではモラロジー研究所 ( 本部・千葉県柏市 ) などが、 それそれ日本会議に役員を送り出すなどして活動に関与しており、詳しくは後述するが、 大規模集会への動員面や署名集めなどでは大きく貢献しているとみられる。 日本会議に参画している新興宗教団体については以前、私が週刊誌『』 ( 朝日 新聞出版 ) に関係のリポートを寄稿した際、編集部を通して各宗教団体に日本会議とのか かわりを問い合わせたことがある。回答を寄せた宗教団体のほとんどが「日本を守る会」 の時代から運動に参画していたと答え、当然ながら憲法改正には「賛成」の立場を明確に した。日本会議での具体的な活動内容などについては次のように返答したことを一部紹介 しておこう。 」ようぼ 〈皇室仰慕の諸活動や英霊の慰霊顕彰など、教団の考え方に合う ( 日本会議の ) 取り組み について、その趣旨に賛同する会員に協力を呼びかけ〉 ( 佛所護念会教団 ) 在 こ。こし、関連団体の「美し 〈現在、教団として ( 日本会議の ) 活動には携わっていない。 / オ い日本の憲法をつくる国民の会」代表委員に ( 教団幹部が ) 就任。今後、活動を行うこと 本 となった〉〈政教分離の原則に反しない限り、宗教団体の政治活動、現職国会議員との交 流については問題ないと考えている〉 ( 国柱会 ) 第 〈署名活動など ( で日本会議に協力している ) 〉〈社会をより良くしてこそ、宗教団体の存在 まひかり
員の反対者も最終的に 260 人を超えた。また、小泉自身が国立追悼施設への意欲を早く に喪失していたことなどから、政府は翌 2003 年 1 月、国立追悼施設の建設見送りを決 定し、懇談会の報告書は棚ざらしのまま現在に至っている。 ちなみに『祖国と青年』には、椛島が次のような論文を発表している。これもまた、日 本会議の中枢にいる人物が抱く本音の政治思想ーー想像以上に超復古調のそれが垣間見え て興味深い。 〈小泉首相の靖國神社参拝は、今上陛下の御悲願である靖國神社の御親拝につながるから こそ尊いのである。だが、福田官房長官の私的懇談会が構想している「国立追悼施設」の 建設は、首相の靖國神社参拝を封し込めることであり、その行き着く先は、今上陛下の国 立追悼施設へのご拝礼の恒久化である。これによって、「民安かれ国安かれ、の祈りを厳 守されて来られた「天皇の道」と、その天皇の御心にお応えして、国家の危急に殉じてい った「臣民の道」が、永久に二つに引き裂かれ、国体が破壊されてしまうのである。 ( 略 ) 今回の「国立追悼施設」建設の策動は、中国・韓国の外圧に屈し、靖國神社が体現して きた「君民一体」の国体を破壊しようとしているところに、最大の問題がある。ここに恐 るべき暴挙を断固として阻止する根本的な理由があるのである〉 ( 2002 年 7 月号 ) 200
動き出した。これを日本を守る国民会議や日本を守る会、日本青年協議会などは「謝罪決 議」と捉えて猛烈に反発、右派の総力を挙げた「国民運動」的な反対活動を繰り広げた。 ます 1994 年 4 月、日本を守る国民会議と日本を守る会が中心となって「終戦五十周 年国民委員会」 ( 会長・加瀬俊一 ) を立ち上げた。これに連動する形で日本を守る国民会議、 日本青年協議会、神道政治連盟、明治神宮の関係者らが参加して「青年キャラバン隊」を 結成し、全国各地で「謝罪決議反対」の署名を集める活動をスタートさせる。 同時に政界では自民党衆院議員・奥野誠亮を会長とする国会議員連盟もっくられた。中 央に「国民委員会」を結成し、全国各地に「キャラバン隊。を送って署名集めなどを行い 国会にも意を通した議員たちの組織をつくって政界を突きあげる・ーーお得意の手法がここ でも全面展開されたことになる。 最終的に「国民委員会」は″キャラバン隊。などが集めた 506 万人分もの「謝罪決議 反対署名」を提出して国会に請願し、「不戦・謝罪決議反対の国会議員を激励する国民集 会」 ( 1995 年 2 月日 ) や「謝罪・不戦決議を阻止する緊急集会」 ( 同 3 月川日 ) といっ た集会も波状的に開催した。『祖国と青年』誌も毎号のように特集を掲載し、「自社政権は 『革命』政権」「謝罪病をいかに治療するか」「終戦年の運動は、思想決戦に突人した」 といったアジ調の記事や論文が掲載されている。
して「天皇陛下御即位奉祝委員会」が結成された。この際、日本を守る国民会議は①「奉 祝中央大パレード」の実施、②「奉祝中央式典」の開催、③「今上陛下の映画製作」と 「全国上映キャラバン」の実施、④「大嘗祭奉賛の国民運動推進」 などの計画を発表 し、実際にさまざまな「奉祝行事」が繰り広げられた。 また、「奉祝委員会」の結成式で、日本を守る国民会議の運営委員長だった黛敏郎は 「新憲法下で初めての御即位の礼がどのように行われるか、国民最大の関心事となってい る」と訴え、行事から伝統色や神道色が薄められることへの警戒感が運動組織内部にくす ふっていた。椛島が当時、『祖国と青年』でいらだたしげに書いた文章は、その運動の根 底に「宗教心」が横たわっていることを示し、同時に近代民主主義社会の大原則である政 教分離など屁とも思っていないことが吐露されていて興味深い の 〈今日の日本は、祭政一致の日本の国家哲学を政教分離の思想によって否定する思想風潮 蝣がある。ョ ーロッパの権力政治と宗教戦争によって生まれた妥協の産物としての政教分離 根思想によって、祭政一致の国家哲学を否定することは ( 略 ) 、まさに歴史を冒漬する愚挙 と言わねばならない。しかし考えてみるに、政教分離の思想と祭政一致の国家哲学の戦い も宗教戦争の一つの形態である。人類は過去においても、これに類似した戦いを経て、多 第 くの祭祀国家を滅亡させたのである。今もその延長線上にあることを肝に銘し、戦後にお ー 79
毎年 2 月Ⅱ日には明治神宮会館などで式典を開催し 据えた「奉祝運営委員会」をつくり、 てきた。また、式典の政府主催化などを要求し、年代に人ると式典への首相出席を求め るようになった。 一方、 19 8 2 年に首相に就いた中曽根康弘は翌 19 8 3 年の式典に初めて祝電を寄せ、 運営委側なども首相の参加、政府主催化に向けた条件整備として政治色、宗教色を薄める ことに腐心した。結果、①運営委を解消し、経済団体などの代表らによる「建国記念の日 を祝う会」をつくる、②祝う会の会長には日本商工会議所 ( 日商 ) 会頭の五島昇を据え、 黛敏郎らも加わるが、紀元節色を一掃した式典とするーーこととなり、 1985 年の建国 記念の日に東京・隼町の国立劇場で開かれた「建国記念の日を祝う国民式典」 ( 祝う会主催、 総理府、外務省、自治省、文部省など後援 ) には首相・中曽根の参加が実現した。 跡 しかし、日本を守る国民会議などの右派団体には不満と反発が募っていった。式典の政 の 府主催が実現しなかったことに加え、宗教色がどんどん薄められたことへの反発はことさ ら強く、日本を守る国民会議や神社本庁は「式典で神武建国の意義に触れることと、『天 皇陛下万歳』の儀式をやることの 2 点は絶対譲れない」などと批判、 19 8 8 年の 2 月Ⅱ 章 日には独自の式典開催に踏み切ったのである。 第 このことについて椛島有三は『祖国と青年』で次のように書いている。 ・ことう
私自身、この記事が掲載された少し後、東京都内のいくつかの著名な神社を訪ね歩き、 いくつかの神社で実際に署名集めが行われているのを目撃した。調べてみると、神社本庁 の意向が反映されているのは間違いなく、 2015 年Ⅱ月幻日付の『神社新報』は、第 2 面に次のような「論説 . を掲けている。ちなみに同紙は神社本庁自らが 1946 年に創刊 しており、現在は一応、株式会社組織の形態をとっているが、神社本庁や神社界の意向を 代弁する機関紙メディアと考えて差し支えない。少し長く引用してみよう。 〈日本の歴史と国柄に基づいた憲法改正の早期実現を目指して「美しい日本の憲法をつく る国民の会」が設立されて以来、日本会議や神道政治連盟が中心となって国民運動を推進 してきたが、すでに全都道府県で「県民の会」が結成され、賛同署名は四百四十五万人に 達し、国会議員署名も超党派で四百二十二人を獲得するに至ってゐる。これは大きな運動 の成果であるが、今後なほ一千万の賛同署名の達成と、国会議員署名及び地方議会決議の 憲法改正の国会発議を促すためには、広く国 ふ獲得を目指して邁進していかねばならない。 す 民の熱誠に基づく運動を盛り上げていくしかないからた。 ( 中略 ) 現在、憲法改正の秋がやうやく到来した。すでに衆議院では改憲派の勢力が三分の二に 第 達してをり、安倍総裁の任期も三年ある。あとは来年七月の参院選で改憲派の勝利を目指 141
七十年において初めて起こったことであると思えば、歴史的事件が起きているとの自覚に 立たなければならないと思います。 ( 略 ) 与えられたチャンスは一度と定め、与えられた チャンスを確実にする戦いを進めていきたいと思います〉 ( 2015 年 5 月号より ) 1960 年代から半世紀近くも右派運動を続け、いま日本会議の現場を取り仕切る男は そう言って安倍政権を絶賛し、気遣い、安倍政権の誕生によって「与えられたチャンス」 を何としてもものにし、悲願の改憲実現に昇華させたいと運動を鼓舞している。 となると、私が本書の。フロローグで提示した根源的な問いに立ち返りたくなる。 第 2 次安倍政権の誕生後、国内メディアの沈黙をよそに、外国メディアは日本会議を 第「極端な右派」「反動的グルー。フ」 ( 米 ozz) 、「極右ロビー団体」 ( 豪テレビ ) 、「強力 の そ な超国家主義団体」 ( 仏ル・モンド ) などと評し、安倍政権との関係については「 ( 日本会 議が ) 国策を練りあげている」 ( 豪 <=o) 、あるいは「安倍内閣を牛耳り、歴史観を共有 している」 ( 米 oZZ) と分析した。これをどう捉えるべきか。 政 日本会議が「反動的」であり、「極右」であり、「超国家主義」たという指摘は、政治的 安立場によって多少の異論はあるとしても、おおむね的を射たものだと私は思う。組織の理 論構築や事務総括の中枢を生長の家出身者たちが担い、神社本庁を筆頭とする全国の神社 第 界や右派の新興宗教団体が手厚く支援する日本会議の実態は、端的に言って宗教右派組織 225
関連年表 昭和 4 47 46 4 4 月 1 日関東学協・都学協合同結成大会に日学同が乱人。生学連と日学同の対立強ま る 1969 5 月 4 日全国学生自治体連絡協議会 ( 全国学協、鈴木邦男委員長 ) 結成 ( 0 月・つ乙・・ ) っ 4 8 9 日全国学協の役員会で鈴木邦男委員長と安東巌書記長が意見対立。鈴木委 員長、吉村和裕副委員長 ( 関西大 ) が辞任 材月 8 日神道政治連盟結成 1970 5 月 4 日全国学協の民族派全学連の結成延期される 7 月全国学協、生学連から離脱し独自路線へ ⅱ月 3 日全国学協が日本青年協議会を結成 ⅱ月日東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で三島事件起こる 1971 2 月囲日楯の会解散 1972 5 月日一水会 ( 鈴木邦男代表 ) 結成 7 月全国学生自治体連絡協議会が全国学生協議会連合 ( 全国学協 ) と改称 1973 9 月全国学協が日本青年協議会と訣別 ⅱ月日本青年協議会、 " 学協連動の正統なる継承団体。を主張 1974 3 月 1 日反憲法学生委員会全国連合 ( 反憲学連、宮崎正治議長。上部団体は日本青年 協議会 ) 結成 4 月 2 日日本を守る会結成 ⅱ月「昭和年を祝う国民の集い」開催 259
和 昭 57 56 55 54 62 61 60 59 58 1976 6 月日靖国神社国家護持貫徹国民協議会が「英霊にこたえる会」と改称 ⅱ月 2 日天皇陛下在位年奉祝中央パレードを開催 ( 山岡荘八奉祝委員会会長 ) 1977 9 月元号法制化を求める地方議会決議運動が始まる 月日本青年協議会が元号法制化要求全国縦断キャラバン 1978 7 月衵日元号法制化実現国民会議 ( 石田和外議長 ) 結成 月 3 日元号法制化実現総決起国民大会開催 1979 6 月 6 日元号法制定 1980 8 月元号法制化運動以降の「国民運動」を訴え、全国縦断キャラバンを実施 1 ・ O - 8 月日日本を守る国民会議結成 ( 加瀬俊一議長、黛敏郎運営委員長 ) 1982 7 月領土領海の防衛規定を盛り込む自衛隊法改正運動開始 ⅱ月憲法改正草案作成に向けた政策委員会 ( 清水幾太郎委員長 ) が発足 1983 8 月日生長の家政治連合、活動停止を宣言 1984 3 月歴史教科書編纂委員会 ( 村尾次郎代表 ) が発足 1985 5 月昭和天皇在位年奉祝委員会 ( 稲山嘉寛会長 ) 結成 8 月歴史教科書編纂委員会、高校日本史教科書を文部省に検定申請 月憲法改正の運動方針を削除した自民党に立党の精神に戻るよう要請書を提出 材月日昭和天皇在位年奉祝運動の集いを開催 1986 7 月高校教科書「新編日本史」検定合格 1987 8 月日靖国神社で戦没者追悼中央国民集会を開始 ( 以後毎年開催 ) 260