礼を失しないよう、私と担当編集者は式典の休憩時間に椛島氏に声をかけた。 「おにしいとは思いますが、なんとかインタビ = ーに応していただけないでしようか」 そう言って、 2 人で名刺を差し出した。 椛島氏は、少し驚いた表情を浮かべながらも、私たちの名刺を受け取った。立ち居振る 舞いは決して高圧的ではなく、むしろ物腰は柔らかく、私たちに背を向けるわけでもなか た。ただ、言葉は発しなかった。 「またあらためて広報担当者の方を通してインタビ = ーをお願いしますので、なんとかご 検討をよろしくお願いします」 そうなんども頭を下げて頼んだが、最後の最後まで椛島氏はロを開かなかった。応諾の 言葉も、拒否の言葉も、あいさつの言葉すらも、まったく発しなかった。一言も、である。 私たちとあいさつを交わすことすら拒絶するーーそんな強固な意思を示しているかのよう 、、こっこ。 もちろん、私たちの取材に応しる義務など誰にもない。メディアやジャーナリストの取 材に強制力などない。必死になって頼み、時に説得し、さまざまな方途を尽くして当事者 への取材の可能性は探るけれど、断られればそれまでのこと。そんな経験は私にもいくら だってある。 250
右派政治家として日本を守る国民会議の側に立ち、政権と決議を徹底攻撃する側だった。 ふたたび村上に当時を振り返ってもらおう。 「あの決議の焦点は、先の大戦が侵略戦争だったことを認めるかどうか、そしてアジア諸 国への植民地支配に言及するかどうかでした。自民党の五役は私を除いて『決議やるべ し』と主張していましたが、私は『侵略戦争と認めることなんて断してできない』と突っ ばねていたんです。 ならば、どういう内容にすれば私たちも了承できるか。私は当時、参院自民党の幹事長 でしたが、 幹事長室には椛島有三さんや中川八洋さん ( 筑波大教授 ) などの民族派の幹部 が人くらい集結し、応接間を占拠していました。そんな中、政調会長だった加藤紘一さ んが文案づくりを繰り返し、『これならどうです ? 』といって文案を示すから、私が幹事 長室に持ち帰って椛島さんや中川さんに『どうだ ? 』といって見せる。彼らは『これしゃ ダメだ』というから、私が加藤さんらに『これしや受け人れられない』と伝える。その繰 り返しで夜が史けていったんです。それが ( 19 9 5 年の ) 6 月 6 日夜のことでした」 村上によれば、最終的に加藤紘一らが示した決議案は、 〈世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし〉 として戦争や植民地支配の歴史を一般化した上で、 186
では意味が相当に違う。続けて村上の話。 「私が決議を成文化したペー ーをもらったのは ( 加藤や森らと ) 散会した後でした。そ れを参院幹事長室に持ち帰って、『だいたいこっちの要望どおりになったから、これで決 めたよ』と言ってペー 】を見せたら、『なんだこれは ! 』『村上先生、おかしいしゃない か ! 』と騒ぎになった。ペ ーをあらためてよく見ると、確かに私が聞いたのと違って 『こうした』が挿入されている。 しかし、もう私は役員会で了承し、散会してしまったから、いまさら取り返しがっきま せんでした。でも、椛島さんや中川さんはものすごい勢いで怒った。私が彼らをベテンに かけたというんですね。中には私のネクタイをひつつかんで怒鳴る者もいて、大騒ぎにな りました : : : 」 村上は結局、こういって椛島らを説得したという。衆院が決議するのはもはややむを得 ない。たた、参院では自分が責任を持って決議をさせない 事実、この戦後五十年国会決議は、衆院では決議が成立したものの、参院では決議され ていない。村上が言う。 「それでどうにかその場がおさまったんです」 一方、椛島は『祖国と青年』 ( 1995 年 8 月号 ) に合計頁にも及ぶ「戦後五十年 188
一方で日本会議には、先ほども申し上げましたが、神社本庁がかかわっています。 そうした宗教団体が政治連動を リードすると、政教分離などの面で問題も生しませんか。 生長の家出身者も、神社本庁の一部の方も、その主張を聞くとかなり復古的なものに私は 感します。 「神社に関しては、神道というより、地域活動そのものたと私は思うんです。七五三とか、 初参りとか、お祭りとか、五穀豊穣を祈っている。私は純粋な宗教というふうに思ってい ません。教義もないし」 神社神道が宗教ではないということになると、たとえば建国記念日の式典を政府主 催でやっても問題はないし、極端にいえば靖国神社の国家護持だって構わないことになり ませんか。 「神話をどうみるかですが、神話にまでさかのぼる我が国の歴史、そういった伝統と文化 という意味では、建国記念日を大切にする気持ちが私にあります。ただ、靖国神社の国家 護持というのは、今の状況だとなかなか難しいでしよう」 しかし、可能であればその方向に進むべきだとお考えですか。 「そこは憲法との関係がありますよね」 さすがにそこまでいくと政教分離に反すると。 234
たから。椛島有三さんや安東巌さんたちが左の勢力に対するアンチテーゼとして声を上げ はしめて、私はそういう時期に学生になって、鈴木邦男さんと一緒になってあちこちにオ ルグに行きました。日本政策研究センターの伊藤哲夫さんは新潟大にいたんですが、彼を ォルグしに行ったのは鈴木さんと私でした」 新潟大学まで ? 「ええ。生学連で新聞を発行していて、その編集長を伊藤さんにやってもらいたいという ことでオルグに行ったんです」 家 の 伊藤哲夫氏は安倍首相のブレーンといわれるようになっていますが、もともとは生 長 生 長の家の信者だったわけですね。 動 「そうです。そうやって私と鈴木さんは結構全国を回りました。有望な人材を一本釣りし 生ようということで」 の っ 百地章氏や高橋史朗氏も生学連でしよう。 ひ 「百地さんは私らよりも一つ上くらいですね。 ( 高橋 ) 史朗もいました。大分には衛藤晟 一や井脇ノブ子 ( 元衆院議員 ) もいましたね。だからあちこちに散らばっていたわけです 章 が、全国からみんな集まる練成会、生長の家の大学生練成という会があったりするもので 第 すから、みんな結構顔は知ってました」
「ええ。私はそうした活動がきっかけで、総理 ( 安倍 ) に誘われて政治家になりました。 また、日本会議の活動をされている小堀桂一郎先生とか、そういう方々が私の裁判を支援 してくださっていたという関係もあったので、自然にお誘いがあって人ったという感しで その日本会議に関しては、外国メディアなどが「日本最大の右派ロビー団体」とか、 「安倍政権を牛耳っている」などとも報しました。稲田さんご自身はどう思われてますか。 「そういうイメージは持っていないというか、そんなに力のある組織だと感じたことはあ りません。もちろん、いろいろ依頼されることはありますよ。こういう会に出て話してく 相 ださいとか、憲法問題のシンポジウム出席の要請などを受けることもあります。そういう の ものをロビー運動と言うのかもしれませんが、私の政治活動を直接バックアツ。フしていた そ だくとか、見返りに何かをしていただくとか、そういう濃密な関係は全然ありません」 の たとえば政治資金とか、選挙運動で支援をしてくれるというようなことは ? 政 「そういうことはありません。たとえばパーティー券 ( を買ってくれる ) だとか、選挙の 安際に運動してくださるのかといったら、そういうことはまったくありません。むしろ、私 章 が ( 国会議員懇談会の ) 事務局長をやっていて、総理 ( 安倍 ) も ( 同しく国会議員懇談会の ) 第 会長をなさっている神政連 ( 神道政治連盟 ) の方が、選挙に協力してくれる面はあります。 229
れんせい力し 「ええ。それで私も練成会 ( 生長の家の教えを学ふ講習会のようなもの ) などに出ていまし た。最初は反発もしましたけれど、高校生の時に生高連 ( 生長の家高校生連盟 ) の東京都 の副執行委員長兼事務局長をやっていて、全国に仲間もできて、いろいろな先生から、た とえば先祖の話や日本人としての心意気の話、特攻隊の遺書の話などを通して若い人たち が頑張らなくては、という思いをすっと聞かされてきました。これが私の今の考え方の基 本になっていると思います」 、、、、、ツクポーンになっていると やはり生長の家の教えがノ 「私は宗教団体があまり好きしゃないんです。生長の家というのを私は宗教団体と思って いません。それよりも哲学団体、谷口雅春哲学ですね。平沼赳夫 ( 衆院議員、現在は日本 会議国会議員懇談会会長 ) 先生もそうですし、昔の政治家とか経済界の方々はかなり谷口 先生の著書『生命の実相』を読んでいる。政治も経済も一種の哲学 ( が必要 ) ですから、 ~ 「一流になっている人はほとんど谷口哲学を学んでいたわけです」 本 宗教哲学かどうかはともかく、日本会議の中枢にいる方々をみると、生長の家、あ 章 るいはその学生組織である生学連 ( 生長の家学生会全国総連合 ) 、生高連 ( 生長の家高校生連 第 盟 ) で活動した人物が多いですね。改憲派の憲法学者で、日本会議の政策委員にもなって
フ。ロローグ プロローグ あたりまえの話たが、私たちは、おのれの顔をおのれの眼で直接見ることができない。 もっとも手つ取り早いのは、鏡に映して間接的に見る方法だが、その鏡が曇っていたり、 歪んでいたりすれば、映し出された顔も不鮮明だったり歪んだりしてしまい、おのれの顔 をありのままに見ることができない。 メディアにも、似たようなことが言える面がある。足下で起きている出来事であっても、 メディアが伝えようとしなければ、私たちは出来事を認識することすらできない。その出 来事が驚愕すべきようなことであったり、きわめて異常なことであったり、あるいは早急 な対処が必要なほど深刻な事態であっても、メディアがきちんと伝えてくれなければ、私 たちは判断や対処の前段階となる出来事自体の発生を認知できす、漫然と事態をやりすご すしかなくなってしまう。仮に伝えてくれたとしても、全体像がきちんと正確に伝えられ かんせい なければ、やはり同しような陥穽に落ちこんでしまう危険性が高い
である。つい先頃も、「生長の家」の信仰を抱く二三の学生が、私の自衛隊体験入隊の群 に加はったので、親しく接する機会を得た。かれらは皆、明るく、真摯で、正直で、人柄 がよく、しかも闘志にみちみちた、現代稀に見る好青年ばかりであった。そして、「もし 日本に共産革命が起きたら、君らはどうする ? 」といふ私の問に、「そのときは僕らは生 きてゐません」といふ、最もいさぎよい もっともさわやかな言葉が帰ってきた。これだ けの覚悟を持ち、しかもかういふ明るさを持った青年たちはどうして生れたのだらうか かれらは谷口雅春師に対する絶対の随順と尊崇を抱いてゐた。私はどうしても、師のお どろくべき影響力と感化力、世代の差をのりこえた思想と精神の力を認めざるをえなかっ た。私どもがいかに理論をもって青年を説いても空しいのである〉 ( 原文ママ ) また、中央政界で谷口思想に憑かれた大物政治家の代表格が鳩山一郎であろう。鳩山は 1954 年から約 2 年間、首相として政権を率い、日ソ国交回復などを成し遂げたが、首 相の座に就く前に脳出血で倒れて闘病生活を余儀なくされたことがあった。 この際、鳩山は谷口の『生命の実相』を熱心に読んで感銘を受けたらしく、谷口と共著 の形で『危機に立つ日本ーーそれを救う道』なる教団パンフレットに近い著作を発表、挙 げ句の果てには『生命の実相』を「新時代のバイブル」と絶賛するほどだった。前出した
梅の向かいにある売店の横に、異質なスペースがあった。「憲法は私たちのもの私たち が考える憲法改正」と記されたのぼり旗。ポスターには「国民の手でつくろう美しい日本 の憲法」と書かれている。 手前の机には「私は憲法改正に賛成します」と題した署名用紙があり、氏名と住所、電 話番号の記人を求める案内があった。 同区内の赤坂氷川神社でも似た光景があり、賽銭箱の横に「憲法の内容を見直しましょ う」と書かれた署名用紙が置かれていた。 これらは一部神社の取り組みではないという。 「『美しい日本の憲法をつくる国民の会』の運動の一環として、各神社が実情に合わせて 署名集めをしている」。全国約八万社の神社を包括する宗教法人・神社本庁は「こちら特 報部」の取材にそう答えた。 ( 中略 ) 境内にある署名用紙やポスターは、ソフトで極めて簡潔な表現でまとめられている。 ふさわ 「憲法の良い所は守り、相応しくなくなった所は改め : ・」「世界の平和と繁栄に貢献する日 本の使命、それらを盛り込んだ憲法が、今こそ求められています」という具合だ。 ただ、乃木神社にあった署名用紙の下部にはこんな注意書きがあった。「『ご賛同者』の みなさま 皆様には、国民投票の際、賛成投票へのご賛同の呼びかけをさせていたたくことがありま さいせんばこ 140