谷口 - みる会図書館


検索対象: 日本会議の正体
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1. 日本会議の正体

ない、子ばっかりなんです。たから自民党の先生方からも好かれるんです。 それに、彼らにはきちっとした事務能力がある。普通、右派の活動家というのは事務能 力なんてないですよ。その点、彼ら ( 生学連出身の人びと ) は学生時代に培ったノウハウ を持っている。椛島君なんかがその典型でしよう。ただ、みんな宗教団体の別働隊だと思 われるのをものすごく気にしていました。それは椛島君たちもそうでした」 どうしてですか 「だって、宗教団体といったら、それだけで取り上げられなくなってしまう。そういう目 びで見られたくないと考え、生長の家の出身だとはなかなか明かさなかった。でも、やつば 生 り生長の家は大きいですね。日本の戦後の右派活動の中でも占める位置が大きい」 動 そうですね。実際、椛島氏たちが中心になってつくった生長の家系の全国学協があ 生 って、その派生団体がいまも日本会議を支えています。ならば、日本会議の源流も生長の 学 っ家だとみることもできると思うのですが ひ 「ええ、僕もそう思います。日本会議の大元は、生長の家だと」 谷口雅春の才覚と手腕 第 1930 年に生長の家を創設した怪人物・谷口雅春は、もとをたどれば出口なおが創唱

2. 日本会議の正体

大宅壮一の「谷口雅春論」もこれを取り上げ、谷口と鳩山をこんなふうに辛辣に皮肉って 〈 " 神さま業。は一度味をしめたらやめられない ( 略 ) 。人間の無知と盲点の存する限り、 その上にアグラをかいておればいいのである。一方で出て行くものがある代りに、新しい カモも続々やってくる。 最近の最上のカモは何といっても鳩山一郎である。 ( 略 ) 谷口と鳩山の共著で、「危機に 立つ日本」と題するパンフレットまで出ていて、鳩山は " 生長の家。の宣伝に百パーセン 家 の ト利用されている〉 ( 前同 ) 長 生 ト派として知られた元首相・三木武夫も自民党幹事長時代の 19 意外なところでは、ハ 64 年、生長の家が政治結社・生長の家政治連合を結成した際、この式典に参加して祝辞 を述べるなど谷口と近い関係にあ「た。生前の三木を知る自民党の元参院議員らによれば、 っ三木は学生時代に肺を病み、その際に谷口の『生命の実相』に触れて感銘を受けていたの ひ 、、こ A 」し、・つ 政界の右派に位置づけられる大物政治家の中では、元首相の中曽根康弘も谷口に信を寄 せていたらしく、行政管理庁長官時代の 1982 年 5 月、参院委員会の答弁でこう発言し 第 しんらっ

3. 日本会議の正体

りと宣言し」の現行占領憲法の無効を暴露する時機来れりと宣言し、「国家統治ノ大権ハ 朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」 ( 帝国憲法発布勅語 ) と仰せられた本来の 日本民族の国民性の伝統するところの国家形態に復古することなのである〉 ( いすれも『占 領憲法下の日本』より、原文ママ ) 政界のみ谷口雅春信奉者 % たち 国民主権の放棄と天皇主権。現行憲法の破棄と明治憲法体制への復古。一読すれば分か のるように、頭がクラクラするほど復古的かっファナティックな主張ではあるが、こうした 生 政治思想や谷口の教えは戦後日本の右派に脈々と受け継がれており、右派系の文化人ばか りか政界主流の与党幹部、財界人らにも幅広く信奉されてきた。 吽文化人の谷口信奉者の代表格は三島由紀夫だが、三島はこの『占領憲法下の日本』によ っせた推薦文で谷口をこう絶賛している。 ひ 〈谷口雅春師の著書『生命の實相』は私の幼時、つねに病める祖母の枕頭に並んでゐた。 燦然たる光明の下に生命の芽の芽生えるその象徴的デザインは、幼ない私の脳裡に刻まれ てゐた。 第 それから四十年、俄かに身辺に、谷口師に私淑してゐる人たちを見出すやうになったの

4. 日本会議の正体

したり、あるいはそのバカバカしさを皮肉ったりするところにあるわけではない。 したがって生長の家の成り立ちゃ宗教的教義にかんする話はこのあたりにとどめ、戦後 日本の右派活動や日本会議の「源流」にもなったという谷口の政治思想や生長の家の政治 活動に話題を移そう。 「『天皇国日本』は世界最大の文化的創作」 とはいっても、膨大な数量の著作群を遺し、多くの保守人士に影響を与えた谷口の政治 家 の 思想をひとくちに語るのは難しい。そうした中、谷口の政治思想遍歴については、現在は 長 よしろ・つ 大正大学文学部教授となっている宗教学者の寺田喜朗が 2008 年に発表した論文「新宗 教とエスノセントリズムーー生長の家の日本中心主義の変遷をめぐって」 ( 2 0 0 8 年 3 月、 生東洋学研究菊号 ) が非常にコンパクトにまとめられていて参考になる。 学 の っ 前述したように、谷口率いる生長の家は、戦前から戦中にかけて軍部の戦争遂行を全面 2 的に賛美・協力し、これも教勢拡大の大きな跳躍台となった。その生長の家と谷口の政治 思想に抜きがたく横たわるエスノセントリズムⅡ自民族中心主義の形成過程に焦点を当て た寺田論文によると、 19 3 0 年に生長の家が創設されて「宗教様式の成立期」といえる 第 戦前期までは、教団の教義や谷口の教えの中にエスノセントリックな色彩は薄く、せいぜ

5. 日本会議の正体

の一方、「候補を女性にしたのが失敗たった」といった内部批判の声まで出て生長の家は 混乱したともいわれる。 こうカん 以上 2 つが巷間伝えられている「政治との断絶宣一言」の理由なのたが、このほかに宗教 団体としての生長の家の " 代替わり。なども微妙な影響を及ぼしていたようである。 生長の家の創始者として君臨していた谷口雅春だが、 19 7 5 年には長崎県に「九州別 しよせい 格本山総裁公邸」を建設して居を移していた。一方、東京では谷口雅春の女婿・谷口清 超が副総裁として実務を取り仕切り、のちに谷口雅春が死去すると第 2 代総裁の座を継 家 の ぐことになるのだが、生長の家が政治との決別宣一言を発したのは、ちょうど谷口清超が東 長 京で実務を取り仕切っている時期にあたる。 ふたたび元参院議員の村上正邦に話を聞くと、当時の教団内部で巻き起こっていたさま あつれき ざまな軋轢の実態を明かしてくれた。村上の話である。 の っ 「あの時、玉置和郎が参院から衆院へのくら替えを表明したのは、生長の家との関係を断 2 絶することを意味したんです。玉置は生長の家の組織票で過去 3 回の参院全国区で当選し てきた男ですからね」 なぜ玉置氏はそういう決断をしたんですか。 第 「つまりは玉置と生長の家の間の溝が埋めがたいほど大きくなってしまったということで ちょう

6. 日本会議の正体

〈すべての宗教は天皇より発するなり。大日如来も、イエスキリストも天皇より発する也。 ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝 せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり〉 〈すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。宇宙の大教祖は天皇にてあらせられるなり〉 このほかにも日米開戦直後に刊行された谷口の著作には、 〈大日本帝国は神国なり、大日本天皇は絶対神にまします。大日本民族はその赤子なり〉 といったファナティックな主張が随所に見られ、生長の家は 19 4 2 年、陸軍と海軍に の戦闘機を献納し、 1944 年には東京・赤坂の本部道場まで軍に献納するほどだった。 生 このため谷口は戦後の一時期、 ( 連合国軍最高司令官総司令部 ) から執筆追放の指 定を受けた。そうした谷口の教えや教義などは戦後になると多少抑制され、若干の修正が 生 加えられたが、寺田論文は谷口の政治思想の全体的な遍歴について次のように総括してい 学 つる。 ひ 〈谷口雅春は、反共愛国主義を貫き、天皇に集約される日本文化の優位性、そして大東亜 戦争の意義を称揚する発言を繰り返してきた。また、『家』観念をはしめとした日本の伝 統秩序、『大和の精神』として定型化される『日本的なもの』を称揚し、日本人としての 第 誇りを鼓舞する主張を行っていた〉 たいにちによら、

7. 日本会議の正体

いが谷口の著書『生命の実相』の中に、 〈皇恩に感謝せよ〉 といった記述がある程度たった。 ただ、谷口が大本教時代に上梓した処女作『皇道霊学講話』 ( 1920 年 ) の中には、 〈全世界の人類が幸福な人間らしい生活を送るためには神から先天的に首脳者として定め られたる日本皇室が世界を統一しなければならないのである。それは日本自身のためでは 。全世界の人類の永遠の幸福のために必要なのだ〉〈先天的に日本国が世界の首脳国 であり、日本人が世界の支配者として神から選ばれた聖民である〉 ( 旧漢字を新漢字に改め た。以下同 ) などと侵略戦争の正当化を彷彿させる記述もあり、寺田によれば、もともと谷口の思想 にはエスノセントリズムが埋め込まれていて、そのエスノセントリズムが戦中の「教団発 展期」に至って全面的に展開されたのだという。 たとえば日米開戦が間近に迫った 1940 年、機関誌『生長の家』の 9 月号に掲載され た谷口論文は、次のように圧倒的な「天皇信仰」を信者に訴えている。 〈天皇への帰一の道すなわち忠なり。忠は、天皇より流れ出でて天皇に帰るなり〉 〈天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが「忠」なり〉

8. 日本会議の正体

の与党で政策立案を取り仕切り、政権と日本会議、あるいは自民党と日本会議の関係につ いても精通している。 しかも稲田は、日本会議の中枢にいる椛島有三らと同様、生長の家との関係が取りざた されてきた。生長の家の創始者・谷口雅春の思想をいまも強固に信奉する者たちが発行す る月刊誌『谷口雅春先生を学ぶ』 ( 2012 年 7 月号 ) に、稲田の次のような講演録が掲載 されたこともある。 〈私は、谷口雅春先生の教えを、すっと自分の生き方の根本において参りました。今日、 ポロポロになった昭和 ( 19 3 8 ) 年発行の『生命の實相』の本を持ってまいりました 相 が、これは私の母方の祖母が読んでいた本で、昭和 8 ( 19 3 3 ) 年生まれの母も読んで 実 の いたのです。 そ 大変奇遇な事に、昭和 7 ( 1932 ) 年生まれの父も、またこの『生命の實相』で命が 救われたのです。父はすっと身体が弱くて、肺病で高校を休学し、病床に伏しておりまし 政た。その父が、谷口雅春先生の『生命の實相』に出会い、自分は大丈夫ということで、蒲 安団をあげて起ち上がり、高校に復学し、京都大学に進学したのです。そういうことで、我 が家にはすっとこの『生命の實相』がありました〉 第 本人が生長の家の信者だったかどうかはともかく、こうした環境で育ったことは、日本 227

9. 日本会議の正体

〈昭和四十八 ( 引用者注・ 1973 ) 年ごろのことだった。富岡八幡宮先代富岡盛彦宮司 は神都伊勢の宿舎で鎌倉・円覚寺派朝比奈宗源官長と同宿の際、どちらからともなく日本 の現状を憂える話題に及んだことがあった。 ( 略 ) このお二人がこれから行動を起こそうとする時にまっ先に考えた事は、かけがえのない 明治神宮の神域を拠点に活動しておられる伊達巽明治神宮宮司の協力を頂くことが絶対に 必要だった。この方は富岡宮司からの呼びかけによって快諾が得られた。そして、有識者 歴訪がはしまるのであるが、最初にお訪ねしたのが生長の家谷口雅春総裁であった。 私は当時鞄もちとして富岡宮司に従うことが多かったが、ある日、朝比奈、富岡両大人 が原宿の本部に谷口総裁を訪ね、私もこれに従った。そして、両大人から谷口総裁に対し こも 1 」、も 訪問の趣旨を交々語るところがあったが、世相を歎し、宗教心の煥発を論し、談論風発、 精神運動の必要を談して三ッ巴の論談が展開されたこと云うまでもない。 その時である。『生長の家の二つや三つふつ潰れても、祖国日本が本来の姿に立ち戻る ためにはそれも止むを得ない、私たちはそのような覚悟と堅い決意で生長の家を拠点とし た宗教活動に精進している。協力を惜しまないどころか、生長の家の活動そのものの目指 すところはそこにある』という力強いことばが谷口総裁の口から迸り出たのであった。 2 2

10. 日本会議の正体

である。つい先頃も、「生長の家」の信仰を抱く二三の学生が、私の自衛隊体験入隊の群 に加はったので、親しく接する機会を得た。かれらは皆、明るく、真摯で、正直で、人柄 がよく、しかも闘志にみちみちた、現代稀に見る好青年ばかりであった。そして、「もし 日本に共産革命が起きたら、君らはどうする ? 」といふ私の問に、「そのときは僕らは生 きてゐません」といふ、最もいさぎよい もっともさわやかな言葉が帰ってきた。これだ けの覚悟を持ち、しかもかういふ明るさを持った青年たちはどうして生れたのだらうか かれらは谷口雅春師に対する絶対の随順と尊崇を抱いてゐた。私はどうしても、師のお どろくべき影響力と感化力、世代の差をのりこえた思想と精神の力を認めざるをえなかっ た。私どもがいかに理論をもって青年を説いても空しいのである〉 ( 原文ママ ) また、中央政界で谷口思想に憑かれた大物政治家の代表格が鳩山一郎であろう。鳩山は 1954 年から約 2 年間、首相として政権を率い、日ソ国交回復などを成し遂げたが、首 相の座に就く前に脳出血で倒れて闘病生活を余儀なくされたことがあった。 この際、鳩山は谷口の『生命の実相』を熱心に読んで感銘を受けたらしく、谷口と共著 の形で『危機に立つ日本ーーそれを救う道』なる教団パンフレットに近い著作を発表、挙 げ句の果てには『生命の実相』を「新時代のバイブル」と絶賛するほどだった。前出した