ん。 現代演劇にも、矛盾を生かすということがあります。たとえば、劇作家サミュエル・ べケットの作品『ゴドーを待ちながら』がそれにあたります。最後の台詞で、べケットは二人 の役者に「ではそろそろ行こうか」「じゃあ行こう」と言わせておきながら、二人を歩かせな い演出を選んでいます。有名なラストシーンです。 VLADIMIR 】 Well? Shall we g02 ESTRAGON 】 Yes. let's go. 〔 They do not move. 〕 ここでもし、「じゃあ行こう」の直後に〔〕がなければ、べケットのこの戯曲の最後は、よ んの変哲もない凡庸なものに終わっていたでしよう。 一一人の登場人物は、これからどこかへ行こうとしているのです。それは台詞から予測できる 戯曲中の動きです。しかし、ここではべケットの〔 They do not move. 〕という驚くべきプロ ッキングによって、つまり役者を動かさせないことによって、なんとも不思議な印象を与えて くれます。
おんながさとりかぶとてんがん イ豆にかぶるもので透冠、唐冠、初冠、烏帽子、女笠、鳥兜、天冠 ( 図 1 ・ⅱ参照 ) な どがあります。 ところで、能装束を着るさい、下着である肌襦袢から最後のできあがりまで、略式はいっさ 、許されません。シテヘの装東着けは、三、四人がかりで厳格におこなわれます。装東の種類 によって異なりますが、ふつう開演の四〇分から一時間前から着けはじめます。 作物 能舞台に舞台装置や大道具がないのは、すでに述べたとおりです。しかけは何もありません。 つくりもの しかし、ひとつだけ例外があります。それは作物といわれているものです。 能面や能装束は身につけるものであり、直接肉体にまとうものです。しかし、作物は体にま とうものではなく、舞台上に置いておくものです。 作物は、能面や能装東などとは本質的にまったく異なったものです。私は作物に関する書物 を見たことがありません。それは作物の文化財的な価値がゼロだからでしよう。もちろん演出 空上では重要なものであることはわかっています。作物がないと能楽は成り立ちません。しかし、 能能面と作物のどちらが重要かと問われると、迷うことなくすべての能楽師は能面と答えるでし よう。だからこそ、逆にここで作物のことをたくさんお話したいと思います。 —> ニ一口 すきかんむりと・つ
く変わってしまうでしよう。能管は絶対音階をもとに製作されているのではなく、一本ずつ音 の高さが微妙に異なっているのです。 作物はどうでしようか。そうです。すでにお話したように、作物は別格に「さわらせてもら えるーのです。その一本の竹、菊の造花、藁の屋根なら破損してもいいとはい、 ( ませんが、能 面の破損とは次一兀の異なるものです。 これほど観客の目にふれるものでありながら、つまり本番の舞台の真ん中において重要な位 置を占め、能楽の演出上重要なものでありながら、これほど「高価でないもの」は他にはあり ません。これは考えてみると不思議なことです。作物は他の多くの文化財の中に意図的におか れた「安物ーなのです。 安価だからといって、乱暴にあっかってはならないのはいうまでもありません。 私が七、八歳のころ、名古屋の熱田神宮能楽堂の楽屋ロで、そこにおいてあった作物の竹の 枠を見つけて遊んでいたときのことです。ちょうど、竹の枠が円状になっていたので、フラフ ープがわりに腰でクルクル回して遊んでいました。そのとき、作物の職人さんが通りかかり、 叱りつけられました。この職人さんは作物製作のプロだったのです。彼は遊び心で、作物のミ ニチュアも非売品として製作していました。作物のミニチュアとはおもしろい発想です。
で引っかけると、家が一瞬のうちに数センチも移動してしまうからです。これを避けるために、 後見 ( 原則的に主役をアシストする役 ) が後方から目立たないように、竹の枠の下の部分を手で 押さえている場合もあります。重さが一〇キロもない吹けば飛ぶような家なので、家の主が戸 をあけて出るときには、後ろでは、誰かが家がずれるのを注意しながら、押さえているのです。 それは異様な光景です。 作物の舟も、わずか数キロの竹の枠に包帯を巻きつけたものです。ある人が『船弁慶』を観 て、登場する舟があまりに安つばいので、もっとちゃんとした舟の大道具を出すべきだといっ ていました。 余談ですが、テレビのクイズ番組で能楽の舟の作物をゲストが当てるというものがありまし た。ゲストにはそれが能楽の作物であることは知らされていませんでしたから、誰も舟である と言い当てられませんでした。文化財としては物足りない作物ですが、ここにこそ作物の意味 があると思っています。 空作物と身体の関係 ヒヒ 能舞台は荘厳なたたずまいであり、そこからは絶対的な安定感を感じさせます。その荘厳な 舞台の上で舞う身体は、その空間や空気を揺さぶるほどの威力をもっことが望ましいとされて
います。能舞台に身体が向きあったとき、融合するというより、身体が何もない空間を独占す る必要があります。 ですから能楽師は自分の肉体よりも寿命の長い文化財である能舞台に対して、身体の優位性 を意識しなければならないのかもしれません。このとき能楽は驚くべき芸術となるのです。 能舞台に乗るのがただうれしくてしかたがないのは能楽オタクでしかなく、かといって能舞 台を軽視するのは歴史を否定する行為であり、これも鼻持ちなりません。このように身体と能 舞台との関係は不思議なものです。 それにくらべて作物はどうでしようか。その軽すぎる存在は身体とどうかかわっているので 身体と作物とでは優位性もなにもないでしよう。身体の優位性は誰の目にも明らかです。 能楽師は、荘厳な舞台上で、蹴飛ばしたら飛んでいってしまう作物のかたわらで舞うわけで す。これはまるで人間の手では割ることのできないヤシの実 ( 能舞台 ) と、ひびの入った卵 ( 作 物 ) を同時にあっかうようなものです。 作物に対する配慮は、貴重な物をこわさないようにする配慮とは異なり、安物をこわれ物の ように大切にあっかうことであり、これは何となく奇妙なものではないでしようか。この身体 と作物との関係は、能楽以外では見られない不思議な関係のようにも思えます。
とはいえ、現代演劇でも同様のことがあるという指摘もあるでしよう。たとえば劇中で用い られるガラスのダイヤモンドの指輪は、役者の演技力によって本物になります。高価なダイヤ モンドとしての説得力を劇中でもちはじめ、そこには虚構から現実への移行があります。しか し、能楽の作物とこれとは異なるものです。舟の作物を本物の舟であると演技で説得しようと する能楽師は少ないでしよう。舟は形体的に舟であることを説得しようという意図のもとにつ くられたものではありません。 それは、つくられる段階から舟の代用品として説得することを放棄した形体であり、芸術的 な身体性が、竹の枠にかかわっておこなう所作の妙味を観客が味わうためにあるオモチャなの こうしてみると、作物は能楽の歴史的美学が選択した玩具といえるでしよう。ネコが鞠をネ ズミがわりにもてあそんでいるごとく、鞠は作物にたとえられます。ネコと鞠の関係は、能楽 師と舟の関係に似ているかもしれません。ネコは鞠がネズミでないことを知っていますし、じ やれるのを見ている人もそれを知っています。そのうえでネコが鞠と戯れるのを楽しむことは 空できるのです。
一日がかりの大仕事です。 鐘の内部は、主役をつとめる者がつくること ならいもの になっています。それは『道成寺』が、習物で おくでん も奥伝という部類に属する秘曲であり、鐘の内 猶部も秘密になっているためです。そして、舞台 梅の本番では、主役は鐘の中に飛びこみ、中でひ テそかに面と装東の着替えをするのです。中には 鐘許された者だけが入れることになっています。 このように、鐘は作物のなかでも特殊なもの 成です ( 図 1 ・新 ) 。 他の作物はひじように軽いものです。その軽 わらやすまい さは、四歳の子どもが藁屋 ( 住居を象徴するも の ) を引っぱって歩くことができるほどです。 だから、公演中、シテは藁屋から出るときに、 足を作物の枠に引っかけないように最善の注意 をはらう必要があります。それを怠り、枠を足 28
『道成寺』の鐘 『道成寺』では、作物の鐘を使います。これは作物としては例外の部類に属します。吹けば 飛ぶような軽い重量の他の作物とは異なり、下部に鉛が入っていて、わざと重くつくってあり ます。重さが八〇キログラムぐらいあります。 しらびようし なぜ、そんなに重くしてあるのでしようか。『道成寺』のクライマックスで、主役の白拍子 が、舞台の上方に吊ってある鐘の下に飛びこむシーンがあります。それと同時に鐘が落ちてき て、白拍子の上にかぶさります。鐘が速く落ちてこないと、白拍子が下に飛びこんだ動作が間 がぬけて見えます。鐘が重いのは、その落下する 速度を安定させるためなのです。 組 この鐘は、竹の枠が複雑な構造をしていて、修 骨 鐘業中の内弟子が当日製作できるようなものではあ りません。したが「て、鐘の竹の骨組みは、すで にできあがった状態で常備してあります ( 図 1 ・ 道 リ。その竹の骨組みの外部を絹の幕でおおって 鐘を完成させることが、弟子の仕事になるわけで 図 す。糸と針で絹の幕を竹に縫いつける、まるまる
能の空間 冷たい空間 / 能舞台の構造 / 鏡板 / 役柄と囃子 / 能面につ いて / 能装束 / 作物 / 『道成寺』の鐘 / 作物と身体の関係 / 演目の分類 2 内面への入リロ 能楽以前の儀式 / 面の中で「両眼ヲフサグ」 / 海外演劇の 振付 / 振付の変更 / 能の振付の矛盾 / テキストとちがう所 作 / 能の不条理 / 『実盛』に見る完璧な矛盾 はいしめに
図 1.13 いろいろな作物 ( 上左 : 車「熊野」 , 上右 : 天鼓「天鼓」 , 下 : 藁屋 ( 奥 ) と一畳台 ( 前 ) 「菊慈童』 )