「妙」と混同しているようにもみえます。しかし、厳密には「幽玄」はかならずしも能の身体 性の極致ではないことを、これから説明します。 「幽玄 - から「妙。へ いよいよ、「幽玄」よりさらに深い位へ入りこみましよう。それが「妙」です。これを世阿 弥は能における最高の美的な位としました。厳密にいうと、はたしてそれが美であるかどうか もわかりません。 「妙」について、世阿弥はつぎのように語っています。 妙花を以て、金性花とは定位し侍れ。 『九位』の中で世阿弥は書いたと言っていますが、現存するもので「金性花」の記述はあり みようかふう 求ません。現存では、「妙花風」とは、 の へ しんら につと・つあきらか 無 新羅、夜半、日頭明なり。 しんきゃうしよめつ 妙と云ば、言語道断、心行所滅なり。夜半の日頭、是又言語の及ぶべき処か。如何。然ば、 いかんしかれ 153
ほんむめうくわ 本無妙花とも申すべき。 しかれ かんのう 然ば、堪能・妙花の芸人の此安曲をなすを見て、初心の為手、安き所を学ばん事、天に新 手を拳げて月を打たんとせんがごとし。 ( 『拾玉得花』より ) これを意訳してみましよう。 問〕けいこの条々 ( 世阿弥の初期の芸術論『風姿花伝』にみられる年来稽古条々などのこ とで、そこには演者の七歳から五〇歳までの年に沿ったけいこ法が書かれている ) に安 き位とありますが、これは無心の感、妙花の所と同じ意味なのでしようか。 答〕これは安得すべき公案だ。無心の感と妙花は同意だ。そのレベルの有主風 ( 内容のと もなった芸。それに対して、内容がともなわない、未熟な芸を無主風という ) に達して こそ、ほんとうの安き位といえるのだ。無位真人 ( 差別を超越した人間本来の真性を意 味する禅語 ) を形なき位という。ただ無位を誠の位とする。これが安位なのだ。 ( 中略 ) そもそも安位とは、意景態相 ( この場合は演者の意図的な演技 ) とはまったくかかわらな い極致である。悟りきってしまえば吾らないときと同じである。 あんきよく
かんのう 当道の堪能の幽風、褒美も及ばず、無心の感、無位の位風の離見こそ、妙花にや有べき。 ( 『九位』より ) 新羅夜半というのは、夢窓国師の『夢中問答』などに見える句です。夜半の太陽とは、それ 自体が矛盾であり、メタファーであることがわかります。この道の達人の幽玄な芸は、常用の 形容詞では表現できないということです。その場合観客が心にも覚えず感嘆の声を発し、そう した芸位を妙花であろうとしています。ここで注目したいのは、そしてそれはあくまでも身体 に関するものでなければなりません。 つぎは『花鏡』妙所之事の段からです 妙とは「たへなり」となり。「たへなる」と云ば、形なき姿也。形なき所、妙体也。 そもそも 抑、能芸に於いて、妙所と申さん事、一一曲を初めて、立振舞、あらゆる所に此妙所はあ るべし。さて、言はんとすればなし。若此妙所のあらん為手は、無上の其物なるべし。し しゃ・つとく かれ共、又、生得、初心よりもこの妙体のおもかげのある事もあり。その為手は知らねど めきき けんじよ も、目利の見出だす見所にあるべし。ただ大かたの見物衆の見所には、「なにとやらん面 けんぶう 白き」と見る見風あるべし。是は、極めたる為手も、我風体にありと知るまで也。「すわ、 ほうび 154
6 無への探求 「妙」が解きほぐされていきます。 めうくわ 稽古の条々に、安き位と云り。是は、無心の感、妙花の所と、同意なるべきやらん。 答。是は安心也。 、無心の感、妙花、同意也。さりながら、其位の有主風を得こそ、 しんにん 真実の安き位なるべけれ。無位真人と云文あり。形なき位と云。だた無位を誠の位とす。 是、安位。 ( 中略 ) 抑、安位者、意景・態相に全くかかはらぬ所あるべし。〈是者、其 ( の ) 態 ( を ) 成 ( す ) 当心ニ ハ習功意安 ( の ) 位也〉。其時は、稽古・習道を尽くしつる条々、心中に一物もなし。一物 しとくのき さとりさとりてみごにをなし もなきと云も、又習道の成功カ也。「悟々同未子」云。自得暉和尚云、〈六牛第六〉 みやうこんたうるところせつごにふたたびよみかへるるいにしたがうてみをうく せうきんくわりにあへどもへんせすかうぎよく 「命根断処、絶後再甦、随類受身」云々。又云、「精金火裏逢不変、皓玉 でいちうにあるくわなるがごとし 泥中有果如」云。此芸、如此。中三位より、上三花を極めぬれば、下三位にまじ はるも〈爰ニ、九位中三位 ( に ) 達シテ、安位 ( を ) 得テ、上三花 ( に ) 至 ( る ) 曲位也。中初・上中・下 まさ′」 ちゃうい はちす 後 ( の ) 次第〉、其為手の位、上三花の定位のままなるべし。是、砂の金、泥に蓮花、まじ はるとも染む〔べからず〕。此位の達人をこそ、真実の安位とも云べけれ。是、万曲をな すとも、心中に「安し」とだにも思ふべからず。無曲・無心の当態なり。此位をや、 ・つしゅふ・つ 159
自得暉禅師 ( 宋代曹洞宗の僧 ) は、〈六牛第六〉「命根断処、絶後再甦、随類受身」とか 「精金火裏逢不変、皓玉泥中有果如」と言っている。この芸は、このようなものである。 中三位より、上三花を極めれば、下三位であろうとも、シテの位は定位のままでいるこ とができる。これは、砂が金に、泥が蓮の花にまざってもそれに染まることがないのと 同じだ。この位の達人こそ真実の安位という。万の曲を演じても心中に「安し」と思っ 一にユま . い十 , - 、よ、 0 無曲、無心の姿とはこういうものだ。この位を本無妙花という。堪能、 妙花の芸人のこの安曲を見て、未熟の演者が、安き所をまねて成功することは、天に手 を拳げて月を打とうとすることにひとしい 世阿弥の言う「安き位」は、長い年月の修練で勝ちとった心と身体の特殊な状態のことです。 能楽において「安き位」を抜きにしてその奥義と芸術性を語ることはできず、「安き位」抜き でほんとうの奥義に到達することはないというのです。 求能のできばえは、その場所、季節、観客層、演者の年齢、体調、天気が影響します。世阿弥 探 のはそのことに敏感です。しかし、安位に達した人は、もはやそのような外的な要因さえも超越 無 する存在となりうるという意味にもとれます。つまりその演者はどんな状況においてもかなら ず人の心を打っと言っているのです。 161
しかし、なぜそのようなことがおこるのかという説明は、世阿弥の疑問符で終わっています。 つまり、ここでその説明は世阿弥自身にとっても限界に到達しているのです。 心はなくて面白とうけがうは何物ぞ。 ( 『拾玉得花』より ) つまり無心の状態であるのに、その能を観客がおもしろいと感じるのは、いオ い何のはたらきであろうか。 「妙」のニ面性 まず、「妙」と「幽玄」の美を語る場合、最初にどの環境でその観念が作用しているのかを 特定することからはじめなければなりません。美の環境設定の場は、、 しわずもがな、二カ所あ ります。「表現にかかわる場」と「鑑賞にかかわる場」です。 おそらく「妙位」という能の特殊な美的状態は、表現者にも、また鑑賞者にも作用する美で あるらしく、二つの異なった場にまたがって、有効性をしめすことが「妙位」という観念をま すます難解にしているともいえます。つまり、「妙位」は表現者の内的な原理として機能する かと思えば、それとはまったく異なる場である、鑑賞者側の感嘆の形容詞としても存在するの 162
いるにとどまる。ここが妙 ) 所であると指摘することはできない。 しかし、よく見ると、能をきわめて、安き位に入り、舞台上の所作にとらわれず、無心無 風の位にいたったときが、妙所に近いのではないだろうか。幽玄の風体が超越したとき、 この妙所に近いのではないだろうか。よくよく心で見なければならない。 身体を使用してはじめて成立する能において、妙を「形なき姿」というのは興味深いところ です。これはなかなか強烈な導入部です。 そして、それができる人こそ無上の演者であるとしています。しかし、「妙」の出現する理 由と原因を本人に求めてもわからないだろうと言っています。「妙」に到達している演者も自 分ではその出現する瞬間を予期できないと言っています。また、この最高の位が初心者 ( 初心 者の定義を七歳からとするかどうかはわからないが、とにかくここで世阿弥が言っているのは 子役のことで、成人してからの初心者ではありえない ) でもあらわれている場合がまれにある というのです。本人は知らないが、目利きの客にはそれがわかり、目利き以外の観客にも何と なく魅力があると言わせるにいたります。 さらに、「妙」を、世阿弥の最晩年の芸術論である『拾玉得花』からも見てみることにしま しよう。この芸術論は完全に禅の公案の形式をとっていて 、いに対しての答えという形で 158
ここで注意しなければならないのは、これらは世阿弥の芸術論であり、戯曲、つまり能の曲 ではないということです。つまり能楽の実践家のための秘伝書であって、世阿弥が書いた曲で はありません。 世阿弥の作品がしばしば混乱を招く原因は、彼は秘伝の理論書と能楽の曲の両方が書けたこ とでしよう。しかし、これら二つはまったく別のものです。 世阿弥の「幽玄」 「幽玄」とは、もともと中国の老荘思想や仏教思想の深淵さをあらわす言葉でしたが、中世 日本においては、歌人である藤原俊成が文学的な美の観念として好んで用いました。幽玄とは 歌として書かれるものであり、読むものであり、それ以前に感じるものでもありました。しか し、世阿弥はその幽玄を身体の領域にもちこもうとした人のひとりです。 もともと、身体にもちこめる観念はそう多くはありません。 ところで、「幽玄」が能楽の最高の美的観念であると思っている人は多いでしよう。しかし、 厳密にはそうでもありません。少なくとも世阿弥はそうは言い切っていないのです。世阿弥が 言う最高美は、「妙」と「安心」です。これについては後で述べます。 まず、世阿弥の芸術論の『花鏡』から、幽玄について引用し、それを意訳します。 148
に、外部の型の重要性ばかりを説きます。型を練習すれば、内面は後からくつついてくる、と いうわけです。 それも一理あります。ただ、ロをそろえて言うその画一性に、私は驚きを禁じえません。そ こには型に対するある種の信仰のようなものが存在するとさえ思えてきます。 しかし型は本来、手段であって、最高の目的ではないはずです。 「日本文化は一般的に型を所有する文化である。一分野の実践者たるものは、自分の身体と 心を修業の段階で内的な本質へ直接向かわせるのではなく、外部に具体的に存在する型を熟視 し、型の本質へ到達しなければならない。 型は本質への道筋であるとともに、本質そのもので もあると言える。型は内面の表現であり、型は内面を保証する。型の内部にこそ、その歴史と ともに本質は存在する」。 これは私が適当に書いたものですが、この「精神界への整理券」は、ある種の保証として機 能し、型の裏に書いてある効能書きでもあるのです。私はこれを信用していません。 世阿弥は、その芸術論を見るかぎり、型への信仰は皆無であるとさえ思います。世阿弥の最 高の美である「妙花」は「形なき姿」でした。それは型への信仰がなかったことを暗示してい ます。 もっとも、世阿弥の一一曲三体論 ( 舞と謡の一一曲と、老体と女体と軍体の三体が基本だとする
関心事は、どのようにして「妙花」を表現者として獲得できるか、そしてそれをつぎに伝えら れるかということに尽きると思います。これが秘伝書のすべてであるといっていいでしよう。 それ以外の興味は付随的なものでしかありません。 どのような場合であっても、表現者は内的な原理に興味をしめすものです。身体への作用が おきる場所、またそれを引きおこす内部の信号の深浅、はたしてそれが自覚できる場所なのか そうでないのか、またそれは他人に説明できる場所なのかそうでないのか、が身体表現者であ る世阿弥以降の数々の能楽師たちの関心事だったと思います。 コーヒーの身体生ではじまった本書は、終わりに近くなりました。 非日常的なコーヒーの飮み方とは、「内面」の変化を、リアルタイムで飲む動作に対応させ ることでした。表面上、芸術的な価値のない振付に対して、個人の内面がどこまで内的な価値 をそれに付与できるのかがこの本のテーマでした。そして、もしこれが可能だとしたら、いち ど内面の操作の秘密を獲得した表現者は、日常生活のすべての動きを非日常に変換できる能力 求をもっということでもあります。 の 非日常といえば何やらわかりにくく聞こえるのですが、外的な原因なしに内面を変化させる へ 無 ことができれば、それはすでに非日常的なものだといえるでしよう。内面の変化は、身体を通 してまわりの空間と関係をもちはじめようとします。それが舞台でおこなわれれば振付となり、 177