存在するはずの「見えない相手」は、目の前に実際にいる、これが実戦だからです。 武術がいちばん美しいときは、単独の演武である場合が多く、単独の中にこそ美は潜んでい るといえます。一一人や、それ以上でおこなわれる約束事としての演武も、どことなく単独のも のより説得力に欠けるように思われます。 これに対して、能あるいはダンス一般はどうでしようか。その身体が描く弧や直線は、それ だけで評価されるべきで、これら以外の存在しない相手を前提とした評価はありません。つま り、現在おこなわれている時空間がすべてであり、そこに存在しない相手を前提とした評価基 準はないのです。 ですからこれらの本質的なちがいが存在するかぎり、はたして武術と能楽あるいはダンスの つながりがどこまで直接的であるのか、短絡的に結論することは難しいと私は考えています。 ちなみに、世阿弥のすべての秘伝書を読んでも、能と武芸の身体的な関係性を示唆する部分 は見当たりません。これは不思議なことです。というのも、能では武者の登場する「修羅物」 があるからです。そのことから武芸の身体性が必要になることも考えられなくはないのですが、 世阿弥はそのことに直接ふれることはしませんでした。 世阿弥が推薦する能楽師の素養は、蹴鞠や歌でした。そこには武芸はまったく見られません。 172
芸能と芸術 ところで、芸能と似ていて異なるものに「芸術」があります。芸術が日本でどのような意味 として理解されてきたかをみてみましよう。 私たちが現在「芸術」という場合、それは外来語の Art を意味しています。 しかし厳密にいえば、 Ar ( が輸入される以前にも「芸術」という語がありました。漢籍に見 られます。日本で最初に登場するのは『続日本紀』 ( 七九七年 ) です。これは Ar ( の前に存在し ていた概念であり、林屋博士によれば、「学問やその他の技能によって導かれた法」をさして いたとのことです。 芸能と芸術とのちがいを論じたのは明治時代でした。折ロ信夫博士の説を要約すると、芸能 は、語としての「芸態」の下の部分の「心」を除いたものであり、中国伝来とはいえ、すでに 奈良期にさかのぼって存在していた語であり、「態」はものまねを意味しているといっていま す。 池田弥三郎博士は、「芸能は民族である」と主張しました。芸能は民族によって伝承される ものである ( 民族芸能 ) ということですが、それに対して、「芸術は個性である」、民族芸術とい うのは自己矛盾であり、結局、芸術は民族を超えたものとして定義しなければならないとして います。つまり、芸能は非芸術であるという議論を展開したのです。
衛府において舎人とよばれる下級官人が猿楽の形成とともに芸能者として頭角をあらわ してきたこと。これは新しい猿楽という芸能に積極的に参加した官人の存在である。 中央に吸収されていなかった地方芸能の存在である。中央で吸収された地方芸能は儀礼 的となり、律令社会の価値観にもとづき洗練される。それにたいしてそのまま地方に存続 し、中央の調習を受けなかった芸能も、厳然と存在しつづけた。国ずの舞、田舞はその例 である。 奈良時代の乞食者のように、海部山部として山野河海で狩猟、漁労の民が咒術的な目的 をもって渡り歩いていたとされる。「歌人と吾を召すらめや笛吹きと吾を召すらめや琴弾 ここに出てくるのは乞食者の蟹であり、 と吾を召すらめや」『万葉集』巻十六 ) とあるように、 芸能者であり、芸能の技術をもっていたことが示唆されている。 ところで、肝心の猿楽が鎌倉時代にどのような芸能形態であったのかは、史実としてはわか えんねん りにくいのです。能勢朝次博士は、鎌倉時代の猿楽は寺院でおこなわれていた延年芸能の資料 史から推察できるとしています。延年は平安時代末から室町時代まで、寺院でおこなわれた歌や っ踊りをまじえた宴会をいいます。 能勢博士は、延年が歴史上いつごろからはじま「たかは定かでないが、堀河天皇の康和一一 ( 一一〇〇 ) 年に園城寺の羅惹院にて三井寺衆徒が延年を催した記録があることをあげています。
話はかわって、イギリスの偉大な劇作家であったシェークスピアを、対照的な例としてあげ、 能とのちがいを見てみましよう。 シェークスビアの原文には、能楽と同様、ステージディレクション ( プロッキングともいし ます ) 、つまり役者の舞台上の振付が付録のように書いてあります。しかし、厳密にはどれが シェークスピア自身のプロッキング ( 振付 ) かを証明するのは難しいでしよう。というのも、エ リザベス一世時代 ( 一五三一一了一六〇一一 l) に存在していた他劇団の団長や役者のメモも、シェーク スピアの原文に混じっているかもしれないからです。プロッキングがシェークスピア自身によ って書かれたものであろうとなかろうと、文学作品に付随した歴史的な身体に関する情報であ ることには変わりはありません。このことを前提として話を進めます。 さて、このプロッキングは、現在の演出家によって、いかようにも変更することができます。 それがまさしくシェークスピア自身による振付であったとしても、無視してもかまわないこと 口になっています一。 入これは、能楽師の私から見ると驚愕に値します。四〇〇年つづく偉大な文学としてのシェー へ クスピアは君臨するのですが、振付は重要視しなくていいということのようです。イギリスで 面 内 のシェークスピア研究は原則的には、「演劇」ではなく「文学」の範疇であり、私が留学して いたころは、オックスフォード大学やケンプリッジ大学に演劇学部が存在せず、もつばら文学
1 にありました。また室町時代には現在と同じ能 舞台の建築様式の存在は、舞台が正方形という こと以外確認できていません。現代のように確 定するのは、能楽をさらに鑑賞しやすくとの配 慮がピークに達した時代、それは織田信長より 舞少し前だろうと推測されます。 すでに江戸時代には完全に確立されていて、 楽江戸城の能舞台は庭にありました。将軍は舞台 ヒヒ ム月 立正面の別の建物から庭ごしに能を鑑賞したので す。楽屋から本舞台に橋が掛けてあり、それが 様式化されて橋掛りとなったわけです。 図 それ以前は橋掛りも、現在のようにつねに向 かって左側についていたのではなく、臨機応変 に対応していたようです。橋掛りが舞台の真後 ろについている絵が残っています。また、世阿 弥の時代には、座敷でおこなった能もありまし
ひためん る ( 直面Ⅱ面をつけない ) 面箱狂言方によって演じられる ( 直面 ) の構成になっています。 鎌倉時代にはさらに えんめいかしゃ 延命冠者 ちちのじよう 父尉 」現在の四人の役が主流になって の役が定形として、記録で確認されています。それがしだいに いきました。能勢朝次博士も、翁猿楽は平安時代の末期には存在していたとは文献にも見られ、 「とうとうたらり」という翁の謡いだしの台詞もそのころ確立されていたとしています。その 証拠に、『法華五部九巻書』につぎの記述があります。 千里也多楽里、多楽有楽、多楽有楽、我里里有、百百百多楽里、多楽有楽 ( チリヤタラリ、タラアリャラ、タラアリャラ、ガリリアリ、トウトウトウタラリ、タラ アリャラ ) これは現在、能楽師によって演じられている翁の台詞とほぼ同じです。以上で、芸能の歴史 めんはこ
世のこの時点では、猿楽と田楽の芸術形態はかけ離れていなかったということです。それどこ ろか、田楽師によ「てなされる能が田楽能で、それは猿楽能と同一であり、芸能の形態的な差 異ではなく、演じる者によって田楽か猿楽かが決定されるというのが林屋博士の持論でもあり ます。 つまるところ、文献上で猿楽と田楽を区別するのは困難であり、とくに室町時代においては この二つを区別することは不可能であるといえるでしよう。 この時代、猿楽の座、田楽の座という芸能の共同体としての単位が存在していました。座頭 と・つりよ・つ を棟梁といし 、室町時代に中央で活躍していた座は、「立ち合 い能」という芸能の競技に参加 し、それに勝ち残るためにあらゆる芸術的な知恵をふりしぼ「たのです。勝ち残「た座は極端 に優遇されました。そうであるからこそ世阿弥は能楽の芸術論を書き残したのであり、後継者 に彼の獲得したすべての芸術性を伝承したか「たのです。加藤周一氏は、世阿弥の芸術論は勝 っための戦術であり、武芸書に似ていると言っています。 ゅうざき 史それは彼自身が棟梁である結崎座 ( 観世座 ) の存続にかかわる問題でもあ「たからです。 っ当時大和でさかんであ「た猿楽の座は、大和猿楽、すなわち観世座、宝生座、金春座、金剛 座です。他にも猿楽の座は多く存在していました。若狭猿楽、近江猿楽、加賀猿楽、伊勢猿楽、 丹波猿楽がそうです。梅若は丹波猿楽でした。
能楽以前の儀式 さて、能楽のおもしろさを知っていただくために、能楽以前の儀式を見ていくことにしまし よう。ある意味で原点を探ることにより、能の根本にふれようと思っています。 おきな ここで紹介するのは『翁』です。翁とは老年の男性を敬うときに使う一一 = ロ葉です。この曲にも 老人が登場するのですが、通常の能とはま「たく異なるものです。歴史的には、『翁』は翁猿 楽から発生しています。この曲は、他の能と異なり、物語が存在せず、さらに驚かされるのは、 台詞自体にも意味不明なものが多く含まれています。 1 章でのべた五つの分類の、どの範疇に も属さないものであり、特殊な位置にあるとされています。翁猿楽と能楽との関係を否定する 研究者もいるほどです。これについては 3 章でふれます。 まくしきじよ・つ シテ ( 主役 ) は舞台上で、観客に向かって「式尉」という翁専用の面をつけます ( 図 2 ・ 1 ) 。 この曲以外で観客に向かって能面がつけられることはありません。 『翁』は元来、室町時代よりはるか以前から、「咒師」といれわれた人々によって神社などで おこなわれていた宗教儀式から派生したもので、現在でも能楽師によって演じられています。 と - つりよ・つ 昔、『翁』はその座の「棟梁」でなければ演じることはできないといわれていました。
を飮んでいる」という演技を舞台上でおこなうことが目的でもありません。本来、マイムは実 際にないものを演技力であたかも存在するように観客に見せるものですが、この場合、コーヒ ーは目の前に実際にあります。ですからここでは、マイムの達人の選択する内面性がコーヒー の所作とどのようにかかわり、それが見ている人を釘づけにできるかどうか、ということが重 要なのです。 考えてみると、コーヒーの飲み方は無限にあります。こんなところに無限が存在するとは、 変な話だと思われるかもしれませんが、飮む動作をおこすための「内的な選択肢」が無限なの です。つまり無限性は外に存在するのではなく、内部に選択肢として存在することをコーヒー は示唆します。 こうしてコーヒーの話題はしだいに身体性へのヒントになっていきます。能楽師である私が、 観客として他の能から覚えた感動は、極論すればですが、そのほとんどがごく単純な所作から でした。能楽において魂が揺さぶられるのは、複雑で華やかなものからではないのは、いオ きやく、りい いなぜなのでしようか。ですから、思いきってコーヒーにまで型を「却来」させたのです。世 に阿弥の思想である「却来華」とは、奥義を悟った能楽師にのみ許される、ひじようにかんたん め じな曲にもどることです。 ここに能楽鑑賞でよくいわれる「幽玄の世界」と深く関係した世界があります。このような Ⅱ 1
えてくるような錯覚をおこさせることができるのです。 しかし、そのようなすぐれた演技であっても、すでに首を失っているはずの死者が自分の頭 を洗うという、どうしようもない矛盾はどうなるのでしようか。なぜなら、演者であるシテの 実盛には、とうぜん能面をつけた首がついているからです。つまり、この段階では ( 観客から 見れば ) 、洗われている想像上の首と、シテ実盛の亡霊の首の二つの存在を認知するからです。 そしてこの矛盾こそ、能の深淵への迷路だといえます。 これに類似するシーンを実際に演劇として成立させているものを私は知りません。歌舞伎の 『寺子屋』やオスカー ・ワイルドの『サロメ』は、生首を対象物化することで、それを解決し ています。つまり人形の首を小道具として使用する手法です。 おもしろいことに、『実盛』のこの矛盾は、テキストを読んでいてあらわれるわけではあり ません。純粋にテキストを読んでいてもわからない、隠れた部分としてそれは存在します。た とえば、問題のシーンで亡霊がじっと座ったまま、地謡のみで首を洗う部分を振付なしですま せてしまうやりかたもあるでしよう。これはどちらかというと『平家物語』風の演出、つまり 「語り」だけにすることにより、矛盾は避けられます。「語り物」として処理されるわけですか しかし、主役の亡霊が自分で自分の首を洗いはじめるとき 、能にしか存在しない特別な場面