つまり、型が尊重されるのは、システムそのもののメッセージであり、この装置は、型論を 賛美する側と、型を保存しそれを管理運営する側の安定したバランスを栄養剤として存続する ことができるといえます。 『リア』でわかったこと 私はこれまでに、自分がかかわった創作能や現代劇からも、多くのことを学んできました。 その中からひとつの重要なエピソードをお話します。 いまから数年前、国際交流基金アジアセンター制作による『リア』に出演したことがありま す。これはアジア六カ国参加による「アジアのシェークスピア」という新しいメッセージをも ノインド って企画され、渋谷のシアターコクーンを皮切りに、香港国際演劇祭、シンガポーレ、 体ネシアの国際演劇祭、オーストラリアの。ハース国際演劇祭、ベルリンの世界演劇祭、コペンハ のーゲンの国際演劇祭と、世界中で公演された作品でした。役者と演奏家、スタッフを含めると ーし 約五〇人の大所帯でした。 と 体岸田理生脚本の『リア』はリア王から「王」の文字を取り去ってしまいました。このタイト 表ルは物語そのものを暗示するものです。この脚本はシンガポールの若手演出家である、オン・ ケンセンによって幻想的な作品に仕上がりました。
えてくるような錯覚をおこさせることができるのです。 しかし、そのようなすぐれた演技であっても、すでに首を失っているはずの死者が自分の頭 を洗うという、どうしようもない矛盾はどうなるのでしようか。なぜなら、演者であるシテの 実盛には、とうぜん能面をつけた首がついているからです。つまり、この段階では ( 観客から 見れば ) 、洗われている想像上の首と、シテ実盛の亡霊の首の二つの存在を認知するからです。 そしてこの矛盾こそ、能の深淵への迷路だといえます。 これに類似するシーンを実際に演劇として成立させているものを私は知りません。歌舞伎の 『寺子屋』やオスカー ・ワイルドの『サロメ』は、生首を対象物化することで、それを解決し ています。つまり人形の首を小道具として使用する手法です。 おもしろいことに、『実盛』のこの矛盾は、テキストを読んでいてあらわれるわけではあり ません。純粋にテキストを読んでいてもわからない、隠れた部分としてそれは存在します。た とえば、問題のシーンで亡霊がじっと座ったまま、地謡のみで首を洗う部分を振付なしですま せてしまうやりかたもあるでしよう。これはどちらかというと『平家物語』風の演出、つまり 「語り」だけにすることにより、矛盾は避けられます。「語り物」として処理されるわけですか しかし、主役の亡霊が自分で自分の首を洗いはじめるとき 、能にしか存在しない特別な場面
能の空間 冷たい空間 / 能舞台の構造 / 鏡板 / 役柄と囃子 / 能面につ いて / 能装束 / 作物 / 『道成寺』の鐘 / 作物と身体の関係 / 演目の分類 2 内面への入リロ 能楽以前の儀式 / 面の中で「両眼ヲフサグ」 / 海外演劇の 振付 / 振付の変更 / 能の振付の矛盾 / テキストとちがう所 作 / 能の不条理 / 『実盛』に見る完璧な矛盾 はいしめに
話はかわって、イギリスの偉大な劇作家であったシェークスピアを、対照的な例としてあげ、 能とのちがいを見てみましよう。 シェークスビアの原文には、能楽と同様、ステージディレクション ( プロッキングともいし ます ) 、つまり役者の舞台上の振付が付録のように書いてあります。しかし、厳密にはどれが シェークスピア自身のプロッキング ( 振付 ) かを証明するのは難しいでしよう。というのも、エ リザベス一世時代 ( 一五三一一了一六〇一一 l) に存在していた他劇団の団長や役者のメモも、シェーク スピアの原文に混じっているかもしれないからです。プロッキングがシェークスピア自身によ って書かれたものであろうとなかろうと、文学作品に付随した歴史的な身体に関する情報であ ることには変わりはありません。このことを前提として話を進めます。 さて、このプロッキングは、現在の演出家によって、いかようにも変更することができます。 それがまさしくシェークスピア自身による振付であったとしても、無視してもかまわないこと 口になっています一。 入これは、能楽師の私から見ると驚愕に値します。四〇〇年つづく偉大な文学としてのシェー へ クスピアは君臨するのですが、振付は重要視しなくていいということのようです。イギリスで 面 内 のシェークスピア研究は原則的には、「演劇」ではなく「文学」の範疇であり、私が留学して いたころは、オックスフォード大学やケンプリッジ大学に演劇学部が存在せず、もつばら文学
とはいえ、現代演劇でも同様のことがあるという指摘もあるでしよう。たとえば劇中で用い られるガラスのダイヤモンドの指輪は、役者の演技力によって本物になります。高価なダイヤ モンドとしての説得力を劇中でもちはじめ、そこには虚構から現実への移行があります。しか し、能楽の作物とこれとは異なるものです。舟の作物を本物の舟であると演技で説得しようと する能楽師は少ないでしよう。舟は形体的に舟であることを説得しようという意図のもとにつ くられたものではありません。 それは、つくられる段階から舟の代用品として説得することを放棄した形体であり、芸術的 な身体性が、竹の枠にかかわっておこなう所作の妙味を観客が味わうためにあるオモチャなの こうしてみると、作物は能楽の歴史的美学が選択した玩具といえるでしよう。ネコが鞠をネ ズミがわりにもてあそんでいるごとく、鞠は作物にたとえられます。ネコと鞠の関係は、能楽 師と舟の関係に似ているかもしれません。ネコは鞠がネズミでないことを知っていますし、じ やれるのを見ている人もそれを知っています。そのうえでネコが鞠と戯れるのを楽しむことは 空できるのです。
これは文学空間で義経が何をしたかが書かれてあるのですが、それを翻訳する場合、常識で 考えれば、主役である義経は舞台の上を歩くという振付がほどこされます。それはあまりにも あたりまえのことで、疑う余地はありません。演劇の台本と役者の振付の関係は、明白でなけ ればならず、これが原点といえるでしよう。さらに、「義経が死んだ」というときには、義経 は死ななければならず、また「義経がコンビニに行った」というときには、義経はコンビニに 行くものです。 しかし、このことがかならずしもあてはまらないのが能なのです。能では、「義経が歩く」 とテキストから想定できても、舞台上で義経が歩くとはかぎりません。義経はじっと立ってい る場合があるのです。 これは大きな矛盾です。それどころか、むしろこのように矛する振付のほうが、ここぞと いうときの能楽のシーンに多いようです。 ロ現代劇の振付からすれば、この部分はもっとも理解しにくいところかもしれません。 入なぜなら、この部分こそ、テキストに準じた振付をほどこしやすい部分であり、「歩く」と ( 書いてあるのなら、どう考えても振付の立場からすれば、「待ってました」とばかり、主役を 内 歩かせるでしよう。、ゝ し力に変化をもたせて歩かせるかが、すぐれた演出家の腕の見せどころで あり、それをしないということは、演出上、何か欠落した印象を観客に与えてしまいかねませ
いることは注目に値します。梅若家『習物重習形附』の記述をそのまましめします。 の 7 / 応、ダ , / も主スを六らマ ◆・たたた・そ・たを応・を これは、「心」という字の形通りに杖をつきながら歩むというものです ( 図 2 ・ 3 ) 。ただこの 演出は、シテの真上から見下ろした場合のみ、それもシテが静止して杖を動かして、はじめて なんとなくわかるていどの動きであり、まして通常、観客席から見ていてもぜったいにわかる ものではありません。この意図がシテに内化してはじめて、それが意味をもちはじめるといえ るでしよう。この秘密が実際に観ている観客にどこまで芸術的に効力があるのかが、この本の テーマです。 海外演劇の振付
ん。 現代演劇にも、矛盾を生かすということがあります。たとえば、劇作家サミュエル・ べケットの作品『ゴドーを待ちながら』がそれにあたります。最後の台詞で、べケットは二人 の役者に「ではそろそろ行こうか」「じゃあ行こう」と言わせておきながら、二人を歩かせな い演出を選んでいます。有名なラストシーンです。 VLADIMIR 】 Well? Shall we g02 ESTRAGON 】 Yes. let's go. 〔 They do not move. 〕 ここでもし、「じゃあ行こう」の直後に〔〕がなければ、べケットのこの戯曲の最後は、よ んの変哲もない凡庸なものに終わっていたでしよう。 一一人の登場人物は、これからどこかへ行こうとしているのです。それは台詞から予測できる 戯曲中の動きです。しかし、ここではべケットの〔 They do not move. 〕という驚くべきプロ ッキングによって、つまり役者を動かさせないことによって、なんとも不思議な印象を与えて くれます。
はい ) めに コーヒーカップの身体性 私はロンドンに留学していたとき、イギリス人のある著名な演出家に、こんな質問をしてみ たことがあります。「能楽の達人と。ハントマイムの達人が、コーヒーを飮もうとしている」と はじまる、一種のゲーム感覚の質問でした。 「ふつうにコーヒーを飲むしぐさをすることを前提としたとき、両者にはたしてどれほどの 芸術的なちがいが生じるだろうか ? 」 状况設定はつぎのようなものでした。 「二人はコーヒーを飮もうとしている。一一人は物語の登場人物ではない。 戯曲としての脈絡 は彼らには与えられていない。彼らはふつうの人として、いまからコーヒーを飮もうとしてい にるだけである。悲しい気分で、喜びながら、怒りながら、あるいは失恋した相手を思いながら、 じという感情ではコーヒーを飮みにくくなっている。しかし、物語がないからといって、ありき たりな日常であってもならない。 つまり、一一人には演劇の物語も与えられていないと同時に、
変更することはひかえなければなりません。 このように書いてしまうと、なにやら能における制限のみが耳について、芸術にもっとも重 要な「創造性と自由」という問題を阻んでいる、と思われるかもしれません。しかし、考え方 によってはそうでもないのです。ただ「型を変更する」という、現代演劇にはスッとあてはま る概念そのものが、能楽にはそのままあてはめにくいのかもしれません。能ではあるていど型 を固定する必要があります。現代劇では冒頭のコーヒーを飲むという所作に、冫淵が顔をのぞか せたとしても、つぎの公演ではそれとは変わった演出のことを考える傾向があるかもしれませ ん。コーヒー飮みをオレンジジース飲みに変えることはそれなりに意義のあることですが、 能の場合、内面の変化を探ることが主であり、コーヒーはコーヒーとして固定しておくことが 内面を選択するうえでの固定された参照点として重要なのです。 また構造上のことですが、先ほどふれた文学の世界の想定された動きと、それを翻訳して舞 台に乗せる振付の、不思議な乖離が能の型をひんばんに変換できない原因になっているように 思えます。 能の振付の矛盾 たとえば、能のテキストに「義経が歩いた」と書いてあったとします。