能楽以前の儀式 さて、能楽のおもしろさを知っていただくために、能楽以前の儀式を見ていくことにしまし よう。ある意味で原点を探ることにより、能の根本にふれようと思っています。 おきな ここで紹介するのは『翁』です。翁とは老年の男性を敬うときに使う一一 = ロ葉です。この曲にも 老人が登場するのですが、通常の能とはま「たく異なるものです。歴史的には、『翁』は翁猿 楽から発生しています。この曲は、他の能と異なり、物語が存在せず、さらに驚かされるのは、 台詞自体にも意味不明なものが多く含まれています。 1 章でのべた五つの分類の、どの範疇に も属さないものであり、特殊な位置にあるとされています。翁猿楽と能楽との関係を否定する 研究者もいるほどです。これについては 3 章でふれます。 まくしきじよ・つ シテ ( 主役 ) は舞台上で、観客に向かって「式尉」という翁専用の面をつけます ( 図 2 ・ 1 ) 。 この曲以外で観客に向かって能面がつけられることはありません。 『翁』は元来、室町時代よりはるか以前から、「咒師」といれわれた人々によって神社などで おこなわれていた宗教儀式から派生したもので、現在でも能楽師によって演じられています。 と - つりよ・つ 昔、『翁』はその座の「棟梁」でなければ演じることはできないといわれていました。
代の末だといわれていますが、先ほどの咒師が翁猿楽の根本です。 翁猿楽は宗教的な要素が強いことから、寺社や祭事で多くおこなわれていました。表章博士 によると、猿楽芸には、この翁猿楽と滑稽雑伎、歌舞を主体とする平安時代以来の猿楽芸とが 存在し、同じ場でおこなわれていたが、鎌倉時代初期までは祈疇色の強い翁猿楽が猿楽の本芸 であったとしながらも、その雑伎色の濃い猿楽芸が芸術的にしだいに発展し、世阿弥の時代に は猿楽の公演で翁を省いていたことをしめす記述が世阿弥の伝書『申楽談儀』 ( 世阿弥の芸術論。 次男・元能の聞き書き ) に見られます。 当世、京中、御前などにおいては、式三番、ことごとくなし 世阿弥が翁を重要視しているのにもかかわらず、当時でも省略していたことがうかがわれま 史式三番とは、現在の『翁』の形式と同じであり、登場人物は、 の 翁 能楽のシテ方によってじられる ( 翁の面をつける ) 楽 こくしきしょ・つ さんばそう ヒ匕 三番叟狂一一 = ロ方によって演じられる ( 黒式尉の面をつける ) せんざい 千歳観世、宝生ではシテ方によって、金春、金剛、喜多では狂一一一一口方によって演じられ す。 しきさんばん
シテを演じる能楽師は、いまでも、一カ 月前から女性との交渉を断っことが暗黙の うちに義務づけられているといわれており、 瑚古くは、公前に滝行に行ったシテもいた 万といいます。このことから、能楽師にとっ て『翁』は別格な曲であることがうかがわ 翁 れます。 まず、『翁』の中の「四日之式ーを解説 っー ) 亠ましょ , つ。 あけまく ⅷ楽屋の鏡の間 ( 揚幕の後側の部屋で、大 台きな鏡がシテのために置いてある ) では、 「翁飾り」が後見によって準備されます。 めんはこ 二段になった台の上段には面箱がおかれ、 さん その中には舞台で使う翁の面 ( 白式尉 ) 、三 ばそう 番叟 ( 三番三とも書く ) の面 ( 黒式尉 ) と鈴、 おきなおうぎ それに翁扇と翁烏帽子、三番叟の扇と烏帽
図 2.2 鏡の間での儀式 ( 御神酒を飲む千歳 ) そこで舞台に座り、深くお辞儀をします。こ れを「拝」といいます。拝が終わると所定の位 置まで歩み、両袖を巻き上げ、ふたたび座りま す。座るときに左膝を先につきます。 囃子と地謡がはじまり、やがて翁は謡いだし ます。 「と , っと , った「らり、た , りり「らた「りり、あかり 「り、りりと , つ」 翁のつぎに揚幕を上げて登場した千歳の舞が はじまります。千歳の舞の途中で、翁は前にお いてある面をとり、つけます。このとき、後方 に控えていた後見が、翁が面をつけるのを手伝 います。千歳の舞が終わるころには、翁は面を つけ終わっていて、いよいよ翁の舞に入ります。 躰ハソル心両眼ヲフサグ ( 梅若家『習
うかがひじように大切であることは いうまでもありません。 面のこと。翁は日光打。 近江には、赤鶴、鬼の面の上手 さるがくたんぎ 也。 ( 『申楽談儀』より ) この世阿弥の言葉からもわかるよ うに、一四世紀にすでにすぐれた面 打ちが存在していたことがわかりま す。翁の面は日光という作者のもの かいいといっています。また赤鶴という面打ちは近江に住んでいたようです。 能装束 一五ページ左の図は型附 ( 5 章参照 ) の中で『翁』のシテ ( 翁 ) 、ツレ ( 千歳 ) の扮装を記した部 分です。能面、烏帽子、太刀、扇、それに襟の色まで記されています。舞台上での実際の写真 かたづけ えり 図 1.8 『翁』シテ ( 梅若万佐晴 . 直面 ) ひためん せんざい
家の新築などで邪気を払うためのものでした。原形は中国にありますが、日本固有の鎮魂の作 しようゆうき 法ともいえ、それは宮廷に入っていました。『小右記』寛弘一一、三、八条には、一〇〇五年三 月、中宮の大原野社の参詣に、安倍晴明が反閉をおこなったとあります。 「咒禁」は翁猿楽にも受け継がれているといえるでしよう。 2 章で書いた『翁』の祈る内容 しいほどで が「天下泰平、国土安穏、今日の御祈疇」であり、咒師そのものであるといっても、 咒禁道が日本に伝来したのは、百済国から禅師、律師、比丘尼らとともに咒禁師が敏達天皇 のところへ来た ( 五七七年 ) のが最初だということです。これらの人々は寺院仏教関係者の一群 だとみられています。その咒禁師の流れが、咒師法を生み、古密教となったと考えられていま これに対して、猿楽咒師は、古密教的な咒術をより一般人に提示できるように、純粋儀式で はなく、表現を加えたもので儀式をおこなった可能性があるといわれています。たとえば、武 者手、剣手、大唐文珠手、かたさらは手といった芸を見せていました。 翁猿楽 翁猿楽というものがあります。翁田楽という言い方はありません。翁猿楽の成立は平安時 おきな
おみき 子が祀られています。下の段には、御神酒、盃、塩、米、火打石が飾ってあります。 こつづみとうどり せんざい 後見は、装束を着た翁、千歳、三番叟、面箱、笛、小鼓 ( 頭取 ) 、大鼓、太鼓、脇鼓二人、 ーの順に、御神酒とお米、それに塩を携えてさ シテ後見 ( 自身 ) 、狂一言後見、地謡の他のメンバ しだします。さしだされたら、翁はまず盃をとり、御神酒を注いでもらい、飮みます。その後 お米を少々手に取って口に含み、最後に塩を左肩と右肩にまきます。これを出演者全員が順番 におこなうのです ( 図 2 ・ 2 ) 。全員が終わったら、後見は火打石で御神酒と同じ順番で出演者 全員を清めます。 つぎに舞台を清めます。揚幕の脇から舞台に向かって火打石を三回打ちます。そして舞台の 反対側に行って切戸から手だけ舞台に突きだして、もう一度、火打石を三回打ちます。 面の中で「両眼ヲフサグ」 さあ、ここから『翁』がはじまります。揚幕の後ろで出番を待っ登場人物たちは、面箱、翁、 千歳という順に並んでいます。 翁が「お幕ーと声をかけ、幕が上がります。 翁は左足から歩みはじめます。橋掛りをゆっくり歩み、舞台に入ります。舞台中央で真正面 に向き、前のほうに歩み、左足で止まります。シテは左足で歩みはじめ、左足で止まるのです。 わきつづみ
ひためん る ( 直面Ⅱ面をつけない ) 面箱狂言方によって演じられる ( 直面 ) の構成になっています。 鎌倉時代にはさらに えんめいかしゃ 延命冠者 ちちのじよう 父尉 」現在の四人の役が主流になって の役が定形として、記録で確認されています。それがしだいに いきました。能勢朝次博士も、翁猿楽は平安時代の末期には存在していたとは文献にも見られ、 「とうとうたらり」という翁の謡いだしの台詞もそのころ確立されていたとしています。その 証拠に、『法華五部九巻書』につぎの記述があります。 千里也多楽里、多楽有楽、多楽有楽、我里里有、百百百多楽里、多楽有楽 ( チリヤタラリ、タラアリャラ、タラアリャラ、ガリリアリ、トウトウトウタラリ、タラ アリャラ ) これは現在、能楽師によって演じられている翁の台詞とほぼ同じです。以上で、芸能の歴史 めんはこ
翁 ( 白式尉 ) 弱法師
物重習型附』より ) ここに記したのは、翁が最初正面に向いて舞いはじめたときの動作です。 「両眼ヲフサグ」という部分に注目してください。この矛盾をおわかりいただけるでしよう ゝ 0 翁は白式尉という面をつけています。ということは、シテの顔は観客からは見えないわけで す。面をつけて両方の眼を閉じても、意味のないことではないでしようか。またその前の「躰 ハソル心」も、同様に意味をなしません。「躰ハソル心」も同様に「体を反る」という実際の しぐさを能楽師に要求しているわけではありません。文字どおり「体を反らせる」のではなく、 身を反る「意図」のほうに重点がおかれているのです。 つまり動きをしないで、その内的な衝動のみを演じ手が実感することが、ここでは要求され ています。これができることを前提として、型附は書かれています。型附はここで、シテに大 変な内的な技術を要求しているのです。 内面の動きともいえるこれは、演者がその動き自体を実際におこなわずに、内部でおこなう というある種の「意図」であると規定しておきましよう。外がじっとしているのに対して、内 が動いている状態、つまり実際に身体を反らすのではなく、「反る」ことの意図が内部の動き ものおもならいかたづけ