はつおもて の役を卒業する一種の儀式に「初面」というものがあります。室町時代から大きさがほば決ま っている能面は、子どもには大きすぎることから、子どもが成長し、思春期を迎える前後、つ まり体が能面に合うようになるころ、はじめて能面を舞台でつけるのです。これが「初面」で しやっきよう 私自身も一四歳のときに、『石橋』という能で初面をすませました。そのときに、父が打っ た面をプレゼントしてもらったことを覚えています。はじめて自分で所有する能面でした ( 図 1 ・ 7 右上 ) 。 能面を大きく分類すると、つぎのようになります。 まず、尉という老人系の面があります ( 図 1 ・ 7 ) 。小尉、朝倉尉、三光尉、笑尉などです。 しゆら これらは脇能や修羅能のシテが、能の前半の化身のときにつける場合が多いものです。悪尉と うものもあります。小尉などとくらべると、はるかにおどろおどろしい表情をしています。 こおもてわかおんなぞうまごじろう つぎに、女面の系統があります。小面、若女、増、孫次郎はすべて気品にちた若く美しい おうみおんな 女性です。近江女だけは例外で、わざと庶民的になっているように思われます。 深井という面は同じく気品に満ちた女性ではありますが、中年の女性をあらわしています。 その深井と表情が類似している面に、曲見という面があります。これは深井よりも表情が強い でいがん のが特徴です。泥眼という面は、目が金色であり、これは現実の女性ではないことを表現して しやくみ あさくら さんこう
0 日 09 小面 曲見 小獅子 図 1.7 いろいろな能面 ( 小獅子と小尉は梅若猶義作 , 人作 ) 他 6 点は岩崎久
梅若猶彦を読む のひとつで、わずかですが逆流がおきていることが見つかったのです。もれの量からして、 日常生活に支障はないとのことですが、このような状態で、はたしてあのはげしい乱拍子 を含んだ『道成寺』の舞台を全うすることができるのだろうか : 私たちが、こうした波乱に満ちた取材をつづけるなかでとくに注意をひいたのは、彼が 毎日、立禅をしていたことです。能は ( 直面の能は別ですが ) 、観客にメッセージを送ると き、ふつうならもっとも効果的な身体表現である自らの表情の変化を使えません。もちろ ん、能面には微妙な深い表情が可能性として刻みこまれているのでしよう。梅若さんは自 分の内面をギリギリまで研ぎすましてはじめて、能面に命を通わせ、深い生きたメッセー ジを送ることができると考えたのではないでしようか。芸事はたえず形骸化の危機にさら されています。その落とし穴に落ちこまないように、立禅の修行を通して内面の状態を鍛 えているのだろう、とそのときは思いました。いろいろなことがありましたが、とにかく 私たちは梅若猶彦さんが『道成寺』の本舞台で、首を折るリスクもあるという「鐘入り」 を見事にはたすまでを取材させていただくことができたのです。 その後梅若さんはロンドン大学に留学されたり、日本に帰ってさまざまな舞台を演じて おられましたが、いまから三、四年ほど前、久しぶりにお電話をいただきました。能舞台 で集中してシテの役柄になりきるとき、かならずある特別の状態を体験するようになった、 181
能の空間 冷たい空間 / 能舞台の構造 / 鏡板 / 役柄と囃子 / 能面につ いて / 能装束 / 作物 / 『道成寺』の鐘 / 作物と身体の関係 / 演目の分類 2 内面への入リロ 能楽以前の儀式 / 面の中で「両眼ヲフサグ」 / 海外演劇の 振付 / 振付の変更 / 能の振付の矛盾 / テキストとちがう所 作 / 能の不条理 / 『実盛』に見る完璧な矛盾 はいしめに
力が感じられなくても、そんなものかなと思う」ということです。この意見に私は、驚きと同 時に、能楽のもっている問題が浮き彫りにされたという感じをもちました。 『リア』では、それがたとえどれだけ難しい身体性であったとしても、またそれが抽象的で あったても、現代劇の枠で見ているかぎり、身体性が舞台上で効力をしめしているかどうかの 判断はできるわけです。しかし、伝統的な能楽である場合、ましてそれに慣れ親しんでいない 観客は、能面や装束で武装した演者に対しては、判断を保留にするということです。それがお もしろくなくても、「『羽衣』はこんなものか」という理由とともに。 このとき以来、私は表面上の演技や心理は二の次にして、内面の操作を最優先することにし たのです。そして、なんの動作もしていないときでも、内面がいかに強烈な印象を与えるかを 知ったのです。ちなみに『リア』の王は面をつけているので、顔の表情は外にはわかりません。 体内面の操作は、身体の動きの速い遅い、大きい小さい、公場所の広さなどに関係なく発揮 のされるものだということも、しだいにわかりました。さらにいえば、大きい動きよりも小さい し動き、小さい動きよりも動かぬことによりカがあるように思われます。これは内面の驚異的な 体 力といえるでしよう。奥義を知っている能楽師は、大きく華やかな動きを嫌う傾向にあります。 現 表 というのは、小さな動きで強烈な印象を与える秘密を知ってしまったいま、あえてそれ以外の ことをする必要がないからです。 105
ずです。逆に十分習熟した内部モデルにしたがって行動するとき、前頭前野はあまりはた らかずにすむのかもしれません。考えてみれば、本舞台で前頭前野をフルに使って ( 頭で 考えて ) いるようでは、見応えのある演技ができるはずはありません。前頭前野などまっ く動員する必要がなくなっていることが、理想の境地なのではないでしようか。 前にも書きましたように、一般に能では自らの表情をあえて使いません。顔以外の身体 表現を通して、ある意味で抽象的な能面に熱い血潮を通わせなければなりません。そのた めに、オー 、皀ま也の芸能にもまして、行為の内部モデ ーな身体表現をするのではなくム月 ( イ ルをきびしく純化していく道をめざしたのではないでしようか。梅若さんが特別の状態に 入るとき、前頭前野で血流が低下する一方で、運動をおこす運動野と、自分の身体がどの ような状態にあり、いまどんな動きをしているかをモニターする体性感覚野でいちじるし く血流が増加するということは、研ぎすまされた内部モデルを不純物なしに行為に移せる ような、最高の凖備状態ができていることをしめしているのではないでしようか。心と身 体がすきまなく一体化した「心身一如」の状態といえるかもしれません。 もちろんすぐれたスポーツマンも、連動の内部モデルを鍛えているはずですが、能がス ポーツとちがうのは、もとより、人間の心を表現することでしよう。梅若猶彦さんは、 ( います。しかしその内面性は、おそらく意識を使ってあれこ 「能は内面性が大事だ」と、 186
る檜が主流となったのだろうということです。そ れに檜の寿命は抜群に長いからでしよう。 能面の特徴は、あたりまえのことですが「顔」 を扱っている点です。人の心が表出しやすい場所 が顔であり、面打ちは生涯顔を彫りつづけるので す ( 図 1 ・ 6 ) 。 崎面打ちはそれ自体が立派な職業であり、観阿弥 一三三三、八四、観世家の始祖 ) や世阿弥も能面を 面打っことはありませんでした。能楽師と面打ちの 6 探求は、それらの技術体系がまったく異なるため をしーなド図に、たとえ能に対する美意識の一致があったとし ても両者は異なるものであることはいうまでもあ りません。しかし、能楽師でも能面を打っていた なおよし 人もいました。私の父、梅若猶義も能面を打って いたひとりです。 ところで、子どもが担当する「子方」という能 こかた かんあみ
えてくるような錯覚をおこさせることができるのです。 しかし、そのようなすぐれた演技であっても、すでに首を失っているはずの死者が自分の頭 を洗うという、どうしようもない矛盾はどうなるのでしようか。なぜなら、演者であるシテの 実盛には、とうぜん能面をつけた首がついているからです。つまり、この段階では ( 観客から 見れば ) 、洗われている想像上の首と、シテ実盛の亡霊の首の二つの存在を認知するからです。 そしてこの矛盾こそ、能の深淵への迷路だといえます。 これに類似するシーンを実際に演劇として成立させているものを私は知りません。歌舞伎の 『寺子屋』やオスカー ・ワイルドの『サロメ』は、生首を対象物化することで、それを解決し ています。つまり人形の首を小道具として使用する手法です。 おもしろいことに、『実盛』のこの矛盾は、テキストを読んでいてあらわれるわけではあり ません。純粋にテキストを読んでいてもわからない、隠れた部分としてそれは存在します。た とえば、問題のシーンで亡霊がじっと座ったまま、地謡のみで首を洗う部分を振付なしですま せてしまうやりかたもあるでしよう。これはどちらかというと『平家物語』風の演出、つまり 「語り」だけにすることにより、矛盾は避けられます。「語り物」として処理されるわけですか しかし、主役の亡霊が自分で自分の首を洗いはじめるとき 、能にしか存在しない特別な場面
おんながさとりかぶとてんがん イ豆にかぶるもので透冠、唐冠、初冠、烏帽子、女笠、鳥兜、天冠 ( 図 1 ・ⅱ参照 ) な どがあります。 ところで、能装束を着るさい、下着である肌襦袢から最後のできあがりまで、略式はいっさ 、許されません。シテヘの装東着けは、三、四人がかりで厳格におこなわれます。装東の種類 によって異なりますが、ふつう開演の四〇分から一時間前から着けはじめます。 作物 能舞台に舞台装置や大道具がないのは、すでに述べたとおりです。しかけは何もありません。 つくりもの しかし、ひとつだけ例外があります。それは作物といわれているものです。 能面や能装束は身につけるものであり、直接肉体にまとうものです。しかし、作物は体にま とうものではなく、舞台上に置いておくものです。 作物は、能面や能装東などとは本質的にまったく異なったものです。私は作物に関する書物 を見たことがありません。それは作物の文化財的な価値がゼロだからでしよう。もちろん演出 空上では重要なものであることはわかっています。作物がないと能楽は成り立ちません。しかし、 能能面と作物のどちらが重要かと問われると、迷うことなくすべての能楽師は能面と答えるでし よう。だからこそ、逆にここで作物のことをたくさんお話したいと思います。 —> ニ一口 すきかんむりと・つ
います。 老年の女性の面は、老女、婆などです。 はたち かっしき へいたちゅうしよう 男面には、平太、中将、十六、一一十余り、童子、喝食、やせ男などがあります。 はんにや とびで へしみ 鬼神系の面もあり、それらは、應見系、飛出、獅子ロ、小獅子、般若などです。 おきなかげきょやまんばよろほししようしよう 他にもそれぞれの曲に専用で使われる面が存在します。翁、景清、山姥、弱法師、猩々など は専用面で、その曲の名前が面の名前にもなっています。 能面は、同じ系統であるものは、どの面を使うかをシテが選べる場合があります。たとえば 『屋島』の前シテで、同じ尉系統である朝倉尉か三光尉のどちらを使うかは、シテが決めてよ いことになっています。女性の能面も選択肢は多く、能面は演出にも影響するため、どれを使 ) 、【上谷 1 、ア寸シイ・亠鈴「人ーー