鑑賞者側の「妙位」も、けっして消極的な受身で「妙位」の状態に入るのではありません。 表現者 ( 能楽師 ) のすぐれた身体性を目撃することによって、観客が能動的に「妙位」を共有す る状態になると考えられます。そのためには、鑑賞者自身が見る者としての「妙位」に入るこ とができなければなりません。 後者にとっての「妙位」とは、観客が深淵な能を鑑賞したときに「なんという妙位な姿なの か」といった形容とともに入る能動的な状態であると思います。 一方、表現者にとっての「妙位」とは、所作の出所であり、動きのイン。ハルスであり、身体 性の原因です。少々おおげさかもしれませんが、「妙」は主体と客体をある意味で超える観念 かもしれません。 また、「妙」よりもさらにこの手の曲芸をやってのける観念があるのはおわかりだと思いま す。それが「無」です。 求さて、これから、「妙」とくらべて「幽玄」について、もういちど述べます。 の「幽玄」をいままでとちが「た別の角度からとらえることにより、その実体が少しでも明ら 無 かになればと思うからです。 先ほどの引用を見ると、同じ意味にもとらえられがちな「幽玄」と「妙」は、世阿弥にとっ 163
いることは注目に値します。梅若家『習物重習形附』の記述をそのまましめします。 の 7 / 応、ダ , / も主スを六らマ ◆・たたた・そ・たを応・を これは、「心」という字の形通りに杖をつきながら歩むというものです ( 図 2 ・ 3 ) 。ただこの 演出は、シテの真上から見下ろした場合のみ、それもシテが静止して杖を動かして、はじめて なんとなくわかるていどの動きであり、まして通常、観客席から見ていてもぜったいにわかる ものではありません。この意図がシテに内化してはじめて、それが意味をもちはじめるといえ るでしよう。この秘密が実際に観ている観客にどこまで芸術的に効力があるのかが、この本の テーマです。 海外演劇の振付
しかし、なぜそのようなことがおこるのかという説明は、世阿弥の疑問符で終わっています。 つまり、ここでその説明は世阿弥自身にとっても限界に到達しているのです。 心はなくて面白とうけがうは何物ぞ。 ( 『拾玉得花』より ) つまり無心の状態であるのに、その能を観客がおもしろいと感じるのは、いオ い何のはたらきであろうか。 「妙」のニ面性 まず、「妙」と「幽玄」の美を語る場合、最初にどの環境でその観念が作用しているのかを 特定することからはじめなければなりません。美の環境設定の場は、、 しわずもがな、二カ所あ ります。「表現にかかわる場」と「鑑賞にかかわる場」です。 おそらく「妙位」という能の特殊な美的状態は、表現者にも、また鑑賞者にも作用する美で あるらしく、二つの異なった場にまたがって、有効性をしめすことが「妙位」という観念をま すます難解にしているともいえます。つまり、「妙位」は表現者の内的な原理として機能する かと思えば、それとはまったく異なる場である、鑑賞者側の感嘆の形容詞としても存在するの 162
「さてまた浦は荒磯に、寄する波も聞ゆるは」 という部分があります。この場合は身体の振付ではありませんが、それに近いものがあります。 楽器の大鼓が、「寄する」の部分で「ヨセ」という音符を打ちます。しかし先の「ツュ」と同 様、これも「波の寄せる」のと、音符の「ヨセーはまったく何の関係もありません。 こうなると、「ヨセ」という音符を知っている一部の観客と、それを知っている演者のイン サイダージョークに思えてきます。そ 0 一れでいて『景清』では、前述の『松 若風』と同じように、この部分が観る人 ・澈の心を打つ重要な場面でもあるのです。 私はこのような一見矛盾する数百年 ~ を前の演出を見せつけられるとき、その のすばらしさと深さに感激します。不思 せ議なことに、それが曲に芸術的な効果 一寄を付与する場合が多いことから、なお : さらなのです
演目の分類 上演されている能楽の目は、 若室町時代からあった分類方法がい までもあてはまり、つぎのように シ 整理することができます。 脇能Ⅱ神が登場する能 ヒヒ ム月 2 修羅能Ⅱ『平家物語』から 羅 修題材を得ている亡霊武者の能 を代表としたもの 図 鬘物Ⅱ亡霊の女性の能、ま たは女性の能 4 現在物、狂女物Ⅱ狂った女性の能 ( 少ないが男性の場合もある ) 、または現存する主人公 の能樹木の精などもここに入る とおる きりのう 切能、五番目物Ⅱ天狗や龍神の能。『融』などは昔は鬼が登場していたということから 例外的にここに入る 室町時代から能楽の公演はこの順でおこなわれ、観客が能を観るときの生理的リズムの順応
議な説得力、魅力と関係があります。 これが武術の動きの「含み」であり、「間接性」です。目の前でくりひろげられる動きの美 しさとともに、それが「強者」であるという間接的な暗示が観客に与えられます。実際の空手 の型の美しさと、型が実戦に遭遇したときの応用性が別のものであったとしてもです。動きの 美しさと「強者」との関係は一兀来不安定なものであり、美しさと強さの両立が最終目的でない のが武術でもあるのです。 一般に肉体的「強者ーへの探求は、どことなく泥臭さが抜けない場合が多く、それを美と融 合させられる人は稀有であり、ヘビー級ボクサーでもつねに美をともなって相手に勝てた選手 は、一世紀に数人しか存在しません。 また、型と実際の試合も異なるでしよう。 実際に戦っている場合の身体は、最低一一人であり、ひとりの選手が観客の目を独占すること はめずらしく、美を鑑賞する余裕も観客にはなくなってきます。ボクシングの試合中に、ひと 求りだけの選手の動きの美しさを鑑賞することは、勝ち負けが問題となっている場では無意味に のひびきます。 無 空手の型やシャドーボクシングを美しいと感じる観客の目を支えているのは、それらの動き がもっ含みであるのに対して、実際に型がその含みを失うときが実戦だからです。含みとして 171
た。ちなみに、歌舞伎の花道は能舞台の 橋掛りを模したものであることはいうま でもありません。 現在の構造になってからの能舞台で最 古のものは、秀吉がつくったとされる西 台本願寺の北能舞台です ( 図 ) 。数あ る古い能舞台のなかでも絶品は、瀬戸内 いつくしま 寺海の宮島の厳島神社にある能舞台でしょ う ( 本章扉 ) 。これは舞台と観客席のあい だが庭ではなく、海になっているのです。 , ) " 【図これを考えた人はなんという想像力をも っていたのでしよう。 現代の能舞台は能楽堂と呼ばれ、鉄筋 コンクリート の建物の中に屋根っきの能 舞台と、もとは別棟だった観客席がいっ しょになっています ( 図 1 ・ 1 参照 ) 。
舞において、目前心後ということがある。「目は前方を向いているが、心は自分の後ろに おけということだ。 ( 中略 ) 観客席から見られている自分の姿は、離れて人から見られている自分の姿、つまり離見な のだ。 これに対して、自分の目で自分を見ようとする意識は我見である。それは離見で見ている のではよ、。 離見で見るということは、観客と同じ意識で見るということである。このとき自分のほん とうの姿がわかるのだ。 その位に達すれば、目を正面に向けていなから、目を動かすことなく意識を左右前後に向 けることができる、つまり自由自在に自分を見ることもできるのだ。しかし、多くの役者 は目を前にすえて、左右を見ることはできても、自分の後ろ姿まで見ることができる段階 には ~ していよ、。 自分の後ろ姿を知らなければ、身体の俗の部分は自覚できないのだ。 身体性の歴史は内面探求の軌跡 世阿弥の芸術論は表現者によって書かれた、表現者のための書であり、その秘伝書の最大の 176
動き自体は少し曖昧に、内部の動きが実際の動きの後からついてくるような感じでおこない ます。きっかけ、所作の最初と最後は、観客にはわからないようにしたほうが深みが出ます。 世阿弥は、心理の動きすら、自己目的化して外に出すことを嫌っています。 世阿弥の言葉を借りましよう。 かきよう 無心の位にて、我心をわれにも隠す安心にて ( 『花鏡』より ) この場合、隠す相手は観客から自分へと移行する、つまり最終的には自分自身にも隠す段階 という意味で、驚愕に値する一 = ロ葉です。 演劇とは異なりますが、王齋の言葉につぎのものがあります。 体 の拳法の瞑想中には、自分の内面の動きを外に読まれないようにする と 体 これも見事な一言葉です。演劇においてもこの格言は応用できるわけで、身体から不用意に垂 現 表れ流される心理は歓迎できないということです。芸術の根本である意図的な内面の表象とはお そらく、しまりのある身体性をつくりあげることが前提として成就するのです。 109
能楽以前の儀式 さて、能楽のおもしろさを知っていただくために、能楽以前の儀式を見ていくことにしまし よう。ある意味で原点を探ることにより、能の根本にふれようと思っています。 おきな ここで紹介するのは『翁』です。翁とは老年の男性を敬うときに使う一一 = ロ葉です。この曲にも 老人が登場するのですが、通常の能とはま「たく異なるものです。歴史的には、『翁』は翁猿 楽から発生しています。この曲は、他の能と異なり、物語が存在せず、さらに驚かされるのは、 台詞自体にも意味不明なものが多く含まれています。 1 章でのべた五つの分類の、どの範疇に も属さないものであり、特殊な位置にあるとされています。翁猿楽と能楽との関係を否定する 研究者もいるほどです。これについては 3 章でふれます。 まくしきじよ・つ シテ ( 主役 ) は舞台上で、観客に向かって「式尉」という翁専用の面をつけます ( 図 2 ・ 1 ) 。 この曲以外で観客に向かって能面がつけられることはありません。 『翁』は元来、室町時代よりはるか以前から、「咒師」といれわれた人々によって神社などで おこなわれていた宗教儀式から派生したもので、現在でも能楽師によって演じられています。 と - つりよ・つ 昔、『翁』はその座の「棟梁」でなければ演じることはできないといわれていました。