身体的 - みる会図書館


検索対象: 能楽への招待
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1. 能楽への招待

鑑賞者側の「妙位」も、けっして消極的な受身で「妙位」の状態に入るのではありません。 表現者 ( 能楽師 ) のすぐれた身体性を目撃することによって、観客が能動的に「妙位」を共有す る状態になると考えられます。そのためには、鑑賞者自身が見る者としての「妙位」に入るこ とができなければなりません。 後者にとっての「妙位」とは、観客が深淵な能を鑑賞したときに「なんという妙位な姿なの か」といった形容とともに入る能動的な状態であると思います。 一方、表現者にとっての「妙位」とは、所作の出所であり、動きのイン。ハルスであり、身体 性の原因です。少々おおげさかもしれませんが、「妙」は主体と客体をある意味で超える観念 かもしれません。 また、「妙」よりもさらにこの手の曲芸をやってのける観念があるのはおわかりだと思いま す。それが「無」です。 求さて、これから、「妙」とくらべて「幽玄」について、もういちど述べます。 の「幽玄」をいままでとちが「た別の角度からとらえることにより、その実体が少しでも明ら 無 かになればと思うからです。 先ほどの引用を見ると、同じ意味にもとらえられがちな「幽玄」と「妙」は、世阿弥にとっ 163

2. 能楽への招待

能と武芸は、伝承の装置であるメタファーを共有していることはすでに述べました。このこ とはそれによってできあがってくる身体性も無関係であるはずはありません。深い部分ではそ の差異はないかもしれません。しかし、だからといって二つを頭から同定することはひかえた ほうがいいでしよう。 一部の舞踊では、武術という歴史的な身体的叡智の宝庫からの動きを引用することによって、 その舞踊に身体的な説得力をもたせようとする場合もあります。東南アジアに存在するすぐれ たいくつかの舞踊はこの種のものです。これはある意味で、それほど武術の身体性は魅力的で あるということでもあります。 具体的には、武術的に修練された身体が放つ、動きの強弱や緩急の度合、また身体そのもの が描く弧や直線は、見ていてもすばらしいものです。 ここで空手の「型」を例にとりましよう。 それでいて空手の型に必要なすべての身体能力をもったダンス 空手とまったく関係のない、 を、空手の横にもってきたとします。おもしろさの点からみれば、おのずと空手の型のほうに 軍配があがります。二つの運動能力としての価値がほとんど同じであったと仮定してもです。 それは、空手の型の価値の評価が、その動き自体にあるのではなく、その動きが戦いのとき に応用される効力を前提としているからです。このことは、暴力というものがもっている不思 170

3. 能楽への招待

はじめて真理となるものです。身体性によってのみ真実が具現化するしくみこそが日本の身体 芸術の特徴だと考えています。 こうしてみると、身体芸術においては、型の歴史性やストーリー と無関係な実体のないもの の真理化こそが「秘伝」であり、つまり内面の操作のみによって顕現する「何か」としてコー ヒーがあったのです。 身体の負荷 コーヒーの型であろうと、伝統的な型、たとえば先ほどのサシ込ヒラキであろうと ( 身体が それらの型を「なぞる」わけですが ) 、そのとき身体が型からほとんど負荷を受けていないこ とが両方の共通点です。これは型そのものの単純さが、型の反復練習をしたとしても、そこに 体身体的な充実感を味わえなくしているのです。動くことによる充実感がないということです。 のとはいえ、コーヒーの所作を深みのある動きにしあげるために、何万回コーヒー飮みの練習を ししたとしても、深みに到達することはできません。 体極論のようですが、コーヒー飲みと同じ部類の型がサシ込ヒラキであり、その意味でサシ込 表 ヒラキの上達も、かならずしも型の反復練習の数には比例しません。 バレエのアラベスクやポイントといった、その型自体をおこなうことがたいへんな修練とな 113

4. 能楽への招待

やはりここでも「無心」は効力を発揮しているのがわかります。「無ーの具体性のなさの勝 利です。 さて、ここで「無心」を「幽玄」と入れかえてみましよう。 禅師「歴史性がなくなっていくのは大歓迎だ。身体的な充実感がなくなることも歓迎しな これから幽玄を内面に宿らせることのみを考えればよい。充実感がないことをあ などるな。ときにはフワフワ飛んでいる蝶でも巌にくいこむことがあるのだ」 たちまちにして私は、この禅師の答えに少し違和感を感じるのです。先ほど述べたように、 おそらくかぎりなく深い言葉である「幽玄」にも、微量の美しさの意識が含まれていて、この ような究極の場に遭遇している人間にとっては、「幽玄」そのものが含みうる若干の美の具体 性が逆に足手まといになるのではないでしようか では、「幽玄」よりもさらに具体性のあるものをここに挿入してみましよう。「色気」です。 禅師「歴史性がなくなっていくのは大歓迎だ。身体的な充実感がなくなることも歓迎しな これから色気を内面に宿らせることのみを考えればよい。充実感がないことをあ 168

5. 能楽への招待

に、外部の型の重要性ばかりを説きます。型を練習すれば、内面は後からくつついてくる、と いうわけです。 それも一理あります。ただ、ロをそろえて言うその画一性に、私は驚きを禁じえません。そ こには型に対するある種の信仰のようなものが存在するとさえ思えてきます。 しかし型は本来、手段であって、最高の目的ではないはずです。 「日本文化は一般的に型を所有する文化である。一分野の実践者たるものは、自分の身体と 心を修業の段階で内的な本質へ直接向かわせるのではなく、外部に具体的に存在する型を熟視 し、型の本質へ到達しなければならない。 型は本質への道筋であるとともに、本質そのもので もあると言える。型は内面の表現であり、型は内面を保証する。型の内部にこそ、その歴史と ともに本質は存在する」。 これは私が適当に書いたものですが、この「精神界への整理券」は、ある種の保証として機 能し、型の裏に書いてある効能書きでもあるのです。私はこれを信用していません。 世阿弥は、その芸術論を見るかぎり、型への信仰は皆無であるとさえ思います。世阿弥の最 高の美である「妙花」は「形なき姿」でした。それは型への信仰がなかったことを暗示してい ます。 もっとも、世阿弥の一一曲三体論 ( 舞と謡の一一曲と、老体と女体と軍体の三体が基本だとする

6. 能楽への招待

写真撮影 無への探求 能と禅の関係 / 精神と技術に思想提供した禅 / 「無」は粋 なもの / インターネット上の「無」 / 世阿弥の芸術論 / 世 阿弥の「幽玄」 / 「幽玄」から「妙」へ / 「妙」の二面性 / 「無心」と「幽玄」のちがい / 能は武術的か ? / 身体と鏡 / 能楽師と鏡 / 身体性の歴史は内面探求の軌跡 梅若猶彦を読む 高尾正克・ あとがき 岩尾克治 ( 図 1 1 ・ 4 、 1 ・ 7 右の一一点 ) 安藤楼蘭 ( 図 1 ・ 5 、 1 ・ 6 、 1 ・ 7 、 1 ・ 4 章扉、 5 章扉、 5 ・ 1 ) 前島久男 ( 図 1 ・ 8 、 1 ・ 9 、 1 ・ 1 右上と下、 2 ・ 1 、 2 ・ 2 、 5 ・ 3 ) ウシマド ( 図 1 ・Ⅱ左、 森田拾史郎 ( 図 1 ・ ) z エンタープライズ「人体」 ( 図 1 ・Ⅱ右 ) 1 ア 9 リア VIII

7. 能楽への招待

ずです。逆に十分習熟した内部モデルにしたがって行動するとき、前頭前野はあまりはた らかずにすむのかもしれません。考えてみれば、本舞台で前頭前野をフルに使って ( 頭で 考えて ) いるようでは、見応えのある演技ができるはずはありません。前頭前野などまっ く動員する必要がなくなっていることが、理想の境地なのではないでしようか。 前にも書きましたように、一般に能では自らの表情をあえて使いません。顔以外の身体 表現を通して、ある意味で抽象的な能面に熱い血潮を通わせなければなりません。そのた めに、オー 、皀ま也の芸能にもまして、行為の内部モデ ーな身体表現をするのではなくム月 ( イ ルをきびしく純化していく道をめざしたのではないでしようか。梅若さんが特別の状態に 入るとき、前頭前野で血流が低下する一方で、運動をおこす運動野と、自分の身体がどの ような状態にあり、いまどんな動きをしているかをモニターする体性感覚野でいちじるし く血流が増加するということは、研ぎすまされた内部モデルを不純物なしに行為に移せる ような、最高の凖備状態ができていることをしめしているのではないでしようか。心と身 体がすきまなく一体化した「心身一如」の状態といえるかもしれません。 もちろんすぐれたスポーツマンも、連動の内部モデルを鍛えているはずですが、能がス ポーツとちがうのは、もとより、人間の心を表現することでしよう。梅若猶彦さんは、 ( います。しかしその内面性は、おそらく意識を使ってあれこ 「能は内面性が大事だ」と、 186

8. 能楽への招待

これは王齋の「動と静はひとつの全体をつ くっており、たがいにその根一兀をもっている。 動はすなわち静であり、静はすなわち動であ るーというメタファーを、実際に身体で体現し ていることなのです。つまり、このメタファー 猶は身体化されることを待っている一一一一口葉であり、 そうなってはじめて伝承となるのです。 ン ここで、「早キ物」という表現は、『高砂』 ( 図 後 5 ・ 3 ) などの曲に代表される神舞、あるいは 砂 縞『道成寺』などに代表される急之舞が能の中に ~ 入「ているもののことをいうのですか、『高砂』 図 という曲を例にとって、宮本武蔵の『五輪書』 の一節から引用することにします。 こ、下手のつ 乱舞の道に、上手のうたふ謡 ( けてうたへば、 133

9. 能楽への招待

とはいえ、現代演劇でも同様のことがあるという指摘もあるでしよう。たとえば劇中で用い られるガラスのダイヤモンドの指輪は、役者の演技力によって本物になります。高価なダイヤ モンドとしての説得力を劇中でもちはじめ、そこには虚構から現実への移行があります。しか し、能楽の作物とこれとは異なるものです。舟の作物を本物の舟であると演技で説得しようと する能楽師は少ないでしよう。舟は形体的に舟であることを説得しようという意図のもとにつ くられたものではありません。 それは、つくられる段階から舟の代用品として説得することを放棄した形体であり、芸術的 な身体性が、竹の枠にかかわっておこなう所作の妙味を観客が味わうためにあるオモチャなの こうしてみると、作物は能楽の歴史的美学が選択した玩具といえるでしよう。ネコが鞠をネ ズミがわりにもてあそんでいるごとく、鞠は作物にたとえられます。ネコと鞠の関係は、能楽 師と舟の関係に似ているかもしれません。ネコは鞠がネズミでないことを知っていますし、じ やれるのを見ている人もそれを知っています。そのうえでネコが鞠と戯れるのを楽しむことは 空できるのです。

10. 能楽への招待

ついた点です。負荷信仰も身体とのかかわりにおいて、もう後もどりできないところまできて います。 スポーツとは異なり、身体を使う芸術は、負荷をかけることができないものがあります。代 表的なものが音楽、つまり蕕奏家です。バイオリニストの身体にバイオリンを弾くことよりも 大きな負荷をかけることは、芸術からの逸脱を意味するでしよう。 茶の湯はどうでしようか。これも負荷を設定できません。茶の湯のお点前で、亭主が鉄アレ イを左右にもちながら、型を練習するという光景を想像してみてください。 こう考えると、伝統的な身体観では外的負荷はかけにくいといえるでしよう。そのかわり内 面と外部 ( 型 ) との関係の設定をおこなうことが、負荷とはいえないまでも、それによって生じ る両者の和音や不協和音は、独特の身体的な場をつくりだすことができます。これは「気配」 体とも呼ばれてきたものです。 これこそが、つぎの章で述べるメタファー ( 比喩 ) によってえられる内面性というものなので 117