世界は醜い そして人は悲しい 最初のの空中に浮かぶ赤い椅子を、スティーヴンズの詩に見られる贖罪的な想像の象徴と考えた くもなるだろう。しかしそれは違う。これも醜いあのおばが座っているのと同し椅子なのである。スマ ートフォンを持った魅力的な若い女性が座っているのと同し椅子なのである。フェイスブックはわたし イマジネーション たちに想像力のないイメージを与える。すべてが救いがたく、それゆえにすべてがクールなのだ。お好 きなように。 三ホームとアウェイ 「家はあまりに悲しいと、英国詩人フィリツ。フ・ラーキンは書いた。 写真や食器を見よ。 ピアノ椅子の楽譜。あの花瓶。 すべてのものには、少なくともわたしたちが見る限り、裏の面がある。花瓶に象徴される豊かさの裏 には空虚が感しられる。しおれた花束がゴミ埋立地で朽ちていく。これはコミュニケーションのツール についても同様だ。それらを見ると、つながりの可能性だけでなく、その影として、避けられない孤独 225 家のように居心地がいい場所
度を少しすつ上げようとやみくもに進んできた。ラマルティーヌの想定していた即自性の荷い手も、こ の追求のうちに犠牲になってしまったのは、ある意味で滑稽だ。新聞はその到達に時間がかかりすぎる のだ。 「機の熟すことこそすべてである」と『リア王』のなかでグロスター伯の息子は言い、わたしたちは彼 を信しそうになった。だがもはや違う。機が熟しても無駄である。機が熟したころはごみ棄て場行きで ある。「いま」性こそ、すべてである。 「いま」性 123
けんたい 知的マシンの倦怠 バーンが歌っている。 「天国は何も起きない場所だ」と、トーキング・ヘッズの古い曲でディヴィッド・ 仮定の話として、彼が正しいとしてみようーー天国の特徴は何も起こらないこと、新しいことがまった くないことだと。すべてが美しく、 いっさい迷いがない。さらに進んで、地獄は天国の反対だと考えた 場合、地獄の特徴は次々に何かが起こること、新しいものが続々出てくることとなる。地獄はいつも何 かが起きる場所だ。そうして考えると、わたしたちの時代の大事業とは地球上に地獄を作ることだと言 わねばならないだろう。スマートフォンの新機種はすべて、このような警告が書かれた透明のシールを 画面に貼っておくべきだ。「ここから入らんとする者はすべて希望を捨てよ レヴュ 余計なことを考えすぎているかもしれない。しかし、わたしは今日の「テクノロジー・ のトム・サイモナイトの記事に好奇心をそそられたのだ。それは、有用なことを学習できるニューラル ネットワークの開発について、グーグルがどれだけ進んでいるかという内容だった。このテクノロジー はまだ幼少期だが、少なくとも新生児の段階は過ぎているようだ。言うなれば、本のなかのネコの絵を 指さして「ネコ」と言う一歳半の赤ちゃんではなく、そのへんにいる近所の子どもという感じである。 「グーグルのエンジニアは機械学習の性能をこれまでになく高める方法を見つけた」とサイモナイトは ニ〇一ニ年一〇月五日 194
を覚えるほど、以前のへの風刺的で軽蔑的な返答のように思える。フェイス、、フックは自らを嘘つき 呼ばわりしているのだ。「この地球におけるわたしたちの居場所 ? ドアベル ? 橋 ? ふざけるなー 地球はクソだ ! 何もかも退屈だ ! 人は醜い ! オンラインに行ってすっとオンラインにいろ ! 」。 「わたしたちをつなぐもの、のなかで、宇宙の無意味に対する防波堤、つながりとそれゆえの解放の具 体的な手段として感傷的に称えられていた椅子は、「ディナー」では拷問器具となる。わたしたちを不 快な肉体の世界、他人という地獄に閉じ込めるものとなる。 ハイコンセ。フトで大々的な「ブランド o 」を発表しながら、そのわすか数カ月後に方針を変え、そ れを完全に貶すような会社がかってあっただろうか ? わたしはないと思う。このことから学べるのは、 ザッカーバ そん ] グは嘘つきで、最も誠実そうなときこそ最も不誠実なのだということだけでなく なことはわかりきった話だーーーザッカー ーグやフェイスブックにとっては、「誠実」も「不誠実ーも 同等に無意味な言葉だということである。すべてが嘘なのだ。森のなかで空中に浮かぶ椅子もディナー テーブルで踊るバレリ ーナも同等にフェイクだ。どれもが作り物であり、それはそれらが呼び起こす感 情についても同様である。何もかもが広告だ。「わたしたちをつなぐもの」と「ディナー」には違いが あるが、元をたどれば同し根っこに行き当たる。シニシズムである。ザッカー ーグはふたつの 0 が 矛盾しているとは考えたこともないはすだ。彼はすべてが嘘たと知っているし、すべてが嘘だと誰もが 知っているとわかっている。 「お好きなように」と、ウオレス・スティーヴンズは書いている。 224
できた。領域は細分化され、小型ショッ。ヒングモールと化し、。 テータバンクの金銭価値が上がるにつれ、 奪い尽くされていった。興奮は冷めなかったが、わたしは適度に用心深くなった。侵入者がウェブ接続 を介して自分のコンビ ] タに忍び込んだ気がしていた。自分自身で制御可能な道具だったものが、他 者に制御された媒体へと変化していった。コン。ヒ = ータスクリーンは、すべてのマスメディアがその傾 向にあるように、ひとつの環境となり、取り巻き、囲い込むものとなり、最悪の見方をすれば、檻と化 しつつあった。遍在するスクリーンを制御した者は、もしそのやり方が認められたならば、同しように 文化をも制御するのは間違いなさそうだった。 「コン。ヒ = 】ティングはもはやコン。ヒ = ータを扱うことだけを意味しない」。マサチ = ーセッツ工科大 学のニコラス・ネグロポンテは、一九九五年のベストセラー著書『ビーイング・デジタル』で主張した。 「それは生きることを意味する」。世紀の転換により、シリコンヴァレーはガジェットやソフトウェアを 超えるモノを売るようになった。イデオロギーを売りはじめたのである。その信条はアメリカのユート ピア的テクノロジー理想主義の伝統のなかに組み込まれていたが、さらにデジタルの要素が加わった。 シリコンヴァレー人は猛烈な物質主義者だったーー数値で計測できないものには意味がない が、そ れでいて物質主義に嫌気がさしているのだった。彼らの見解では、世界の諸問題は、効率の悪さや不平 等、病気や死に至るまで、わたしたちの身体性から生じており、体というものが鈍く、柔軟性に乏しく、 老いていくものだという点に起囚していた。すべての問題の万能薬とは、仮想性ーーーコンピ = ータコー ドで社会を再発明し、取り戻すこと だった。彼らはわたしたちに、原子ではなくビットで組成され た新たな楽園を構築するだろう。形ある物はすべてそのネットワークに溶出していく。 わたしたちはそ
はアメリカ産業界の大物です。ゼネラルモーターズなんかには乗りません。ちゃんと機能する車の ンドルを握っている。しかし、やはりゴシック・ ハイテクなのです。死が待っていますからね。 しかも穏やかな死ではありません。不吉で、薄気味悪く、汚れた、シリコンヴァレーの環境汚染地 区にある井戸のようなもので、徐々に襲いかかってくるのです。それに、世間、プロガー、株主か ら隠れなければなりません。 そして、もう一方ーー低いほう には、スターリングが呼ぶところの「ファヴェラ・シック」があ る。この人たちが集まってヴァーチャル世界の「遊び働く者」を構成している。 ファヴェラ・シックとは、物質的なもの、自分が作ったものや所有していたものをすべて失った けれども、ネットワークにはしつかり接続されている状態です ! そしてフェイスブックに熱中し ている。それがファヴェラ・シックです。すべてを失い、お金もなく、キャリアもなく、健康保険 もなく、どこに住んでいるかすら定かでなく、子どももなく、恋人や信頼できる友達もいない。 れがホットなのです。本当にクールな世界です。 ファヴェラ・シックはゴシック ハイテクを崇拝している。ゴシック・ ハイテクは非現実性を完成さ せたからである。彼らは衰退しゆく「インフラ」の領域から逃れ、妨げられることなく永遠に流れる 彼らはアバターである。機械のないソフトウェア、身体のない精神である。 「物語」に身を置いたのだ。 , 165 未来のゴシック
と主張する。ジョン・ 、ルトンはジョージ・ジェットソン「テレビアニメ『宇宙家族ジェットソン』の主 人公〕より重要なのだ。一方、包摂主義は相対主義であゑ彼らは、ある種の物事が本質的にほかより 重要であるということはないと言う。すべてその人の見方次第だ。ある人にとっては、ジョン・ ンのほうがジョージ・ジェットソンより重要だろう。しかし、別のある人にとっては、ジョージ・ジェ ットソンのほうが研究する価値がある。絶対的なものなどない。区別はすべからく主観的なのだ。 包摂主義と削除主義の対立は、理論的なレベルを超えている。ウイキペディアの記事は削除、復活、 再削除が繰り返されており、何が残り何が消えるかの基準は、絶え間ない、しばしば激しい論争の火種 になっている。削除主義の哲学が勝ったとしたらーーわたしはそうなるのではないかと思っているが 包摂主義のウイキペディアは永遠に失われてしまうだろう。ペットのインコや高校のフットボール のコーチ、カナダの廃駅などの記事はサー バーから消され、見る価値や残す価値がないとして抹消され る。ホイットマン〔民主主義の詩人と言われた。一九世紀の米国の詩人。〕的百科事典、すべてを網羅する 事実や事実と思われるものに溢れたホイットマンの代表作『草の葉』がどのようなものか、わたしたち ウイキペ が知ることはなくなる。わたしは基本的に絶対主義寄りだが、これに関しては例外としたい。 ディアはウイキペディアのままにしておこう。
な見世物師、囚人の印であり、悪趣味で、グロテスクとさえ思われていたが、い まではどこでも見かけ るものになった。アメリカ人は年に一〇億ドルを優に超す金額をタトウ】の店で使い、若者の三分の一 は少なくともひとつはタトウーを人れている。そしてジェームズなどの有名人は、精緻で刺激的な墨を 入れ、自分をブランド化することに誇りを持っている。タブーが主流になったのである。 これは、身体改造が頻繁に辿る道である。最初わたしたちはそれを見てたしろぐものの、次第に慣れ ていき、やがて受け入れる。ホールデンは講演で、社会は人間を改造しようとする新しい試みを最初は 必す拒否するものだと認めている。 火の利用から飛行まで、偉大な発明のなかで神への侮辱とされなかったものはなかった。しかし、 物理的あるいは化学的発明がすべて神への冒涜であるなら、生物学的発明はすべて背徳である。ほ とんどのものが、いかなる国の者であれそれを初めて見聞きする者の目に、俗悪で自然に反するも のとして映るだろう。 時が経てば、受け止め方は変わる。慣れが不快さを取り除く。背徳と考えられていたものは救済や改良 と見なされ、まともなもの、さらには自然なものとさえ思われるようになる。社会ののけ者だった変身 する人間が、先駆者、ヒーローになる。 タトウーに対する社会意識の変化は、そういった文化的適応のありふれた一例である。これより多く を物語ってくれるのは、性別適合手術ーー一般的に行われているなかで最も抜本的な身体改造ーーの受 453 ダイダロスの使命
ウォーレン・オーツ演じる中年車マニア、 e o は「すべてが速すぎるくせに、充分速くはない」と、 モンテ・ヘルマンの一九七一年の傑作『断絶』のなかで嘆いた。わたしにもよくわかる。時計の針が速 く進むほど、スローモーションでループする画像にはまり込んだような気になる。 不思議なことだ。人類は驚くほど正確な体内時計を持っていることが証明されている。腕時計を外し てスマホをしまい、電化製品のをすべて消してもなお、時の経過をかなり正確に計ることができ るのだ。わたしたちの脳は、時間を計る機械装置にうまく適応してきた。しかし、時間追跡の能力はす ぐに調子が悪くなる。わたしたちの体感時間は主観的で、周囲の状況によって変化する。身近に起るこ とがあまりにせわしないと、本来ならさして長くもない遅延が果てしなく続くような気になってくる。 ほんの数秒が延々と伸びていき、数分ともなれば永遠に続くかのように感じられる。「われわれの時間 の感覚はと、ウィリアム・ジェームズは『心理学原理』のなかで述べている。「対比の法則の影響を 受けやすいようだ」 フランスの心理学者、シルヴィ ー・ドロワⅡヴォレとサンドリーヌ・ジルは、二〇〇九年に「フイロ ソフィカル・トランザクションズ」誌に発表した論文で、時間のパラドックスというものについて論し 圧縮された時間 ニ〇一五年六月九日 284
白熱電球は内容のない媒体の一例である、とマーシャル・マクルー ハンは書いた。暗い部屋に入って 明かりを点すと、電球は情報こそ伝えないものの、新たな環境を創出する。この内容のないメディアと いう観念を理解するのは難しい。わたしたちの持っているメディアについての前提とは噛み合わないか らだ。しかしこの概念は、マクル ハンの主張、メディアはメッセージである いかなるメディアも、 それが伝搬する内容や情報からは独立したひとつの環境を作り上げるーーを理解するには不可欠である。 では、現在のメディアであり、持ち運び可能な環境としてのスマートフォンをわたしたちはどのよう に捉えているのだろうか ? もし、マクルー ハンが主張したとおり、新しいメディアの中身というのは すべて、以前のメディアであるとすれば、スマートフォンの中身は、メディアすべてのように見える。 つまり、電話、テレビ、映画、活字本、電子本、マンガ本、レコード、 、新聞、雑誌、手紙、ニ ュースレター、電子メール、覗き見ショー、図書館、学校、講義、 < e 、デスクトツ。フ、ラツ。フトッ 。フ、恋文、医療記録、逮捕記録だ。内容的には、スマートフォンには、「自由詩の父」ウォルト・ホイ ットマンの詩のように、中身がどっさり詰まっている。スマートフォンの中身はまるでメディア構造が 崩壊した世界のようである。それは光りに充ちたブラックホールであり、情報を超高密度に凝縮しなが ホットなスマートフォン メディア ニ 0 一四年一〇月ニ一日 258