ら、しかもそれを放出している。その群を抜く特異性から、メディア世界後の最初のメディアと評され るのかもしれない。その電気回路には多元性が溶けこんでいる。複数のメディアは単体のメディアとな るのである。 ハンの言うホット・メディアだ。考え得る限り最もホッ 情報で充満したスマートフォンは、マクルー トなものであろう。それは専制的な帝国主義者の情熱でもってそのユーザーの感覚中枢を侵襲する。視 覚に氾濫することによって、それ以外の一切の信号を遮断する。スマートフォンの画面を覗き込むこと は、その世界の手に落ちることである。スマートフォンは、あらゆるホット・メディアと同しように、 ハンが指摘した電話という聴覚メ 自我を孤立させ、分断する。個別化し、疎外する。それは、マクルー ディアのクールさを反転させ、過熱するホットな視覚メディアに変えた。その上、電子メディアから生 じるとマクルーハンが予見していた再部族化の図式をも根底から覆した。スマートフォンは、活字書籍 よりもさらに脱部族化的だ。そんなスマートフォンの「双方向性」はひとつの策略であり、そこではス マートフォンが媒介する以外の行為というのは許されていない。その精神的支配が、関与と参加を妨げ ているのである。 しかし、そんなはすはない。人がスマートフォンでやることと言えば参加することーー情報交換、お しゃべり、交流、買い物、創造、そして夢中になることーーではないのか ? ここでわたしたちは、ス マートフォンに関わる難問に突き当たる。わたしたちの新しい人工的環境に関する難問ーーそしてその ハンのホット・メディアとクール ・メディア論を包摂するものである。 難問とは、マクルー ハンの著書は、「ホッ 批評家のリチャード・コステラネッツは一九六七年のエッセイで、マクルー 259 ホットなスマートフォン
白熱電球は内容のない媒体の一例である、とマーシャル・マクルー ハンは書いた。暗い部屋に入って 明かりを点すと、電球は情報こそ伝えないものの、新たな環境を創出する。この内容のないメディアと いう観念を理解するのは難しい。わたしたちの持っているメディアについての前提とは噛み合わないか らだ。しかしこの概念は、マクル ハンの主張、メディアはメッセージである いかなるメディアも、 それが伝搬する内容や情報からは独立したひとつの環境を作り上げるーーを理解するには不可欠である。 では、現在のメディアであり、持ち運び可能な環境としてのスマートフォンをわたしたちはどのよう に捉えているのだろうか ? もし、マクルー ハンが主張したとおり、新しいメディアの中身というのは すべて、以前のメディアであるとすれば、スマートフォンの中身は、メディアすべてのように見える。 つまり、電話、テレビ、映画、活字本、電子本、マンガ本、レコード、 、新聞、雑誌、手紙、ニ ュースレター、電子メール、覗き見ショー、図書館、学校、講義、 < e 、デスクトツ。フ、ラツ。フトッ 。フ、恋文、医療記録、逮捕記録だ。内容的には、スマートフォンには、「自由詩の父」ウォルト・ホイ ットマンの詩のように、中身がどっさり詰まっている。スマートフォンの中身はまるでメディア構造が 崩壊した世界のようである。それは光りに充ちたブラックホールであり、情報を超高密度に凝縮しなが ホットなスマートフォン メディア ニ 0 一四年一〇月ニ一日 258
ト・メディアにおけるクールな経験を提供している」と述べた。その粗い文章自体のあいまいさが活字 が持つ高精細度の明晰さに逆らっており、そこにある情報自体は読者の関与を要求しながらも、そのメ ディアはそうした参加を拒絶している。おそらくスマートフォンも同様の性質を持っており、ホットで あると同時にクールであるのだろう ( しかし決して微温ではない ) 。少なくともひとつだけ言えることは、 スマートフォンが創り出す環境では、ある距離を隔てた参加というものを促している。いわゆるパフォ ーマンスとしての参加である。 スマートフォンは、わたしたちを常時画面上にくぎ付けにし、ひとりの人間としての自己の感覚を 徐々にむしばむことで部族化させているが、抽象的な世界、自分だけの世界に孤立させることで、脱部 族化させてもいるのだ。スイッチを人れ、画面が点くと、あなたは人がひしめき合う何もない部屋にい る自分に気づく。別の言い方をすれば、参加とはスマートフォンの内容となることであり、マクルー ンが書いたとおり、その内容とは、「精神の番犬の気を反らすために泥棒が差し出すおいしそうな肉片」 なのである。参加の幻想は、警戒心のなさを覆い隠す。ここで思い起こされるのはウォルト・ホイット マンだ。孤独で疎外され、誰かとつながる夢を見続けながら、粗野な叫びを紙上の沈黙の言葉に変える、 というわけである。 260
ホットなスマートフォン 5 デスパレートなスクラツ。フ、、フックたち 制御不能 われらのアルゴリズム、われわれ自身 かげりゆく牧歌的生活 知「ているという思い込み 風をファックする別 圧縮された時間 音楽は万能の潤滑油 愛の統一理論を目指して 8 〉と心囲 退屈した者たちの王国では、片手で操作する無法者が王である弸 第ニ部ツィートによるのテーゼ 第三部ェッセイと批評 炎とフィラメント 1 グーグルでバカになる ? 引
ア。フリより、スマートフォンより、ネットワークより , も ~ バスがあった。それは移動するものだっ た。人と交わるものだった。そして、サンフランシスコから新たな世界へ向かっていた。トム・ウルフ が『クール・クール»-ä ()n 交感テスト』でその話をうまく伝えている。 「いつの日か」とキージーは言う。「誰かを待っことができなくなるときがいすれ来る。さて君は ハスに乗るか乗らないか。バスに乗ったなら、取り残されたとしても、また見つけられる。最初か らバスに乗らなければ どうにもならない」。そのことをはっきり説明する必要はなかった。す べてが寓話的になり、集団心によって理解されるようになっていた。特に、「バスに乗るか : : : 乗 らないか」という。 ケン・キージーは亡くなったが、バスは進む。ある種の幻覚剤による変形を経て、それはグーグルバ スになり、いまではギークたちを乗せて、彼らが住むサンフランシスコとマウンテンヴューの本社のあ かなり極端に見える。キージ ーバスは一九三九年に製造されたイン いだを往復している。この変化は、 ハスに乗って ニ〇一四年ニ月一〇日 バスに乗って 239
けんたい 知的マシンの倦怠 バーンが歌っている。 「天国は何も起きない場所だ」と、トーキング・ヘッズの古い曲でディヴィッド・ 仮定の話として、彼が正しいとしてみようーー天国の特徴は何も起こらないこと、新しいことがまった くないことだと。すべてが美しく、 いっさい迷いがない。さらに進んで、地獄は天国の反対だと考えた 場合、地獄の特徴は次々に何かが起こること、新しいものが続々出てくることとなる。地獄はいつも何 かが起きる場所だ。そうして考えると、わたしたちの時代の大事業とは地球上に地獄を作ることだと言 わねばならないだろう。スマートフォンの新機種はすべて、このような警告が書かれた透明のシールを 画面に貼っておくべきだ。「ここから入らんとする者はすべて希望を捨てよ レヴュ 余計なことを考えすぎているかもしれない。しかし、わたしは今日の「テクノロジー・ のトム・サイモナイトの記事に好奇心をそそられたのだ。それは、有用なことを学習できるニューラル ネットワークの開発について、グーグルがどれだけ進んでいるかという内容だった。このテクノロジー はまだ幼少期だが、少なくとも新生児の段階は過ぎているようだ。言うなれば、本のなかのネコの絵を 指さして「ネコ」と言う一歳半の赤ちゃんではなく、そのへんにいる近所の子どもという感じである。 「グーグルのエンジニアは機械学習の性能をこれまでになく高める方法を見つけた」とサイモナイトは ニ〇一ニ年一〇月五日 194
ット「ネコの画像にユーモラスなキャ。フションを付けたもの〔の投稿をクリエイティヴな行為としてカウン トしたとしても、ロルキャットを作っている人より、見ている人のほうがはるかに多い」とプロックは 述べ、よく見られているユーチューブのある娯楽動画について数字を出して説明する。「ユーチューブ で最も人気の高い動画のひとつ、「チャーリーがぼくの指を噛んだーーまた ! 」は、男の子が弟のロに 指を突っ込むのを撮ったものだが、視聴回数は二億一一〇〇万回に達している。制作に五六秒しかかか らなかったものーー男の子たちの名付け親に見せるだけのつもりだったものーーーが、一六〇〇人もの人 間が週四〇時間、丸一年働いて作るものを打ち負かしたのである」。何百万という短い動画を簡単に無 料で見られるようにしたウェブは、動画視聴という行為をわたしたちの日常の隅々にこれまでにないほ ど行ぎ渡らせている。 ネット上のコンテンツ消費への影響を正直に説明するには、ウェブメディアの消費に人びとが費やし ている時間を、すでにテレビなどの伝統的なメディアの消費に費やしている時間に足す必要がある。そ うしてみれば、ネットはコンテンツ消費に充てる時間を減らしているのではなく増やしている、それも 大きく増やしているということがはっきりする。つまりウェブは長期間にわたる文化的潮流を引き継い でいるのであり、ひっくり返しているのではないのだ。違いは、もはやカウチボテトになるためのカウ チが必要ないということである。スマートフォンを持てば、どこに行ってもポテトになれる。 126
とも認める。ポールフリーは、»-a << は電子書籍の貸し出しについて検討しているが、その範囲を最 近の出版物まで広げるかについてはまだ結論を出していないとだけ答えるだろう。 もうひとっ定まっていないのは、 *-a < そのものを世間に対してどのように発信するかという重要 な問題である。テクニカル・。フラットフォーム開発を監督するバークマン・センターの研究者ディヴィ ッド・ワイン ーガーは、が「フロントエンドのインターフェースー、たとえばウェブサイト やスマートフォン用のア。フリといったものを提供するのか、それともほかの組織が利用できる舞台裏の データ情報センターとしてとどまるのかについても合意に達していないと言う。技術チームの当面の目 標は比較的控えめである。ますは目録情報を取り込み、協賛する機関から統計データなどのデータを借 用するための柔軟なオー。フンソースの。フロトコルを確立する。次にそのメタデータをまとめて統一デー タベースを作成する。それから便利なア。フリケーションを開発する創造カ溢れた。フログラマーを触発す ることを願って、オー。フンな。フログラミングインターフェースを提供したいとしている。ポールフリー は、 *-Ä < が独自のウェブサイトを運営することを期待しているが、そのサイトの機能や範囲につい て予知することは、従来の図書館のオンラインサービスと重複する可能性があるので慎重にならざるを 得ないと話す。 *-a が「メタデータのリポジトリ」以上の存在になることを望んでいるとしながら も、最終的に多様で広範囲にわたる資料のコレクションをつなげるのに必要な「パイ。フ」の提供だけに なっても成功と考えると述べている。 大所帯で多様な運営委員会が、複雑で議論の分かれる問題について意見が統一できないことはさほど 驚くことではない。また、の指導者たちが図書館専門職や出版業界の人びとの怒りを買うに違 372
・・ウエルズは一九三八年の著作『世界の頭脳』で、地球上の誰もが「考えられていることや知 られていることすべて」に簡単にアクセスできる時代ーーそれほど遠くではないと感しられる未来 が来ることを予想していた。三〇年代はマイクロ写真が急速な進歩を遂げた時代で、ウ = ルズはマイク ロフィルムが人類の知の集大成を普遍的に利用可能にするテクノロジーになると考えた。「その時代は すぐそこまで来ている」と彼は書いている。「世界のどこからでも、あらゆる学生が自分の勉強部屋の 。フロジェクターで好きなときに、あらゆる本、あらゆる書類を完全な複写で見ることができるだろう」。 ウ = ルズの楽観的な考えは現実とはならなかった。第二次世界大戦が理想への挑戦を中断させ、平和 が戻ったあとも、技術的な制約が彼の計画を実現不可能にした。マイクロフィルムは書類の保存や維持 のための重要なメディアであり続けるだろうが、知識を伝搬するための広範なシステムの基盤となるに は扱いにくく脆弱で、高価すぎることが判明した。だがウ = ルズの思想は死んでいない。あれから七五 。フリンストン大学の哲学教授ビ 年を経た現在、これまでに出版されたすべての本の公共リポジトリ ・シンガーが「ユート。ヒアの図書館」と称するものーーーをつくるという夢は充分に手の届くとこ ろに来ている。インターネットの発達により、わたしたちはどんな書類でも効率的かっ安価に保管し送 信できる情報システムを手にし、コン。ヒータやスマートフォンを持っている相手であれば誰にでも必 ュートピアの図書館 363 ュートビアの図書館
立て、さらには感受性の強い若者を思索的にするとの定評があるからだ ( 心理学者によっては、窓から外 を眺めるだけでも、ヴァーチャル・チャイルドの精神衛生に危険をおよぼす恐れがあると言う ) 。ときとして、 わんばく小僧を自然界から遮断するのはまったく非現実的であろう。そのようなときは、子どもに音楽 。フレーヤーやスマートフォン、ゲーム機器を含むモバイルデヴァイスを十分に与え、間断なくデジタル の流れに浸らせるようにすることがいっそう重要となる。もしあなたが自然界への旅行に子どもと同伴 できないのであれば、念のため、数分おきに子どもに携帯メッセージを送るのも賢い方法である。 あなたの子をオンライン環境に浸らせておくというやりがいのある仕事は大変かもしれないが、覚え ておくがよい。歴史はあなたに味方するのだ。仮想現実は、日を追うごとに続々と偏在化している。さ らに忘れてならない重要なことは、現代の子育て世代の大いなる喜びのひとつが、ヴァーチャル・ベビ る ーやよちょち歩きの我が子の特別な瞬間を携帯メール、ツィート、プログ投稿、写真投稿、あるいはユ て ーチーブのビデオとしてアツ。フすることにあるということだ。ヴァーチャル・チャイルドは、仮想現育 実の親に、投稿するネタを。フレゼントしてくれているのだ。 リアルタイムのメッセージ送受信の流れのなかで舵を取ることは、あなたとわが子とのふたり旅であ チ る。どの瞬間もかけがえのないものであるが、それはどの一瞬たりとも、その直前の瞬間とも、その後 に続く瞬間とも決してつながらないからだ。仮想現実とは、更新作業が永遠に続く状態なのだ。幼いこ チ ろの喜びが永遠に続くというわけである。 ヴ ・ペアレント