く、自由というものに本来備わっているものである。常に見られているように感しると、わたしたちは 自立の感覚や自由意志を失いはしめ、それとともに個性も失なっていく。「監視の目に縛られた子ども になってしまう」とシュナイアーは言う。 。フライバシーは、生命や自由にとって欠くことのできないものだ。そして最も広く深い意味において、 幸福追求に不可欠なものである。人類は社会的な生き物だが、個人的な生き物でもある。何を共有しな いかは、何を共有するかと同じくらい重要だ。「公」の自己と「私」の自己の境界をどう定義するかは 人によって大きく異なるが、だからこそ、その境界を各人がそれそれ最善のものに設定できるよう、す べての人の権利を守るべく警戒していることがとても重要なのである。 「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙より 二〇一〇年 354
かしレイノルズは鋭く、自分の仕事をよくわかっている。話が藪のなかに迷い込んだときも、細部は鋭 いままだ ( 九〇年代前半に広がったレイブの起源が、イングランドでビートルズ旋風に先駆けて現れたトラッ ド・ジャズブームにあると誰が知っていただろう ? ) 。レイノルズは彼自身ある意味レトロマニアとのそし りを受けるかもしれない。なんといっても、意気消沈させる過去の影響を憂慮しつつ、彼はかっての批 評家の不平に共鳴しているのだ。一八三六年、「われわれの世代は後ろ向きだ」と、ラルフ・ワルド・ エマーソンはこぼしていた。「なぜわれわれは過去の干からびた骨に混しって模索したり、現役世代に ワードローブのなかの色あせた衣装を着せたりするのだろう ? 」。懐古的でない時代を望むこと自体、 ある種の懐古趣味と言えるのかもしれない。 だがレイノルズは、 いまのレトロマニアはこれまでに経験したものとは程度も種類も違うと説得力の ある主張を展開している。それはメインストリームが苦境にあるというだけではない。斬新な視点をゆ がませ、最先端の文化をぼやけさせてもいる。中高年が昔を振り返るのと、若者が過去にすがって生き るのはまったく違うーーーはるかに嘆かわしいことだ。・ キターを叩き壊す新しいやり方を誰かが編み出す 必要がある。 1 ー・ノ ブリック社より 二〇一一年 398
計 測 を る ー・ドラッカーが 「計測できないものは管理できない」と古い格言は説く。しかし、経営学者のビータ 実際に言ったとされるのは、「計測できるものは管理できる」であり、それはまったく別の意味で、そ してまったく的確である。この名言の意味は、続ぎを知ればより明確になる。「計測できるものは管理 できるーーーたとえそれを計測して管理することが無意味だとしても、そうすることで組織の目的に害を 及ぼすとしても」。 計測できるものはすべて重要なものであると取り違えることは、疑問であり危険であるとドラッカー は述べている。そして同時にかなり極端でまったく前言を覆すようなことも述べている。計測できるも ののなかには、計測されるべきでないものもある、というのである。 このビックデータの時代にあって、カウンターカルチャー全体はこの一言を中心に捉えられる可能性 がある。グーグル、アマゾン、あるいはフ = イスブックが「われわれは、実際に計測する価値があるも のを少し時間をかけて検討するため、種々の計測を一旦中断することにした」と宣言するのを想像でき るだろうか ? あり得ない。今日の社会通念は、より簡潔で実践しやすい。「計測さえすれば、その意 義は自すと見えてくる」。 ニ〇一四年八月ニ六日 256
最近「探す」話になるといつも、ほぼ決まったようにグーグルを使ってオンライン上で何かを見つけ ることについて話している。それは、存在論的な意味の含みを持っていた言葉にとって、自覚すること、 生きることの意味を問うわたしたちの意識と密接に結びついてきた言葉にとって、手ひどい凋落であろ う。わたしたちはただ単に、車のキーや映画の上映時間、あるいは一足の靴の最安値を探すのではない。 わたしたちは知識や意味を、愛について、美について、自分は何者であるのか、何者であったのか、あ るいは何者になるのかについて探しているのである。人間であることは、探し求める者でもあるのだ。 その最も優れた探求とは、明確な終着点を持たないものである。それは終わることのない、ひとつの 行為としての探索であり、それは世界と自分自身をより深く知るために、個人の枠組みを超えた世界の ただなかへとわたしたちを誘うものである。・ co ・エリオットが「リトル・ギディング、で詠んだよ うに、探求の末にわたしたちは知るのである。 出発した場所に辿り着いて その場所を初めて知るだろう 探し求める者たち ニ〇一三年一月一三日 204
どが未読のまま残っている。結果として、さらに電子書籍を買おうという意欲に欠ける。目新しさ は薄れている。 五、消費者が電子書籍端末から離れ、タブレットに移行していることが、電子書籍売上の勢いを削 いでいる。第一世代の K 一 nd 一 e といった専用の電子書籍端末は、その使用がほぼ、本を購入し読む ことに限られていた。タブレットを使えば、 Kindle Fire や iPad のように、すっと多くのことがで きる ( 別の言い方をすれば、電子書籍端末上では、電子書籍ア。フリケーションが常時起動している。タ。フ レットは、そうではない ) 。 六、電子書籍の価格は、多くの人びとが期待していたほどには下がっていない。電子書籍一冊とペ ック一冊の価格に大きな違いはない ( 少なくともひとりの業界アナリストが示唆するように、 アマゾンは電子書籍売上の頭打ちを見越しており、戦略的理由からその損失を被ることには消極的だとい うのが考えられる ) 。読み終えた本を売ったり、友だちに貸したりできるという事実は、たとえ価格 が少々高くとも、長期的には紙の書籍のほうが実際には経済的であることを意味する。 このどれひとつを取っても、最終的に電子書籍が本の売上げの優位を占めない理由にはならない。し かし、二〇一三年を迎えたいま、初代 K 一 nd 一 e 台頭の結果として電子書籍の売上が毎年二倍、三倍を記 録した数年前の活況は望めそうもない。少なくとも、活字から電子媒体への移行は、人びとの見込みよ 202
できた。領域は細分化され、小型ショッ。ヒングモールと化し、。 テータバンクの金銭価値が上がるにつれ、 奪い尽くされていった。興奮は冷めなかったが、わたしは適度に用心深くなった。侵入者がウェブ接続 を介して自分のコンビ ] タに忍び込んだ気がしていた。自分自身で制御可能な道具だったものが、他 者に制御された媒体へと変化していった。コン。ヒ = ータスクリーンは、すべてのマスメディアがその傾 向にあるように、ひとつの環境となり、取り巻き、囲い込むものとなり、最悪の見方をすれば、檻と化 しつつあった。遍在するスクリーンを制御した者は、もしそのやり方が認められたならば、同しように 文化をも制御するのは間違いなさそうだった。 「コン。ヒ = 】ティングはもはやコン。ヒ = ータを扱うことだけを意味しない」。マサチ = ーセッツ工科大 学のニコラス・ネグロポンテは、一九九五年のベストセラー著書『ビーイング・デジタル』で主張した。 「それは生きることを意味する」。世紀の転換により、シリコンヴァレーはガジェットやソフトウェアを 超えるモノを売るようになった。イデオロギーを売りはじめたのである。その信条はアメリカのユート ピア的テクノロジー理想主義の伝統のなかに組み込まれていたが、さらにデジタルの要素が加わった。 シリコンヴァレー人は猛烈な物質主義者だったーー数値で計測できないものには意味がない が、そ れでいて物質主義に嫌気がさしているのだった。彼らの見解では、世界の諸問題は、効率の悪さや不平 等、病気や死に至るまで、わたしたちの身体性から生じており、体というものが鈍く、柔軟性に乏しく、 老いていくものだという点に起囚していた。すべての問題の万能薬とは、仮想性ーーーコンピ = ータコー ドで社会を再発明し、取り戻すこと だった。彼らはわたしたちに、原子ではなくビットで組成され た新たな楽園を構築するだろう。形ある物はすべてそのネットワークに溶出していく。 わたしたちはそ
かり物として大切に育まれ守られるべきであるという考えだ。「天性のものに束縛されない人間の自由 ド大学教授のマイケ という展望には、どこか魅力的な、興奮すら感しさせるものがあるーと、 ・サンデルは『完全な人間を目指さなくてもよい理由』のなかで述べている。「しかし、その自 由の展望には欠陥がある。与えられた命に対する感謝の念を払いのけ、自分自身の意思以外は何も認め イオ保守派らは、彼らが言うところの誤った功利主義 す、振り向きもしなくなる危険があるのだー。バ 的ュート。ヒア主義に対して、謙虚であれと忠告する。 トランスヒューマニストもバイオ保守派も、大きな問題と格闘している。つまり、わたしたちは何者 なのか ? わたしたちの運命とは何なのか ? ということだ。しかし、彼らの議論はあくまで副次的な ものである。ヒューマニズムの意味や人類の運命をめぐる知的論争は、自己表現や自己認識の新たな手 段を与えられた際の人びとの反応にはあまり影響を及ぼさないだろう。大衆はトランスヒューマニズム を大きな倫理運動や政治運動、あるいは人類史上のターニングボイントだとは考えす、むしろさまざま な可能性がある一連の製品やサービスとして受け人れるはすだからである。自分や自分の人生に欠けて いると感しるものが何であろうと、人は利用できるあらゆる手段を講じてそれを手に人れようとする。 美や知性、才能、地位の基準が変化すれば、ヒューマン・エンハンスメントを警戒している人でさえ、 世の中の流れに抵抗するのは難しくなるだろう。それがわたしたちをどこに導くことになるにせよ、人 間の本質を変えるという試みは、人間の本質に支配されるのだ。 わたしたちはツールの製作者であると同時に、神話の創作者でもある。バイオテクノロジーによって、 わたしたちはこれらふたつの本能を融合させ、いまの身体といまの暮らしを、心に浮かべるイメージに 457 ダイダロスの使命
タンジェリンが見えてきそうだ。タールサンドも人れるべきだったかもしれない。 いや、そうしたら気が減人っただろう。「チャコール」のほうがはるかに軽やかな響きがある。その 感情に訴える暗示的意味は、現実世界における明示的意味とは異なるものだ。これは、現実拡張の記号 論的およびマーケティング的可能性を浮き彫りにしている。 グラスの色が現実をどのように拡張するかまで決めてくれたら、本当にクールになるだろう。つまり、 チャコールをかけると世界が暗くゴシック調に見えるが、タンジェリンをかけた場合、試合当日の高校 生チアリーダーの目でものを見る感しになる。コットンは落ち着きすぎて少し反応が鈍った状態。スカ イは新時代の眺めーーすべてが水晶や羽のようーー・を与えてくれる。シ = ールは完全に事務的なジョ フライ一アー「ドラマ「ドラグネット」シリ ーズの主人公である勤勉な刑事冖的現実である。 わたしとしては、葉っぱが登場するまで粘るつもりだ。 229 チャコール、シェール、コットン、タンジェリン、スカイ
れはそれ自体を定義できないという問題である。 *-a < は多くの意味であいかわらす謎である。どの ように運営されるのか、実際どのような形になるのかすら、具体的に知る者はいない。その不明瞭さの いくつかは意図的なものだった。バ 】クマン・センターは立ち上げ時、その多くの後援団体のいすれか を遠ざける可能性のあるトツ。フダウンの命令は避け、主要な決定は共同的かっ開放的なやり方で行いた いと考えた。だが現在の *-a の職員や。フロジェクトに関わるメンバ ーによると、一七人の運営委員 会メンバ ーのあいだには、この図書館の使命とその範囲の認識について根本的な相違があるという。こ の話し合いにおいての主要な論点に対しては、ポールフリ ーの言葉によれば、「まだ結論は出せない」 とされている。 たとえば、電子化した書籍をどの程度 < 本体のサ ] ーで管理するのか、そうせすにむしろ他 の図書館や公文書館のコンビ = ータに保存されているデジタルコレクションヘリンクを張るのかという 問題についてもまだ合意に達していない。他にも運営委員会は、書籍以外にどのような資料を含めるか についても明確な結論を出していない。写真や映画、音声記録、収臓品の画像、さらにはプログの投稿 記事やインターネット上の動画といったものまですべて検討されている。ほかの未解決の問題として、 広範囲に影響がある問題のひとつで、人気の電子書籍も含め、最近出版された本も何らかの形で読める ようにするかどうかということがある。ダーントン個人としては、出版社や公共図書館の領域を荒らす のを避けるため、デジタル図書館は過去五年ないしは一〇年以内に出版された作品に手をつけるべきで はないと考えている。が「現在の商業市場を侵食する」のは間違いだと忠告する。一方で、説 得力のある反論はまだ聞いていないとしながらも、自分の見解が誰からも受け入れられるものではない 371 ュートビアの図書館
と、はかり - に。 ソーシャルネットワーキングの最大とも一言えるパラドックスは、ナルシズムをコミ = ニテイへの吸着 剤として利用していることだ。オンラインではみな孤独で、オンラインコミ = ニティは孤独な人たちの このコ 集まりだ。 ( 「コミ = ニティはコミ = ニケーションにより解体され、吸収される」いポードリャール ) 。 : ニティは、現代人の尽きることのない渇望を癒すためソフトウ = アが無から組み上げた、記号とビ クセル画像からなるシミュレーションである。それほどまでに何を望んでいる ? 自らの存在の実証 ? いや、それですらない。演すべき役割があることの確認、である。他のソーシャルメディア同様、 やそれ以上に、ツィッターは、哲学者のジョン・グレイの言葉を借りるなら、「無意味からの避難所」 となり得るのだ。 耳にしたイヤホンから細くて白いコードをたらして道を歩いていても、のショーウインドウ バックスでビアスを付けたバリスタが淹れたチャイ・ でカジュアルウェアの展示を見ていても、スター ラテをすすっていても、自分が現実の存在であることがいまひとっ実感できない。だが、仮想の仲間で ある読者に向け、自分が通りを歩ぎ、ショーウインドウを眺め、お茶を飲んでいることを一四〇文字の メッセージで伝えると、にわかに自分が現実のものとなる。自分には語ることがある。役割を演してい る。自分には何らかの意味がある。たとえ歪んだ鏡に映る大勢の人間の虚像のひとつにすぎないとして 「我ツィートす、故に我あり」と人が言ったが、それは違う。「我ツィートす、我なきを恐怖す故」な のである。