る。それは失業や賃金の下落を心配するわたしたちの気持ちを静めるーーすべてうまくいく、「結局の ところ」ーーーと同時に、わたしたちの限りのない自尊心につけこむ。人間の仕事というはしごは、上へ と果てしなく昇り続けてゆくもの。すなわち、機械類がいかに高度に発展しようとも、わたしたち労働 者が目指すべき新たなはしごが必すある、と言うのである。しかし、わたしたちが己に言い聞かせる多 くの気休め同様、そこにはごくわすかの真実しかない。そして現代の失業や不完全就業の問題に対する 都合のいい答えとしてこのことが持ち出されるとき、それは危険な錯誤となる。未来への確固たる幻想 を植え付け、経済に新たな構造的問題が発生しているという可能性から目を逸らさせるからである。 無限のはしご神話の問題は、その主張のあいまいさからはしまる。「より価値の高い任務とは明確 には何か ? わたしたちは雇用主から見た価値について論しているのか、あるいは被雇用者から見たそ れだろうか ? 生産性と利益の観点から価値を測っているのか、あるいは労働者の側からの技術や満足 度、報酬の観点なのか ? これらふたつの事項は、相互に異質なばかりではなく、相容れない場合がほ とんどである。機械による労働生産性を向上するひとつの方法は、その生産に関わる労働者数を削減す ることである。もうひとつは、仕事に関わる者の技術的要件を減らし、それによって労働者の賃金を減 らすことである。産業機械の導人による雇用への影響分析によれば、テクノロジーを活用して仕事を自 動化すると、当初は労働者の技術強化に結び付く傾向にあり、仕事への意欲と関心が高まるが、その機 械がより高度になるにつれ、その性能に仕事の技術が組み込まれるため、技術の衰退の傾向が強まる。 高い技能を有する熟練工も、さしたる技能のない職人か、あるいはまったく技能不要の機械オペレータ ーになる。まさにアダム・スミスも認めたように、労働生産性を向上する機械は多くの場合、仕事の幅 245 終わりのないはしごという神話
ンスタイ ッチェレ、スティーヴ・エイミー・ レッグ・ヴェイスニック・トンフソン、ルーク・ミ ラ一フ ン、アート・クライナー、ライハン・サラム、テイム・ラヴィン、マイク・オーカット、ス イラをはしめとする、多くの有能な編集者、校正者、ファクトチェック担当者と仕事ができた。本当に 感謝している。 また、・・ノートン社のブレンダン・カリーに編集者として、プロックマン社のジョン・プロッ クマンにエージェントとして本書の刊行に携わっていただけて本当に幸いだ。最後に、わたしの。フログ に忍耐強く付き合ってくれたーー朝の早い時間からスマホで記事を整理していたのも我慢してくれた 妻のアンに感謝させてほしい。てつきりもっと叱られるものだと思ってた。 464
ったく仕事がなかろうが構うことはない。それは意志のカのある人びとのためのものでしかないのだ。 そして生産するためのテクノロジーを考案し展開する者たちは、新しい仕事を創出したり、仕事をより 楽しくする、あるいは人間の可能性を拡大させるという熱意で動くことはまずない。 , 彼らは、アダム・ スミスも指摘したとおり、金を儲ける欲望に突き動かされているのである。仕事とは昔からすっと、市 場の目に見えない手が二次的に生むものであって、それ自体が目的ではないのである。 無限のはしご神話の最大の受益者は、商用コン。ヒュータの利益集中効果を通して巨万の富を築いた者 たちである。彼らにとって神話は、自らを満足させるものなのである。彼らが始動させた好循環は、機 が熟せば、わたしたちを「仕事の価値が永遠に上がりつづける」世界へと導いてくれるのである。神話 は彼らのビジネスの利益をも満足させるが、それは社会の利益と彼らの利益をひとつにまとめ上けてい るからだ。ソフトウェアとロポットはわたしたちのさまざまな問題を解決する、もしわたしたちがそれ を受け容れるのであれば、というように。 あらゆるいい仕事が新たに生まれることは直近ではありえないと言っているのではない。経済は混沌 としており、未来に起こることを誰も予見することはできない。ただ、このシナリオを前提として考え ることはできないし、機械やその所有者らが労働者の利益を最大化しようとしているなどとは間違って も考えたりすべきではない、 と言っているのである。結局のところ、それは好循環なのであるーーそれ が悪く循環しない限り。 248
9 コンビュータの新しい芸術形式のひとつであるビデオゲームは、コンピュータの囚人である。 川私的なやりとりは、その伝達速度が早くなるにつれて面白くなくなっていく。 。フログラマ ] は、この世界における影の立法者である。 人は常にリツィートを後毎する。 アルバムのジャケットは、ポピュラ】 、ユージックに不可欠であることが判明した。 凵情報の氾濫は、不用心な者にとっては妄想の温床になる。 新汝のイメージに誠実であれ。 ーテキストでは書かれ得なかっただろう。 偉大な文学作品はハイ。、 ソーシャルメディアは、不完全就業者のための緩和策である。 309
「わたしは共産主義者ではない と、作家で起業家のスティーヴン・ジョンソンは、近ごろ「ニューヨ ーク・タイムズ」紙ビジネス面のコラムで宣言した。ネット上でアイデアをシェアしたりデジタル製品 る をあれこれ生み出したりしている有志の集まり、 いわゆる「オー。フンネットワークーの創造性を褒めた す の たえるなかで、そのように断ったのである。このような社会的生産集団は、マーケットの外部に存在し 1 も ており、利益追求欲によって動くことがないから、伝統的なマーケットにとって脅威になると思われる 全 かもしれない。無償で他人のために無料のものを作るという大衆のムーブメント以上に、消費資本主義安 っ を転覆しうるものはあるだろうか ? しかし、資本主義者は心配しなくていい。 無報酬のウェブべ ] ス と の大衆によるイノベーションは、「マーケットと関係ない環境で生み出される」かもしれないが、実の 者 義 ところ「商業的事業を支える新たな。フラットフォーム」を作っている、とジョンソンは書いている。ネ 主 本 資 ットは、無報酬の有志の尽力を、営利企業のための素材に変えているのだ。 を ア ジョンソンの見解は、ウェブを最も熱狂的に奨励する人たち、「コーポレート・コミュナリスト ( 企 業自治主義者 ) の多くを代表するものである。彼らは、自分たちが褒めたたえるトレンドのラディカル な影響を、完全に無視するではないにしろ、距離を取らなければいけないものだと感している。どこと シェアを資本主義者にとって安全なものにする ニ〇一〇年一一月八日
感情的な訴えは政治に良い効果を及ぼす可能性もあるかもしれない。権利を奪われ幻減した人びとに も政治への参加を促しうる。人びとの関心を不正や権力の乱用に向けさせ、いっときの感情的な結びつ きが息の長い政治。フロセスへの関与に深まる場合もある。だがソーシャルメディアの情緒主義には負の 側面も存在する。トラン。フ人気は一般市民の不満や恐怖に乗して、彼がメキシコ系移民に暴言を吐いた 直後に火がついた。扇動家の昔からの戦術で、それが機能したのだ。トラン。フの選挙活動は茶番にすぎ ないのかもしれないが、情熱的ではあっても中身のないソーシャルメディア向きの候補は個人崇拝の格 好の対象になりうる、ということを示唆してもいる。 新しいメディアが登場すると、べテランの政治家は必す四苦八苦する。彼らは古いメディアのルール で動くからだ。一九六〇年に行われたニクソン対ケネディの討論をラジオで聴いていた人たちはニクソ ンが勝ったと思った。だがテレビで見ていたそれよりはるかに多い視聴者は、明らかにケネディが勝者 だと考えた。ニクソンの誤算は自分がまだラジオの時代にいると思っていたことだ。視聴者は彼の言葉者 に集中し、どう見えるかは気にしないだろうと考えたのだ。カメラが自分を見つめていることに気づか す、上唇の上にかいた汗が自分の言葉をかき消していたとは知る由もなかっただろう。 チ 似たような惰性がいまエスタブリッシ = メントの候補者たちの歩みを止めている。彼らはテレビ選挙 。フ の慣習にしたがい続けている。テレビが選挙の論点を確立し、レースを一連の整ったストーリーとして ナ ス パッケージし、有権者の候補者に対する見方を形作ると考えている。候補者たちはオンラインのメッセ ージを管理するデジタル担当のチームを持っているだろうが、多くはソーシャルメディアを選挙戦にお
ィアは単なる記事の寄せ集めではなく、全体として見るべきものである。重要でない項目を摘み取るこ とは、総合的なクオリティを高めるのに欠かせない。本当に「特筆すべき」ものだけが百科事典への掲 載を許可されるのだ。取るに足らないものを載せれば、。フロジェクト全体の品位が下がる。 包摂主義者にとって、ウイキペディアは本質的にウイキー・ー知識を集める全く新しい形態、過去の慣 習に縛られない形態の一例である。削除主義者にとって、ウイキペディアは本質的に百科事典ーーー尊敬 に値する伝統を持った、知識を集める確立した形態の一例である。イデオロギー的な分裂は、ウイキペ ディアに常に内在するアイデンティティ・クライシスの現れだ。当初から、この百科事典はふたつの相 反する目標を追求してきた。誰もが編集できるオー。フンな百科事典と、優れた紙の百科事典に匹敵する 真面目な百科事典。ウイキペディアが誕生して間もないころ、主に目新しいものとして見られていたと きには、両者の緊張関係は見過ごされがちだった。特に気にする人などいなかった。しかし、ウイキペ ディアの人気が高まると・ーーそして、クオリティの基準が上がったと考えられはしめるとーー緊張関係 は極限に達した。オー。フンであることを目指す包摂主義者の思いも、真面目であることを目指す削除主 義者の思いも、ともに立派なものだろう。しかしながら、ふたつの陣営の正反対の哲学が明らかにして いるとおり、これらの目標は両立しないのである。削除主義者であると同時に包摂主義者となることは できない。 より深い次元で、この分裂はわたしたちの時代の根本にある認識論的危機の一例となっている。絶対 主義と相対主義の争いということだ。削除主義は絶対主義である。彼らは、ある種の物事はほかの物事 よりも意義深いと考え、さまざまな種類の知識のなかで、客観的な区別はつけられるし、つけるべきだ 45 ウイキペディアンの分裂
形状や外見を持っ多種の野菜」が収穫される。一九世紀から二〇世紀にかけて同様の予言が数多く流布 し、批評家であり歴史家のペリ ー・ミラーが書いたように、「テクノロジーの権威」の語るヴィジョン に、人びとは真のアメリカの栄光を見出していた。わたしたちは、ジ = ファーソン大統領のような農地 改革者やソローのような森を愛する環境保護論者に関心を寄せたりもするが、信頼を置くのはエジソン やフォードやゲイツやザッカー ーグである。わたしたちを導いてくれるのは、科学技術者なのである。 サイバースペースは、身体から遊離した声と軽やかな分身に溢れ、創始期から神秘的に見えた。その 現実離れした広大さは、アメリカの精神的希求と美辞麗句のための器とな「てきた。カリフォル = ア州 立大学教授の哲学者マイケル・〈イムは一九九一年、「神の叡智をシ。 : レーシ = ンするのに情報の欠 斤からっくられた仮想現実よりいい方法はない」と書いた。一九九九年、グーグルがメンロバ ] クのガ レージからパロ・アルトのオフィスに移ったその年、エール大学のコンビ = ータ科学者ディヴィット・ ジランターは、「コンビ = ータの第二波がやって来る」と予言し、「コンビ = ータ上の宇宙を漂うサイ ーボディ」という霧のようなイメージと「非の打ち所のない大庭園のように美しく配置された情報の 集積」で溢れかえる世の中を予見した。ウ = ブ圸の到来で、千年王国の信奉者らのロをきわめた修辞は、 とどまるところを知らなかった。「見よ」と、二〇〇五年八月号の「ワイアード 」誌は巻頭を飾る特集 記事で宣言している。「わたしたちは、神の恵みのカではなく、ウ = ブの「参加するための電力」によ って「新たな世界」に突人した。わたしたち自身の手による、「 = ーザーによって作り上げられた」楽 園となる。歴史のデーターベースは消去され、人類が再起動される。「あなたとわたしはまさにこの瞬 間に生きているのだ」」。
見せていたにしても、楽観的だった。「暮らしをますます複合的で、人工的で、可能性豊かな」ものに するであろう物理学の進歩について概説した。化学者はまもなく「生活に快適さを加え、より高度な能 力の発現を促す」精神活性化合物を発見するだろうと述べた。しかし、生物科学こそが最大の変化をも たらすものだと彼は予測した。身体機能や脳の仕組み、遺伝メカニズムの理解が進んだことで、自分の 肉体や精神の状態を「人間が徐々に克服していく」準備が整ったということだった。「われわれはすで に、かなりの程度まで動物を作り変えることができる。それと同し原理を人間にも応用できるようにな るのは時間の問題だと思われる」。 人類への適用の境界に関しては、社会は科学者や技術者にしたがうとホールデンは確信していた。 「未来の科学者たちは、ダイダロスの孤独な姿にますます似ていくだろう。自らの恐ろしい使命に気づ き、それを誇りに思うのだ」と締めくくった。 四 レプロン・ジェームズは刺青の男だ。この Z スター選手は、四〇ものタトウーで全身を覆ってお り、それそれが彼の信念や人生のある側面を象徴している。「 CHOSENI ( 選ばれし者 ) 」というフレー ズは、太いゴシック体の文字で背中の上部に彫られている。胸部には、マンティコアーーー人間の顔にラ イオンの体、さらには翼を持っ神話上の獣ーー・が大胸筋いつばいに描かれている。上腕二頭筋にあるの は「この世での行いは永遠にこだまする、というモットーで、これは映画『グラディエーター』でラッ セル・クロウが演したマキシマスの言葉である。タトウーはつい最近まで、飲んだくれの船乗りや奇態 452
れたのはかなり幸運だった。思いがけない収入が最終的にいくらになったのかエドワーズはロを濁して いるが、二〇〇四年に株式公開が行なわれてまもなく同社を去ったときには、莫大な財産を築いていた。 だがテクノロジーしか眼中にない創業者たちが、マーケティングなどよくて堕落したビジネス界におけ る必要悪だと公言する会社で、マーケティング担当者として雇われたのはあまり運がなかった。彼が入 社して間もないころ、セルゲイ・ブリンはきわめて大ましめにマーケティング費用全額を「チェチェン 難民のためのコレラの予防接種費用」に使うことを提案した。ロシアの内戦に関与するのは非現実的で、 軽率かもしれないことにようやく納得すると、今度は別の提案を行なった。「高校生たちにグーグルの ロゴのついたコンドームを配っては ? 」。 グ】グルは破竹の勢いで急成長し、そこには創業者や技術者、科学者たちの献身や能力、尋常ではな い冷静さなど賞賛すべきところがいくつもある。いつ見ても職場にいて、マウンテンビューのオフィス の狭い廊下をローラーブレードで行き来しているべイジとブリンは、官僚的組織を象徴するものを忌み 嫌っていた。 , 彼らにとって大切なのは、個人の仕事の質とその思考の鋭敏さだった。会社の組織、運営、 倫理のあらゆる面が徹底して議論され、よいアイデアは上級役員の提案であろうと社員食堂のコックの 提案であろうと採用された。独創性や創意工夫は十分に報いられ、正論は侮蔑とはいかなくても疑念を もって迎えられた。この会社を実力主義と呼ぶのは控えめにすぎるだろう。 だがエドワーズの本を読み進むにつれ、グ ] グルにはすばらしい資質がたくさんありながら、狭い視 野と内向きの思考が会社の成長を阻んでいることがわかってきた。その欠点は、強みと同しように、 業者の個性から来ていると言える。ペイジとブリンはテクノロジー以外の世界が存在していることに気 381 マウンテンヴューの若者たち