ヒューマンエラーが原囚とされる大惨事は、実のところ、技術的不備によって生したものや、それに よって事態が悪化したものが多い。二〇〇九年に起きたリオデジャネイロ発パリ行きのエールフランス 四四七便墜落事故を考えてみよう。大西洋上空で暴風雨のなかを飛行中、機体の対気速度計が凍結して 作動しなくなった。速度データが入ってこなくなったため、自動操縦システムは計測不能に陥った。シ ステムは停止し、いきなりパイロットが制御を任された。緊張の続く状況で不意打ちをくらい、操縦士 たちはミスを繰り返した。飛行機は乗員・乗客二二八名を乗せたまま、海面に突っ込んでいった。 この墜落事故は、科学者がオートメーション・ ハラドックスと呼ぶ現象の悲劇的な実例だ。コンビュ ータが仕事を引き継ぐと、労働者はほとんどすることがなくなる。注意散漫になる。実践の場を失い 技能が衰える。そしてコンピ ] タが動かなくなると、人間はうろたえる。ヒューマンエラーを排除す るためのソフトウェアが結局、ヒューマンエラーをより起こりやすくするのである。 二〇一三年、アメリカ連邦航空局は、自動制御への過度の依存が航空機事故の大きな要囚になってい しま以 るとし、パイロットが手動で操縦する機会を増やすよう航空会社に勧告した。当局の調査では、、 上に操縦の安全性を高める最良の方法は、責務をある程度コンピュータから人間に戻すことではないか と言われている。人間と機械が協働する場合、オートメーション化を進めることが必すしも望ましいと は限らないのである。 それは、工場オートメーション化の先駆者であるトヨタ自動車が身をもって得た教訓である。近年、 同社は不具合を直すために何百万台もの車両をリコールする事態となり、収益は減少し、品質に対する 輝かしい評判に傷がついた。い までは、その生産上の問題は、人間の洞察力や能力が失われたことに起 435 ロポットがこれからも人間を必要とする理由
である。人工的な空間描写は、視覚や、少ないとはいえ聴覚にも刺激を与えるが、その他の感覚ーーー触 覚、嗅覚、味覚ーーーを奪い去る傾向にあり、身体の動きを大幅に制限する。二〇一三年に発行された 「サイエンス」誌のげつ歯動物の研究では、移動の際に使われる脳細胞は、動物がコンビ = ータで作っ た地形を進んでいるときのほうが、現実の環境で移動しているときよりもすっと不活発であることが示 ーロンの半分が休止してしまう」と、研究者のひとり、 *-a < 大学教授、神経生 されている。「ニュ 理学者のマヤンク・メータは説明する。彼は、精神活動の低下は、デジタル空間シミュレーションにお ける「近接手がかり」ーー場所の手がかりを与える周囲の匂い、音、質感ーーーの欠如に基づく可能性が とは、ポーランドの哲学者、アルフレッド・コ あると考えている。「地図はそれが示す現地ではない ヴァーチャルな描写も、それが示す現地ではない。ヴァーチャ ジプスキーが言った有名な言葉だが、、 ル・ワールドに人るとき、人は身体の大部分をそぎ落とすよう要求される。それは人の自由を奪う。人 を衰弱させる。 世界の持つ意味も弱まる。合理化された環境に順応するにつれ、熱情的な人たちが世界に見ているも のが見えなくなってしまう。の命令に従っている運転者のように、わたしたちは目隠しをして旅す 倒 をする。経験知の低下が生しるが、それは自然や文化が行動や知覚へ誘うことをやめた結果である。自 を 己が成長し、発達できるのは、「環境とのあいだの摩擦」に立ち向かい、克服したときだけだと、アメ 草 の リカ人の実用主義者ジョン・デューイは記している。「衝動性が端的に発動するのに必す適していると 地 湿 いうような環境は、ちょうど敵意のある環境が衝動性を妨げ傷つけるのと同様、確かにその成長を阻ん でいる。絶えす前進を促されているような衝動性はなんの考えもなく、なんの感動もなく、その軌道を
次へと大量に撮影し、後からコンビ = ータでより分け、最もよさそうなものを抜き出して微調整する。 構成の作業は写真を撮った後に行われた。当初彼はその変化に夢中だった。だが、出来栄えには落胆し た。画像に味気なさを感した。フィルムは、ものの見方、認識の仕方をより精緻にさせ、そのことによ って、がより豊かで芸術性に富む、より感動を与える写真になるということに気づいた。そうして古い テクノロジーに戻ったのである。 この写真家は微塵もコンビ = ータに反感を抱いていなかった。活動や自律性の損失への漠たる懸念に 突き動かされたわけではなかった。復権運動などしていなかった。 , 。 彼よ仕事のための最善の道具ーー最 も洗練された満足のいく仕事を可能とする道具を望んだだけである。彼が気づいたのは、最新の見事に 自動化された便利な道具が、必すしも最良の選択ではないということだった。彼をラッダイトになそら えたらきっと憤慨するだろうが、最新テクノロジーの放棄という彼の決断は、少なくとも仕事のある段 階でそうすることは反逆であり、激しい怒りと暴力を除けば、かって英国の機械破壊者がとった行動に 似ている。ラッダイトがそうだったように、テクノロジーについての判断とは、働き方や生き方に関わ る判断でもあることを彼は知っていたーーそしてその判断を他人任せにしたり、進歩の勢いに流された りせずに、自らコントロ ] ルしたのである。一歩退き、テクノロジーについて批判的に考えたのだった。 社会全体として、わたしたちはそのような行動を疑わしく思いはじめている。無知や怠慢あるいは小 心から、ラッダイトを風刺し後進性の象徴とする。新しい道具を拒み、古い道具を好む者は誰であれ、 合理性でなく感情で選ぶ懐古主義者だと責める。しかし、真の感情的な誤信は、新しいものは常に古い ものより人の目的や意図にかなうと仮定することなのである。それは子どもの目線、疑うことを知らな 420
い無邪気な者のそれでしかない。ある道具が他を凌ぐものになるのは、その目新しさとは何ら関係がな 、。問題は、それがいかにわたしたちを拡張するか、あるいは縮小するのか、いかに自然や文化や相互 のわたしたちの経験を形作るかということなのである。日々の暮らしを実感させる選択権を進歩と呼ば れる壮大な抽象的概念に譲り渡すのは、愚かなことなのだ。 テクノロジーは文明の柱であり栄光だ。同時に、わたしたちが自らに課した試練でもある。人生にお いて何が大事か、そして人間とは何であるかが常に問われるのだ。自動化は、人間の存在の最も奥深い 領域にまで浸透しつつあり、リスクは深まっている。わたしたちはテクノロジーの流れに身を任せ、ど こまでも運ばれていくこともできるし、それに逆らうこともできる。発明に抗うことは、発明を拒絶す ることではない。それは発明をつつましいものとし、進歩を地に着いたものとすることである。「抵抗 は無駄だ」は、まことしやかにスタ ー・トレックで使われる技術者好みの決めぜりふである。しかし、 真実は逆である。抵抗は決して無駄ではない。わたしたちの活力の起源が、エマーソンが説くように 「活動的な精神」であるならば、わたしたちの最大の義務とは、その精神を弱め、あるいは削ごうとす る制度的、商業的、技術的な力に抵抗することなのである。 わたしたちの最も注目すべきことのひとつは、最も見落としやすいもののひとつでもある。現実とぶ つかるたびに、わたしたちは世界への理解を深め、いままで以上に世界と一体化する。課題に全力で取 り組むなかで、わたしたちは労働の終焉に期待してしまうかもしれない。しかし、フロストの見た通り、 わたしたちが何者であるかを決めるのは労働ーーー手段ーーなのである。自動化は、目的を意味から切り 離す。それは求めるものを得やすくはするが、知るという労働からわたしたちを遠ざける。わたしたち 421 湿地の草をなぎ倒す愛
を作り出すことで、人類を解放するというものだ。起業家、投資家としても成功しており、同時にシリ ・ティールは、「ロポット工学革命は、基本的に人 コンヴァレーで最も有名な思想家でもあるビーター びとの仕事を奪うことになる」と述べたが、急いで付け加えた。「それによって人びとは解放され、他 の多くのことができるようになる」。解放されるという言葉は、解雇されるという言葉よりもはるかに 耳障りがしし このような壮大な未来主義を冷淡に見る向きもある。歴史が思い起こさせるように、テクノロジーを 活用して労働者を解放するという大げさな修辞は、往々にして労働への蔑視を覆い隠す。完全自由主義 であり政府に業を煮やしているようなテクノロジー界の大立者が、失業者大衆に自己実現のための余暇 の時間を与えようと資金を供給するという、大規模な富の再配分計画に同意するとは信しがたい。たと え社会が自動化で得た成果の公平な分配のための魔法の呪文や魔法のアルゴリズムを発案したとしても、 ケインズが思い描いた「経済的至福」にいくらかでも似たものが訪れるか大いに疑問がある。 ハンナ・アレントは、著書『人間の条件』の先見的一節において、自動化が約束するユート。ヒアが実 現したとしても、そこはおそらく、少しも楽園とは感じられす、それどころか残酷な悪戯に似たもので あろうと述べている。彼女は、現代社会は総体的に「労働社会」として組成されてきており、賃金を得 るために働き、その賃金を使うことは、人びとが自己を決定づけ、その価値を測る方法であるという。 遠い過去に「より崇高で意味のある活動力」として敬われたもののほとんどは、脇へ押しやられたか忘 れ去られ、「生計という観点ではなく、労働という観点から自身の行う行為を考えるただ孤独な個人だ けが残されている」。「労働の『つらさや困難』から解放される」という人類の変わらぬ望みをかなえる 418
を狭め、高度な技術職を型にはまった仕事へと変えてしまう。最悪の場合、工場労働者は、「人間がな り得る限りの最も愚鈍で無知な人間」になる、と彼は述べた。 もちろん、それが全体像というわけではない。業務自動化の長期的影響を評価する際には、特定の職 域を越えて俯瞰する必要がある。業務自動化が、既存の職業の技術的要件を減らしたにしても、やりが いがあって高賃金の新しい分野の仕事を創出する可能性もある。無限のはしご神話の提唱者らがよく持 ち出すように、それは産業革命期終盤に実際に起きたことである。工場の組み立てラインの効率化とそ の他の機械化された生産形態により、あらゆる生産品の物価が押し下げられた。その結果、それらの需 要が跳ね上がり、製造業者による雇用は、機械操作や修理のためのブルーカラー労働者のみならす、エ 場運営管理、新製品設計、製品のマーケティングや販売活動、帳簿管理、その他の仕事のためのホワイ トカラー労働者にまで広がった。 結果として消費志向で経験を求める中産階級が拡大し、小売販売員から医者や看護師、教師、建築家、 ハイロット、ジャーナリスト、官僚といったあらゆる種類の労働者需要が少しすっ増えていった。それ はまぎれもなく好循環であった。しかし、これは普遍的な好循環、経済力学の必然ではなく、主にその 時期特有の好循環であった。なかでもこの時期に限られる最も重要なこととして、人間の仕事を引き継 いだ産業機械の能力に限界があったことが挙げられる。高度に機械化された工場でも、機械の番をする 人間が多数必要で、最も。フロフェッショナルな職業やその他のホワイトカラーの仕事は、テクノロジー の力が及ばないはるか先ににあった。 いまは時代が違う。機械類も異なる。ロポットやソフトウェア。フログラムは、すべての人間の仕事を 246
能性ーーではなく、親子の絆と愛情を示すささやかな行為を自動化しようとする衝動が、ビチャイや彼 の同僚たちを物語っていることである。この何気ないひと言で、。ヒチャイは、シリコンヴァレーにはび こるある前提を語っているのだが、それは要するにこういうことだ。自動化できるものはすべて自動化 すべし。人ができることでもコン。ヒ = ータに。フログラムしてやらせることができるなら、コン。ヒュータ にさせるべし。 この観点に欠けているものは、日常的な喜びや責任についての配慮である。ビチャイは、親が我が子 に代わって、あるいは我が子と協力してするたわいのない行為にこそ子育ての楽しさがある、という可 能性を考えたことがないようだ。たとえば車のなかでかける音楽を選ぶというような。 255 父親のアウトソーシング
終わりのないはしごという神話 ーは、「タイム」誌 「結局のところ、それは好循環となる」と、経済政策レポーターのアニー・ のコンビュータによる自動化が引き起こす仕事の代替効果に関する記事で書く。「なぜなら、これによ って人はより価値の高い仕事ができるようになるからだ」。彼女は続ける。今日の課題は、「ソフトウェ アやアルゴリズム、ロポットやその類のものが、さらに高度な価値の高い仕事へと進むことを人間が受 け容れることなのである」。 この考え方は昔からある。アリストテレスは奴隷を道具になそらえた。どちらもその所有者に、より ・ワイルドなどさまざまな思想家 洗練された活動をする時間を与える。マルクス、ケインズ、オスカー たちも、産業革命期に同様のことを述べている。それは現代でも繰り返し言われ続けていることで、自 動化とソフトウェアは、いままで人が賃労働で行っていた仕事をどんどん引き継いでいる。「われわれ はロポットに引き継がせる必要がある」と昨年、「 WIRED 」誌は説いた。「ロポットは、われわれが自 身のための新しい仕事、つまり人間としてのあり方を広げる新たな仕事を発見する手助けをしてくれる。 いまよりもさらに人間らしくあることに焦点を当てさせる」。 人手を省く技術が必然的に、労働者をより高尚なものの追求へと導くという概念は、大きな慰めとな ニ〇一四年四月六日 244
もしコンピュータと自分自身とのあいだに境界線を引くとしたらどこだろうか ? 仮に機会があると したら、どういうときにマシンに向かって、「引っ込んでろ。これはおれの仕事だ」と言うのだろう カワ・ グーグルの Andro 一 d 部門の責任者、サンダー ・ビチャイが垣間見せてくれたのは、同社が描く、自動 化されたこんなわたしたちの未来である。 現在、コンピュータは主に人びとのために物事を自動化することに利用されているが、自動化さ れたあらゆるものを連携させることで、より有意義な方法で確実に人びとの手助けがはじめられる ようになる : たとえば、わたしが子どもたちを迎えに行く際、子どもが乗り込んだことを車が 検知して自動的に音楽を子ども向けのものに変えてくれればとても便利だろう。 これで判明するのはシナリオのつまらなさー・ー子どもが車に乗ったことを感知すると、間髪を人れす ーガ」の歌が流れ出すシステムの開発に数十億ドルという資金がつぎ込まれている可 「べイビー・ 父親のアウトソーシング ニ〇一四年六月ニ六日 254
って、大鎌は両の手のなかで異物のように感しられるかもしれない。熟練の草刈り人にとっては、手と 大鎌は一体となるだろう。力量は道具とその使用者との結び付きを強める。この身体と倫理の絡み合い は、テクノロジーがますます複雑になるなかでも消えることはないたろう。一九二七年、歴史的な大西 洋単独横断飛行に成功したチャールズ・リンドバ ーグは報告のなかで、飛行機と彼自身があたかもひと つの存在であるかのように述べた。「われわれは大西洋横断飛行を成功させました。「わたし」がでもな 「それ」がでもありません」。飛行機は多くの部品で構成された複雑なシステムだが、熟練したパイ ロットにとって、それは依然として手道具の本質的な性質を持つものなのだ。「湿地の草をなぎ倒す愛」 はまた、操縦桿と方向舵を握る男にとっての、雲海に分け入る愛でもある。 自動化が道具と使用者との結び付きを弱めるのは、コン。ヒュータ制御システムが複雑だからではなく、 その技術が人にほんのわすかな行為しか要求しないからである。その動き方の秘密はコードのなかに隠 している。必要最小限を超えたオペレータの関与をいっさい拒絶する。使用にあたっての技能の鍛錬を 妨げる。自動化は麻酔と同し結果をもたらすのである。もはやわたしたちは道具が身体の一部だと感し 愛 ることはない 一九六〇年、心理学者でありエンジニアでもある・ o ・・リックライダーは有名と す なった「人とコンピ = ータの共生」という論文のなかで、テクノロジーとの関わり方の変化について詳ぎ を しく考察している。「過去の人と機械の関係では、人間のオペレータが主導権を握り、指示し統合し、 草 の 基準を作った。システムの機械部品は単なる機能的拡張にすぎず、ます人間の腕の、次に人間の目の役 地 湿 割を果たした」。コンビュータの登場はそのすべてを変えたという。「『機械による拡張』の時代は終わ り、機械が人に取って代わる、自動化の時代が到来した。残された人間たちは、むしろ機械を助けるた