ティグマ」問題として常に大きな関心が寄せられてきを、現在そのスティグマの原因となっている資力調査を 6 という意識を起こさ 2 たことは周知のことである。すなわち、福祉施策が貧行わないことで、「社会の落伍者」 困・低所得者に限定される場合、福祉施策の利用に際せないようにするのである。もうひとつには、「ニーズ してのミーンズテスト ( 資力調査 ) が、「公衆のお世話」を測らずに」という意味である。調査なしの無条件の一 になるという「世間から切り離された存在」であり「社律給付は、人間の個々の「生のニーズ」さえも一律に普 会の落伍者」であることを福祉受給者に強く意識させ遍的なものとして捉えてしまうのである。確かに、衣食 たり、申請をためらわせたりする傾向があること、あ住などのニーズは普遍的であろう。誰もが飢えから解放 るいは、福祉サービス自身が質の劣った ( 日「劣等処され、暑さ寒さを緩和しながら生活する権利がある。た 遇」 ) ものになるということが問題にされたのであっ だし、ニーズはあくまで個別的なものである。私たちは て、このような選別主義を脱する普遍主義的な福祉施「ニーズを満たす」ということを普遍的には承認し得て 策 ( サービス ) の展開が模索されてきたのであった〔 7 〕。も、「個々のニーズ」に関してはあくまで個別的に対応 しなければならないのである。 つまり小沢は、生活保護の要件である資力調査が受給つまり、要援護者に対して調査をしないことで、スティ 者にスティグマを与えるとして、福祉的給付を選別的に グマ回避のコストを、個々の「生のニーズ」を測らない ではなく、普遍的すなわち一律に行うを支持する理ことに負わせているのである。一律給付は、給付以上に 由のひとつに挙げるのである。 必要な者への対応を軽視しているのである。もちろん、 ここで、無条件の一律給付という意味内容には二つの このことは—推進者も気づいている。小沢はさらに次 異なった位相があることを確認しよう。ひとつには、「資のように述べている。 力調査なしに」という意味である。推進者は、この 点を重視するのである。すなわち、社会的なスティグマ べーシック・インカムにプラスして就労することによ
彡 という似たような案が 5 , 制度には必ずしもなり得ていない。例えば、生活保護制の『〈帝国〉』にも「市民権収入」 度が世帯単位を基準にしているということは、重大な問提唱されている「 6 〕。もこれらに類する主張だ 題点のように思われる〔 4 〕。しかしながら、私たちの「生考えられる。 の無条件の肯定」を目指すための指針として、もっと評論者は、生活保護のような制度よりものほう ミーンス がよいと主張する。生活保護制度は資力調査 ( 価されるべき制度なのである。 テスト ) を実施するゆえ、スティグマが不可避のものに なる。それに対して、は、そもそも資力調査を実施 cn ー論の可能性と限界 しないことにより、スティクマを回避できる、とい - つも 一方、冒頭に述べたように、生存のための一定額の給のである。 付を無条件に認めようとする政策がある。冒頭の引用は 日本において精力的にの普及を訴える小沢修司のム カ 』主張を見てみよう。 ハレイスのものであるか、例えば『愛するということ ン などで著名なエー リッヒ・フロムも「年間保証収入」 イ いう概念で同じような主張をしている〔 5 〕。また、す かねてより、「福祉国家」下での選別主義的な福祉施ク でに引用されつくしている感も否めないネグリⅡ 策による福祉受給者の自尊心の損傷が、いわゆる「ス シ べ 〔 2 〕〔京極監修一 993 ・ 25 一〕を再構成しまとめた。 と 〔 3 〕〔東京ソーシャルワーク編 285 ・ 8 〕 保 〔 4 〕それは暗黙裡に現在の家族制度を前提にするものである。障害者たちの連動は「家族の庇護」を問題にしてきた。 また、フェミニズムは家族の作られ方のイデオロギー性を批判し続けてきた。 生 〔 5 〕フロムが主張しているのは〔フロム一 976 Ⅱ一 977 〕 25 二においてであり、彼は一不労所得を万人に与える」と述べる。 〔 6 〕〔ネグリ Ⅱハート 2000 Ⅱ 2003 〕 500 〕
る稼得所得が見込めない方々にはべーシック・インカもであること」などの条件によって—額を変えてしま 7 ム額を増額することが必要となる〔 8 〕。 うのでは、—の—たる「魅力」がなくなってしまう のである。 沢は、子どもに対する額を減額することも想定私は、まさにこの無条件給付によるスティグマ回避の して、「そうした細部の配慮を行なった試算は、必要でコストこそが論の限界であると考える。スティグマ あれば別途行なう」〔 9 〕と言う。しかしながら、私た 回避のコストを、決して「生のニーズ」を測らないこと ちはどうやってそのことを知れようかここで資力調査に負わせてはいけないのである。それでは、スティグマ と同じような調査を行なうとすれば、生活保護への は仕方なく甘受しなければならないのであろうかそう 側からの批判が、そのまま自身にも当てはまってしではない。 まうことになる。それは必要最小限に抑え、生活保護の 私たちはなぜ、「公衆のお世話」になることを「社会ム カ ような「大体的な」資力調査ではない、と反論されるかの落伍者」だと見なすのか、そこから考えなければなら 、もしれない。 しかし、資力調査がスティグマを生むものないのである。言い換えれば、私たちはなぜ、福祉を受イ であれば、どれほど少人数であっても、実施してはいけ けることを恥すかしいと思ってしま - フのかそ , フ思ってク ッ ないと述べるのが、側の筋ではないだろうか。 しまう私たちとは何者なのか、ということが問われなけ シ の生活保護と一線を画す特徴の大きなものは、言うまでればならないのである。つまり、スティグマを「回避」 もなく無条件の給付にある。「働けないこと」や「子どするのではなく、スティグマ自体を「解消」しなければ と 保 〔 7 〕〔小沢 282 〕一一 3 〕。なお小沢は、このすぐ後に「失業と貧困の罠」の問題を挙げ、生活保護と労働インセンテイプの 活 問題を考察している。この問題については後の課題としたい。 生 〔 8 〕〔小沢前掲害〕一 70 〕 〔 9 〕〔小沢前掲書 . 同ページ〕
にするかという問いに対する答えの理由には二つある。 8 ならない、と考えるのである。 そもそも、「福祉受給のスティグマ」を構築したのは、ひとつは、現在改悪されつつあるとはいえ、それでも現 2 福祉の受給者ではないはずである。なぜなら、自分たち行法として生活保護法が存在しているからである。 が自分たち自身を辱め、貶めるような意識を醸成するは法を新たに作成するより、生活保護法を改良するほうが 早い。もうひとつは、生活保護法にはその人の必要に ずもないからである。そう考えれば、「福祉受給のスティ グマ」は、福祉を利用しなくとも生きていける者こそが応じたさまざまな対策があるからだ。なかでも、生活 作り上げたものであると言えよう。しかし、それは虚構扶助の加算扶助費ⅱ〕は、個人の状況に応じて支給さ と言うにはあまりにも強固な価値観である。「自分で生れる画期的な制度である。これは、個人の「生のニーズ」 産したものは自分が処分する権利がある」という私的所を満たし、生き方の幅を広げるものなのである。例えば、 有の価値観を打破しない限り、「福祉受給のスティグマ」重度の障害者が介護者を雇う場合、介護者に支払う介 は現実に貧困層を死へと廃棄する恐れがある〔加〕。 護料が障害者加算 ( 特別介護料 ) の一般基準では足り すなわち、は、その意に反して、「生の無条件のないときがある。その場合、必要に応じて〕知事基 肯定」を実現する政策であるとは言いがたいのである。準や厚生労働大臣基準まで受給することが可能となっ 無条件の一律給付では、生存のために給付がより必要なている。 者が生きられないのである。 もちろん、生活保護にも改善すべき点が多々ある。そ れらは論に倣うべきところもある。詳述はできない が、例えば、給付の単位は世帯単位から個人単位へと変 生のニーズに応え得る生活保護制度へ えられるべきであろう。また、扶養義務の優先や、働く そこで、私のへの対案は、現在の生活保護制度能力の活用という要件も、一考に値する。 の改良である。—でなくなぜ生活保護のほうを基本私が提唱したい「生の無条件の肯定」は、ある種の生
生活保護と べーシックインカム はじめに 本論の目的は、咋今その可能性や限界について議論さ れつつあるべーシック・インカム ( 以下—) を、主に スティグマとニーズの視点から再検討することにある。 そして、そこにおいて議論の補助線として提示されるの は、日本の生活保護制度とその思想である。 野崎泰伸 ( 大学院生・倫理学 ) は、市民であれば誰でも無条件で一定額の基本 給付を認めるという政策である。フィリップ・ヴァン日 パレイス (VanParijs 、 Philippe) は次のように述べる。 べーシック・インカムとは、換言すれば、たとえ働く 意志がなくとも、金持ちであろうとなかろうと、誰と 一緒に住んでいようとも、当該国のどこに住んでいよ
、き・一刀が・亠 9 ・かしいし」い , フ 意識それ自体を除去しようとす合によって、それは作られているに過ぎない。私たちが、 9 る。資力調査が付与してしまう「お前は生活保護を受け生活保護受給者を生きにくくし、彼 / 女らを差別してよ ) るような無価値な人間だ」というような意識を、その根 いというロ実を「スティグマ」と呼んでいるだけに過ぎ 底から問題に付す。生活保護が「お上が市民の「血税」 。それは、生活保護など受給しない私たちこそが「正 を恵んで与えてやっている」という感覚から、生存を保常」で、「優れている」と思わせる装置なのである。 障するための権利という認識 ( , こ変えられなければならな なぜかと言えば、それはまったく反対といってよい例 から推測できる。こと生活保護者に限っては、「堕落し スティグマは不可避なものなどではない。私たちの都た態度が腹立つ」や「もっと自分が置かれている立場を 〔加〕実例として以下。毎日新聞一一〇〇六年四月一 - 一日の記事「変死体〕団地で母娘の遺体生活保護拒み餓死か北九州」 である。 「一一一日午前七時一〇分ごろ、北九州市門司区中一一十町の市営大里団地の住民が、「女性から救急車を呼んでほしいと頼 まれた」と 119 番した。かけつけた救急隊員が、団地四階の四〇五号室で、この部屋に住む小林寿子さん ( 七八 ) と長 女の千代子さん ( 四九 ) とみられる遺体を発見した。いずれも外傷はなかった。通報を頼んだ二女の真由美さん ( 四七 ) は気分が悪いと訴えて病院に連ばれた。福岡県警門司署が死亡の経緯を調べている。 / 調べでは、小林さんとみられる 遺体は六畳間のべッドにあおむけに寝かされていた。死後一年以上経過し、ミイラ化していた。千代子さんとみられる 女性は隣の四畳半の部屋で横向きで毛布をかけられていた。 死後数カ月とみられる。 / 真由美さんは衰弱が激しく、保 護された際、救急隊員に「一一カ月くらい前から何も食べていない」と話したという。部屋はきれいに整理されていたが、 冷蔵庫の中は空だった。 / 隣の棟の住人によると小林さん方は三人家族。生活保護の受給を勧められていたが、拒んで いたらしい」。 〕この「加算扶助」の対象は、昨今徐々に減らされつつある。 わ〕一般的には介護者との契約書、要求書、要求額の試算根拠、一週間の介護者のローテーション表などを提出する。 一生活保護とべーシック・インカムー
き、あるいは、フリーターで最低基準額の生活に満たな に応じて、各人にはその必要に応じて」朝〕というマ い場合、それで困ったときには迷わず生活保護を取得し ルクス自身の言葉からすれば、労働、すなわち労働者 てよい それと同時に、生活に苦し く、ただそれだけでの身体をこそ価値づける方向は、誤っている。この言葉 生活保護を取得しようとする者への偏見やスティグマをこそ、マルクスを現代に復活させる倫理になる可能性を 除去していかねばならない。 それはまた「自分で生産し秘めたものであると、私は考えるのである。つまり、「能 たものは自分が処分する権利がある」ことを是とする社力に応じて」すなわち「働けるなら」働き、「必要に応 会と、そうではない社会との選択の問題でもある。私た じて」取るということのエッセンスとして、「労働の価 ちは、それらのうちどちらを選択するかに関しては、自値の称揚」は出てこない。むしろ、生存に必要な取り 由のうちに置かれる。しかし、 いったん選んでしまえ分の無前提の確保こそを、マルクスから抽出すべきで ば、選んだほうの論理的帰結をも受け入れなければなら はないのか。すなわち私は、マルクスの可能性として、 ム 十 / - し それは、前者では多く生産する者の生が価値あるマルクスが言ったこととは違うあり方を示そうとしてカ ン 生となり、後者では生産の多寡によって生の価値は決ま いるのである。ルンペン・プロレタリアートすら生き イ らないことを意味する。 ク られる、生存可能なものとしてマルクスを復活させなけ かってマルクスは、正規労働者の「労働」あるいは「労ればならないと私は考えるのである。すなわちそれは、 シ 、こ。ルンペン・フロレタリアー 働者身体」に価値を置しカ ルンペン・プロレタリアートも「必要に応じて」生存一 トもプルジョワジー同様、プロレタリアートを「搾取」のための財を保有してよい 要」い , フ一」」で、のる。目匕日 と するものと考えたのである朝〕。前者は労働の果実を、すべきは私有財産制の全面的な廃止を謳う共産主義で護 保 後者はそれと生産手段とを、である。「各人はその能力はなく、 私有財産制を取り入れつつも、生存の必要に 生 〕〔マルクス一 852 Ⅱ一 954 〕 〕〔マルクス・エンゲルス一 875 Ⅱ一 954 ・ 28 〕 14 13 291
わきまえろ」と言われたりもする。だが、「堕落した態度」めの根拠づけが、生きるために何がどれだけ必要かとい〇 うことをもってなされる社会は不正義であるということ ) を批判するのであれば、生活保護者以外の者に対しても 当然に批判すべきだ。しかし、生活保護者への「堕落しを含む。 日本の生活保護制度は、少なくとも理念の上では、問 た態度」の批判がことさら説得力を持ってしまうという ことは、生活保護者ならおとなしくしておけと言わんば題点はいくつかあるものの、それに余りあるだけのよい かりの無言の圧力となっている。この社会で生活保護者制度であると私は考える。その中でも、人々の価値意識 であることは、心の内部まで監視されるということにもを規定する私的所有の論理から社会的スティグマは構築 されていることに触れた。またその価値意識は役所の窓 つながり得る。 「清く正しい」生ロで対応する人にもあるだろう。そこで実際上の運用に 生活保護を受給するということと、 オしオカ一人ひ き方をしなければならないということは、論理的には支障が出てくることもあるかもしれよ、。ご、、。、 とりの個別の「生のニーズ」を満たすためにこそ、生活 経済的に苦しいから生 まったく因果関係がない。ただ、 活保護を受給するだけである。「生の無条件の肯定」は、保護の初発の理念に立ち返る必要がある。そして、「生 個人の必要に応じて財を取得してよいと主張する。生きのニーズ」を満たすのは国の責任であると明確に書かれ た生活保護法は、間違いなく私たちの「生の無条件の肯 るために月五〇万円必要なら、取得してよい。生きるこ とに月五〇万円かかる生より、月一〇万円で生きられる定」へと道を開くものなのである。 生のほうが尊い という考え方は、生の肯定に留保をつけ ている。生の肯定に留保をつけないということは、生き 終わりにーー、生活保護制度を活用しよう るために必要な物質的・精神的支援がいくら多くとも、 そのことで生の価値が低くなったりしないということを最後になったが、生活保護制度はもっともっと利用さ れるべきである。リストラに遭い、失業保険が切れた 意味する。言い換えれば、生の価値の上下を決定するた
うとも、政府によって社会の構成員すべてに対し支払題であり、もうひとつにはニーズの問題である。 日本には、社会保障政策のひとっとして、生活保護制 われる所得のことである〔 1 〕。 度というものがある。そして、本論は「生の無条件の肯 人間の生存には、まずもって物質的な消費が必要であ定」のために、修正された生活保護制度こそを擁護すべ きだと主張する。そのためにまず、生活保護制度の基本 る。人間が生物である以上、その生存を継続するには、 生存維持のための最低限の財が必要とされる。人が生き的な思想的枠組みと現状における問題点を指摘する。次 に、論が投げかけた波及効果を、生活保護制度の問 ること、生き延びることを確保するためには、まずはこ 題点と比較検討する。それと同時に、論の「生の無 の部分においてのミニマムな生存維持が必要である。 そうだとすれば、が、少なくとも思想的に目指さ条件の肯定」から照射される思想的脆弱性を指摘する。 れるべき政策であると言えるのか。私は、この間いこ ( 関最後に、生活保護制度を擁護するために何をいかほど修ム カ それは、論が理想論に終始正すべきかについて論じる。 して否定的に答えたい。 ン そうではなく、 しているように見えるから、ではない。 なお、本論では、重要な問題ではあるが、実行可能性イ とインセンテイプの問題については言及しない。すなわク 目指すべき理想が違う、と言いたいのである。とい ッ う政策は、「生の無条件の肯定」を、少なくとも理想とち、生活保護や論のどちらを選ぶにしろ、物理的な シ しては、一見地で行く政策のように思える。しかし私に限界は必ずある。その意味で実行可能性の問題は重要で は、は理想ではないように思えるのである。その理ある。そして、それは労働のインセンテイプ間題に少な と からず影響をもたらすだろう。しかし、「できる / でき 由としては大きく二つある。ひとつにはスティグマの問 保 活 生 〔 1 〕〔 < anpa 「 = s 一 998 〕 35 〕。ただし、齊藤拓が指摘するように、べーシック・インカムとは万人への現金の無条件給付を意 味するわけではない 。「一般的には市民権保持者と成人であることが条件とされる。また、現金の定期的な給付である とも言い切れない。」 ( 「齊藤 286 ・一 23 」 ) 283
ちて、古本屋で落ちて、レンタルビデオ〇 ないのかしら」「学校に行かないと社会が離れつつあるからこそ、自分はフリー 生活ができないよ」とか、学校からも親ターみたいになりたくないという言葉が屋も落ちて、 : : : 最後にコンビニが拾っ〇 逆に私達の世代はてくれて。時給八百円でも助かったと心 からも地域からも言われたりしている。出るのかもしれない。 から思った。警備員の時もそう思ったん これも上山さんが書いていたけど 「学学校に行けば、このまま社会に入ってい 校に行かない自分はこのままホームレスけるのだという幻想をより濃厚に抱いてだけど、その時、普段みなくて済む資本 いたかもしれないと思います。学校に通制の一番リアルなところ、資本制の亀裂 になるしかないんじゃないか」、と恐怖 に直面させられているんじゃないか えば社会にも通じると思い込みすぎたこ する。会社の場合も同じで、正規職員に とによって、学校に行けないとなると、 なって十二時間働くのはしんどい、そも 家事労働から もう死んでしまいたいと私なんか思って そも会社で仕事をするのはきつい、とい 「世のなか」を見てみる うのはある意味当然だけど、会社や学校しまったわけで。いわば学校と社会の「幸 こだわ 栗田それと私は身体性に拘るところが は問題にされずに、そこについていけなせ」な蜜月時代だったのかな。 い人たちの方が問題にされてしまう。一杉田実際に働くことより就職活動の方ありますね。機敏な動作が出来ないとい けないというのがプレッシャーです。ほ つは、会社以外の働く場を作っていく必がいやだという人は結構いる。会社から 否定される時、生活費がないとか食えなんとうに、どうやってこの体で世を渡っ 要があると思う。 くなるだけなら、あんなにいやな気持にていったらいいのだろうと思うと不安 栗田に関わっている女性四人のう ち、貴戸さんと雨宮さんはおそらく不登はならないんじゃないか。生保利用者がで。私自身がいわゆる「女性性」 ものに何で距離があったのだろうと思 いますか、曖味なくくりでスティグマ化されることにも関わるのか 校つぼいとい もしれないけど、たぶん自分の人格そのうと、一つはいわゆる女性らしいとされ すが、学校への恐怖や不安を抱えている とお見受けするんですね。その不登校的ものを否定される感じがあるんだよね。る「こまめに気を使う」ことへの苦手意 なものとフリーターの隣接点については僕は大学院出る寸前の時バイトの面接で識と恐怖と抵抗があったんですよね。ケ 考えて行きたいと思います。もしかした十五だか十六くらい連続で落ちたんだけア的な作業に対しても苦手とイヤがごっ 、最初塾講師で落ちて、家庭教師で落ちゃになっていて。その「女性性」への ら、今二十歳くらいの世代は学校と会社