これがきっかけで「馬車」「悪魔」から「機械」「時計」「寝園」と代表作を読みあさった。 文学とは異質のダイナミックな構成力と、たくましい思想性に共鳴するものがあったからだ。 初対面のその日、用件のすんだ私の帰りぎわになお私を引きとめるように老哲学者がしゃべ りつづけた話によると、横光と由良の二人は三重県立の上野中学が一緒だったという。京都帝 大の哲学科に進んだ由良に対し、横光は早稲田を中退し、大学以後の人生コースはちがったが、 その後も一一人は絶えす往来し、文通し、思想的に影響しあった。横光の「馬車」をはじめ、「機 械」や「時計」にも、由良をモデルにした学究肌の変人は、繰返し登場した。ときには由良の ひんしゆく 実名をそのまま作中に使われて、由良を顰蹙させたこともあった。「旅愁」では、外国生活体験 にこ吏われた。 者であり、同時に国粋主義者であり、古神道にひかれつづける主人公の矢代耕一良しイ 奈良県柳生村の丹生神社の神主の家に生まれた由良哲次の外遊前後が、「旅愁」の矢代耕一郎に はこれまたありのまま再現されている、というのであった。 由良氏と私との間に親密なっきあいが生まれたのは、初めての訪問だったその帰りに由良氏 がしゃべった、横光の話からだったのである。 かっての文学青年の私がいま横光に対するのと同じか、それ以上の敬愛の気持を由良氏に寄 せ、写楽の新説に対する最後の決断をこの人の意見も入れて下そうとしているのは、この老哲 、この人の体質と直結した論理 学者の写楽Ⅱ北斎説には、いちがいに否定することの出来ない Ⅱ・山而 146
いなづま ひらめ 雷光にも似た閃きで、私は老哲学者の顔が、なんと写楽そっくりに見える奇妙な錯覚にとら えられた。 か / 、ーレや / 、 その写楽は、紋付羽織のひもをゆったりと垂らし、脇息に左手をおいた老人だが矍鑠とした、 見ただけで苗字帯刀を許された格の高い町人を思わせる、あの新発見肖像画の俳人谷素外の写 楽の顔なのであった。 そ、ついえば、確かに似たところかある まじまじと私は、巨岩のように微動だにしない老哲学者由良哲次を見詰めた。 0 」よ、っそく 169 第九章写楽は北斎でもない
学問としての新説である以上、わたしはその説に学者としての責任をとる。ドイツに留学す るまえ、西田 ( 幾多郎 ) 門下にいたときでも、もっとそれ以前からも、わたしは体質的にそう だった。自分の思想には信念を持ち、行動にも責任を持った。 おわかりかな ? 」 「はあ : : : 」と答えながら私は、射とおしてくるような相手の眼光から目をそらした。 「思うに、西田門下には、二人の反逆児がいた。一人が三木清で、もう一人がこのわたしだ。 三木はマルキシズムに走り、わたしは歴史に走った。西田流の観念論では、本当の実在は解決 できないもの足りなさがあったからだ。 西田哲学は、大変すぐれた体系を持ってはいたが、抽象的すぎた。ヨーロッパの幾何学に東 洋の禅の瞑想を加味した哲学、逆にいえば禅の直観に幾何学の図形を与えただけの空想哲学に で すぎなかった。空想からは、真の実在である社会も、個性も、歴史も解決はできない そう信じたから、わたくし由良哲次は、西田哲学から離れた。そこから離れて、それを越え 写 よ、つと田 5 った。そ、つすることカ日し 、ミ、市こむくゆることにもなり、そうするためには世界的な意義 を持っ個性と歴史を解明することだと決意した。ドイツでの師フローレンツがいう化け絵師写九 第 楽の正体を解明し、それで世界のナゾを解く、これ以外にないことに、わたしは確信を持った」
老哲学者由良氏に、私はしてやられた、といえた。論理的な説得力を持っその話術にだけで はなかった。終始、微動だにしない峻厳な態度からして、相手は私を圧倒した。写楽別人説の 論拠のなさを、由良その人の北斎説からして例外ではないと私が確信することが出来る、その 決定的な手掛かりをつかむための訪問だったのにもかかわらす、結果は逆になった。写楽につ いてのすべてが、私には、もはや、 ' 何が何だか、わからなくなってしまった ~ こんとん ー昜デていたのである。 混沌とした心理状態で、私はなすこともなく由良宅を弓孑し いまにして私にはわかるのだが、老哲学者は、私が何としても聞き出したかった寛政五、六 年における春朗の所在についての疑問に、具体的には何一つ答えてくれなかった。春朗は、日 光にはいなかったらしいことが推理されただけで、そのころの春朗、すなわち由良氏のいう北 斎 ( 写楽 ) の江戸での動静を具体的に裏づける論証を、由良氏はいっさい口にしなかった。 第十章俳人谷素外でもありえないはずなのに・・ 170
ばかりか、横光並みかそれ以上に私の敬愛するこの厳格な老哲学者にしてなお、写楽にとり つかれたあまりに、写楽に己れを見ているだけなのが、いまさらに私にはわかった気がした。 その数年も前、たまたま石神井まで車で取材に出た私が、そのときは知り合ってから二度目 だった由良宅を、これという目的もなくふらりと訪れたときであった。写楽Ⅱ北斎の話のつれ づれに、この人はさりげなくこ、つ一言ったことがあった。 「もし、わたくしが、世界の学界に、写楽Ⅱ北斎の正当性をまちがいなく論証する大論文を発 表すればですよ、エンサイクロペディアにわたくしの名が載る。西田幾多郎先生についての記 載が、大きく見積もってもせいぜいこのくらいのものなのに : と老哲学者は、太く骨張った両手指先を五センチほどの距離にあけて、つづけた。 「写楽イコール北斎を解明した由良哲次の記載は、小さく見積もっても、まちがいなく、この くらしにはなる」 ゅうに三〇センチほどの距離に、大きく両手指先をひろげて、にんまりと笑ったのであった。 この人、由良哲次もまた、写楽の毒にしびれ、写楽を自分に結びつけて、写楽に結びつけた 自分を写楽だと錯覚している 江戸末の斎藤月岑が、なんとも奇妙に同姓の斎藤十郎兵衛に。徳島大の老教授河野太郎が、 これまた河野栄樹に。京都の事業家が、事業家蔦重に。美術界から追放された中村正義が、蒔 171 第十章俳人谷素外でもありえないはずなのに・
た。東洲斎写楽という名にかくれながら、前人未到のあの名作を描いていた といったふうに、極めて整然と体系づけられているのが由良説の特色である。 ところがである。見たところつけ入る余地のなさそうなこの説にも、意外なすきはあった。 明治以来の北斎研究では、勝川を出た春朗はすぐ狩野派の門をたたいた。町絵師といわれるや くざな職人芸ではなく、幕府や大名に抱えられる本格派の画法を身につけるためには、どうあ ってもそこに入門する必要があった。その狩野派の、三家とも五家ともいわれたなかの浜町狩 ゅうせん 野五世寛信、俗称融川についた春朗は、たまたまそのころ融川にひきつれられ日光東照宮の修 復作業に出掛けていた。 つまり、寛政五年から , ハ年にかけては江戸にいなかったという、すでに実証づけられた春朗 のこのアリバイに、一体、由良説はどう対処するのか ? で それもまた、今回の訪問でまず私が老哲学者から聞き出したい、由良説に対する私の第一の 写 疑問であった。 竹林の横手の小さな木戸の奥の、北宋画の軸のかか 0 た和洋折衷の応接間であ 0 た。背筋を九 第 正して椅子に坐り、軽く握りしめた両こぶしを揃えて両膝の上におく老哲学者に、私は一応の 挨拶をすませてすぐぶしつけに、その質問をした。
「五十年も : ・ ですか ? 」 「さよう、古い話だ。わたしは昭和四年から五年とドイツに留学した。ハ、 ノブルク大学で歴史 哲学の解釈学を研究した。そのころ、日本学の講座をひらいていたフローレンツ博士にわたし は見込まれて、学生の論文指導の代行をやらされたこともあった。 フローレンツ博士といえば、わたしが留学する以前に来日したこともあって、日本の中世文 谷 四蔵 幸館 本物 松博 163 第九章写楽は北斎でもない
ゆらてつじ 老哲学者の由良哲次といえば、すぐに私に思い浮かぶのは、この人と作家の横光利一とが、 中学生のころからの無二の親友だったことである。 以前、私が初めて、新聞の文化欄用の北斎についての原稿を頼みに石神井の由良宅を訪れた ときであった。 「『旅愁』に限らず、横光文学は、わたくし由良哲次なくしては存在しなかった、と断言でき で るくらい、わたしは横光に尽したのだよ」 と、この人はしゃべりだし、私を驚かせたのである。 楽 写 「旅愁」は、川端康成と同世代の横光利一が、昭和十一一年 ( 一九三七 ) から戦時中を書き進め た一種の実験小説である。西洋 ( 西 ) と東洋 ( 東 ) との対決を、日本人の心と日本人が理想と九 第 する美を通じて描き出そうとした大長編小説で、戦後の横光の死 ( 昭和一一十一一年 ) と共に未完 4 に終わった。パ リの風物が豊かな感性でとらえられている前半に、学生時代の私は強くひかれ、 第九章写楽は北斎でもない
絵界から追放されていた無名の蒔絵下絵師に、それぞれが自分自身の幻影にほかならぬ写楽を 見ていたのと同じに はっご・ と私は、数年まえの由良氏の誇り高き手の所作を一瞬、前夜の由良宅で判然と思い浮かべた ほど、事態を静観する余裕を持ってはいた。にもかかわらず、その私の冷静さもたちまち雲散 霧消していたのであった。 挙句に私は、居ずまいを正して微動だにしない老哲学者に、問題の新発見肖像画の俳人谷素 外を重ねてイメージしていたほど、私もまた完全に写楽の毒に犯されて、もはや全身に写楽の 毒が回ってしまった、としか言いようかない救いかたい状態にはまりこんでいたのである。 その翌日のいま、私と近藤記者とがとるべき行動の事前の打ち合わせは、すでにすっかり整 っていた。 浮世絵鑑定家の高見沢忠雄氏に会ったら、まずさりげなく用件を持ちだし、じわじわとこち らの希望を相手にわからせる。そして、いっかは、こちらの待望する決定的なひとことをどう してもいわずにすまされぬ事態に、相手を追いこむ という作戦をたてたのである。 約束の場所は、荻窪駅前を西荻方向にわずかに過ぎた左側の商店街の中にあった。相手の自 172
すると、相手はにやりとして、 「まさしくその通りです」 と答えた。 「たしかに明治以後、今日まで出た多くの北斎研究書には、春朗は江戸にいなかったことが書 かれておる。春朗は日光に行っていた、それは動かしがたい事実になっておる」 そういってなお当たり前の顔をした老哲学者に、私は驚きあきれた。 と、相手は私の反応を見てとって、ふたたび満足げな笑みを浮かべると、 「よく、お聞きなさい」 悠然たるものだ。 いじま、さよしん 「定評のある北斎研究書のなかでも特別に著名なのが、飯島虚心が明治一一十六年に出した『葛 飾北斎伝』だが、これも春朗は江戸にいなかったと書いておる。資料や伝承が豊富にのこって 、つ、さよ、えるいこ、つ いた明治期の、定評ある研究書に限らない。それ以前の、幕末に書かれた『浮世絵類考』の俗 本のいくつかにも、春朗は江戸にいなかったことが書かれている。 この時期の春朗のアリバイは、実に見事なものです」 相手は、明らかに、私を逆手にとっていた。その余裕の現われた落着きと、得意ささえみせ て、しかも私のふたしかな知識をただすかのように語りはじめたのだ。まさに自信そのものの 158