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検索対象: 写楽 : その隠れた真相
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1. 写楽 : その隠れた真相

別の人物 ( 絵師とは限らない ) と結びつける、いわゆる、 写楽別人説 か古くから、いろいろな形をとり、さまざまに唱えられてきた。明治・大正から昭和、そし て平成の現在まで、数えきれないくらい多い。めばしいものを拾い出すだけでも、五十は下ら ないすさまじさである。これらのうち、歴史的に見て触れるに足ると私の見る写楽別人説につ いては、これものちに出来るだけ多く紹介するつもりである。 思えば、明治から大正にかけて活躍した作家の山村耕花が、大正十四年 ( 一九二五 ) 一月の 楽 朝日新聞に寄稿した、 写 〈私は「写楽」を捜しております〉 ではじまる「写楽捜索願」 ( 詳しくは後述 ) で頂点に達した世を挙げての明治から大正にかけ ま ての写楽捜しは、日本における第一次写楽プームといえるものであった。 ぜ 昭和四十年代後半 ( 一九七一ー一九七四 ) の、あのトイレット パー騒動を全国各地に まき起こしたオイル・ショックの前の、日本を縦断した感じの写楽別人説の嵐は、第二次写楽章 プームと一一一一口うべき騒ぎであった。そのとき論者を替えて唱えられた別人説の、おもなものを拾第 っても、

2. 写楽 : その隠れた真相

そもそもこの春藤家の寄せ墓を写楽一族の 墓としたのは、大正から昭和にかけての考古 とりいりゅうぞう 学界で活躍した鳥居龍蔵だった。大正十四年 ( 一九二五 ) , ハ月たまたま故郷の徳島に帰った い、 - 墓鳥居は、写楽の墓を東光寺とは別の市内の日 そ蓮宗本行寺に見つけた。といっても、土地の 一寺大正十一年五月に出版した『阿波名家墓所記 しゅんどうしやらく 号 ' 続篇』の中で、寺町本行寺の春藤写楽 ( 能狂 市言師 ) の墓に触れた記事に、写楽は、 〈徳島籠屋町の人。次左衛門と称す。能役者者 ヒ匕 ム目 れの職を以て藩に仕え富田紙蔵長屋に居住せり 又江戸絵を能くし俳優の似顔を描くに妙なり〉 と書いていて、鳥居の調査はこれをどこま第 でも手掛かりにしたものだったのに、肝、いの

3. 写楽 : その隠れた真相

らない学究的な追求のしかたで写楽の " 作品と人 ~ が解剖されていて、写楽はあの斎藤月岑の 画期的な補記にもとづく阿波の能役者・斎藤十郎兵衛に見事に仕立てあげられていたのであっ た。このクルトの『』が日本に輸入された明治末から大正にかけて、それまで 写楽を無視してきた日本の浮世絵界は騒然とした。文芸畑といわず、広く一般にも波紋はひろ がって、ここに日本における第一次写楽プームが巻き起こることになったのだが、 その改訂版 が日本にもたらされた大正十年代には、プームはまさに頂点にのばりつめたか。 〈私は「写楽」を捜しております〉ではじまる「写楽の捜索願」なる名文は、明治・大正期の 文人山村耕花が大正十四年一月の朝日紙上に寄せたものだが、およそっぎのような内容であっ 〈写楽は行方が不明ばかりではなく、こし方も不明なのです。写楽の生れた時代の人は大変写由 楽に冷淡でした。まるでままっ子扱いで迷子になった写楽をうっちゃらかしておいて 、ⅱ》こ由又説 人 そうともしなかったのです。ところが、芸術鑑賞眼の高い欧米人は、日本に来るとすぐ、この 偉大すぎて顧みられていない不遇な芸術家を認めて捜索にかかったのですが、ときすでに過ぎ ていたので、かれの残した芸術品をわずかに捜しあてたくらいで、かれのこし方行く末はほと章 んどわからなかったのであります。それでもクルト博士や、その他の学者が、相当信用のでき第 る考察や考証や研究の報告をしております。けれども、要するにわが写楽が、以前阿波の大名月 、」 0

4. 写楽 : その隠れた真相

もむりはない。 が、一体、写楽の俗称が斎藤十郎兵衛だったことを証明する、いかなる資料があったのか。 出身が阿波 , 徳島の蜂須賀家おかかえの能役者だったことを立証する、どんな根本資料があった というのか。肝心の根拠が伏せられたままで、一方的に、写楽は阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛 でございでは、現代ではもはや通用しない。 ここに問題があった。まちかいかあった。 一九一〇年 ( 明治四十一一 l) 、ドイツの浮世絵研究家ュリウス・クルトが、写楽についての最初 の評伝的内容の『』をミュンヘンで出版した。一九二二年 ( 大正十一 ) には、 その改訂版が再版されているくらいだから、欧米でも相当な反響を呼んだことがわかる。 明治から大正時代の日本の浮世絵界では、浮世絵といえば、春信、歌麿、広重あたりに人気 がしばられていて、写楽など問題にされていなかった。浮世絵そのものが、軸や、屏風絵より はるかに低く見られてもいた。そうしたときに、突然に、日本には一度も来たことのないドイ ツ人浮世絵研究家によって、写楽はべラスケスやレンプラントと並ぶ、世界三大肖像画家の一 人に挙げられていたのである。 しかも、この『』には、すでに日本には見当たらなくなっていた驚くべき数 の写楽版画が図版に使われていただけではなかった。当時の日本の浮世絵研究家には思いもよ

5. 写楽 : その隠れた真相

どの深いっきあいを、私は持たぬ。 午後四時以後だったら社にいると答えた私に、 なら、四時から四時半ごろまでに、伺わせてもらいましょ といった相手が、それであっさり電話を切ろうとするのをひきとめるように、なにか特別の 用件でもあるのか、と私はたずねた。 「会 0 たときに、くわしく話すけど」と相手はいい渋 0 て、「あるのよ、ちょ 0 とした話が」 と る 寄 び 「写楽」 楽 写 「新発見の写楽があるの」 わ 「そのときに、くわしく」 A 」 と、それでもうカチリと話線が切れる遠い音を聞いたとき、私は、まるで、写楽が突然に私誰 のなかに貼りついてきたかのような戸惑いを感じた。 章 第 約束の時間にやってきた中村正義は、大正生まれには派手すぎる白いハイネックのシャツを 「そ、つ :

6. 写楽 : その隠れた真相

デスクにもどった私は、そもそもが酒井氏の谷素外を私の元に持ち込んだ中村正義のことを 考えた。 ありていに言えば、異端のこの日本画家が唱える写楽Ⅱ阿波藩主蜂須賀侯お抱えの蒔絵下絵 師説の、美術史にある程度の理解を持つ者ならたれにせよ信憑性のないのが一目暸然とわかる、 そのあまりのたわいのなさについて、だ。 そもそもが中村正義は、大正十三年 ( 一九二四 ) 五月、豊橋市に生まれた。幕末の祖父以来 重の写楽の定評を持っ扇との類似は写真によっているだけで、実物を照らしあわせたのでもな しかも、その三重の扇さえ、まちがいなく写楽が描いたものとする証明はなされていない のだ。 肝心の点が実証されないでいて、果たして写楽Ⅱ谷素外という画期的な新説を影響力の強い 新聞紙上で通用させることが出来るだろうか ? 「勿論、ばくもそのつもりです。それに、浮世絵の鑑定家の高見沢忠雄氏にあさって会うこと にしています。その上で、写楽Ⅱ谷素外を大大的にぶつつもりです」 それがいい、と私は近藤記者に ( ホッと胸を据でおろす気持はかくして ) 言って、話を打ち 切った。 137 第八章写楽は魔鏡

7. 写楽 : その隠れた真相

「筆洗に水を入れてくれ。これから画債を片づけるのだ」 絵師はおひさに体をあずけて、おりきがかざす燭台の灯をたよりに廊下っづきの画室に入る。 いっかんばり と、中央におかれたままの一閑張の前に坐る。 弟子の一人が筆洗を持ちこんできて、それを絵師のわきに置くと、こわごわと墨をすりはじ める。 絵師は、える左手に絵筆をとりあげ、ままならぬその穂先を燈にかざす。 弟子も、師匠も、より添、つおひさも、うしろに離れて立つおりきもことばを失った奇妙なし ずまりのなかを、どこからともなく虫の音が流れて。 と、突然、余情をふくむ虫の音を断ち切るかのように、絵師は手にしていた絵筆を一閑張に 叩きつけると、絶望的に頭をかかえこむ。 「おひさ、駄目なんだ。おれはもう、写楽はもう、死んでしまったのだ」 くにえだ 右は、戦前の大衆文学界をリードした故邦枝完二の戯曲『地獄へ落ちた写楽』 ( 大正十一年、 文泉堂書店刊『邦枝完一一脚本集・異教徒の兄弟』 ) の第一場を私流に翻案ダイジェストしたもの だが、これは昭和のはじめの新派の舞台で上演されて、評判を呼んだといわれる。 はちすか 導入部だけのそこまでの芝居でもわかるように、写楽は阿波徳島の蜂須賀侯お抱えの能役者

8. 写楽 : その隠れた真相

藤記者がきいた。 「さあ、いくつあるかな : 「一応まともな説とみていいもので、十はありますか ? 「クルトが印象づけた斎藤十郎兵衛説も一つに数えると、一一番目に写楽の墓を徳島に見つけて、 とり・い . り・ゅ、つ第、、つ しゅんどう こんばる 写楽は正式には金春流の能役者春藤某だとした戦前の人類学者に、鳥居龍蔵が挙げられる。そ てるじ いま歌舞伎座の顧問をしているが、この人も の線をさらに進めた浮世絵研究家の吉田暎二は、 別の見方に立った阿波の能役者説をとなえているらしい といったしほり方で、私は最近までのおもな写楽別人説を挙げていった。勿論、近年までの 研究論文のにわか仕込みの受け売りでしかなかった。 思えばクルトによって明治末から大正にかけて日本にひきおこされた最初の写楽プームのあ とを受けたのが、寛政歌舞伎の研究からも写楽をひきだしにかかった前記吉田暎一一を中心とす る戦後の第二次プームの幕開であった。そして、昭和三十年代を迎えると、写楽はひたすら捜 査線上の犯人のような追及を受けた。 りゆ、つざぶろう 昭和三十六年 ( 一九 , ハ一 ) 、色彩学の田口洳三郎が、描線、字体などから写楽は円山応挙な り・とした。 翌三十七年には、浮世絵研究家の池上浩山人が、筆意の共通性と背後関係の分析から、写楽

9. 写楽 : その隠れた真相

お抱えの能役者だったかもしれないといった希望的観測が、いっか誰かの口から洩れたことが 始まりで。 口からロに伝わるあいだに、いっか写楽は、蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛とい 、つことにされた ? ・ といった解釈が、 瀬木慎一をはじめとする美術史学者のあいだでは、支配的なのである。 三馬がはじめて住居を登場させた江戸八丁堀も、それを文献的に実証するものは存在しない。 のみならす、近年の研究では、『浮世絵類考』の母体となった大田南畝の初稿が成立したのも、 寛政一一年 ( 一七九〇 ) ) 、ろと見られはじめている。となると、寛政 , ハ年から七年にかけて作品 を描いている写楽については、南畝が最初の稿に書いたものには存在しなかったことは明白で、 あとで書きこんだか、ないしは寛政十一一年 ( 一八〇〇 ) 付録の笹屋邦教か、享和一一年 ( 一八〇由 一 l) 追考の山東京伝のしわざか。南畝の書いた原本が残っていないとき、肝心のここからして説 実に曖味模楜としてくる。 大田南畝の初稿成立以後、付録、追稿、転写、補記を重ねてきた数多くの写本のなかで、そ かと、つえいび の間の事情をもっともよく伝える貴重な文献とされた文化十四年 ( 一八一七 ) 作成の加藤曳尾章 あんほん 庵本も、大正十一一年 ( 一九二三 ) の関東大震災以後まで存在しながら、その後の行方は知れな第 、 0

10. 写楽 : その隠れた真相

〈知るものは月のみとわれ独り笑み〉 で、日頃ものに動じない近藤記者も、これにはさすがにギクリとなった。 従来の俳諧の方式を無視し、字余りや破調をあえてすることで、逆に新興町人の生活感情を 歌いあげるのに成功したのが、談林派の特徴だった。この江戸談林を背負うにふさわしい素外 の作という以上に、この句のかげで悪魔の哄笑に似たナゾの笑いを浮べている素外の写楽に思 い当たる気がしたというのである。 そして、その朝京都にいた私が写楽Ⅱ蔦重説の榎本雄斎と会っていたころ、近藤記者は神田 の酒井好古堂の店の奥のうす暗い書庫の中にいた。そこには先代好古堂が大正期に出しつづけ た研究誌「浮世絵」の全五十五冊がそっくり保管されていて、そこに書きこまれていた素外に ついての貴重な記述を好古堂と一緒に拾いだしていた。 一一人をこのうえなく喜ばせたのは、北尾重政論で定評のあった浮世絵研究家の星野朝陽が大 正八年に書いた文章で、北尾派に触れたものの中にふくまれていた。 素外は俳人でありながら和歌も詠じ、狂歌も作り、画才もあった。広く材を古今にとり、根 元にさかのばり、実質を究め、趣味をやしない、新機軸を出そうとする透徹した精神主義を重 んじ、北尾派の精神的指導者であった。この素外の影響で、俳諧では実を結ばなかった重政も まさのふ 絵で大成し、政演Ⅱ山東京伝はすぐれた文人となった。版元蔦屋耕書堂の蔦屋重三郎も素外に 130