敗戦は、一般庶民の生活をどん底の悲惨に突き落としたのと同時に、戦前までの日本のいわ ゆる貴族社会の人たちにも、急激な斜陽化を強いた。かれらは、やむなく伝来の家宝を売り払 こっと、つ わざるをえなかったから、書画骨董を扱う古道具業界には秘蔵の名品が出回った。明治維新や、 関東大震災後をしのぐ空前絶後の活況が市場にみなぎっていた、まさに絶好のときだった。 と 酒井好古堂は、江戸末以来五代にわたる浮世絵の収集家である。ひょんなところから、ひょ 力いわし んな珍品を掘り出せる期待を持って、そのときも大阪界隈の古道具屋を歩きまわったが、たい寄 び した獲物にもありつけずに終わったその帰りの途上であった。大阪発の急行に乗りこんでいた 好古堂は、急にお伊勢参りを思いつくと名古屋でおりて、私鉄に乗りかえた。 写 、。ごみ箱のごみ屑なみに混雑した電車も苦にはならぬ。が、途中の 五代目好古堂は信、い深し わ 駅で、吐き出た人波にさからいながらもホームに押し出されてしまい、なおそのすきをたちま と ち埋めつくして車内に入りきらずにいる乗客の後に立たされたときだった。二人分近い空間を 必要とする図体の好古堂は、思いなおした。お伊勢さんには、お参りするつもりになった殊勝誰 章 さでごかんべん願って、せつかく来たついでだから、ちょっとばかり商売をさせていただこう。 第 そう考えるまま途中の駅で降りていたのだから、そこが桑名だったか、四日市だったかはっ きりしない。しかし、駅前通りの、当時どこの町にも群生したバラック建ての闇市の中の、古鴫
れた。すると、いっからか気持が変わって、どこか大新聞のニュースになったあとでなくては、 お前の本の写楽に使わせるわけにはいかぬ、とそういうことになってきた」 そうでしたね ? と念を押すように見上げた中村に、好古堂はきまじめにうなすく。 「新聞なら、酒井さんは、どうしても読売。酒井コレクションのヨーロッパ巡回展でも世話に なったままだから、とおっしやる。読売へ行くのなら、美術記者の丈氏をボクがよく知ってい がん るから、社会部に持ちこむまえにまず一緒に相談してみようということになって、こうして雁 くび 首を揃えたわけなんだけど。とにかく、現物を見てもらう方が話は早い。ねえ、酒井さん ? 」 「そ、つしようじゃないですか、え、ど、つです ? 」 繰返し問われて、まるで急所を突かれたかのようにわれにかえった巨漢の好人物は、あわて て膝の上の風呂敷包の結び目をほどきにかかった。 むっちりとして、柔らかそうな赤子のそれを連想させる肉づきをした好古堂の手と、その手 の運びの慎重さに私は吸いこまれながら、幾重にも巻かれた薄い真綿に似た和紙の中からむき だされてゆく古めかしい軸を見た。 それを好古堂は、水の入ったコップとおしばりを脇に寄せたあとの卓の上に、まえの私がよ く見える向きにひろげた。 4
早くも、メモ帳に鉛筆を走らせはじめた相手に、 「お茶でも飲みに行こう」 と私は誘った。デスクの横のハンガーから上着をとって、腕を通していると、電話がきた。 「好古堂の酒井ですよ」と相手はさびた声でいった。「この間はおじゃましまして、大変あり かと、つございました」 まるで、私の決断を計って待ちながら、ようやっと私が腰をあげたそのときを見抜いて電話 してきているような相手の出方に、ある奇妙な腹だたしさを覚えたとき、 「大変なことになりました」 と相手はいった。 「ほんとうに、驚きました。こんどばかりは、ほんとにたまげました」 明、ら、かに、 ことの重大さに呼吸まで乱しているのがわかる話しぶりであった。 が、重い渋味を持っその声と一緒に話線を伝わってくる乱れた呼吸音には、奇妙に明るいは ずみがあった。 「うちの素外がですね、素外の肖像画がですね」 と好古堂は大袈裟に繰り返した。 「実は、あれからもじっくり調べてみたところが、とうとうわかりました」
〈知るものは月のみとわれ独り笑み〉 で、日頃ものに動じない近藤記者も、これにはさすがにギクリとなった。 従来の俳諧の方式を無視し、字余りや破調をあえてすることで、逆に新興町人の生活感情を 歌いあげるのに成功したのが、談林派の特徴だった。この江戸談林を背負うにふさわしい素外 の作という以上に、この句のかげで悪魔の哄笑に似たナゾの笑いを浮べている素外の写楽に思 い当たる気がしたというのである。 そして、その朝京都にいた私が写楽Ⅱ蔦重説の榎本雄斎と会っていたころ、近藤記者は神田 の酒井好古堂の店の奥のうす暗い書庫の中にいた。そこには先代好古堂が大正期に出しつづけ た研究誌「浮世絵」の全五十五冊がそっくり保管されていて、そこに書きこまれていた素外に ついての貴重な記述を好古堂と一緒に拾いだしていた。 一一人をこのうえなく喜ばせたのは、北尾重政論で定評のあった浮世絵研究家の星野朝陽が大 正八年に書いた文章で、北尾派に触れたものの中にふくまれていた。 素外は俳人でありながら和歌も詠じ、狂歌も作り、画才もあった。広く材を古今にとり、根 元にさかのばり、実質を究め、趣味をやしない、新機軸を出そうとする透徹した精神主義を重 んじ、北尾派の精神的指導者であった。この素外の影響で、俳諧では実を結ばなかった重政も まさのふ 絵で大成し、政演Ⅱ山東京伝はすぐれた文人となった。版元蔦屋耕書堂の蔦屋重三郎も素外に 130
「確証のないよそのニュースを前提にして、どうして新発見写楽の重大性にアプローチできる でしよ、つ ? ・ 「そうですか」を繰り返した好古堂は、急に叱られた子供のような顔をした。それが私の気持 をいくらかでも動かしたことは事実だ。 「いろいろと問題のある肖像画にしてもですね」と私はいった。「それが三重の扇と隣接した 極めて近い場所で発見されたことはたしかなんだから、私が担当している美術の話題でなら、 なんとかやれると思いますね。ただし、メモの扱いで、写真を使っても小さなスペースのもの にはなるでしようね」 、じゃないの、酒井さん ? 「それでも、いし と中村がいったのに、好古堂はすねたように返事をしなかった。 「私の考えを率直にいわせてもらいますとね、と私は改まった。「どうでしよう、この新発見 の写楽は中村さんが近く研究書を出されるという、写楽の本の中で発表されたら ? 酒井さん のこの肉筆画は勿論、それと一緒に中村さんの本も生きてくる」 その肖像画の写真を撮らせてもらいたがっている中村正義に対する私の義理だてでは決して なかった。むしろ多くの場合、微妙に利害関係がっきまとうこの種の話題からできるだけ身を 避けようとする本能が私にとらせた、日常の姿勢にちがいなかった。
のを、四年ほどまえにほかならぬ中村正義の執拗な探索で三重に所在がっきとめられて、写真 入りで大きく朝日紙上に紹介されたことがあった。 「これも、中村探偵の発掘でしたな」 私はそういって、明らかに朝日に掲載されたものの複写とわかる写真を、隣の中村に返した。 、さんばし 「そして、こんどがまた、一一度目の金星というわけですか」 「とんでもない」と中村は打ち消した。「あの三重の扇も、これも、まえから見つかっていた ものの所在と内容を明らかにしただけ。本来なら、こういうことは、われわれ絵かきがやるこ とじゃなくって、美術史の学者のやることなのよ。それを専門家がだらしなくて見てはいられ ないから、ついこっちが動くことになる」 「古くから、この肖像画の軸は、酒井さんのコレクションに入っていたのですか ? 」 「敗戦後、まもなくのような話でしたね、酒井さん ? 」 と中村が、黙りがちだった酒井好古堂にたずねた。 「戦後の、 ( 昭和 ) 二十三、四年のことでしたなあ。四日市だったか、桑名だったか、どっち かの私鉄の駅前通りを歩きはじめたばかりのときでしたなあ : すでにそのとき二十年にもなって、どうしてもつながらない部分があるというどさくさ時代 の遠い記憶を、好古堂はポソリポソリとたどりはじめた。
、つまくいけばこちらが優位に立っこともできる。 しんなんびん 「最近わかったことなんですが」と私は改まった。「享保のころ長崎にいた中国の画家沈南蘋、 あれについてはよくご存知と思いますが : : : 」 「ああ、よく知ってる」 くましろゅ、つひ 「その南蘋、中国画に影響していた西洋風写生を日本に持ち込んだ沈南蘋から熊代熊斐に受け つがれて、さらに熊斐から凉袋へときた本場の画法を、素外は若いころ凉袋に師事して身につ けていたというんです。つまり、素外は俳諧の大ボスであって、同時にかくれた画人でもあっ たようですね」 「ほう、それは知らなかった」 と大きくうなずいた貴公子の目に、あきらかに変化があらわれていた。 「素外は大阪の出でした」 「大阪 ? 「いまの西区あたりというんですが、当時の地名でいう阿波座に住んでいたということです」 酒井好古堂の、その後の調査でわかってきた、いわばとっておきの切り札だった。ここにや十 ってくる直前、たまたま好古堂に連絡した近藤記者が聞きこんでいた一つの極め手だった。 「阿波座 ? 徳島の特産物を扱っていた」
道具屋だったことはたしかだという その店頭には、洗濯石鹸や、軍手や、旧軍隊の将校用の長靴などがごっちゃに並んでいた。 にぶい日ざしの奥の板ばりの壁に、何本かの掛軸が下げられていて、その中央の一つが、それ はいともさりげなく、ささやくよ、つに、好古堂を呼んでいた。 佳品は、招くに価する人間だけを招く。その目さえ持つなら、こっちは黙っていても、品物 ささや の方からおいでおいでと囁いてくる 近づいて、よく見た好古堂は、内心ほくそ笑んで、これこそお伊勢さんのご利益だ、と思った。 縁も、画賛も、肖像の絵もふくめた軸全体の備える気品が、なんともいえない。 緞子仕立てのふちの唐草模様と、肖像画の人物が敷いている座ぶとん風の敷物のさらさ模様 とが、江戸寛政期の流行にびったり合致しているのもいい。 ふちがすり切れているのは、それだけ頻度多く鑑賞家の目をくぐった証拠で、破損が肝心の 絵に及んでいないのはうれしい 〈みづからおのれがかたちに題して〉で始まる五行の画賛の、つぎの行が、 〈うっされてわれにあふみのかがみやま〉 とあり、最後の一行に書かれた年月日と署名が、 〈寛政六甲寅仲春一陽井素外六十一歳〉 4 4
ります。美術史家のあいだでは、とかくの批評があるようですし : : : 」 「美術史家なんていう、机の上の学者さんがたには、なにもわかりませんよ。実地に、それを 売り買いしているものでなくちゃあ。ね、そうでしよう。中村さん ? 」と意外なくらい激しい 調子で、好古堂が言い、中村正義に助けを求めた。 「一一番目に」と私は、あえて強行した。「中村さんが三重に所在をつきとめたあのニュースは、 朝日 ( 新聞 ) にのったわけでし 第」使われているの よ、つ」 にーい ) まい」とい 0 て古手 ま第望でい 4 っている象 ニ = ロ これには好古堂も黙りこんだ。 - あは、究無第 0 餌 っ第「天豊了ま立木 8 金一ノ九第和日 「朝日にスクープされた写楽 興千代可、種田の第鹽、尾たこ」 るで、しかもそれが絶対の評価をれ 肉 0 3 伝刊受けていないとすると、それに を朝 見付似ているからといっても、、っち毒 発日 入 = あったがゞ一め解をわかっ 面の社会面で大きくとりあげるニ なり、 ! + 年ネ明に画月 = 。ま扇 9 ースとしては、この写楽はい 試りカの」第究家〈ンダ , ・ソ・肉 0 ン、レデュー共著の「な変第」 のささか内容が弱い」 第」で弊され、鋼めてい た作品を ~ をけに、世第究刀ロ 「そ、つでしようか ? 」
「こちら、奈良の女子大出の才媛の : : : 」と中村が向かいの女性を紹介した。「近く、ボクが 出す写楽の本のことで手伝ってもらってます」 見かけに似ず世馴れた愛想よい仕草で、どうぞよろしく、と挨拶してくるその女性に答えな から、車道に面した二階の窓ぎわに逃げようもなく私を押しこめてきている客たちに、ふと私 は犯人を追いつめるときの刑事を思わせるものものしさを見た。 「酒井さんと一緒に、ボクがこうしてやってきたのも、実は酒井さんに頼まれて。この人の写 楽を、ボクが丈さんに、うまく橋渡しをする。それが今回のボクの重要任務で」 と中村がしゃべりだすと、大男の酒井好古堂は照れたように禿げあがった頭をかいて、口元 に人のいい笑みを浮かべた。 「酒井さんは、珍しい軸を持っていられる。浮世絵研究家のあいだで、かなりまえから、写楽 との関連が取沙汰されていた軸なのに、この人はひどくのんびりと構えて、ながいこと蔵の中わ に放りこんだままでこられた」 「のんびりしていたわけでは、決してないんですがね : : : 」と好古堂は ) 、 ししなから、ポーイの誰 運んできたおしばりをとりあげると、顔に吹きでていた汗の粒をぬぐった。 章 。ま」、んし 「こんど、ボクが写楽蒔絵師説の本を出すでしよ。それに使う写真を撮らせてもらいに日参し第 ているあいだに、この人はようやく写楽の数少ない肉筆画とみていいその軸の貴重さに気づか