七年 - みる会図書館


検索対象: 写楽は歌麿である
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1. 写楽は歌麿である

第 5 表役者別、絵師別錦絵刊行数量表 寛政七年 役者名写楽豊国国政 位付け 市川蝦蔵六 四 松本幸四郎 山下金作三 4 岩井半四郎 八 瀬川菊之丞 沢村宗十郎 八 7 市川八百蔵九 大谷広次三 小佐川常世 四 市川団十郎 四 市川高麗蔵九 森田勘弥 坂田半五郎 五 4 尾上松助三 中村富三郎 八 四 一四 五 四 大 一〇七九〇七〇判 そ の 四五三五六五九 他 清 長 ( 注 1 ) 写楽、豊国は寛政六年 五月より同七年正月まで の刊行。 国政は寛政七年より文 化元年まで、清長の大判 は天明一一年より寛政五年 まで、その他の判は、明 和四年より安永七年まで の刊行。 ( 注 2 ) 寛政七年の位付け位 以下については省略。 ( 注 3 ) 写楽、豊国のデータは、渡 辺氏の著書、その他は『浮 世絵聚花』の作品目録より 集計。 2 ) 8

2. 写楽は歌麿である

家を継がせ、天才画家の息子清政は絵筆をとることなく家業に専念したことが窺える。 文化十四年 ( 一八一七 ) に四十一一歳で死んだということは、写楽の出現した寛政六年 ( 一七九四 ) に 8 は十九歳という計算となる。一歳のズレがあるが、これは過去帳の書き誤りであろうか。 同じ回向院には、その二年前の文化十二年に六十四歳で没した清長の墓もある。その戒名は長林英 樹信士で、この戒名も清長にふさわしい 歌舞妓堂艶鏡 写楽日艶鏡説は、クルトも唱えている。艶鏡は寛政八年の舞台を描いた大判の大首絵を七点残して おり、その作風は写楽に似ているが、もっと浅く温和である。彼は狂言作者の、二世中村重助という 説がある。 ともかく写楽よりは質・量ともに劣り、同一人とすることは無理である。 葛飾北斎 清長より八歳、歌麿より七歳年下の北斎は、勝川春章一門から寛政六年に破門されたといわれる。 春章は同四年に没しているから、弟子の春好、春英等といさかいを生じたのであろう。その原因は不 明だが、北斎が勝川派の技法を遵守しなかったためではないか。それまで十五年間、春朗と号した北 斎は、翌七年のはじめには、俵屋宗理という号を用いている。 この宗理とは、宗達、光淋の大和絵の画風を目ざすものであろう。宗理時代には、浮世絵版画も黄 表紙も、宗理の落款のものはなく、ただ摺物と狂歌絵本と肉筆画のみのようで、まだ画風は固まって いなかった。 そして同十一年正月には北斎辰政と号し、漸く独立独歩の画境を開いてゆく。 したがって、寛政六年に写楽としてあの名作を描くことは、当時まだ動揺して画風の定まらなかっ

3. 写楽は歌麿である

放蕩に夢中だったので、三甫右衛門の舞台を見なかったか、見ても顔貌を十二年後に絵を描けるよう には記憶していなかったと思われる。 第一「天明四、五年頃金治は上方のどこかで中村富三郎の舞台を見たかもしれぬ。だが、富三郎が 江戸を永久に去ったのは、安永七年であるから、それまでに多くの江戸人が、富三郎を見ているので ある。 たとえば歌麿は、安永七年には二十六歳で、その二年前から役者絵を描いていた ( 本文第七章参照 ) 。 ただし、豊国は僅かに九歳だったから、「門之助追善絵」は描けないことになる。 ふるい 第三、第四は、篩の目が粗く「条件」にはならぬ。 第五、役者絵師はすべて、渡辺氏のいう「戯曲の内容に文学的な興味」を持っている。「文人、芝 居好き、あるいは狂言作者」という「条件」も、あまりに範囲が広すぎて篩にならない。 第六、写楽が、宗十郎、八百蔵、菊之丞、半四郎等上方系の役者を江戸系の団十郎や幸四郎等より江 多く描いたのは事実であるが、これは、江戸ッ子の清長、豊国、国政でも同様である。このことは次っ の第 5 表「役者別、絵師別錦絵刊行数量表」を見れば明白である。 写 それゆえ、写楽を格別に「上方系に親近感をもっ」「上方系の人物」とするのは、当たらない。 第七、第 5 表で見るかぎり、写楽が特に宗十郎の紀伊国屋一門に近いとは思えない。 東 の 第八、二世瀬川富三郎が、たとえ『江戸方角分』の著者であっても「写楽斎と誤記するようでは、 氏 写楽となんらかの関わりを持っていた」とは考えられないのではないか。 辺 ロロ こうしてみると、渡辺説で写楽の六要件に叶うのは、歌舞伎の精通、愛好者という点のみであろう。ワ 他の五条件に全く合わぬ以上、写楽日篠田金治説は成立困難であろう。

4. 写楽は歌麿である

年 ( 一八一六 ) に没するまでの三十九年間の前半に、錦絵、黄表紙、洒落本の挿絵、狂歌絵本、肉筆画 類。その生涯を通じて、黄表紙、洒落本、滑稽本、読本、合巻本などの戯作。また晩年は考証書の著 作などで、毎年厖大な刊行をしていた。しかるにただ寛政七年のみは年間一冊の出版もしていないの は珍らしいと、谷氏は京伝の著作年表を掲げて特筆している。 梅原氏の谷説批判と谷氏の反論 梅原氏の谷説批判梅原氏は『写楽仮名の悲劇』第三章で、谷氏の京伝説を次の如く批判してい 「谷峯蔵氏は、 ( 中略 ) その証拠を画風の同一性、筆名の類似性、寛政六年の京伝の創作活動の空白な どをあげているが、私はやはり、この説は無理であると思う。画風の同一性についてはまた後に検討 することにして、山東京伝という号と、東洲斎写楽という号は、『東』という点で多少類似性はある にせよ、それをもとにして二人を同一人と決めつけるわけこよ、 冫をしかない。寛政六年の空白というのも ( 中略 ) 、写楽Ⅱ北斎説を唱える由良哲次氏と同一であるが、由良氏の説から思いっかれたのかもしれ ない。確かに寛政七年には京伝の黄表紙の作品はない。しかし寛政六年には、『金々先生造化夢』を伝 はじめ、実に十点の作品を刊行している。そして寛政六年から七年にかけて、亡妻の喪に服し、喪が 山 明けた後百日間、相州や伊豆や駿河を旅行し、帰ってまた銀座一丁目の父の支配下の医師の売家を買 章 って移転したと考えられる。こういう状況の中で、京伝があの恐るべき労力を要する写楽絵百四十二五 枚の制作を行ったとは思えないのである。 私が写楽Ⅱ山東京伝説を採用できない最も大きな理由は、やはり芸術家には芸術家としての一貫し る。

5. 写楽は歌麿である

とび出すという不義理は犯していない。蔦屋の従来の刊行点数は減らさなかったようである。新版元 へは、歌麿が精力的な制作増量によって供給したと考えられる。 寛政七年、蔦屋からは十組四〇点以上、鶴屋からは七組一六点以上、その他の版元はそれそれ若干 組という刊行点数は、歌麿の配慮の慎重さを示している。 写楽出現期の歌麿絵は空白さきの第 2 表は、さらに、次の重大な推理を可能にする。それは、写 楽が出現した寛政六年五月から、同七年正月までの間の歌麿の描いた絵はほとんど見当たらない、つ まり空白であった、ということである。 それは何故いえるか。以下、そのことを説明しよう。 、寛政六年の歌麿絵 の 寛政六年、歌麿絵は次の如く刊行された。 そ AJ 説 蔦屋太夫集、山東京伝店 し 鶴屋仮宅八景遊君之図、青楼新六香撰、青楼十美之図 出 び 岩戸屋丁字屋内雛鶴 村田屋遊女集、花見、菖蒲池 蔦 若与当時全盛似顏揃、当時全盛美人揃 山口屋かり宅狂歌付、青楼華三人 山伝力士と金太郎 章 これらのうちの最高傑作は「当時全盛似顔揃」一〇点で、同じシリーズが続いて、「当時全盛美人ル 揃」の名で刊行されたが、両者に唯一つ違っている点があり、これがその制作期を明示している。そ れは扇屋の名妓花扇の名である。

6. 写楽は歌麿である

と認むべきものは、不明なれど、安永五年 ( 廿四歳 ) 十月出版の『市川五粒名残り惣役者発句集』と題 する一枚摺絵に市川海老蔵 ( 四代目団十郎 ) の肖像を描き『北川豊章書』と落款せり。それに次ぎて、 安永七年十一月、五代目団十郎の『荒川太郎まけず』に扮したる『暫ノ図』 ( 細絵 ) あり、されば、其 の頃既に作品を発表しつつありし事を知るべし。次で安永八年には、黄表紙『都見惣太郎』及び洒落 オキミャゲ 本『女鬼産』の挿絵あり、同九年には、黄表紙『芸者呼子鳥』、同『恋の浮橋』等ありて、彼の画風 の未だ定型を成さざる時代の好作例を示せり。爾後、天明年間に入るに及んで、漸次其の特徴を現は し、それより寛政五年頃に至りて其技巧益々円熟の域に進み、共の後に亘りて数多の傑作を出したり き。 絵本の重なるものとしては、 絵本時津風一冊 ( 天明一一年版 ) スズメ 絵本江戸爵三冊 ( 同六年 ) 和歌夷一冊 ( 同六年 ) 絵本詞の花二冊 ( 同七年 ) 絵本虫撰二冊 ( 同八年 ) 絵本譬喩節三冊 ( 同九年 ) 絵本狂月望一冊 ( 寛政元年 ) 汐干のっと一冊 ( 同元年 ? ) 百千鳥狂歌合二冊 ( 同一一年 ) 絵本普賢像一冊 ( 同二年 ) 絵本銀世界一冊 ( 同二年 ) タトへ / フシ 工ヨ 2

7. 写楽は歌麿である

写楽 , 豊国期別作品点数比較表 楽 豊 写 ( 大判 1 人全身働 ( 大判 1 人半身像 ) 28 6 年 1 月 座 都 11 河原崎座 3 座 7 6 年 5 月 河原崎座 10 都 ( 大判 1 人全身像 ) 大判 2 人全身像 3 7 大判 1 人全身像 1 38 座 都 5 細判 1 人全身像 34 寛政 6 年 座 都 17 7 , 8 月 6 年 9 月 座 11 河原崎座 2 河原崎座 10 ( 間判 1 人半身像 11 ( 大判 1 人全身像 ) 6 座 21 都 3 座 都 座 桐 21 16 河原崎座 3 河原崎座 相撲絵 4 追善絵 2 計 64 10 ( 大判 1 人全身像 ) ( 細判 1 人全身像 ) 6 7 ( 大判 2 人全身像 ) 座 1 都 座 ( 原崎座 桐 7 撲 絵 相 2 者 絵 武 2 恵 比寿 絵 1 計 15 134 6 年 5 月より 者 絵 役 23 11 7 年正月まで の 他 そ 6 年正月より余 145 8 年末迄 月 年 表 第期第一期第二期第三期 国 寛政 6 年 5 月 寛政 6 年 11 , 閏 11 月 第 四 寛政 7 年正月 期 計 計 ー 8 ァ 梅原氏の写楽 = 豊国説 第八章

8. 写楽は歌麿である

面的に取り上げていて参考になる。よって、これを紹介、検討した上で、私の六要件に入ることにし 諏訪氏の説諏訪氏はいう。 「本人説たると、別人説たるとを問わず、写楽の『正体』の『考慮』『条項』は次の通りである。 第一に寛政六、七年という年時の意味を明らかにする必要がある。なぜ、写楽の作品は寛政六年か ら七年にかけての十カ月間に百四十六点もの大量の版画を世に問うたのか。その前後の蔦屋の書物の 出版点数は次のようになっており、写楽作版行のために通常出版業務が停滞した気配は全くない。 1 ワ 4 -0 ー 8 一 0 14 ワ , 1 、 1 1 時 政 年寛 山山占ワ ~ 1 -1 -1 ワ 0 ワ〕っ 0 ワ 0 -1 、 1 蔦屋は写楽作刊行のための特別チームを編成したのであろうか。そして、寛政七年以降刊行を中止 した理由はなぜか。 第二に蔦屋重三郎との関係が究明されなければならない。写楽の作品はすべて蔦屋から刊行された。 写楽の素姓が何人であるにしても、その人物と蔦屋との特殊な関係が究明されなければならない。 第三に、『あまりに真を画んとしてあらぬさまに書なせしかば長く世に行れず』と評された写楽の 描法は、評者によって、リアリズムともロマンチシズムとも相反する評価が与えられているが、いず れにしても日本の浮世絵史の上に独歩する写楽の絵の秘密が解きほぐされていなければならない。 第四に、第三項と併せて、写楽の署名と筆跡の同一性もしくは類似性が証明されなければならない。 226

9. 写楽は歌麿である

行点数は四〇点であるから、写楽を除く蔦屋刊行総点数の約七〇。 ( ーセントが、この時期に集中して いることになる。版元印のない錦絵もあるが、この表を見ただけでも、歌麿と蔦屋の不和説は怪しい と考えるのが当然ではあるまいか。 歌麿の版元別作品目録さらに、もっと決定的な資料が、すでに昭和五十三年に公表されている。 それは『浮世絵聚花 3 』 ( 小学館刊 ) の巻末の「喜多川歌麿作品目録」である。これらの中には若干の 誤りはあろうが、最新の最も網羅的な目録として信憑性が高いと考えられる。この中から寛政元年よ り同十年までの分を時期別、版元別に区分したのが第 2 表である。 えほんむしえらび 寛政元年は、歌麿が天明八年刊『画本虫撰』艶本『歌まくら』を出版して大評判となり、また同八 批 年の師鳥山石燕の他界後、独立して「自成一家」の印章を使用しはじめた年である。 また、寛政九年は蔦屋の没年であるが、寛政元年からの九年間こそ、歌麿芸術の最も充実した最盛そ 説 期で、多くの秀作が制作されたことがわかる。 し 以下、もう少し立ち入って第 2 表の各版元での刊行状況を検討してみよう。 出 び 、蔦屋との関係 AJ 蔦屋からは、写楽絵出現の直前の寛政五、六年にも、また同七年以降にも、相当多量の作品を、し 蔦 かも名品を刊行している。 2 、大手版元鶴屋との関係 出版界最大の大手鶴屋 ( 本拠は京都 ) からは、すでに寛政元年から出版し、同七年以降も蔦屋に次ぐ章 第 大量点数を出している。 なおこれよりさき蔦屋は、鶴屋と京伝とともに、天明八年、日光、中禅寺に旅行し、また寛政三年 頃に鶴屋と協議して潤筆料の制度を創始したことは既述した。

10. 写楽は歌麿である

くわしいことは省くが、歌麿はこの深川久右衛門町で、寛政二年八月に大風雨に遭う。そして、そ のために愛妻おりよを喪う。 浅草北松山町の歌麿の墓のある専光寺の過去帳には北川家について、 、寛政二戊中の条土八月二十六日利 ( 理 ) 清信女神田白銀町笹原五兵衛縁 」川哥麿事 2 、文化三寅年の条土九月二十日秋円了教信士 3 、文政七中年の条土壬八月二十六日幻覚童子馬喰町一丁目喜多川哥麻呂十一歳 4 、寛政八乙酉年の条土六月二十三日庵室凉円信女馬喰町北川哥麻呂妻五十四歳」 とある。土というのは土葬のことである。 利 ( 理 ) 清信女が、歌の初妻おりよであることは間違いない。 この大風雨のあと、海岸埋立地にあり災害の大きかった深川久右衛門町は居住を禁止され、神田久 右衛門町に移住させられた。それが『浮世絵類考』歌麿の冒頭にでている「神田久右衛門町住」であ る ると林氏はのべる。 す なるほど、辻褄の合った新発見である。 発 次にこの過去帳にある文政七年に死んだ十一歳の幻覚童子とは誰かというと、この年は歌麿の死後、を 実 十八年を経ている。歌麿の後妻と、彼女の夫、二代目歌麿との子であろう。 の 歌麿が久右衛門町のあと馬喰町二丁目に住んだと『類考』はのべるが、過去帳は同一丁目とある。歌 章 転居か、それともどちらかの誤記であろう。 七 第 歌麿と盗作鈴木重三氏は『絵本と浮世絵』の中で、次の如く指摘する。 からげ 歌麿が通油町の蔦屋を出て間もない寛政二年刊行の『絵本吾妻遊』が北尾重政の『絵本吾妻拱』 たとえぐさ ( 天明五年刊 ) から、また同年の歌麿の『絵本駿河舞』が、西川祐信の『絵本喩艸』 ( 享保十六年刊 ) か