中村 - みる会図書館


検索対象: 写楽は歌麿である
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1. 写楽は歌麿である

。二世大「広次 0 弟子大谷春次は、宝暦八年、十三歳で師の前名・大谷鬼次を継ぎ、『東洲』を継承 しているこの二世大谷鬼次は宝暦十二年十一月、十七歳で三世大谷広次を襲名して『十町』の号も 継承し、十町号で署名しているが、東洲号は相変らず保管号としている。この二世、三世広次が十町 号を襲っていたことから、世間では、初世大谷広次を『大十町』と呼び、二世広次を『美男十町』ま たは『上手十町』、三世を『丸屋十町』と呼んでいる。 ( 写楽は、三世大谷広次を、大判で『奴土佐の又平』、細判で『奴土佐の又平』と『秦の大膳武虎』 の三図に描いている ) ・三世大谷広次の弟子三世大谷鬼次 ( 前名一一世大谷春次 ) は、天明七年 ( 一七八七 ) 鬼次襲名と同時に 『十洲』の号を用いている。ただし三世大谷広次保管中の東洲号はもちろん継承していない。その三 世大谷鬼次は寛政六年 ( 一七九四 ) 十一月、一一世中村仲蔵を襲名して『秀鶴』の号を襲う。 ( 写楽は、鬼次時代の『奴江戸兵衛』、『浮世又平』の大判一一図、仲蔵襲名後は細判で『川島治部五 郎』一図、『荒巻耳四郎』を二図、計三図、それに間判『百姓っち蔵』の合計六図を描いている ) ・初世中村仲蔵の弟子中村此蔵は、『秀亀』を俳号としている。 説 ( 写楽は大判に此蔵を『船宿かな川屋の権』一図を描く ) ( 参考文献『歌舞伎年表』『近世日本演劇史』『歌舞伎年代記』『明和伎鑑』『役者全書』『増補戯場一覧』『役者役 舞 穿鑿論』『世々の継木』『伝奇作書』『脚色余録』など ) 池田氏は『明和伎鑑』の中で、二世大谷広次の俳号『東洲』が芸名より大きく扱われていたと驚い ている。当時、役者たちは芸名でなく俳号で呼びあい、贔屓筋からも俳号で呼ばれるほど俳号が慣用 = 化され、俳号が家筋を語り、俳号が役者の位置づけを暗に示して、権威の象徴でもあったのである。 初世中村仲蔵は『秀鶴』を号し、中村此蔵は『秀亀』を号としている。この両者の俳号には、中村

2. 写楽は歌麿である

たのではないか。 たしかに中村此蔵の鼻は特徴がある。それは市川蝦蔵や市川高麗蔵の中高な鼻とちがって中低な鼻 である。しかしこの鼻の持ち主には仲間がいる。たとえば阪東善次の鼻が、そうである。それは小敵役 やすがたき の中でもへつ。ほこでどこか滑稽な、いわゆる安敵を示す鼻であろう。中村此蔵の鼻もこのような安敵 の鼻の一つであろう。すべての鼻の中で此蔵の鼻だけがとりわけ個性的であるということはできない」 以上の、梅原氏による写楽Ⅱ中村此蔵説の批判については、私も同感である。 ただし、後述の如く、梅原氏の写楽 = 豊国説については、賛同できないことを、ここに付言してお きたい。 谷峯蔵氏の池田説批判 次に、グラフィック・デザイナーで昭和五十六年『写楽新考ーー写楽は京伝だ』を著わした谷峯蔵 氏は、昭和六十年十月に『写楽はやつばり京伝だ』を刊行、池田説および梅原説に反論している。 谷説の詳細は後述する通りであるが、ここには梅原氏による池田説批判とは別の、次の二つの池田説 役 説の問題点、すなわち、 舞 一、写楽絵の第一期と第二期以降とは別人の作か 一「中村此蔵は東洲の俳号を継承できたか 章 についての、谷氏の見解を紹介しておく。 第 写楽絵の第一期と第ニ期以降は別人の作か谷氏はのべる。 「写楽が満を持して作画した一期の大首絵と二期の全身像のすべては、世界の至宝と評価される傑作

3. 写楽は歌麿である

ちの芸風個性を絵にして送るよう」、「内命」をうけた。そこで金治は五瓶への報告として写楽絵を描 き送ったのである。 なお、金治を「豊国の子ぶんーとのべた当時の記録もある。 3 、『浮世絵類考』の坂田本と風山本の記述 渡辺氏は、『浮世絵類考』には二つの異本、即ち坂田本 ( 東大図書館蔵 ) と風山本 ( 神宮文庫蔵 ) があり、 この二異本に共通して、 「俗名金次」「薬研堀不動前通り」「隅田川両岸一覧の筆者」 ( 風山本はい者と記す ) との記述のあることを、自ら現物に当たり確認の上、写楽Ⅱ篠田金治説の証拠とする。 4 、「写楽であるべき人間」の「八条件」 写楽絵第三期の「二世市川門之助追善絵」に、寛政六年に没した「暫」の扮装の門之助を、先に没 したエンマ大王姿の二世中村三甫右衛門と老女姿の中村富十郎が招いている場面がある。これを描い た写楽は、次の第一、第二の条件に。 ( スしなければならない。 「第一、天明二年に没した二世中村三甫右衛門の舞台を江戸でみていること。 第二、天明四、五年頃の、死の直前の中村富十郎の舞台を、大坂、京都、伊勢、名古屋のいずれか の土地でみていること」 以下の条件も第四を除き、すべて芝居に関係している。 「第三、寛政六年五月、七月、八月、十一月、閏十一月、翌寛政七年一月の、江戸の各座の芝居をみ ていること。 第四、芝居の世界以外の階級の出身者であるらしいこと。 第五、戯曲の内容に文学的な興味をもっていた人間らしいこと。たとえば文人・芝居好きあるいは 2 ) 4

4. 写楽は歌麿である

きな賭けの対象に選ぶことができようか。また写楽の描いた絵は質量ともに驚くべきものがある。十 カ月で百四十数枚、二日に一枚の割合になる。また池田氏のように真の写楽絵を第一期、第二期に限 っても、四カ月で六十六枚、やはり二日に一枚強ということになる。役者を本業としてもちながら、 このような大量の、しかも質においてすぐれた絵を残すことができようか。うだつの上らない役者な ので暇があったというかもしれないが、むしろ下ッ端の役者ほど何かと忙しく、何かと気をつかい、 とても画業三昧にふける余裕はないと私は思う」 此蔵登用と写楽の消去の理由梅原氏は、素人は稿料が安いからという池田説を次の如く批判する。 「池田氏は無名の中村此蔵を蔦屋が登用した理由として、素人はおだてがきくからとか、ギャラが安 いからとかいうが、それは理由にはならない。 また突然に写楽が浮世絵界から消えたのは、写楽こと中村此蔵と蔦屋重三郎の間に金銭上のトラブ ルがあったと、池田氏は言うが、それだけではとても、写楽こと中村此蔵が突然に浮世絵画壇から消 えた理由にはならないであろう。 もしもうだつの上がらない中村此蔵が写楽という名で一流の出版元から好遇され、このような役者 絵を描いたとすれば、どうして彼はかの鳥居清元のように役者をやめて浮世絵師に転向しなかったの説 か。当時の浮世絵師は大体ひとつの出版元と深い関係をもってはいたが、売れっ子となると、ひとっ役 の出版元に操を守りつづけるということは困難であった。多くの売れっ子の浮世絵師は、同時に多く舞 の出版元から作品を出している。とすれば、一流出版元からは見捨てられたような浮世絵師も、格を 章 落とせば、出版してくれる出版元があったのである。たとえ写楽が金銭的なトラブルをおこして蔦屋 とは仲違いしても、これだけの絵を描いた絵描きである。どうして他の出版元が黙っていようか。 池田氏の説ではこの辺の説明も不十分である」

5. 写楽は歌麿である

第三章歌舞伎役者説 池田満寿夫氏の中村此蔵説 昭和五十九年七月一日にテレビが放映した「謎の絵師・写楽」は大評判となった。 そこで写楽目歌舞伎役者中村此蔵を提唱したのが、芥川賞作家で版画家の池田満寿夫氏で、しかも その説が従来夢想だにしなかった三流歌舞伎役者であるという意外性、写楽絵のカラー放映の効果、 ビジョン・アナライザー駆使による説得力等々、ならではの大サービスの賜であったといえよ その後さらに再映、再々映されたことでその人気の程もわかる。これがやや下火だった写楽・フーム に火を点じたことは確かである。 では池田氏の中村此蔵説の中身は何か。その後池田氏と、取材班 ( リーダー、川竹文夫氏 ) 共 著の『これが写楽だ』が発刊されたので、その提唱する見解をテレビよりも詳細に知ることができる。 池田氏と取材班が主唱したのは大要次の七つである。 一、写楽絵のうち、第二期以降の作品は別人の作である。 一「写楽は、その絵の中に自画像を描いている。 三、写楽は素人の歌舞伎役者で、第一期の二八点の中にある。 四、東洲は大谷広治の俳号である。

6. 写楽は歌麿である

一門の伝統がうかがわれる一方、大谷家の『十町』にはじまった『東洲』『十洲』にも一門の伝統を うかがうことができる。 ( 中略 ) 大谷家に属した中村家といえども大谷宗家の俳号であり、しかも三世 大谷広次が襲号して当時保管号としていた東洲号を、此蔵が使えるはずはなかったのである。かりに 俳号ではなく画号として東洲斎を名乗ったとしても、道統と因習にやかましい梨園に、此蔵が席を置 くかぎり許されることではなかったのは明らかで、池田説が、大谷一門だから二世広次の俳号『東 洲』を此蔵が名乗れたとする説は、根こそぎ崩れ去らなければならないのである」 以上が谷説であるが、私は、このもっともと思われる東洲号についての谷説にさらに次の批判を加 えたい。 それは、三世鬼次が二世中村仲蔵を襲名したのは寛政六年十一月の顔見世興行の時で、この時から 中村此蔵は仲蔵や三世広次とつながるのであるが、東洲斎写楽は、すでに同年五月に出現しているの で、此蔵と東洲号とのつながりはありえない、ということである。 私の池田説批判と歌麿、蔦屋「とび出し , 説 私は、さきにみた梅原氏および谷氏による池田説への批判に賛同したい。そしてさらに、池田説の 次の四点について、反論をしたい。 その第一は、写楽第一期の絵を素人の作品とする点である。 第二は、取材班のリーダー川竹氏と池田氏が、漫画家石森章太郎氏の写楽日歌麿説を、歌麿 が蔦屋を「とび出した」との虚説によって否定した点である。 第三は、第二とも基本において相通ずるのであるが、蔦屋や此蔵、そして歌麿を、皆がめつい拝金

7. 写楽は歌麿である

誰かが『東洲』を名乗っていたに違いないのだ。とすれば、あれほど大量の役者絵を描いた写楽が、 しかも絵から判断して役者本人か、あるいは役者に極めて近いところに居た人間であろうと思われる 写楽が『東洲』という俳名が存在したことを知らなかったとは考えにくい。 ( 中略 ) 俳名で役者を呼ぶ のが〃通″と言われた時代のことである。また芝翫や梅幸のように、元は俳名であったものが、その まま芸名になった例さえある。 写楽は当然『東洲』という俳名の存在を知っていた。そして、その俳名を己れの画号としたのであ 百歩を譲って、写楽が『東洲』という俳号の存在を知らなかったと仮定しようか。 とすれば、写楽は『東洲』という名を、勝手に名乗ったことになる。その場合、大谷家が代々伝え てきた伝統ある名と同じ名を、素姓も知れぬ無名の男が名乗ることを許すだろうか。しかも写楽は大 谷一門の役者を何枚も描いているのだ。例え偶然の一致にせよ、当時の常識からして考えられない。 やはり写楽は、この『東洲』という俳号を知っていたのだ。それどころか、『東洲』の名を己れの 画号に使用することが許される、特権的な、限られた身分、立場に居た人間だったに違いないのだ」 五、写楽は三流役者の中村此蔵 説 者 池田氏は考える。 写楽は大谷一門の役者を四人描いている。三代目大谷広次、大谷徳次、三代目大谷鬼次改め二代目舞 中村仲蔵、そしてその弟子中村此蔵。 章 この中に写楽はいる : 第 川竹氏等取材班は、上方絵の流光斎を調べるために京都に赴き、さらに徳島に足をのばした 9 ところへ、池田氏からすぐ戻るよう電話があり、飛行機で羽田へ、そして熱海の坂の上のアトリエに る。

8. 写楽は歌麿である

池田氏はこのようにして中村此蔵を他ならぬ写楽としたわけであるが、この此蔵の像はどうみても この中年の、いたずらにプクプク肥えた役者の 芸術家の相貌ではない。あまり敏感とよ、 どこに、池田氏は芸術家の相貌を見たのであろうか」 無名の新人が大手出版元から刊行できたか梅原氏は次の理由からこれを否定する。 きらずり 「蔦屋で雲母摺の木版画を大量に出すのは容易なことではない。それは言ってみれば、現在の日本の 大出版社で最も高価な豪華本をだすようなものである。多少のジャンルは違うが、紅白歌合戦でト を歌うようなものであろう。 無名の新人が、わけても役者という本業を持つ新人がこのような栄に浴することはまず困難であろ う。だいたい浮世絵師というものは、まず黄表紙や洒落本の挿絵を描くことから仕事を始める。そし て認められてやっと一枚絵を、それも数点出してもらえば大変なしあわせなのである。おそらくその ような、一枚絵がかなり評判を呼び売れ行きもよくなって、やっと豪華版である黒雲母摺の木版画の セットが出版させてもらえるのが、ものの順序であろう」 蔦屋は天才ジャーナリストで、山東京伝や十返舎一九、喜多川歌麿や東洲斎写楽などをみつけ、十 分腕をふるわせた。 しかし、寛政三年筆禍事件で財産半減の処罰をうけた。 「写楽が蔦屋から黒雲母摺の役者絵を出版したのは、この事件の三年後である。蔦屋は幕府の検閲の 目の光らない役者絵という領域で、圧倒的に魅力的な新しい芸術を創出し、それによって自らの財政 を回復しようとしていたのである。この天才的なジャーナリストはもちろん営利の方にも抜目はなか った。新人の登用は一見冒険に似ているが、その背後には緻密な計算があったに違いない。それゆえ に、蔦屋重三郎が、なんら絵の実績のない中村此蔵という役者を、どうして自分の運命を左右する大

9. 写楽は歌麿である

の「謎の絵師・写楽」の放映は、同年七月一日で、池田氏がエッセー「写楽は役者中村此蔵 だ」を『朝日新聞』の夕刊にのせたのはその二日前の六月二十九日である。 したがって、梅原氏は、池田氏と川竹氏との同年十一月刊『これが写楽だ』ではなく、テレビと 『朝日』のエッセーを対象にしている。 写楽は自画像を描いたか梅原氏は次のような理由から、これを否定する。 「東京芸大の洋画科の卒業制作は代々自画像であった」「青木繁、萬鉄五郎、梅原龍三郎、安井曾太 郎などの」「若き日の自画像の展覧会があったが」、「全く見事であった」。 「京都市立絵画専門学校にはそのような自画像はないー「西洋画家は目立ちたがりや、日本画家は」 「謙虚」の思想によるのであろう。 「池田氏のいうように、芸術家の中には、やはり自分を目立たせたいという欲望があり、謙虚なるべ き日本の芸術家といえども、そういう欲望に抵抗することは出来なかったにしても、そういう場合で も私は、なるべく目につかないような、全く謙虚な仕方で自分の像を画面に残したのではないかと思う。 浮世絵師において、自分の自画像を残した画家は少ない。はっきり自画像と思われるものを描いた 説 のは北斎くらいである」 「われわれは鈴木春信や鳥居清長の絵によって、春信や清長がどんな男であったか推察するのはまこ役 とに困難なのである。このようにみると、池田氏の写楽すなわち中村此蔵説の前提をなす、画家は必舞 ずその画面に自分の自画像を、しかも最も特徴的な自画像を残すのだという仮説が成立不可能になっ 章 てしまうのである」 第 「西洋的な教育をうけたわれわれは、無意識のうちに西洋の文化を見る目で日本の文化を判断する。 ここにも正にその例があるのである。

10. 写楽は歌麿である

はじめに 第一章写楽論の原点 百家争鳴の写楽探し : 写楽ⅱ >< 説の六要件 「写楽は写楽ー説は論外 歌麿は六要件に叶う 第二章既往の写楽説 能役者説・ 能役者・絵師以外の説・ : 第三章歌舞伎役者説 池田満寿夫氏の中村此蔵説 : 梅原猛氏による池田説批判 谷峯蔵氏の池田説批判 私の池田説批判と歌麿、蔦屋「とび出し . 説・ : 6 イ ) 9 ) 4 イ 4 3 3 25 2 イ 2 ー 9 2 3 ) 29