と認むべきものは、不明なれど、安永五年 ( 廿四歳 ) 十月出版の『市川五粒名残り惣役者発句集』と題 する一枚摺絵に市川海老蔵 ( 四代目団十郎 ) の肖像を描き『北川豊章書』と落款せり。それに次ぎて、 安永七年十一月、五代目団十郎の『荒川太郎まけず』に扮したる『暫ノ図』 ( 細絵 ) あり、されば、其 の頃既に作品を発表しつつありし事を知るべし。次で安永八年には、黄表紙『都見惣太郎』及び洒落 オキミャゲ 本『女鬼産』の挿絵あり、同九年には、黄表紙『芸者呼子鳥』、同『恋の浮橋』等ありて、彼の画風 の未だ定型を成さざる時代の好作例を示せり。爾後、天明年間に入るに及んで、漸次其の特徴を現は し、それより寛政五年頃に至りて其技巧益々円熟の域に進み、共の後に亘りて数多の傑作を出したり き。 絵本の重なるものとしては、 絵本時津風一冊 ( 天明一一年版 ) スズメ 絵本江戸爵三冊 ( 同六年 ) 和歌夷一冊 ( 同六年 ) 絵本詞の花二冊 ( 同七年 ) 絵本虫撰二冊 ( 同八年 ) 絵本譬喩節三冊 ( 同九年 ) 絵本狂月望一冊 ( 寛政元年 ) 汐干のっと一冊 ( 同元年 ? ) 百千鳥狂歌合二冊 ( 同一一年 ) 絵本普賢像一冊 ( 同二年 ) 絵本銀世界一冊 ( 同二年 ) タトへ / フシ 工ヨ 2
第 5 表役者別、絵師別錦絵刊行数量表 寛政七年 役者名写楽豊国国政 位付け 市川蝦蔵六 四 松本幸四郎 山下金作三 4 岩井半四郎 八 瀬川菊之丞 沢村宗十郎 八 7 市川八百蔵九 大谷広次三 小佐川常世 四 市川団十郎 四 市川高麗蔵九 森田勘弥 坂田半五郎 五 4 尾上松助三 中村富三郎 八 四 一四 五 四 大 一〇七九〇七〇判 そ の 四五三五六五九 他 清 長 ( 注 1 ) 写楽、豊国は寛政六年 五月より同七年正月まで の刊行。 国政は寛政七年より文 化元年まで、清長の大判 は天明一一年より寛政五年 まで、その他の判は、明 和四年より安永七年まで の刊行。 ( 注 2 ) 寛政七年の位付け位 以下については省略。 ( 注 3 ) 写楽、豊国のデータは、渡 辺氏の著書、その他は『浮 世絵聚花』の作品目録より 集計。 2 ) 8
テレ・ヒ 昭和年 8 月日 土左衛門の次郎大岡信 能面師 Z カラー放映 映画 昭和年 2 月第号 の研究浮世絵師司馬江漢説 福富太郎『浮世絵』誌所載 昭和犯年 3 月『浮世絵芸術』 Ⅱ号上 3 研究版元蔦屋重一二郎説 ( 筆者 ) 昭和年 4 月『同』 号中 この表は昭和四十三年までのものである。 次に、梅原猛氏は「写楽がみつかった 4 」 ( 第三回『芸術新潮』昭和五十九年十一月 ) の中で、このあ とを次の如くつないでいる。 3 研究俳人谷素外説 ⑩研究浮世絵師一筆斎文調 ①研究絵師片山写楽 ①研究阿波藩絵師矢野典博 研究版元蔦重工房説 ①研究戯作者山東京伝 酒井藤吉 出井祐治 近藤喜博 瀬尾長 鈴木敏夫 谷峯蔵 昭和囀年川月日 『読売新聞』 昭和菊年 『季刊浮世絵』犯号 昭和導年 『季刊浮世絵』号 昭和祀年 『季刊浮世絵』冝号 昭和浦年 『江戸の本屋』 ( 中央公論社 ) 昭和浦年 『写楽新考』 ( 文藝春秋 ) 「写楽はどこへ 行った」 序説「写楽は江 漢なり」 「蔦屋重三郎の 回想ー写楽は蔦 屋重三郎なり」
の錦絵の発明はその二年前で、大評判となっていた。 師清満の絵は流行遅れの紅摺絵で、清長も明和から安永四、五年まで、この紅摺絵を墨守させられ てきた。 明和七年、春信が没する直前に、春信式美人画一点ばりだった浮世絵界に新風が興った。春章、文 調、湖龍斎、北尾重政等は独自の特徴的な役者絵を発表しはじめたのである。 その先鞭をつけたのは春章と湖龍斎で、明和一「三年の頃からである。 清長の役者似顔絵制作は、明和二年から十三年ものちの安永九年であった。 役者似顔絵 ( 幸四郎・団十郎・平衛門と仲蔵 ) 春章画 〃第四章絵師説
昭和年 3 月日 研究版元蔦屋重三郎 阿部清 『読売新聞』 秋田蘭画の 昭和年 近松昌栄 高橋克彦 『写楽殺人事件』 ( 講談社 ) 昭和田年 劇画浮世絵師喜多川歌麿 石森章太郎『死やらく生』 ( 中央公論社 ) 昭和年 ①研究戯作者十返舎一九 宗谷真爾 『李刊浮世絵』・号 昭和年 7 月 1 日 ⑩テレビ歌舞伎役者中村此蔵 池田満寿夫 特集 私は、さらにこのあとに次の六点を追加したい。 ⑨研究浮世絵師鳥居清政説 中右瑛昭和年 2 月里文出版 『写楽は十八歳だった ! 』 の研究浮世絵師写楽は写楽説瀬木慎一昭和年 4 月美術公論社 『新説・写楽実像』 昭和 2 年 9 月 ~ 昭和 8 年川月 の研究浮世絵師歌川豊国説 梅原猛『芸術新潮』「写楽がみつかっ た " こ 昭和年川月毎日新聞社 @ 研究戯作者山東京伝説 谷峯蔵 『写楽はやつばり京伝だ』 ①研究浮世絵師歌川豊国説 梅原猛昭和年 5 月新潮社 『写楽仮名の悲劇』 昭和肥年 5 月講談社 ⑩研究狂言作者篠田金治説 渡辺保 『東洲斎写楽』 19 第一章写楽論の原点
写楽 , 豊国期別作品点数比較表 楽 豊 写 ( 大判 1 人全身働 ( 大判 1 人半身像 ) 28 6 年 1 月 座 都 11 河原崎座 3 座 7 6 年 5 月 河原崎座 10 都 ( 大判 1 人全身像 ) 大判 2 人全身像 3 7 大判 1 人全身像 1 38 座 都 5 細判 1 人全身像 34 寛政 6 年 座 都 17 7 , 8 月 6 年 9 月 座 11 河原崎座 2 河原崎座 10 ( 間判 1 人半身像 11 ( 大判 1 人全身像 ) 6 座 21 都 3 座 都 座 桐 21 16 河原崎座 3 河原崎座 相撲絵 4 追善絵 2 計 64 10 ( 大判 1 人全身像 ) ( 細判 1 人全身像 ) 6 7 ( 大判 2 人全身像 ) 座 1 都 座 ( 原崎座 桐 7 撲 絵 相 2 者 絵 武 2 恵 比寿 絵 1 計 15 134 6 年 5 月より 者 絵 役 23 11 7 年正月まで の 他 そ 6 年正月より余 145 8 年末迄 月 年 表 第期第一期第二期第三期 国 寛政 6 年 5 月 寛政 6 年 11 , 閏 11 月 第 四 寛政 7 年正月 期 計 計 ー 8 ァ 梅原氏の写楽 = 豊国説 第八章
行点数は四〇点であるから、写楽を除く蔦屋刊行総点数の約七〇。 ( ーセントが、この時期に集中して いることになる。版元印のない錦絵もあるが、この表を見ただけでも、歌麿と蔦屋の不和説は怪しい と考えるのが当然ではあるまいか。 歌麿の版元別作品目録さらに、もっと決定的な資料が、すでに昭和五十三年に公表されている。 それは『浮世絵聚花 3 』 ( 小学館刊 ) の巻末の「喜多川歌麿作品目録」である。これらの中には若干の 誤りはあろうが、最新の最も網羅的な目録として信憑性が高いと考えられる。この中から寛政元年よ り同十年までの分を時期別、版元別に区分したのが第 2 表である。 えほんむしえらび 寛政元年は、歌麿が天明八年刊『画本虫撰』艶本『歌まくら』を出版して大評判となり、また同八 批 年の師鳥山石燕の他界後、独立して「自成一家」の印章を使用しはじめた年である。 また、寛政九年は蔦屋の没年であるが、寛政元年からの九年間こそ、歌麿芸術の最も充実した最盛そ 説 期で、多くの秀作が制作されたことがわかる。 し 以下、もう少し立ち入って第 2 表の各版元での刊行状況を検討してみよう。 出 び 、蔦屋との関係 AJ 蔦屋からは、写楽絵出現の直前の寛政五、六年にも、また同七年以降にも、相当多量の作品を、し 蔦 かも名品を刊行している。 2 、大手版元鶴屋との関係 出版界最大の大手鶴屋 ( 本拠は京都 ) からは、すでに寛政元年から出版し、同七年以降も蔦屋に次ぐ章 第 大量点数を出している。 なおこれよりさき蔦屋は、鶴屋と京伝とともに、天明八年、日光、中禅寺に旅行し、また寛政三年 頃に鶴屋と協議して潤筆料の制度を創始したことは既述した。
家を継がせ、天才画家の息子清政は絵筆をとることなく家業に専念したことが窺える。 文化十四年 ( 一八一七 ) に四十一一歳で死んだということは、写楽の出現した寛政六年 ( 一七九四 ) に 8 は十九歳という計算となる。一歳のズレがあるが、これは過去帳の書き誤りであろうか。 同じ回向院には、その二年前の文化十二年に六十四歳で没した清長の墓もある。その戒名は長林英 樹信士で、この戒名も清長にふさわしい 歌舞妓堂艶鏡 写楽日艶鏡説は、クルトも唱えている。艶鏡は寛政八年の舞台を描いた大判の大首絵を七点残して おり、その作風は写楽に似ているが、もっと浅く温和である。彼は狂言作者の、二世中村重助という 説がある。 ともかく写楽よりは質・量ともに劣り、同一人とすることは無理である。 葛飾北斎 清長より八歳、歌麿より七歳年下の北斎は、勝川春章一門から寛政六年に破門されたといわれる。 春章は同四年に没しているから、弟子の春好、春英等といさかいを生じたのであろう。その原因は不 明だが、北斎が勝川派の技法を遵守しなかったためではないか。それまで十五年間、春朗と号した北 斎は、翌七年のはじめには、俵屋宗理という号を用いている。 この宗理とは、宗達、光淋の大和絵の画風を目ざすものであろう。宗理時代には、浮世絵版画も黄 表紙も、宗理の落款のものはなく、ただ摺物と狂歌絵本と肉筆画のみのようで、まだ画風は固まって いなかった。 そして同十一年正月には北斎辰政と号し、漸く独立独歩の画境を開いてゆく。 したがって、寛政六年に写楽としてあの名作を描くことは、当時まだ動揺して画風の定まらなかっ
ところが、馬琴が、天明の末の日光行と寛政中の駿豆の旅の二回が、京伝生涯の旅だったとしたこ と自体、間違いだったのである。京伝の旅は五回だったことが、今日明らかになっている。そして寛 政中の旅は二回なのである。 ひやっかちょううみたてほんそう その一つ、水野稔氏は『百花帖準擬本草』 ( 寛政十年刊 ) を根拠に、京伝は寛政九年春、鶴屋喜右衛 門と相州江之島弁天参詣の旅をしたとしている。一方『安積沼』 ( 享和三年刊 ) の序に京伝は次のよう に記している。 『寛政庚申年蒲月、山東生有小恙穿 / 鞋担 / 嚢単身浴 = 於熱海温泉一 : : : 』 寛政庚申年は寛政十二年であり、蒲月は五月である。小恙のため熱海温泉に湯治療養中、湯治客た ちの卑俗さに閉ロしているさままで、京伝は記している。 これらを根拠とすれば、京伝の寛政中の旅は、江之島行と熱海行の二回で、馬琴が寛政中とした駿 豆の旅は、寛政十二年熱海での逗留中に、浦賀や三島、沼津に遊び、土地の人たちの求めに応じて書 画の筆をとったのが、馬琴の言う『二十余金を得たり』になったと理解される。だとすると、小池氏 が寛政六、七年に想定した京伝の旅は、全くの謬説だったのである。 その上、小池氏は、妻の喪に服して無執筆としたらしいとしている。もしそうだとするなら、その 六年後に死去した父伝左衛門の場合にも無執筆とならなければならないのではないか。だが、その年 は無執筆となっていない。しかも、京伝は、妻の死去当時作ったと思われる大小絵暦を持って六年正 月早々の絵暦の会に出席している。 ( 中略 ) これらを考えれば、服喪による謹慎の無執筆説も該当しな いのである。 この寛政六年の無執筆について今日まで見るところでは、何一つ京伝の記録を残していない。 それに京伝の弟京山も『蜘蛛の糸巻』に京伝や馬琴のことを記してはいる。だが、兄のこの無執筆
あるいは、秘戯画本で、ふざけたのかもしれぬが、それは本意ととるべきではない。 2 、錦絵による歌麿の蔦屋「非難」説 梅原氏は次のようにのべた。 寛政八年ごろ鶴屋から出版した「錦織歌麿形新模様」で、「歌麿が非難している」「安物を買いこん だ版元」「というのは明らかに蔦屋であり、鶴屋版の錦絵でこのように蔦屋の悪口を云うのは十分よ く理解できることなのである。傲岸な人気作家である歌麿は蔦屋専属の一部の彫師・摺師を写楽にと られて屈辱の思いを味わったのであろう。 ( 中略 ) 怪しき形を写して異国迄もその恥を伝え、五体の不 具を顕す辻君のように下直な絵描きは写楽と考えなくてはならない。怪敷形 ( 中略 ) の絵師が写楽で あるにせよ、豊国であるにせよ、歌麿と考えるわけこよ、 冫をし力ない」 梅原氏はこの歌麿の蔦屋「非難」と指摘する文章においても、幾つもの誤解を重ねている。 第一に、この文章をのせた鶴屋刊「錦織歌麿形新模様」は、さきの『浮世絵聚花』の「歌麿作品目 録」や小学館の『名宝日本の美術・歌麿』では寛政九年制作になっている。また、集英社の『浮世絵 大系』の「歌麿」では寛政十年である。 梅原説の寛政八年と九年、十年とでは僅か一、二年だが、大へんな違いである。というのは、一代 の風雲児蔦屋が、八年の夏に脚気を患い、九年五月狭心症で病没しているからである。 梅原氏は、さきの歌麿と蔦屋の「不和」説を発展させて、ここでは「安物を買いこむ板元の鼻ひし げをしめす」と歌麿が非難するこの「板元」とは「明らかに蔦屋であり、鶴屋版の錦絵でこのように 悪口をいうのは、十分よく理解できることなのである」とのべる。 しかし、仮に歌麿が蔦屋に何か不満があったとしても、重態あるいはすでに病没した恩人を公然と 非難するような忘恩者ではあり得ないと考えられる。 ー 22