一門の伝統がうかがわれる一方、大谷家の『十町』にはじまった『東洲』『十洲』にも一門の伝統を うかがうことができる。 ( 中略 ) 大谷家に属した中村家といえども大谷宗家の俳号であり、しかも三世 大谷広次が襲号して当時保管号としていた東洲号を、此蔵が使えるはずはなかったのである。かりに 俳号ではなく画号として東洲斎を名乗ったとしても、道統と因習にやかましい梨園に、此蔵が席を置 くかぎり許されることではなかったのは明らかで、池田説が、大谷一門だから二世広次の俳号『東 洲』を此蔵が名乗れたとする説は、根こそぎ崩れ去らなければならないのである」 以上が谷説であるが、私は、このもっともと思われる東洲号についての谷説にさらに次の批判を加 えたい。 それは、三世鬼次が二世中村仲蔵を襲名したのは寛政六年十一月の顔見世興行の時で、この時から 中村此蔵は仲蔵や三世広次とつながるのであるが、東洲斎写楽は、すでに同年五月に出現しているの で、此蔵と東洲号とのつながりはありえない、ということである。 私の池田説批判と歌麿、蔦屋「とび出し , 説 私は、さきにみた梅原氏および谷氏による池田説への批判に賛同したい。そしてさらに、池田説の 次の四点について、反論をしたい。 その第一は、写楽第一期の絵を素人の作品とする点である。 第二は、取材班のリーダー川竹氏と池田氏が、漫画家石森章太郎氏の写楽日歌麿説を、歌麿 が蔦屋を「とび出した」との虚説によって否定した点である。 第三は、第二とも基本において相通ずるのであるが、蔦屋や此蔵、そして歌麿を、皆がめつい拝金
たのではないか。 たしかに中村此蔵の鼻は特徴がある。それは市川蝦蔵や市川高麗蔵の中高な鼻とちがって中低な鼻 である。しかしこの鼻の持ち主には仲間がいる。たとえば阪東善次の鼻が、そうである。それは小敵役 やすがたき の中でもへつ。ほこでどこか滑稽な、いわゆる安敵を示す鼻であろう。中村此蔵の鼻もこのような安敵 の鼻の一つであろう。すべての鼻の中で此蔵の鼻だけがとりわけ個性的であるということはできない」 以上の、梅原氏による写楽Ⅱ中村此蔵説の批判については、私も同感である。 ただし、後述の如く、梅原氏の写楽 = 豊国説については、賛同できないことを、ここに付言してお きたい。 谷峯蔵氏の池田説批判 次に、グラフィック・デザイナーで昭和五十六年『写楽新考ーー写楽は京伝だ』を著わした谷峯蔵 氏は、昭和六十年十月に『写楽はやつばり京伝だ』を刊行、池田説および梅原説に反論している。 谷説の詳細は後述する通りであるが、ここには梅原氏による池田説批判とは別の、次の二つの池田説 役 説の問題点、すなわち、 舞 一、写楽絵の第一期と第二期以降とは別人の作か 一「中村此蔵は東洲の俳号を継承できたか 章 についての、谷氏の見解を紹介しておく。 第 写楽絵の第一期と第ニ期以降は別人の作か谷氏はのべる。 「写楽が満を持して作画した一期の大首絵と二期の全身像のすべては、世界の至宝と評価される傑作
きな賭けの対象に選ぶことができようか。また写楽の描いた絵は質量ともに驚くべきものがある。十 カ月で百四十数枚、二日に一枚の割合になる。また池田氏のように真の写楽絵を第一期、第二期に限 っても、四カ月で六十六枚、やはり二日に一枚強ということになる。役者を本業としてもちながら、 このような大量の、しかも質においてすぐれた絵を残すことができようか。うだつの上らない役者な ので暇があったというかもしれないが、むしろ下ッ端の役者ほど何かと忙しく、何かと気をつかい、 とても画業三昧にふける余裕はないと私は思う」 此蔵登用と写楽の消去の理由梅原氏は、素人は稿料が安いからという池田説を次の如く批判する。 「池田氏は無名の中村此蔵を蔦屋が登用した理由として、素人はおだてがきくからとか、ギャラが安 いからとかいうが、それは理由にはならない。 また突然に写楽が浮世絵界から消えたのは、写楽こと中村此蔵と蔦屋重三郎の間に金銭上のトラブ ルがあったと、池田氏は言うが、それだけではとても、写楽こと中村此蔵が突然に浮世絵画壇から消 えた理由にはならないであろう。 もしもうだつの上がらない中村此蔵が写楽という名で一流の出版元から好遇され、このような役者 絵を描いたとすれば、どうして彼はかの鳥居清元のように役者をやめて浮世絵師に転向しなかったの説 か。当時の浮世絵師は大体ひとつの出版元と深い関係をもってはいたが、売れっ子となると、ひとっ役 の出版元に操を守りつづけるということは困難であった。多くの売れっ子の浮世絵師は、同時に多く舞 の出版元から作品を出している。とすれば、一流出版元からは見捨てられたような浮世絵師も、格を 章 落とせば、出版してくれる出版元があったのである。たとえ写楽が金銭的なトラブルをおこして蔦屋 とは仲違いしても、これだけの絵を描いた絵描きである。どうして他の出版元が黙っていようか。 池田氏の説ではこの辺の説明も不十分である」
かけつける。 池田氏は、拡大された写楽一期二八点の目の映像のスライドを写し出し、中村此蔵だけが大違い と説明する。それは「生身の人間の目として描かれている」と説明する。目だけでなく、鼻も、誇張 のない「自然に描かれたダンゴ鼻で、その手も顔との大きさのバランスがとれていて、他の写楽絵と は違う」と池田氏は指摘する。 。 ( 中略 ) 目や鼻がリアルなのも 「此蔵は、自分の姿だけは鏡に写して描いた。だからバランスがいし その為にちがいない」 池田氏はこう結論する。 六、写楽・此蔵説の五つの鍵 さらに池田氏は、写楽・此蔵説について、次の五つの鍵をのべる。 、蔦屋は何故素人を起用したか 池田説はこうである。「寛政時代は浮世絵の黄金時代」だ 0 たが、蔦屋は寛政三年に「厳しい弾圧 を受け」、蔦屋のライ。 ( ルの版元泉屋市兵衛は、歌川豊国を起用しシリーズ『役者舞台之姿絵』を刊 と 行、蔦屋は「先を越され」た。「しかもそれに対抗し得る描き手は、歌麿に去られた今、いない。 いって新たに大物を迎える経済状態でもない。八方ふさがりの蔦屋は創業以来、最大の。ヒンチを迎え ていた。その打開策の一つが、素人の起用という前代未聞の奇策だったのである」。 「専門絵師でも、最初は稿料無しも珍らしくない時代である。素人など、恐らく一夜の饗応があれば、 それで万事おしまいであったに違いない。 ( 中略 ) 名の知れた絵師はコストがかかり過ぎたのである。 金のかからない、素人の写楽は正にうってつけであった」 池田氏はさらに続ける。
第三章歌舞伎役者説 池田満寿夫氏の中村此蔵説 昭和五十九年七月一日にテレビが放映した「謎の絵師・写楽」は大評判となった。 そこで写楽目歌舞伎役者中村此蔵を提唱したのが、芥川賞作家で版画家の池田満寿夫氏で、しかも その説が従来夢想だにしなかった三流歌舞伎役者であるという意外性、写楽絵のカラー放映の効果、 ビジョン・アナライザー駆使による説得力等々、ならではの大サービスの賜であったといえよ その後さらに再映、再々映されたことでその人気の程もわかる。これがやや下火だった写楽・フーム に火を点じたことは確かである。 では池田氏の中村此蔵説の中身は何か。その後池田氏と、取材班 ( リーダー、川竹文夫氏 ) 共 著の『これが写楽だ』が発刊されたので、その提唱する見解をテレビよりも詳細に知ることができる。 池田氏と取材班が主唱したのは大要次の七つである。 一、写楽絵のうち、第二期以降の作品は別人の作である。 一「写楽は、その絵の中に自画像を描いている。 三、写楽は素人の歌舞伎役者で、第一期の二八点の中にある。 四、東洲は大谷広治の俳号である。
めることになってしまう。 そのような事実は何も見当たらないことは、のちに詳述する。 また、写楽と歌麿が似ていることを、指の部分だけにしぼっているのも、不十分だと思う。類似点 は、ほかにも沢山ある。これも後述する。 歌麿は、蔦屋と不和となり、蔦屋が家運を賭けて写楽絵を開版する直前に、とび出して、他の版元 から刊行していたとの説は、前記の如く多くの人に支持され、梅原氏も谷氏も異ロ同音に唱えている。 それが、写楽目歌麿説以外の諸説の共通点である。 これは、歌麿が蔦屋をとび出さずに頑張っていると、歌麿があらゆる点で写楽の候補者として最適 格者となってしまうので、期せずして、非歌麿説者が「とび出し」説に同調したものと考えられる。 私は後に多くの証拠をあげて、これへの反論を試みる。これは、本書の最も重要なポイントの一つ である。 蔦屋・歌麿・此蔵は拝金主義者か歌麿が恩人蔦屋をとび出したとの説や、蔦屋が中村此蔵を起用 し、また此蔵が写楽絵をやめた等の見解の根底にあるのは、人間は金銭的利益追求の欲望に駆られて 説 行動する拝金主義者、「経済人」であるとの観念である。 金、色、名誉等の世俗的欲望に、人間が弱いのは確かな事実だが、それだけではない。一方で、儒役 舞 教的道徳も当時の人々の間に深く浸透していたのである。 歌 歌麿が若い頃から蔦屋に世話になり、天分をのばし、傑作を多数発表、名をあげ得た恩義を忘れる 章 は十 , はな、 0 第 また蔦屋も、先の見える気っぷのいい天才的ジャーナリストで、寛政一「三年頃潤筆料制度を率先、 大手版元の鶴屋と協議の上で実行した人物である。歌麿への恩義を押し売りし、いつまでも専属とし
池田氏はこのようにして中村此蔵を他ならぬ写楽としたわけであるが、この此蔵の像はどうみても この中年の、いたずらにプクプク肥えた役者の 芸術家の相貌ではない。あまり敏感とよ、 どこに、池田氏は芸術家の相貌を見たのであろうか」 無名の新人が大手出版元から刊行できたか梅原氏は次の理由からこれを否定する。 きらずり 「蔦屋で雲母摺の木版画を大量に出すのは容易なことではない。それは言ってみれば、現在の日本の 大出版社で最も高価な豪華本をだすようなものである。多少のジャンルは違うが、紅白歌合戦でト を歌うようなものであろう。 無名の新人が、わけても役者という本業を持つ新人がこのような栄に浴することはまず困難であろ う。だいたい浮世絵師というものは、まず黄表紙や洒落本の挿絵を描くことから仕事を始める。そし て認められてやっと一枚絵を、それも数点出してもらえば大変なしあわせなのである。おそらくその ような、一枚絵がかなり評判を呼び売れ行きもよくなって、やっと豪華版である黒雲母摺の木版画の セットが出版させてもらえるのが、ものの順序であろう」 蔦屋は天才ジャーナリストで、山東京伝や十返舎一九、喜多川歌麿や東洲斎写楽などをみつけ、十 分腕をふるわせた。 しかし、寛政三年筆禍事件で財産半減の処罰をうけた。 「写楽が蔦屋から黒雲母摺の役者絵を出版したのは、この事件の三年後である。蔦屋は幕府の検閲の 目の光らない役者絵という領域で、圧倒的に魅力的な新しい芸術を創出し、それによって自らの財政 を回復しようとしていたのである。この天才的なジャーナリストはもちろん営利の方にも抜目はなか った。新人の登用は一見冒険に似ているが、その背後には緻密な計算があったに違いない。それゆえ に、蔦屋重三郎が、なんら絵の実績のない中村此蔵という役者を、どうして自分の運命を左右する大
て縛りつけはしなかったであろう。 蔦屋は刊行量やっき合いは従来通りとし、鶴屋その他引く手あまたの新注文には干渉しないという 寛大な態度に出たものと思われる。 仮に此蔵が写楽であったとしても、此蔵をおだてて安く叩く等の商策には出ず、正当の潤筆料を払 ったであろうし、安いのに怒った此蔵を執筆断念に追いこむような阿漕な男とは考えられない。 さきに見た石川雅望の蔦屋の墓碑文には「人となり志気英邁にして細節を修めず人に接するに信を 以てす」とある。これは文飾ではなく、実像に近いものと推察される。故人の実像を信憑性の高い資 料に背き、歪めて解釈することは、失礼であり、冒濆となることに留意すべきである。 第一期写楽絵は爆発的に売れたのか川 竹氏が証拠とする瀬木説が、写楽絵第一期二八点のうちに 異版が二一点あり、また第二期以降では同じ図柄が一〇枚以上を残すものは唯一点であっても、それ は、写楽絵刊行当時ではなく、相当のちのことと考えられ、一枚一枚の制作期の科学的検討を要する。 瀬木氏は、昭和六十年刊『写楽実像』の中では次の如くのべている。 「写楽の絵が近年とみに高まった結果、多くの後版、複製、そして偽版さえもが明治初年以来、つく られた。偽作は、早くからヨーロツ。ハに出回っていた」 クルト以前から、ヨーロツ。 ( では写楽絵、特に第一期絵には人気があった。また日本でも ( 文化十 二年加藤曳尾庵の「しかしながら筆カ雅趣ありて賞すべし」というような具眼の士も出で、写楽絵が 再評価され、後版、複製、偽版が出たという事情も考えるべきである。 以上のようなわけで、池田説には疑問が多い。というと、その番組内容はすべて「本当」と 一般に信じられているが、それだけに、客観性についての厳正な事前点検を怠ってはならないと思う。
ひたい ちゅうおう 胚胎、鼻まづ形を受るものゆへ、鼻を画くこと肝要のものなり。人の面中英の鼻をもって、左右を備 ふるものなれバ、よく心を用ひて画べし。 つぐむゆがむ まじり ロの広二寸半、噤、咼、おの / 、其癖あり、其人によりて差別あるべし。耳 ( 眼の外眥を当中とし かく て画、尤大半鬘にて隠るゝものあれども、先其心得あるべきなり。 凡似貌を画くに、癖ある面 ( 贋やすく、癖なき ( にせがたきものなり、唯顔の備、眉目鼻ロの差別 あいにる にて、おの / \ 相肖と似ざるの迭ひあるなれバ、先画法をよく会得し、此冊中を照し合せて勘考ある べし。 ( 中略 ) すがた 凡て人物を画くに初心の人 ( かくの如く、下画に ( 全身裸の容体を画きたる上に衣服をきせて見る かくのごとく べきなり。如此する時 ( 支体の恰好長短なくして、すべてのかきあやまりなきものなれ・ ( よく / \ ゑごころ 此図に照し合せてかくべきなり。仍て画心なき初学の人のためにこの図をあら ( すものなり」 このように、豊国の原理は、瞳、眉、鼻、ロ、裸の容体等を似せて書く技法を説いたものである。 2 、二人の描き方の九点の類似性 梅原氏は、この豊国の原理よりも前に、『写楽仮名の悲劇』の第八章で、両者の顔の描き方が、九 点において類似していることを諸種の実例をあげて説いている。ここにはこれを詳述できぬが、その 九点の骨子は次の『写楽仮名の悲劇』第九章冒頭近くの要約文でわかる。 「写楽が先行する似顔絵師に対して、は「きりとした特徴を主張できる点 ( 中略 ) のうち、とくに重 要なのは、一重瞼と二重瞼の描き分けと、鼻と顔の輪廓線との関係であろう。遠く師宣などにその例 はあるものの、浮世絵師の描く役者絵は美人画と同じく、ほとんど一重瞼であ 0 た。しかし第一期の 写楽の役者絵三十人のうち、一重臉十五人、二重瞼十五人を数える。ほぼ同時代の豊国絵では、二重 やくしゃあわせかがみ 瞼は一一十四人中八人、十年後に豊国が描いた『俳優相貌鏡』を調べると、一一一十三人中、一重瞼が十六 にかほ かつら てあし ーア 0
五、写楽は三流役者中村此蔵だ。 六、写楽Ⅱ此蔵説の五つの鍵 、蔦屋は何故素人を起用したのか 2 、なぜキラ摺りを使ったか 3 、素人に絵が描けたのか 4 、なぜ一期二八点で筆を折ったのか 5 、蔦屋が二期以降も刊行を続けた理由 七、写楽の意味は「楽屋を写す」である。 以下、池田説を『これが写楽だ』から引用して紹介しよう。これに対する梅原猛氏、谷峯蔵氏およ び私の批判は、叙述の都合で一括し、そのあとに送ることにする。 一、写楽絵第二期以後は別人の作 池田氏はのべる。 「写楽の四期に分類された作品のなかで、後へゆくほど技術が落ちているという見方は写楽研究のな かで定説になっている。 ( 中略 ) 一期の二八点の大首絵と、二期以降の全身像の間に質の転機が起って説 いる。 ( 中略 ) 一口に言うと、あの革命的とさえいえる前代未聞の大首絵二八点に続く全身像は大首絵役 の大胆さから比べると極端な破綻もない代りにかなり平凡であると見てよいのではないか。 ( 中略 ) 天舞 、ようのない変化が起っている。 ( 中略 ) この様式イコール質の 才が突如として平凡になったとしかいし 章 変化は ( 中略 ) 何か事情が隠されているのではないか。 第 こう考えた時、ここで突然写楽が写楽でなくなった。つまり二期から別人が描きはじめたのではな , いか、とひらめいたのである」