歌麿 - みる会図書館


検索対象: 写楽
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1. 写楽

うちで、生年と没年がわかっているのはたったの十五で、それ以外は二つ日付があるか、あ るいは「一八世紀半ば」、「一八世紀後半」、「一八世紀末」等といったメモのどちらかが記載 されているだけである。二、三の例から確認できることは、日付だけでは不十分だというこ とである。鳥居派二代目の一七〇六年という生年が間違いであるということは、私は前述し た通りである。 それは十三年間の活動期間の最初の年と見なしたとしても遅すぎる。鳥居派初代の名で一一 色摺が記録されていることはーーーっまり鳥居派初代清信と彼の甥の鳥居清信四郎とのよく繰 り返される混同 、たとえ没年を一七二九年とし、そして私が聞いた通り、一一色摺がそれ から十年以上たってやっと発明されたとしても、林の責任ではなく、カタログの発行者の責 せきえん 任である。とはいえ我々は田中益信と鳥山石燕のケースで「一八世紀半ば」という日付を知 っている。田中益信ーーーとかく犯しがちだが、春信門下の ( 善居斎 ) 益信と混同しないよう は、主に手で彩色する浮世絵を発行した素朴派 (primitiven) の一人であった。彼は 一一色摺をどうやら経験したようである。というのは、我々は一七四六年の日付の入っている、 この技法を用いた彼の細絵を一枚持っているからであるが、彼の主な活動期間はこの時期よ り前、つまり四〇年代初めである。それに対して石燕はそれよりはるか以前に正確な日付を 持っている。私が『 Utamaro 』の中で列挙した彼の本は、一七七四年から一七八四年の間に 位置しており、また一七八七年冬の、彼の死の直前には歌麿の『画本虫撰』の有名なあとが

2. 写楽

〔行った〕。〔そこで彼は〕八郎兵衛の〔別名を名乗った〕。〔江戸の〕八丁堀〔に戻ってから は〕、大坂の絵師耳鳥斎に似た奇妙な解釈に従って、役者のポートレートを描いた。彼の師 匠は不明である。寛政二年、彼は〔彼のポートレートの〕背景を雲母で覆うやり方、いわゆ る雲母摺絵を発明し、〔このやり方で〕たくさんの摺物を出版した。〔彼が〕五代目白猿、の ちにキョウジュウロウと名乗った幸四郎、半四郎、菊之丞、仲蔵、富十郎、広次、助五郎、 鬼次などを描いた〔あとは〕、一、一一年ほどしか創作活動を行わなかった。彼は最初しばら く人気があったので、歌麿、英山、北斎、そして栄之といった巨匠が彼の雲母摺絵の技法を 借用した。その後、あまりにも写実的に描きすぎ、しかも顔に特徴を与えるのにほくろを正 確に描写したり、不自然な姿に描いたために、大衆に嫌われてしまった。そのため〔自分の 名前を使って活動すること〕を断念せざるを得なくなった。それから半年間、彼は歌舞妓堂 艶鏡〔の名前で創作活動を続けた〕。〔彼は寛政 : : : 年に死んだ〕。」 阿波とその大名について、私は新井白石の『続藩翰譜』の巻八、第一部と『小学阿波国地 ーン博士 (Dr. Hahn) の好意 誌』 ( 一八九一 I) の貴重な資料を入手し、さらに熊本在住のハ 的な仲介で徳島出身のある日本人からも入手した。系図は緊急に点検する必要がある。この 土地については、一八一一年の『四国名所図会』に由来する『阿波名所図会』全二巻と一八 九六年の小型本『阿波地誌』が十分な情報を提供してくれる。べイシル・ホール・チェンバ レン (Basil Hall Chamberlain) と・・メイスン (Mason) 共著の『旅行者ハンドブック日

3. 写楽

ほば江戸の九番目の部分をまとめたこの地 図は、最も古い浮世絵時代と比較的古い浮世 絵時代のほとんどすべての通りを記載してい る徳川時代 ( 一八三一 I) の古い地図を基にし て仕上げられている。水の部分には細いしま 糸か引かれている。ローマ数字は通りの区分 ( 丁目 ) を意味している。日本名の書き替え に当っては、スペースを考慮して長音符号は 省略されている。紋は武家の領地や高貴な家 柄に属する土地を示している。地図を不必要 に見にくくさせないために、そのうちのいく つかについてだけ載せた (Shouhei' Nakai など ) 。アラビア数字は何人かの浮世絵版画 の巨匠たちの住居と彼等の版元を探し出すの を容易にするであろう。当然だが、それらは 大まかにしか表示されていない。 基本的に両国橋 ( 2 、 3 、 6 、 9 、 4 、 ) のある都市部分が薬研堀界隈、そし てこの橋の東側が深川界隈と呼ばれていたが 現在もそう呼ばれている。日本橋を取り囲む 都市部分は、その名の通り日本橋界隈と呼ば れている。二、三の巨匠は、居城のある台地 の北東方向の小石川や本郷界隈や、都市の南 西方向の神明前界隈にも住んでいた。 かっての江戸の中心地 元 版 浮世絵版画の巨匠 Odemmastr. Ⅱ Tachibanastr. Muramatsustr. Ⅱ Sakaistr. 鳥居派初代清倍 Naniwastr. 鳥居派清忠 Yonezawastr. 鳥居派清重 Koamistr. 鳥居派三代目清満 Yoshistr. ( ? ) 奥村政信 Torishiostr. (Tori-) Aburastr. 西村重長 Odemmastr. Ⅲ 富川房信 (Hatakostr. ) 師政 Yonezawastr. 鈴木春信 礒田湖龍斎 東洲斎写楽 喜多川歌麿 Odemmastr. Ⅲ (Hatakostr. ) 1 鱗形屋 2 3 鶴屋 4 丸屋 村田屋 5 6 伊勢屋 7 伊賀屋 ( 支社 ) 8 松村 9 蔦屋重三郎 和泉屋 10 中嶋 11 近江屋 6 6 6 12 劇場 : Fukiyastr. と Sakaistr. 10 13 同じ地区に役者通り。 菱 11 (Tori-) Aburastr. 10 10 10 10 10 14 4 15 Tobostr. Sakaistr. Yokoyamastr. Hatchobori (Tori-) Aburastr. Bakurostr. Ⅲ

4. 写楽

写楽の追随者 三代目歌川豊国、国貞。柳の 下で、抜いた刀を持つ役者。 パイバー (Piper) 所蔵 の一 , 3 0 初代歌川豊国。戦っている主人 公の役者。黒地。ズッコ所蔵

5. 写楽

ノイ・ノう 勝川春章。ゴシュウ (GOSHUU) のジ ( Ji ) 家の 大名を演じる市村家の役者。黒、白、エンジ 色、灰色。ズッコ所蔵 鳥居派清広。女流歌人小野小町を演ずる役者 中村富三郎。小町の歌。版元 : 江戸の堺屋。 淡紅色と緑色の二色摺。ズッコ (Succo) 所蔵 、三 勝川春章 ( 鳥居派四代目清長のあと ) 勝川春 潮。舞台上の瀬川菊之丞、岩井半四郎、市川 高麗蔵。冬景色。背景に楽士。ズッコ所蔵 勝川春好。女方の岩井家 ( 半四郎 ? ) の役 者。夜の水辺。黄色、各種の黒。ズッコ所蔵

6. 写楽

〔家紋〕守り。丸に、交差した二本の巻物に似た一種の護符。 虎蔵。〔写楽〕。〔紋家紋〕、黒地に白。モリソン (Morrison) 所有の版画の覚書には彼の名 が挙げられている。フォン・ヘイメル (von Heymel) 所有の版画には、天明時代 ( 一七八 一ー一七八八 ) にはクシチ ( 歌七か ) を、そして享和時代 ( 一八〇一ー一八〇一一 l) には中村 歌右衛門を名乗っていたと記されている。春章もこの名前をそれも初代を知っており、中村、 うたろく つまり中村歌六は、国安に描かれたときも、この家紋を付けていた。こうした混乱はすぐに は解決できない。水牛のような頭を持ったたくましい男。 〔家紋〕丸に紋章学的な山の字。 富十郎。〔写楽〕〔訳注山科四郎十郎〕。〔紋家紋〕白地に黒またはその逆。 山科家

7. 写楽

写楽はこの発展段階の最後になると、役に がプついてかなり写実主義的傾向の考え方になっ 楽イ 写タ ていたが、タイプについてはまだそのように 野愚はなっていなかった。もっとも、ある顔が愚 中最鈍な場合は、彼はそれを見逃すことができな のた 女描かった。女方の中村野塩の顔は、もしも男が この女を演じていないとしたら、優美な女ら 、こ、どうしようもなく愚鈍な表情を見せて しさに対して絶望的な気分になりかねないぐらし。 いる ! 春章が形式に凝り固まった劇場の装飾品 ( 役者絵 ) に吹き込んだ生き生きした要素 を、写楽は完璧なものにした。それは彼がこれらの作品の中で歌っている形式言語の春の歌 ・イエッセン (PeterJessen) か自ら次のよ、つにったときに、 であり、すでにペーター のことは感じとられていた。すなわち、「よくよく見る者は、彼の役者としては小柄な体格 ( 大きい頭に比べて ! ) に、より一層驚くであろう。彼がどんなにぎこちのない、不機嫌そ うな身振りをするか、彼がどのように絵筆をとって頑固な線を描くのか、彼がどのように奥 行を縮めたり、線を交差させて描くのか、そしてそのようにするだけで空間の奥行を作り出 すすべを知っているのか、こうしたことのすべてが、通常の日本の浮世絵とは違った男性的 な力、内に秘めた情熱を示している。人は彼をこの芸術様式のドナテロ ( イタリア初期ルネ 112

8. 写楽

こうした意識的な対比に基づいて、彼はそのときから彼の誇り高い能舞台での名前である 東洲斎を署名落款した。この能役者は、大衆に人気のあった田舎芝居の役者の一風変わった 短い歌を、好奇心の強い観客に歌って聞かせた。しかし彼は、この歌が不興を買わずに「す んなり受け入れられる」ようにするために、みすばらしい姿をこの世のものとも思われない 色彩の魔術で満たした。 この非常に重要な創作の謎を解決することが、恐らく最良なことなのであろう。この巨匠 かいかなる凝った構成手段で仕事をしたか、その見本は二つしかない。武士と花魁を描いた 版画は正確に対角線を成して構成されている ! 斜め上半分はほとんど背景の雲母摺の地し か示しておらず、また下半分はそのほとんどが密に色が塗られた部分で占められている。と ころが、坊主の版画ではそれが逆になっている ! もしも膝を付いている武士の右腕と坊主 の右足の間に、両方の人物を互いに切り離すむきだしの地の、わずかだがどぎつい部分が現 われていなければ、一目見たときに、着ている衣服が絡み合っている坊主の姿だけしか見て いないと思うであろう。この見方がどの程度正しいかは、この小さい部分をふさいでしまえ ばすぐにわかることである。二人の人物の塊が一瞬にしてもつれてしまうであろう。 私はすべての版画を一つずつ詳細に分析することをしぶしぶながら諦めたものの、与えら れたスペースを越えるわナこま し。 ( いかない。巻末の写楽のカタログは個々の芝居の登場人物の 配役を記録したものである。 132

9. 写楽

のルプレヒト (Rupp 「 echt) 皇太子所蔵のすばらしい美人画の地は、写楽の浅黒い銀色であ る。これと同じ地なのが、ズッコ所蔵の栄之の弟子・栄水の美人大首絵である。写楽の大判 シリーズの直接の模倣と考えなければ、勝川春英が刊行した黒雲母摺の役者絵は説明がっか ない。これは非常に色鮮やかで、私はそれらを以前写楽に対するあてこすりだと思ったし、 今も思っているが、それらには彼のエスプリが欠けている。しかし形式上の影響が歌川豊国 の場合ほど強く際立っていた例は他にな、。 世間は写楽の浮世絵を喜んで受け入れ、そしてそれぞれの浮世絵に書き込まれたさまざま な筆跡が証明しているように、浪人劇の上演の思い出としてそれらを持ち続けたのである。 この事実は、このシリーズの歓迎ぶりをのちのシリーズの歓迎ぶりとごちゃまぜにしている 大半の史料に反して確認される。この発売当時の人気を正当に強調している史料は一つしか ーズのうち、大ざっぱに見てもこのシリーズの場合 ない。我々は今日でも、この巨匠のシリ ほど多くの見本を所有しているものは他にない。同様に、豊国や他の役者絵師のいずれかの 大首絵のシリーズから、個々の浮世絵の第三の部分だけを証明することは、なかなか困難で あろう。この浪人シリ ーズに対して、のちの作品に対してと同様に憎悪のこもった態度をと っていたならば、これほど目立たずに同じ浮世絵の多くの摺りを保存することは出来なかっ たであろう。ここで行われたような、任意の他の二十四点から成るシリーズのうちの二十三 点の浮世絵を集めるといったことを、一度試されんことを ! 私が十年以上研究した数千の