銀色の地のシリーズの間の関係が立証されたことになる。二人の人物はそれが一人ずつばら ばらにされる以前に、単一に構成されているところを見ると、これの創作年は当然のことな がらそれよりのち、つまり一七九一年か一七九一一年頃と推定される。 最終的には、四点の三枚続き絵のシリーズが選び抜かれるわけである。 ( % 、図版番号 ー ) そうすると、まだ十一枚の版画が残ることになるが ( 囹、図版番号 4 4 1 ) 、これらは新発見があれば、場合によっては以前のグループに分類されるかもしれない 芸術性という点では、このグループ全体は銀色のシリ ーズほど高くはない。色については独 特なものをたくさん持っている。地の鮮烈な黄色は、さまざまな版でそれぞれに微妙な差異 がつけられているが、淡い色調をかき消してしまうようにみえる。そのため、写楽は強力な 手段を用いた。いくつかの版画では、黄ー赤ー黒の三色が非常な力を示している。別の版画 の婦人の服には、いぶし銀を思い起こさせるような鉄灰色といった奇妙な色調の色が塗られ ていて、それに対抗しているのが橙色と肉のような赤である。嵐龍蔵は、ある版画では白の 紋と灰色がかった緑色の当て布が付いた黒の着物を着て、緑色の紋の入った赤い褌をしめて いる。ここでまず一言えることは、このグループ全体が黒ー赤ー黄に適していること、そして 青、紫、緑、奇妙な黄褐色はむしろ付随色であるということである。 その数年間に、今まで知られていなかったが、明らかにもっと重要な作品群が創作されて いた。というのは、最初の雲母摺絵の、考えられる限り最も早期のものは一七九〇年の夏、
とは対照的に、ほとんど一度も役柄を役者の隣に書いたことかないし、役者の名前も二つの シリーズに書いただけだからである。そのため、私が頼みとしたのは組合せであった。とこ ろが、役とシーンの特異性を取り除くことができなければ、素顔の役者を我々に見せてくれ る個人的な残りの部分に逢着できないわけで、それができて初めて、絵師の描写方法につい ての批評が可能になる。例えば、役者の顔を恐ろしげな、あるいは邪悪そうな顔つきに描い た責任を写楽に負わせることは、もしもその役がそうした顔つきをしている場合は、全く本 かたきやく 末転倒になってしまう。しかし、一人の役者がそうしたしかめつ面を、もちろんすべて敵役 というわけではないがいろいろな役で演じているところが描かれているのを見れば、パトロ ン自体のかなりの部分を我々にゆだねようという写楽の意図を語るであろう。このことは特 たとえ好感のもてる役の中であっても、「人間的なもの、余りにも人間的なもの」自体 を担ったような役柄の場合に、明るみに出てくるであろう。そうした分析だけが我々の眼を 訓練し、写楽の様式を他のものと区別することを可能にする。つまり結局のところ、そうし た分析だけが役者と観客の恨みを我々に納得させるのであろう。 私はそうした分析を通じて、一七九〇年までは最初は役者の役と「私的な顔」の中に強烈 な写実主義的傾向をめざした努力がなされたこと、そして次にこの巨匠が役を戯画化し始め、 最後には嘲笑を役者自身にまで広げたことを、発見したと思っている。 いずれにせよ我々は、一七八八年から一七九〇年までに作られた一連の十七の細絵シリー
る。というのは、「大衆演劇の殿堂」を意味するからである。 飯島半十郎の『浮世絵師便覧』 ( 一八九一一 l) は、歌舞妓堂は艷鏡の添え名であったという 覚書しか残していない。艶鏡とは「魅力の鏡」の意味である。日本の木版画の主要文献の一 つである『浮世絵類考』 ( 一八八九、一九〇一 ) の最後の版では、この歌舞妓堂艷鏡は寛政 年間つまり一七八九年から一八〇〇年までの間に創作活動を行ったと付言されている。 『日本美術画家人名詳伝』 ( 一八九一 l) には、彼は本物の浮世絵の名手だが、役者絵だけを 描き、役者に「非常に似せた」にもかかわらず、世間に嫌われてしまったために一年で創作 をやめたと書かれている。浮世絵の流派に関する最も信頼すべき研究の一つである梅本正太 郎 ( 塵山 ) の『浮世絵備考』 ( 一八九七 ) は上述した三冊の本を批評しているが、新たな結 亠咄には至らなかった。 これらすべての文献には、写楽についての覚書も載せられているが、歌舞妓堂艶鏡と写楽 を二人の別の絵師と見なしている。 特定の考えにとらわれていない読者であれば誰にでも、歌舞妓堂についてのこうした断片 的な覚書から、彼と写楽の伝記の際立った類似性は一目瞭然である。それゆえバルプートー は以前から、最終的判定は下せないもののこれら二人は同一人物だと推測している。 両者に関する日本語の原典を並べてみると ( こうしたことを私は十二篇の原典を使って行 って見た ) この類似性はもっと際立ってくる。なぜなら、名前、活動期間、無意味な虚辞を
江戸の大衆演劇の役者、歌舞伎役者については、まだ基礎的研究が不足している。ところ が浮世絵の巨匠たちを研究するに当っては、この役者に関する研究が不可欠になる。確実な 根拠を以て確認された役者の系図を手に入れて初めて、多数の役者の肖像画、つまり彼等を 描いた絵師たちの製作年を時代順に特定することが可能になろう。さらに、どの役者が、ど の年にいろいろな絵師たちによって描かれた役者を指すのかが正確にわかって初めて、日本 の肖像画芸術についての十分なイメージが得られるであろう。いずれにせよ、役者はこの絵 かきは自分の特徴をうまく描くが、あの絵かきは下手だということを見極めていなければな らなかった , なぜなら、私は長年の研究から敢えて次のように主張することができるから である。つまり、日本の浮世絵の絵師たちが描いた肖像画の芸術性を認めない者は、そもそ も日本の芸術についての理解が足りないのだと ! しかしながら、日本の美術を多少とも詳 江戸の役者の諸家
能は一種の短い叙情的ドラマで、宗教史や英雄伝説の素材をその題材にしている。これと 一番比較し易いのは、我々の中世の神秘劇である。能の場合は古い神話についての詳しい知 識が前提となるため、劇の流れは教養の高い人しか理解できず、一六〇一一年から一八六八年 にかけては、能役者の一座を抱えることが、特に貴族階級 ( 武家 ) の道楽の一つになった。 一般の役者と同様、こうした能役者も閉鎖的な親族を形成して、有名な名前をその親族内で 受け継ぐとともに、その系図に誇りを持っていた。はるかに新しい芸術である世俗的演劇 ( 歌舞伎 ) とその役者たちを、彼等は軽蔑の眼で見下していたが、それは当然のことであっ なぜなら、彼等の芸術は宗教を通じて神聖なものにされるがゆえに、参内 ( 登城 ) の 資格が与えられて、最も上流の階級への扉が彼等に開かれたが ( シュミット氏日く「将軍で さえときとして能舞台にのぼることを、自分の沽券にかかわることとは感じていなかった」 ) 、 能楽
も、我々の巨匠が絵画への新たな興味のためだけに、大名屋敷における彼の地位を放棄した 皮の人生を別の方向に向けた外部の出来事があったのだろうが、我々 とはとても田 5 えない彳 はそうした出来事を骨を折って探すには及ばないー 一七八六年、芸術を愛好した将軍家治が死去し、そしてその一年後に国の総大将の節刀は えな 息子の家斉に引き継がれた。ただちに政治的混乱が起こったとしても、驚くに足らない。な ぜなら、このプリンスはやっと十三、四歳になったという年齢だが、一七七〇年に彼の兄、 : えもと 家基が亡くなったために、弱冠六歳で世継となり、それゆえ幕府の高官たち、特に老中田沼 おきつぐ 意次は、彼を簡単に片付けてしまえるものと信じて、自分たちの権力の拡大に努めた。確か にその当時は、若い将軍の側に立つものであれ反対派に与するものであれ、封建領主のかな りの部分は防衛と軍事統制の上で江戸に在勤させられており、不実な老中の庇護者 ( 家治 ) の死去によって権力の大勢はようやく制せられた。 国家的動員、江戸参勤、時局の重大性、権力の混乱といった事態が徳島にもたらした波紋 は、阿波の大名蜂須賀治昭侯をしてお抱え能楽一座を一時おろそかにさせたであろうと想像 させるに十分な理由を与えている。 騒動があったこの時期、東洲斎十郎兵衛は能面を脱いだ。そしてそれにより日本で最も偉 大な浮世絵の巨匠、写楽が誕生した。彼は江戸に戻ったが、再び能の一座に戻ることはなか った。ここでは、この巨匠についてより詳しく立ち入るまえに、この芸術家の作品の年代の
あらゆる贈り物に添えられた。この紋の他にも、同家はもう一つ菊に蝶の紋を、ただし横か ら見た図を用いていたようだ。 初代菊之丞。一七四〇年代に活躍し、一七四九年に死去。優美な容姿。肖像画がとりわけ 鳥居四郎 ( 二代目清信 ) によって描かれた。〔紋〕ノシの紋、白地に黒。 二代目菊之丞、別名路孝。春信時代に全盛期 ( 一七五九ー一七六八 ) を迎えた。〔紋〕菊 の蝶、黒。とりわけ春信、清里、そして房信によって肖像画が描かれ、そして京都出身の非 常に名の知れた踊り子のキョボク。ノージョ ( ? ) やオバシ ( ? ) が歌によんだ、非常に人気 のあった役者。彼自身も上手な詩人だった。拙書『日本の叙事詩』 ( ・パイバー出版社、ミ ュンヘン ) の一〇〇、一〇一頁を参照。彼は堺町に住んでいた。 三代目菊之丞。同家で最も名を馳せた。〔写楽〕。〔紋家紋〕。一、黒地に白、二、同じ。最 初の名前は浜村屋路孝、次の名前が富三郎、そしてそのあとの名前が仙女。特に初代豊国が 好んで描いた。彼の顔には、戯画化することをまず好まなかったこの巨匠の場合でも、意図 して初々しい印象を与えようとする無邪気さが現われており、シェークスピアだったら、 「下唇が馬鹿みたいに垂れている」彼を叱ったに違いない。高価な刺繍が施された女方用の 衣装に、彼は好んで自分の名前の菊の花をあしらった。 五代目菊之丞。一八三〇年、江戸にて死去。国貞は彼の思い出のために、肖像画や四人の前 任者の伝記も載っている著書を一八三二年に献呈した。
本編 (A handbook for travellers in Japan) 』 ( ロンドン、横浜等、一九〇一、第六版 ) も参 照されたい。 能面については、 F. w. MuIIe 「著『能面 Touny ・ paöに関する二、三のこと』第八巻 ( 一八 一九〇四、 九七 ) 、 Ch. G三0( コレクション『 Objets d ・ art et pictures d ・ extréme ・ Orient 』 ( ハー 一九〇 一一十九頁以降、 Literatur 三十四頁。林コレクション tOb 」 et d'art 、 2. partie 』 ( パリ lll) 等を参照されたい。 かっての江戸に関する詳細な資料を、私は特に『江戸名所図会』全二十冊から借用したが、 この本は松涛軒斎藤長秋によって編集され、彼がこの偉大な作品の完成半ばで亡くなったあ と、息子の藤原縣麻呂と孫の幸成 ( 月岑 ) によって大成され、長谷川雪旦によって挿絵が入 れられ、第一ー十冊は一八三四年、第十一ー二十冊は一八三六年にそれぞれ刊行された。私 はそれと同時に、熊本のハーン博士 (Dr. Hahn) 所蔵の約二メートル四方の一八三二年の都 市図を調べた。 役者と芝居に関する資料については、私が基礎に置いた多数の日本の文献のうち、特に北 尾重政の『絵本三家栄種』 ( 一七七〇頃 ) 、歌麿、初代豊国、国政が挿絵を書いた式亭三馬の やくしやがくやつう 『カプキ・ガクャドウ ( 俳優楽室通 ) 』 ( 一七九九 ) 、そして勝川春章の『絵本役者夏の富士』 ( 一七八〇冬 ) を挙げておく。・フローレンツ (Florenz) の『日本文学史 (Geschichte der もっとも徳川時代について 」 ap. Lite 「 atu 「 ) 』 ( ライブツィッヒ、一九〇六 ) も参照されたい。
もう一言、女性の出演について述べると、すでに一二世紀の初めに、若い娘が武士の衣装 を着て貴人の個人的舞台に登場し、音楽を伴奏に踊りを踊っている。徳川時代のある芝居小 屋の支配人の話からも、彼自身が六人の女の踊り子を雇っていたことがわかる。しかしこれ というのは、政府はすでに一六二九年に、風紀が乱れると は規則はずれのことであった , の理由で一般に女性が舞台に上がることを禁じたが、「若衆役者」についても一六五三年か ら一六五五年の間だけ認められたものの、同じ理由で禁じられた。そして優美な女性たちは かってのヘラスやロンドンの場合と同様、女装した男たちに取って代られた。こうした役者 のしつけはほとんど、女性の思考や物腰に慣れることのようであった。彼等はすでに少年期 から女の子としか遊んではならず、また私生活でも進んで女物の服を着た。例外的に吉原の 美女が舞台に立っていたことについては、別の本に書く予定である。 ところで私は、写楽の時代には家によって男方だけをやる、あるいは女方、青年の役、そ して少年の役だけをやるということが決められていたのではないかと思っている。例外か少 ないことがそうした規則の存在を証明している。 最後に役者の住居について一言。役者の多くは堺町に住んでいて、北尾重政の時代には、 小佐川常世、中村伝九郎、七三郎、松江と助五郎、瀬川菊之丞、尾上松助、沢村綿造などが こびきちょう よしちょうふきやちょう 住んでいたし、その他では芳町、葺屋町、そして木挽町にも住んでいたが、その理由は彼 等が出演する芝居小屋に近かったからである。役者が住んでいたそれ以外の町としては、深 きたおしげまさ
的な推論を一つも取り消す必要がなかったことが、とりわけ私には喜びであった。断念した のは疑わしい二枚の水彩画についてだけであった。そして、あれこれと中傷が加えられた写 楽のために、美術史の中でぬきんでた地位を勝ち取ったことを、私は誇りに思っている。 いろいろな研究家の手になる膨大な研究のうち、一人の人物、すなわち・フォン・ザイ についてだけ見過ごしていた。私は自分の最初の日本に関する トウリツツ (von Seid1itz) 本 rUtamaro 』 ( 一九〇七 ) の最初の部分に彼の名を挙げているーー今ではもうそうしたこ とはやってないか。彼の『日本の彩色木版画の歴史 (Geschichite desjapanischen Farbenholzs ・ chnittes) 』 ( 一九一〇 ) の第二版については、私および他の研究家がこれまで精力的に論争 を展開してきた。十一年後の一九二一年には早くも第三版が刊行されたが、そこでは残念な がら多くの挿絵 ( 第一一版の唯一の長所であった ) が削られてしまった。それ以外は : : : 何の 変りもなかったリ つまり、およそ場違いな巨匠の名前の連続、多数の恐るべき本質的な間 違い 彼が文献として引用した最後の著作は、一九〇九年のものである ! 彼がその専門 分野において、私の数多くの研究を無視したことに、私が感情を害しているのではない。な ぜなら、彼には恐らく私の研究を学術的に評価するだけの能力が備わっていなかったと思わ れるからである。とはいうものの、研究家が丸々十二年間かけて多数の巻に収めてきた仕事 のすべて、そして我々の最も優れた専門家の蔵書のすべてを彼が無視してもいいと考えるの は、学問の世界では確かに奇異なことである。私は彼の本のたった一ヶ所だけ、つまり第一一