年 - みる会図書館


検索対象: 写楽
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1. 写楽

か非立体的なものを持ち、構成は何か寓意的なものを持っていた。 このことは一一色摺の時代でもあまり変わらず、黒の輪郭板に淡紅色の版木と緑色の版木で 重ね摺をしたが、 のちになると赤褐色と鉛丹の色を重ねた。この技法を用いた作品は紛らわ しいことに再び紅絵 ( 紅摺絵 ) と呼ばれたが、この新技法の最大の信奉者は、鳥居派一一代目 の息子の若き鳥居清信四郎 ( 一七三六頃ー一七五六頃 ) であった。すでにこの時期になると、 人物像からかってのエネルギーの大半を奪い取るものの、魅力を失うようには全く作用しな い何か非常にきやしゃなもの、ほとんど神経過敏と言っていいようなものが人物像の中に入 り込んでくる ( 図版番号 5 ) 。鳥居清広の特定の版画の中の小さい手は、かっては筋骨たく ましい身体を描いていただけに、実に奇妙に見える ( 図版番号 6 ) 。一七五五年頃に発明さ れ、その最大の信奉者が鳥居派三代目の清満 ( 一七三五ー一七八五 ) と石川豊信 ( 一七一一 ー一七八五 ) にあった三色摺の作品は、先輩絵師たちに比べると色褪せて、貧弱に見え、し かも私には二色摺より単調ですらあるように感じられる。 一七六五年の鈴木春信による多色摺というすばらしい発明により、役者のポートレートに 新たな精神が吹き込まれた。春信自身が前年に重長流に同じようにして創作したものは、あ まり価値がなく、女々しかった。彼は一七六五年になると役者から完全に手を引いた。役者 は彼にとって「ステップを踏む人間」 ( 遍歴職人 ) 、粗野な人間、不作法者になっていたので ある。鳥居家の人たちの中には、彼のあとを追う者もいた。この流派のかっての題材に、彼

2. 写楽

彼は大衆演劇も、そしてきわめて新種の組合せである能の曲目に題材を取った狂言劇も上 皮よ通俗な出し物 演し、さらに客を呼び込むために、六人の女の子を踊り子として雇った。彳 , 、 には、二代目市村羽左衛門竹之丞が座元を務めていた市村座を使った。中村家のところで述 べた明石勘三郎の弟子で、きわめて発明心に富んだこの男は、葺屋町の劇場を堺町の劇場の 、 : のちに中村勘三郎の二人目の後継ぎとして、この舞台も買い取った。 すぐそばに開したか、 彼は当時の劇場界では画期的な人物であった。演劇の新しいジャンルとしての通し狂一言を、 そして新しい小道具として引幕と道具立を考えだした。つまりそれまではシェークスピア風 の舞台だったわけである ! 彼の演出の下で、市村家は全盛期を迎えた。市村座については、 北尾重政が一七七〇年頃にその具体的なイメージを我々に伝えてくれている。彼は、「同家 は一四〇年前から絶えることなく謡い、飛び跳ね、そして身振り ( 所作事 ) を根気よく続 けてきた。この時期 ( つまり一七七〇年 ) は、こうしたことを通じて、紅葉したモミジを見 に逍遙するときの妻の綿帽子に驚くほど似ている、あるいは雪や桂男〔訳注美男子のこと〕 の月額によってほのかに銀白色に光る毛織絨毯を、天井桟敷の観客に見せてくれた」と描い ている。この劇場の内部は平らな板敷きの大きな木造建築であった。天井の横桁からは、舞 台に登場する各役者の名前と紋の入った提灯がたくさんぶらさがっていた。北側には横に広 い舞台が設けられていた。そこからは渡り板、日本語で言うところの花道が、平土間席と桟 敷席の間をぬって走っているため、役者は観客のまっただ中に歩み出ることができた。これ さかやき

3. 写楽

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4. 写楽

追加図版 写楽の作品の中で、本書に未収録のものにつ いて、以下に追加掲載する。これらは一九一 一年のヴィニエのカタログより転載した。 No. 2 No. 3d No. 3e

5. 写楽

導することを命じた。父の行為を人々の記憶から忘れさせるために、この若者は丸一年間世 間から遠ざけられた。一七七〇年、彼は成人男子になるために「前髪を剃り」、そして幕府 の職について、父の最初の称号 ( 阿波守 ) と一緒に治昭の名と盛景の刀を拝領した。一七七 二年十二月、彼は侍従に任命された。彼が新しい旗印一万字を意味する「卍」、つまり有名 な crux suastica ( 幸福な十字 ) を取り入れたことは指摘しておかなければならない。旗は二 分割され、白地で左下に赤の升目、右上に右向きの ( 日本流では左向きの ) 卍を描いたもの であった。しかし、私にはこの風変わりな十字も、逆向きにすると、茶色の地に白にも、黒 白黒の縞模様の旗の上の白丸に黒にも見える。 この蜂須賀治昭は阿波の世襲藩主であったことに間違いはなく、文献類はこの藩主と我々 が研究している巨匠とを結びつけている。恐らくようやく一七八〇年代に入ってからであろ う、故郷に再び静寂が戻ってきたとき、この若い藩主は自ら第一級の役者たちを使って完全 なものにすべく努めたある能役者の一座を歓待したのである。

6. 写楽

いう。この石工の組合からフリーメーソンの組織が生まれたというのである。 最後になったが、 この本の誕生までの経過について簡潔にでも述べておかなければならな 、 0 写楽出現二〇〇年の今年、クルトの fSharaku 』を何とかして翻訳出版したいと最初に提 案したのはプンユー社のプロデューサー山口卓治氏であった。この熱心な呼び掛けを現日本 浮世絵協会理事長山口桂三郎氏 ( 立正大学教授 ) 、アダチ版画研究所の安達以乍牟氏と中山 吉秋氏が積極的に受け止めた。こうして本書は ( 株 ) アダチ版画研究所発行、 ( 株 ) アートデ イズ発売という形で出版されることになった次第である。 翻訳には、主としてドイツ語専門家の立場から蒲生潤二郎氏が、日本語としての文章整備 の立場から定村忠士があたった。アダチ版画研究所の諸氏、とくに中山吉秋氏には、翻訳作 業の上でも単なる発行者としての立場を超えた貴重なご助力をいただいた。 急で困難な出版の実務に熱意を込められた宮島正洋氏を初めとするアートディズのスタッ フおよびプンユー社のスタッフなど、さらに個人的にも助一言を惜しまれなかった関係諸氏に、 心から敬意を表したい。 一九九四年九月 262

7. 写楽

を 9 2 初代鳥居派初代清信 ( 落款なし ) 。鎖をちぎ る主人公または魔神としての役者中島勘左衛 門。版元 : 小松屋。 1703 年直後の最も早い時 期の、鉛丹と黄汁を用いて手で着色された細 絵 ( 丹絵 ) 。クルト所蔵 初代鳥居派初代清信。役者 : 初代瀬川菊三郎 と初代市村竹之丞。版元 : 伊賀屋。金粉とに かわ絵具を用いて手で着色されている ( 漆 絵 ) 。クルト所蔵 4 鳥居派二代目清倍。役者 : 富士の近くを遍歴 する歌僧西行役または曽我物語の作中人物役 の初代市村竹之丞。版元 : いせや。金粉、に かわ絵具、赤褐色、黄色を用いて手で着色さ れている。クルト所蔵 鳥居派二代目清信四郎。 1748 年に竹田出雲に よって書かれた「忠臣蔵」第七幕からの、浪 人の首領由良之助の息子力弥とその愛人お軽 を演じる役者佐野川市松と中村粂太郎。版元 : 江戸の丸屋。若者の帽子の上で二枚の版木 を摺り重ねることによる、淡紅色と青緑色の 二色摺。クルト所蔵

8. 写楽

男女蔵。〔写楽〕。〔紋〕彼の名前の最初の字 ( 。Ⅱ「男」 ) の付いた家紋。ならず者の顔。 富右衛門。〔写楽〕。丸い百姓のような顔。〔紋〕「富」の字の付いた家紋。 二代目八百蔵。〔紋〕イチョウガニの形をした牡丹である蟹牡丹。 一七六九年秋に中村座に出演した。 ちゅうしゃ 三代目八百蔵。宗家中車家。前の名前橘屋中車。のちの名を高助。〔写楽〕。〔紋〕 「八」の字の付いた家紋。感じの良い人間で、非常に有名な役者で、人気のある悲劇物のお 半長右衛門における当たり役の長右衛門は、江戸の浮世絵の名人たちに美的競争心を呼び起 こしたが、 その中でも写楽は特異な地位を占めた。 感傷的で、多少女性的だが、きわめて好感のもてる顔立ち。 荒五郎。中山粂次郎を参照。 市村家 一六三四年に、名古屋山三郎の弟子で、マタバシ ( 又八 ? ) の次男又右衛門の息子の村山 乂三郎とかいう男が江戸に来て、役所の許可を得て前述の大江戸劇場を買い取った。 ( 中村 家を参照 )

9. 写楽

に作られたことを証明している。 このシリーズの新しいところは、きわめて不透明な色調の塊である。写楽はこれを春信か ら受け継いだが、色彩豊かな提灯と同様にこれらの色彩は赤々と輝き、そしてすばらしく美 しい笑いの魅力を引き出す一方、春信がまだ知らなかった、迫力のある金属的な色調を備え た写楽の作品は、物語詩風な印象を与える。これらは光彩を放っことはせず、冷たくて、 弱々しい自然光の細い線条が突然に差し込む、宝の詰まった真っ暗な穴蔵の中の大きな宝石 のように光彩を吸収する : この大浪人ドラマは一七九四年十月十四日に江戸の河原崎座で上演された。この上演と同 時に、あるいは宣伝目的からか、すこし早めにこの巨匠の驚くべき作品が刊行された。恐ろ しく真実味のある顔とすばらしく華麗な色彩を持った独創的な浮世絵が、センセーションを まき起こした。歌麿の影が薄くなってしまったことは明らかであった。こうした彼の写実主 義的傾向の帰結は、歌麿の感情を害した。彼は恐らくもう前から地のために灰色がかった銀 色を使っていたと思われるが、これらの新しい地を真似しなかった。だが、まさにこの年、 この全く新しい色彩の魔術は、ついに歌麿をして写楽の不透明な質量感とは全く逆に、もっ とも洗練された段階の色調としての精緻きわまる最高の透明性をめざす最終的な実験へと駆 り立てたのである。 いつまでも完全に平然としてはいられなかった。バイエルン おつにすました栄之でさえ、 163

10. 写楽

米三郎。女方。〔写楽〕。家紋の丸い面に彼の名前の米の字。 ハチゾウ ( 八蔵 ? ) 。男方。〔写楽〕。丸に家紋。 中村家 一七世紀初めに、のちの名を猿若、勘三郎、さらにのちの名を中村と称した京都出身の役 者トウシュン ( 道順か ) が、一六一六年に御所で演じられた若衆歌舞伎を江戸にもたらした。 彼がこの上演によって天皇自身に気に入られたのと同じように、将軍の都の民衆の間でも人 気を博し、簡単に撤去可能な小屋の舞台や野原で代用されたかっての移動舞台とは対照的な 常設の舞台を開く許可を、一六二四年一一月十五日に幕府から得た。この日は同家の「元日」 として長年にわたって祝われ、慣例的な正月料理である雑煮、魚などが供された。また、人 気役者のために鶏、雉子、尻尾が紙で巻かれた鯛、煎餅といったたくさんの進物が劇場に運 ばれた。中村家はさしあたって中ノ橋のそばにしつかりした建物を新築して開業した。また たいこやぐら この建物には太鼓櫓が設けられた。櫓は破風の上に立てられ、そしてその名が掲げられた。 公演が始まるときは必ず太鼓が打ちならされた。こうした櫓はのちにすべての大劇場の特権 となった。新しい舞台で最初に上演された演目は猿若狂言であった。そして、最初その名が