定村忠士 東洲斎写楽があの独特の役者絵をひっさげて彗星のように江戸の市中に登場したのは寛政 六年 ( 一七九四年 ) 、今からちょうど二〇〇年前のこととされている。 クルトの fSharaku 』は一九一〇年 ( 明治四十三年 ) にその最初の姿をドイツのミュンへ ンにあらわし、世界的な写楽プームと日本における写楽捜し、写楽別人説の出発点となった。 写楽から一一六年後、今日から数えて八十四年前のことである。 著者ュリウス・クルト (Ju1ius Kurth) 博士はもともとは心理学を専攻し、画家の性格や 心理の分析的考察に大きな関心を持っていたといわれる人物だ。一八七〇年生まれ。一八九 七年、ハイデルベルグ大学にキリスト教美術に関する論文『 Die christliche Kunst unter Gregor dem Grossen. Eine archäologische Untersuchung. 』を提出して博士号を得ている。一 九〇七年、浮世絵に関する最初の著書『 Utamaro 』を出版し、一九一〇年には『 Harunobu 』 解題 253
シリーズの最も遅い刊行時期が歴史的に確認されたことになる。この日付を書いた者は、こ れらの版画を江戸の劇場で催された大きな公演の折りに記念に買ったということが、当然推 測される。従って、私はこれらの有名な絵を一七九三年から一七九四年までの期間に置いた。 私はその前年 ( 一九〇九 ) にフィッケシェン (). Fickeschen) のカタログを通じて、うれし い確認をしていた。彼はその図版番号三一三番の作品 ( 浪人シリ ーズまさしくこの雲母摺シ ーズの写楽の版画 ) について、「この芝居は河原崎座で一七九四年十月十四日から上演さ れた」と述べている。これにより、写楽の最も有名なシリ ーズの成立については、一七九四 年という日付が保証されたわけである。 林 ( 忠正 ) ーー彼の日本語の文献は全面的に信用できる。ーーは、最も活躍した年は一七九 〇年であると述べている。どうしてこうした年が出てきたのか、そしてこれはつい今しがた わかった日付と、どのように調整されるのか ? 文献はそもそも雲母摺大首絵の刊行年を、 写楽が発明した雲母絵 (Kira 「 a-e) の刊行年と取り違えたのである ! 各二枚の全身像を含 むそうした雲母摺シリーズを我々は所有しているし、また他の状況から見ても、一七九〇年 が本当に雲母絵の発明年であると仮定して構わないであろう。 さて、前記の両方のシ 1 。ス」」は、 丿ーズと、それらと美術的に近い関係にあるそうしたシリー 雲母摺グループも含めて、「東洲斎写楽」の落款が入っているが、それに反して数的により 多い他のシリーズには「写楽」の落款しかないことに対して、所見を述べる。この後者のシ
の 力、 つ 、イ乍 て の 戸万 有 者 の の 入 の 付 を 知 ら せ て れ て る ら で あ 改刊 れ よ り の 。風 っ し た 手 き の メ と は わ め て 重 要 で る な な ら れ ら の モ は 版 画 呼 称 - つ ま り 七 四 の と 書 て で 冫小、 兀 全 な 日 付 が 付 い て い た の で る な わ ち 政 ハ 甲 お よ び 寅 年 秋 九 月 日 本 の も と に 届 け ら れ た カゞ そ - び ) リ ン ル に は す べ て 天 文 子 上 の 日 付 が し か も そ の っ に は あ る 東 只 の あ る コ レ ク ョ か ら 問 題 の 雲 母 摺 半 身 像 を 撮 っ た か な、 り の 枚 数 の 写 真 カゞ 私 て く る き わ め て 幸 な と 私 は 十 年 前 に よ り 確 な と を 述 べ る と が で き た の で と と 郎 が 九 七 年 に 死 去 し た と を よ く 考 ぇ て み る と 最 後 の 時 カゞ は つ き り し 最 初 の ロロ を 除 く す て の 写 楽 の 名 入 り の 画 が 蔦 屋 重 良に の 出 版 か ら 行 さ て い る か ね て い る 当 然 の と な が ら ん な 状 で 始 め る わ け に は い か な と は い ん 唯 は い つ 刊 行 さ れ た の だ ろ っ か 日 本 人 で な い 著 は 九 〇 年 か ら 八 〇 〇 年 の 間 で 決 め 行 さ れ た あ と も 年 な い し 年 仕 事 を し た と 仮 し て い る と ろ で の 大 き し、 ン リ ズ は ど っ や ら 彼 の 重 母 摺 大 首 絵 し か じ て し、 な 力、 つ た ら し く 最 も 有 名 な リ ズ が 刊 て お り ま た あ る 慎 重 な 者 は 短 い 期 間 と い っ 方 を し て る し か し れ ら の 献 年 か ら 八 〇 〇 年 ま と 疋 め て い る が 主 要 証 人 は の 期 間 を 年 な い し 年 に 限 疋 し 日 本 ロロ の 文 献 で も 取 青 級 の も の は 彼 の 制 作 活 動 寛 政 年 間 と て そ の 期 間 を 七 八 推 方 法 を す と と も に 彼 の 創 作 を 分 類 す る と 必 要 不 可 あ る
丿ーズは、美的理由から東洲斎の版画の前に位置している。きわめて素朴な初期作品一点も、 「写楽」の名があるだけである。我々は二つの異なる落款の境界線を見つけることができる のだろうか ? 再び幸運な偶然なのだが、我々は手書きでなく、版木によって日付が入れられた巨匠の版 画を一点所有している。これは「若い力士」を描いた奇妙な版画である。この版画の場合、 日付は一七九〇年、落款は「写楽」となっている。つまりここには境界線があるのだ , かくして我々は次の結論に達した。つまり、一七八七年頃から一七九〇年までこの芸術家 は自分の作品に「写楽」と落款していたが、一七九〇年に雲母絵を発明してからはーー従っ て、我々はいずれそのことを知ることになるーー・「東洲斎写楽」という落款をしたというこ とである。しかも、二人半身像を含む雲母摺シリーズが、少なくとも「大首絵」以後の一年 間のうちに刊行されていたことは確実だし、また巨匠の以前の作品は少なくとも一七九五年 以後には存在しないからである。艶鏡の問題をめぐって起こったそれよりあとの出来事につ いてよ、リ 男の章で述べる。 ところで我々は暫定的ながら、以下の時期を確認している。 * ・写楽の落款の時期。 一七八七年頃。勝川春章や鳥居派四代目清長の影響を受けた初期作品群。 一七八八年初め。喜多川歌麿の『画本虫撰』の影響を受けて、役における写実主義的
きを書いている。その後、両絵師の日付入りの作品は二十八年以上別れることになる ! 勝 川春章 ( の没年 ) は「一八〇〇年頃」と記されている。彼がその頃まだ生きていたのは確実 で、しかもいくつかの文献によれば一八二一年になっても生きていたとしているが、彼が主 に活躍した時期は八〇年代で、彼の『天満宮縁起』は一七八六年に刊行され、彼の最も美し えほんさかえぐさ い作品である『絵本三家栄種』は一七九〇年で、それ以降の日付の付いた作品はこれまで確 認されておらず、一枚の浮世絵といえども一七九五年以降の作とすることは、美術批評上の 理由からして非常に困難であろう。いずれにせよ言われていることから判断すると、「一八 〇〇年頃」というのは根拠薄弱である。同様に春信の一七一八年という生年の主張も根拠薄 弱である。彼の同時代人および贋作者司馬江漢 ( 拙著『 Harunobu 』十二頁を参照 ) は、彼 を「四十歳以上であった」と報告している。一七七〇年の没年が確定しているので、一七一 八年を生年とするのは不可能で、「四十歳以上」という表現をもっとずっと伸ばしたかもし れない。なぜなら、そうすると江漢は必ず「五十歳以上」と書くに違いないだろうし、彼を 一七二五年頃生まれたようにしている例の文献は恐らく正しく持ち続けられるであろう。こ れらの例で十分であろう。広範囲の結果《成果》を、私はミュンヘンの・パイ。ハー社で刊 行される予定の『日本木版画史概説』と『日本木版画史』の中に書き留めるであろう。 我々ヨーロッパ人にとって大きなみの種は、周知のようにさまざまに発音することので きる日本語の名前、単行本や叢書類の題名の読み方である。というのは、これらは中国の文
傾向の意識的な採用。版元重三郎 ーズ、二人全身像シリ 一七九〇年まで、細絵シリ 一七九〇年、「力士の若者」を描いた一枚摺。 Ⅱ・東洲斎写楽の落款の時期。 一七九〇年。雲母絵の発明。写楽芸術の頂点。白雲母摺にそれぞれ二人の役者を描い たシリ ーズ。タイプにおける写実主義的傾向の採用。意識的な風刺への移行。 一七九一年 5 九三年。細絵シリー 一七九四年、写楽の人気の絶頂期、暗い銀摺 ( 黒雲母摺 ) の大判半身像。役とタイプ における風刺的解釈。 Ⅲ・歌舞妓堂艶鏡。もはや版元なし。刊行されなかった本 ( 版下絵 ) 。民衆の人気を再度得 るための最後の試み。 終焉。 ヾ 0 ーズ。黄つぶし半身像。
一八世紀中頃になると、同家は徐々に衰退していったようだ。重政は一七七〇年頃の江戸 の一二五人の役者の中から、市村家の名を三つしか挙げていない。羽 ( 宇 ) 左衛門は一七六 九年に市村座に出演した。同家は解体されたか、徐々に別の家に移っていったかのどちらか である。従って彦三郎〔写楽〕は、坂東家の仲間に加わる前は、同家に属していたものと思 われる。それ以外では、写楽の場合でも、初代豊国と国政の作品でも、一七九九年以降市村 家の名は一度も目にしていない。恐らく市川家が同家に取って代ったのであろう。 熊十家 〔家紋〕丸に二つの矢筈 ( 丸に並び切竹 ) 。半五郎〔写楽〕。〔紋家紋〕黒地に白。春章 が描いたときにはすでにたくましい男だった。豊国ー国政のときはもはやそうではなかった。 フォン・ヘイメル (vonHeymel) コレクションの写楽の版画に関する覚書「寛政ー享和時 代 ( 一七八九ー一八〇三 ) のクワシオ・シジュウロウ ( 樫尾四十郎か ) 」は、恐らく一七八 九年から一八〇〇年にかけては半五郎を、そして一八〇一年から一八〇三年にかけては四十 郎を名乗ったというふうに訂正されるであろう。重政は彼の紋をまだ知らない。
写楽の先駆者 3 ー イじ 鳥居派二代目清倍。江戸中村座で上演された 劇ッワモノソガのポスター ( 1688 年作成 ) 。 この劇で初代団十郎は曽我五郎の「武者役」 を演じた ( 右上 ) 。日付 : 1693 年 1 月 ( 元禄 六年、酉年 ) 。クルト (Kurth) 所蔵
〔家紋〕抱き柏だけ、あるいは重ね扇に抱き柏。 初代菊五郎は一七四七年から四八年にかけて、初代瀬川菊之丞と共演した。 民蔵 ( 多見蔵 ) は一七六九年に市村座に出演した。 松助。一七七〇年頃。〔紋二つ目の家紋〕。 松助。〔写楽〕。前の名前は音羽屋。ときおり女方を演じたと思われる。〔紋〕彼の名前の松 の字が付いた重ね扇。 一一代目菊五郎。一七七〇年頃。〔紋〕丸に抱き柏。白地に黒。 つるやなんばく 三代目菊五郎。彼のために鶴屋南北 ( 一七五五ー一八二九 ) は「四谷怪談」を書いた。最後 〔訳注五代目〕の菊五郎は一九〇三年に亡くなっている。 〔家紋〕くつわ。 三代目広次 ( 一般的にはヒロジ ) 。〔紋家紋〕白地に黒。同家の指導者。〔写楽〕。鳥居派 二代目が描いた最初の広次。 大谷家
うちで、生年と没年がわかっているのはたったの十五で、それ以外は二つ日付があるか、あ るいは「一八世紀半ば」、「一八世紀後半」、「一八世紀末」等といったメモのどちらかが記載 されているだけである。二、三の例から確認できることは、日付だけでは不十分だというこ とである。鳥居派二代目の一七〇六年という生年が間違いであるということは、私は前述し た通りである。 それは十三年間の活動期間の最初の年と見なしたとしても遅すぎる。鳥居派初代の名で一一 色摺が記録されていることはーーーっまり鳥居派初代清信と彼の甥の鳥居清信四郎とのよく繰 り返される混同 、たとえ没年を一七二九年とし、そして私が聞いた通り、一一色摺がそれ から十年以上たってやっと発明されたとしても、林の責任ではなく、カタログの発行者の責 せきえん 任である。とはいえ我々は田中益信と鳥山石燕のケースで「一八世紀半ば」という日付を知 っている。田中益信ーーーとかく犯しがちだが、春信門下の ( 善居斎 ) 益信と混同しないよう は、主に手で彩色する浮世絵を発行した素朴派 (primitiven) の一人であった。彼は 一一色摺をどうやら経験したようである。というのは、我々は一七四六年の日付の入っている、 この技法を用いた彼の細絵を一枚持っているからであるが、彼の主な活動期間はこの時期よ り前、つまり四〇年代初めである。それに対して石燕はそれよりはるか以前に正確な日付を 持っている。私が『 Utamaro 』の中で列挙した彼の本は、一七七四年から一七八四年の間に 位置しており、また一七八七年冬の、彼の死の直前には歌麿の『画本虫撰』の有名なあとが