ばならないであろう。そしてかなりの確信をもって、作品全体が 3X3 Ⅱ 9 枚の版画ーーーそ のうちの二枚が我々には欠けているーーで構成されていたという結論に達する。五枚のうち の二枚は、もともとそれぞれが半分ずつ持っている一つの墓標によって密接に結ばれている が、これら二枚のうちの一枚は、間違いなく残りの三枚のうちの一枚である。なぜなら、戦 ・ 9 ーⅡ、図版番号 6 のシーンはそれを介して構成されているからである。 ( 一つのシリー ズだけに異なる役を演じる同じ一人の役者を登場させるという冗談は、のち の作品では好んで行われたが、当時の写楽はまだ知らなかった。それが真実であることは、 ある程度完全なシリーズを目の前にすればただちにわかる。これらのシリーズを歴史的にグ ループ分けするのを可能にするような外面的根拠は、存在するのだろうか ? それは確実に 存在する。しかもかなりの信頼度で存在する。一七九〇年以降に東洲斎写楽の落款が押され た作品では、一つの例外を除いて、背景の跡、いや基礎の線〔訳注床または地面と壁または 背景を区切る線〕さえ描かれておらず、描かれているのは黄色か銀色のどちらか単色で彩色 された背景であることに気づく。最初の版画では、逆に完全な背景が描かれており、無色の 基礎〔訳注床または地面〕がくつきりと浮かび上がっていた。とはいえ、これは予定通りの 展開であることをうかがわせる ! いずれにせよ、存在する、あるいは欠けている基礎の線 と、彩色された地が、十分な着眼点を生み出している。我々はそれに応じて次のように分類 した。
状の濠につながり、町中では隅田川、河口付近では大川 ( 大きい河 ) と呼ばれた江戸の主要 な川の海のように拡がった部分につないでいた。この掘割はうねりながら西から東にのびて いた。その南側には、同じ目的をもったもう一本の掘割が多少平行する形でのびていた。そ して居城のある台地の濠に再び平行して真っすぐに走る第三の水路が、これら二つの掘割を つないでいた。この連絡水路が南側の掘割に合流する地点から、この掘割の両側沿いに東に 向かって八丁堀は広がっていた。これら二つの水路の合流地点には、三本の橋 ( ミッパシ ) たんじようばし しんぶくじばし が架かっていた。北側の橋が弾正橋でここから北八丁堀が始まり、南側の橋が真福寺橋でこ うしのくさばし こから南八丁堀が始まり、そして西側の橋が牛草橋であった。八丁堀というのは「八つの街 なかのはし 区にまたがる堀」という意味であるが、この名称は最初中ノ橋までの水路の西側部分だけに 付けられていた。なぜなら、実際にその両側に八つの街区、つまり北側に五つ、南側に三つ いなりよし の街区があったからである。のちになると、中ノ橋と稲荷褥の間の掘割の東側部分も八丁堀 と称するようになった。後者は小さな稲荷神社のすぐそばにあったために、それに南北で隣 接する街区には、この八丁堀という名がそのまま付けられた。北側の弾正橋のすぐ近くには、 南から北に向かう三つの比較的小さい家屋群があって、それらは一つの丁目 ( 街区 ) として 数えられた。東の方角では、稲荷橋まで西から東に向かう四つの丁目がそれらに接続された。 真福寺から稲荷橋のわきの稲荷神社にまで及ぶ南側にも同様に、それらすべてが西から東に 向かって順番に並べられた五つの丁目があった。三丁目と四丁目の間には、南北に中ノ橋が
流に小事にこだわることで、規則を凌駕する試みがなされたが、芸術を行うということは、 精神的にも肉体的にも非常な力業であった。観客はこうしたことを通じて、美の食通に育て 上げられーーーっまり、本当の日本人であれば誰でも美的センスを持っているということであ る、そのうえ、かっての舞台が持っていたシェークスピア流の地味さは、脚本の華やかさに よって時代遅れにされてしまった。 役者の「家」の興行を困難にしているのが、たくさんの役者が養子縁組によって、ある家 から別の家に引き抜かれてしまうという状況である。そのときは、役者は紋も名前も変えて しまう。しかし、家の内部で名前を変えることも、決してめずらしいことではない。 例えばそうした家のリーダーが引退したり、死んだときは、新しいリ ーダーが彼の名を継 いだ。それが家の長である必要は一度もなかった。いずれの一族も決まった名前を持ってい て、市川家には常に団十郎と八百蔵がいなくてはならないが、それはちょうど瀬川家には菊 之丞がいなければならないのと全く同じである。一般にこの島国の住民なら誰もがそうであ るように、いずれの役者も自分本来の紋を持っており、家の中でのそれぞれの地位を示す紋 も持っている。そのうえ彼が家のリーダーであれば、三つ目の紋、つまり彼の二つの紋の他 に家全体の紋も持っことになる。 当時の芝居小屋の外観および設備について、市村家を例にとって話をする。すでに早い時 期から、すべての家の代表的役者がすべての舞台に出演していた。
しく研究した者であれば、春章や豊国あるいは写楽の浮世絵を一枚しか持ってなかろうが、 役者が殿様や乞食の服装をつけた姿で、あるいは赤く厚化粧した顔や白く塗りたくった顔で しか描かれていなかろうか、例えば書き添えられた名前や、描かれた人物が付けている紋に 目をやらなくても、これはしかじかの菊之丞であるとか、これは二代目助五郎であるという ように、すぐに言いあてることができる ! とはいえ、そうあって初めて、役者の芸につい て批評する能力と権利を持っことになるのであり、またそうあって初めて、ハルツネ ( 春章 か ) は、例、んばアンジェリカ・カウフマン (AngelikaKauffmann) かそ、つしたよ、つに、すべ ての肖像画を同じようにセンチメンタルな顔立ちに描いたこと、そして一筆斉文調は、例え ばかってのドイツの「羊の鼻を持っマイスター」のように、多少動物的要素を取り入れたこ とか ところが、春章や文調はモデルの特徴をうまく描いている , わかってくるので ある。 以下の説明では もっともそれを結論にするつもりはないか もつばら日本の文献を その基礎に置いた。もともと日本の劇 ( 歌舞伎 ) であるとともに、多くの大衆をしばしば一 日中舞台の前に釘づけにした「通俗芝居」は、中世の神秘劇である能と同様に音曲によって 語られ、今日なお好まれている浄瑠璃を基礎にしたもので、一七世紀になって初めて成熟期 ちかまつもんざえもん を迎えた。日本のシェークスピアこと近松門左衛門 ( 一六五三ー一七二四 ) と彼より一世代 たけだいずも 若い竹田出雲 ( 一六八八ー一七五六 ) は、新興の大衆劇場のために今以て忘れられていない
架かっていた。つまり読者は、北八丁堀、掘割、そして南八丁堀という三本の平行線をイメ ジしなければならないわけである。 かっての江戸のこの小さい区画には、「三本橋」以外にもまだ名所があった。弾正橋から まつや 上記の連絡水路を北に向かって上って行くと、すぐに北八丁堀の最初の街区の端にある松幡 橋に出くわす。この橋から東に向かうと、街区に向かって北東方向に小さな五十部大神宮に ぶつかる。この神社の鳥居、つまりそれぞれ二本の木柱と横木で組み立てられ、赤く塗られ た簡素な門は、神道の神聖な領域に通じていた。切妻屋根をのせた小さな住居にも似たこの 素朴な小神社のまわりの、活気に満ちた街頭の風景は、江戸名所の一つに数えられていた。 みつどもえ この鳥居の両側には二つの置灯籠が配されていて、その上には神聖な三巴「三つの魚の浮き 袋に似た窓アーチ装飾のパターン」の紋が華やかに飾られている。開放された拝殿で目にと まるものといえば、新たな二つの灯籠と、神道のシンポル、つまり沢山の四角の紙片が貼ら れて、真っすぐに立てられた一本の柱 ( 御幣 ) ぐらいのものである。一組の夫婦が拝殿に近 づいて、深々と頭をたれて拝んでいる。この夫婦の二人の息子のうち、小さい方は遊びに余 念がない。大きい方はこの神聖な場所よりも沢山のものが見える街頭を、物珍しげに見やっ ている。というのは、白髪まじりの獅子の面をつけた一人の踊り手が芸を見せていたからで ある。これには通行人わけても子供を連れた母親たち、果樹の花のついた枝木を一本手にし た剃髪の僧侶、金色の仏像を納めた厨子を運ぶ男、そして数人の娼婦たちが、大変な喝采を
うちで、生年と没年がわかっているのはたったの十五で、それ以外は二つ日付があるか、あ るいは「一八世紀半ば」、「一八世紀後半」、「一八世紀末」等といったメモのどちらかが記載 されているだけである。二、三の例から確認できることは、日付だけでは不十分だというこ とである。鳥居派二代目の一七〇六年という生年が間違いであるということは、私は前述し た通りである。 それは十三年間の活動期間の最初の年と見なしたとしても遅すぎる。鳥居派初代の名で一一 色摺が記録されていることはーーーっまり鳥居派初代清信と彼の甥の鳥居清信四郎とのよく繰 り返される混同 、たとえ没年を一七二九年とし、そして私が聞いた通り、一一色摺がそれ から十年以上たってやっと発明されたとしても、林の責任ではなく、カタログの発行者の責 せきえん 任である。とはいえ我々は田中益信と鳥山石燕のケースで「一八世紀半ば」という日付を知 っている。田中益信ーーーとかく犯しがちだが、春信門下の ( 善居斎 ) 益信と混同しないよう は、主に手で彩色する浮世絵を発行した素朴派 (primitiven) の一人であった。彼は 一一色摺をどうやら経験したようである。というのは、我々は一七四六年の日付の入っている、 この技法を用いた彼の細絵を一枚持っているからであるが、彼の主な活動期間はこの時期よ り前、つまり四〇年代初めである。それに対して石燕はそれよりはるか以前に正確な日付を 持っている。私が『 Utamaro 』の中で列挙した彼の本は、一七七四年から一七八四年の間に 位置しており、また一七八七年冬の、彼の死の直前には歌麿の『画本虫撰』の有名なあとが
に作られたことを証明している。 このシリーズの新しいところは、きわめて不透明な色調の塊である。写楽はこれを春信か ら受け継いだが、色彩豊かな提灯と同様にこれらの色彩は赤々と輝き、そしてすばらしく美 しい笑いの魅力を引き出す一方、春信がまだ知らなかった、迫力のある金属的な色調を備え た写楽の作品は、物語詩風な印象を与える。これらは光彩を放っことはせず、冷たくて、 弱々しい自然光の細い線条が突然に差し込む、宝の詰まった真っ暗な穴蔵の中の大きな宝石 のように光彩を吸収する : この大浪人ドラマは一七九四年十月十四日に江戸の河原崎座で上演された。この上演と同 時に、あるいは宣伝目的からか、すこし早めにこの巨匠の驚くべき作品が刊行された。恐ろ しく真実味のある顔とすばらしく華麗な色彩を持った独創的な浮世絵が、センセーションを まき起こした。歌麿の影が薄くなってしまったことは明らかであった。こうした彼の写実主 義的傾向の帰結は、歌麿の感情を害した。彼は恐らくもう前から地のために灰色がかった銀 色を使っていたと思われるが、これらの新しい地を真似しなかった。だが、まさにこの年、 この全く新しい色彩の魔術は、ついに歌麿をして写楽の不透明な質量感とは全く逆に、もっ とも洗練された段階の色調としての精緻きわまる最高の透明性をめざす最終的な実験へと駆 り立てたのである。 いつまでも完全に平然としてはいられなかった。バイエルン おつにすました栄之でさえ、 163
画期的な文芸作品を書き、そして多数の詩人が彼等の仲間に加わった。比較的古い神秘劇 ( 能 ) に対する通俗芝居 ( 歌舞伎 ) の関係は、浮世絵の様式とそれから生まれた木版画の、 狩野派や土佐派の巨匠たちの「古典的」絵画に対する関係と似ている。民間伝説、英雄物語、 小説文学という、それまで支配階級の特権でしかなかった素材を最も幅広い層のために、ド ラマチック且つわかりやすく演じるという目的が追求されたのである。 これには、能楽に比べて、はかり知れないほどの利点があった。つまり、歌舞伎の役者は 仮面を付けすに演じたわけである ! 米粉と化粧で足りたのだ。厳格な型の体系に対して、 生き生きとした表情の動きで対抗した。くつきりと描かれた顔が動くために、精神面の展開 はもはや身振りと声だけでなく、顔面筋を変化させる演技によっても表現された。この新し い芸術が上流階級にとってどれほど軽蔑すべき存在であろうが、この芸術は日本にとって本 物の演劇術の誕生を意味した。それにともなって、変化に富んだ刺激のための尽きることの ない素材が、舞台芸術においてのみならず、絵画においても生み出された。表現可能なすべ てのものを最大限詳細に分類するということは、日本国民の個性のなせる業である。つまり 日本人というのは、ほとんど創造主に対してあらゆる葉脈、あらゆる鱗粉を数えなおすよう に、細部をより一層掘り下げることに卓越した技量を持った国民なのである。そうした特技 が急速に発展していって、確固とした役者の「家系」を作り上げたわけである。家 ( 座 ) の 創始者の伝承は神聖なものになり、そして法になった。タルムード〔訳注ユダヤ教の経典〕
封建領主だったのである。花模様が刺繍されている絹の袋に納められた刀を持ち、ぼさばさ 頭の従者が、泥棒猫が追いかけているように、彼の後をうろついている。 、 3 、図版番号爲。一一代目小佐川常世、三代目沢村宗十郎、三代目 三枚目の浮世絵 ( ・ 市川八百蔵 ) では、写楽は役名が書かれている二つの箱提灯から、それが何であるかを簡単 に確認できるようにしている。これには、藤原保昌が主人公であるドラマの一シーンが描か れている。この主人公はある夜、荒涼とした草原を歩き回り、笛を吹いていた。 袴垂という名の盗賊が見え隠れに彼を追跡していた。武器を持たないこのプリンスはそれ でも恐怖を示さず、静かに我が道を歩み続け、そのことで袴垂はいわば金縛りにあって、敢 えて攻撃しないままに保昌の屋敷までそのあとを追ってしまった。保昌がそうした思いをこ の山賊に与えたのである。笛吹童子はそこで自らの素性を明かした。そして鷹揚な点ではひ けをとらない保昌は何もせずに袴垂を引き揚げさせた。我々の浮世絵は、藤原家の館の内部 みす を、そのすばらしい御簾によって示している。宮中服を着た保昌は源氏の家紋の付いた旗用 の布を興奮の面持ちで広げており、盗賊は ( バルプートーは彼を「貴族」と見なした ) ぎよ っとして跳びすさり、ひざまずいている一人の局が、布の上に置かれた保昌の笛をうやうや しく捧げ持っている。彼女の着物の模様は、日本の紋の本の『源氏五十四帖の絵』の中に見 られる。これはその中の二十三番目の紋で「初音」と称し、日本で早春を告げるホトトギス の春のさえずりを意味している。
浮世絵の中でも、この刊行物はあらゆる点で私にとって比類のないものである。 しかし我々には一つの文献の証言の他に、この巨匠の人気についての文句のない史料があ る。写楽の金属を用いた技法〔訳注黒雲母摺〕をとりわけ感激して取り入れ、そして鮮やか な色彩を好んだ弟子の長秀を通じてこの技法を大坂まで広めた長喜は、江戸のお茶屋の美し はしらかけ い娘たちを歌麿の様式で描いた一連の長絵 ( 柱懸 ) を残している。これらの浮世絵のうち ・カタログ 二枚が公表されている。一枚は林カタログ・ 1 5 3 で、もう一枚はハッヾ 。、図版番号浦 ) である。前者は、袖が透けて見える縮緬の着物を着てお茶を Z ・ ( Z ・ 3 ー 運ぶ細身の娘を描いている。彼女はオタワラ屋 (Otawara ・ (a) 商会で働いていた娘である。 彼女は右手に、豊国の六代目団十郎の、落款の入った大首絵が描かれている団扇を持ってい るが、林 ( 忠正 ? ) は浮世絵には通常落款が入っていないとして、これを誤ってこの巨匠の ものにしてしまった。茶碗が置かれた棚が背景に見えるが、似たような棚は二枚目の「長 喜」の落款の入った浮世絵では、その輪郭しか描かれていない。彼が描いた女主人公はここ でも浮世絵が摺られた団扇を持っている。そこには写楽の主要なシリーズの中の有名な松本 幸四郎の半身像が描かれている。団扇には落款はなく、陰画が描かれている。版元は江戸の 上村である。これらの浮世絵からは、多くの推論が可能になる。それらは最も人気のある役 者ポートレートを団扇の絵に再現したものだが、もちろんそれ以上の意味を持っている。な ぜなら、確かに最も人気のある役者しか団扇絵として使われなかったからである。しかし、 165