歌麿 - みる会図書館


検索対象: 写楽
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1. 写楽

雲母摺絵は世の注目を引いた。写楽は一夜にして時の芸術家になった。このことは、この イ品が他の芸術家たちに与えた影響を見れば、はっきりと見て取れる。歌麿と非常に繊細な 栄之は、役者たちに対して冷やかで侮蔑的な態度をとり、彼等を自分たちの筆にとって不向 きすぎると考えていた。しかし、歌麿は近寄りがたい存在ではなかったし、かっての御用画 家も尊大すぎて、役者の肖像画家の色彩の魅力に耳を貸さなかったわけではない。二人とも 非常に喜んで自分たちのお気に入りの婦人のために、優美の三女神を後光で包んだ例の銀色 に輝く雲母摺絵の箔を借用したり、歌麿はそれ以降特に好んで夢のように美しい版画に、写 楽が武士と花魁の版画で見せたような例の魅力的なピンクがかった銀色の半襟を用いた。若 く、そして感激する能力を備えていた歌川豊国は、はりきって新しい要素に取り組んだ。た くさんの人気役者の雲母摺絵は、彼が熱中したことの成果であった。長喜はすべての段階を 通して、混合された金属的色調の雲母を使って、自分のパレットを完全なものにした。また ある史料はそのうえ、英山と北斎もこの技法を借用したと伝えている。要するに、この「雲 母摺の年」は、一七六五年の錦絵の年以降の浮世絵版画の発展全体における最も豊饒な年だ ったのである。 この史料が信じるに足るものであれば、偉大な「古典派芸術家」である鳥居派四代目清長 はこの年に活動を中止したことになる。実際のところ、彼の版画は一七九〇年以降ほとんど 一枚も確認されていない。その理由はわかっている。つまり、より偉大な人物が彼を凌駕し リ 3

2. 写楽

ーとし 没 ) も、このおでぶちゃんの「太った青年」を描いており、しかも彼を一種のガリ て小人国の人形たちと一緒に描くというやり方で、若干「寓意的に」描いている ( 、図 版番号。ところがそこではこの青年は寅年 ( 一七八二年 ) 生まれで、当時七歳、身長が 三尺九寸七分、体重が十九貫余となっている。これと同じ年齢、同じ寸法を、勝川春山も、 サインの入ったふんどしを締めて、力士の攻撃姿勢を取っているところを描いた、この怪物 の類似のポートレートに書き込んでいる ( 図版番号芝。ただし、彼は寅年とは呼んでいな 、 0 この競作には、歌麿さえも加わった。私は「東アジア雑誌 1 、 2 」 ( 「歌麿についての新 事実」 ) で一枚の大童山の版画を公開した。これは、この太った青年が二人のお茶屋の娘の 間にいるところを描いたものである。彼は煎餅を自分のハムスターのような頬の間に押し込 んでいる。寸法は一九のものと一致し、年齢も七歳になっている。生年は記されていない 最後に、ロンドンのサザビー・オークションが一九一三年一月に同じモデルの版画を一枚公 開したが、 これは長喜のもので、お茶屋の場面で歌麿のものに似た格好をしている「主人 つま 公」を描いたものである。説明部分は複写が小さすぎて、残念ながら私には読めない。 るところ、歌麿、一九、長喜、春山、そして写楽と、五人を越える巨匠がこの怪物を不滅に したわけである ! そして恐らくもっと多くの絵師が彼を描いたことであろう ! 日付に関 しては矛盾点が明らかである。というのは、一九の版画ではこの青年は一七八二年生まれで、 一七八八年に描かれているわけだが、そうすると、正確に記録された寸法の差から、一九と 122

3. 写楽

ズム的なものではまったくなかった ! 伝統について何らのためらいもなく、最終的結論を 8 絵画のあらゆる分野での歌麿の発見から引き出した男、葛飾北斎は、のちに傑作版画の民族 的芸術性に実際にとどめを刺して、それを純粋絵画に逆戻りさせた。 すでに我々が聞き知る通り、『画本虫撰』の版元の重三郎のところに出入りしていた写楽 は、当然のことながらこの作品のことをよく知っていた。彼が有名な歌麿と個人的な接触が あったかどうか、私には疑わしい。例の誇り高い、個性的な歌麿が、舞台で騒がしい所作を する人を描くことに対して、どのぐらい消極的な態度をとったか、我々は知っている。彼は そもそも控え目で、親しみやすい性格ではなく、また彼の芸術家仲間よりも、むしろ美しい 女性に彼流の理解を求めた。まさにこの時期に、「青楼」の重苦しい雰囲気の中にいた大変 に美しい娘が、彼を愛の虜にしてしまった。その娘は「扇屋」の魅力的な滝川で、当時彼女 はそこの女仲間で、有名な花扇よりずっと人気があった。そして、やっと有名になりかけて いた歌麿にはポスターと役者絵の絵師になるための時間は、確かにわずかしかなかった。し かし写楽はまったく違ったことを感じざるを得なかった ! 石燕の模範的な結論の中に、稲 妻のように彼の頭をよぎったある言葉があった。それは発言全体の中の核心的言葉、つまり 「自然の写し」であった。それは全面的に彼の新しい芸名、写楽に対応するものであった , 自然を写すーー・しからばなぜ最小の生物か ? その傑作こそ人間ではなかったのか ? そ して、このように写すという行為は物質として存在するものの退屈な模写を意味しないと、

4. 写楽

に作られたことを証明している。 このシリーズの新しいところは、きわめて不透明な色調の塊である。写楽はこれを春信か ら受け継いだが、色彩豊かな提灯と同様にこれらの色彩は赤々と輝き、そしてすばらしく美 しい笑いの魅力を引き出す一方、春信がまだ知らなかった、迫力のある金属的な色調を備え た写楽の作品は、物語詩風な印象を与える。これらは光彩を放っことはせず、冷たくて、 弱々しい自然光の細い線条が突然に差し込む、宝の詰まった真っ暗な穴蔵の中の大きな宝石 のように光彩を吸収する : この大浪人ドラマは一七九四年十月十四日に江戸の河原崎座で上演された。この上演と同 時に、あるいは宣伝目的からか、すこし早めにこの巨匠の驚くべき作品が刊行された。恐ろ しく真実味のある顔とすばらしく華麗な色彩を持った独創的な浮世絵が、センセーションを まき起こした。歌麿の影が薄くなってしまったことは明らかであった。こうした彼の写実主 義的傾向の帰結は、歌麿の感情を害した。彼は恐らくもう前から地のために灰色がかった銀 色を使っていたと思われるが、これらの新しい地を真似しなかった。だが、まさにこの年、 この全く新しい色彩の魔術は、ついに歌麿をして写楽の不透明な質量感とは全く逆に、もっ とも洗練された段階の色調としての精緻きわまる最高の透明性をめざす最終的な実験へと駆 り立てたのである。 いつまでも完全に平然としてはいられなかった。バイエルン おつにすました栄之でさえ、 163

5. 写楽

日本浮世絵協会理事長 山口桂三郎 浮世絵研究の嚆矢は、明治一一十四年 ( 一八九一 ) エドモンド・ゴンクールによってパリで 出版された『十八世紀の日本の絵師ー青楼の画家歌麿』であった。これにつづいた大著は、 明治四十三年 ( 一九一〇 ) ュリウス・クルトによってミュンヘンで出版された『写楽』であ る。そしてこの両著は初期浮世絵研究の双璧ともいわれるものであった。そして浮世絵を代 表する歌麿ー写楽の研究で幕明けを行ったのは、残念ながら日本においてではなかった。し かしこの両著の影響を受け、大正期に入ってから日本にも本格的な浮世絵研究が芽生えるこ とになる。幕末から滔滔と海外へ流出した浮世絵の数は厖大な量に達したが、そのなかにあ ってまず在外において研究が進められたわけである。 今度翻訳された『写楽』は、初版ではなく改訂第二版で、大正十一年 ( 一九二一 l) に出版 されたものである。初版から一〇年余りを経過しているが、その間出版された研究書など ( 例えば一九一一年に出版されたヴィニエⅡ稲田カタログ清長・文調・写楽 ) の成果を取 り入れたもので、初版に較べて内容の充実がみうけられる。 クルトは『写楽』初版本を刊行するまえに、『歌麿』 ( 明治四十年 ) を世に送っている。こ の著はクルト自身がいっているように、「自分の最初の日本に関する本」であった。クルト 『 SHARAKU 』日本語版の意義ーーー序にかえて

6. 写楽

除けば、艶鏡についての原文の一つ一つの単語が写楽についての原典の中に再発見されるか らである。原典批評家にとって非常に興味深いことは、さまざまな事柄がさまざまな場所で どのように差し挟まれるかであり、しかも一度では役に立たない。それによれば、かなり無 批判且つずさんに複写されている一つの基本原典しかなかったように思われる。 その公算は、すでに一七九四年に江戸で文筆活動を開始し、確実に写楽を個人的に知って ぶちょうほうき くさぞうしつう いる式亭三馬 ( 一七七五ー一八二一 l) が、『不重宝記』〔訳注『稗史家不重宝記』が正式書名〕 の中で艶鏡のことは何も知らないと書いていることで、高くなった。彼がこれに関して描い 私はこれを た、国名の代わりに浮世絵の巨匠の名前が載っている風変わりな地図に 、彼は写楽のためだけに、歌川派の陸地と歌麿島と、重長、 『 Utamaro 』の中で公表した 春信、湖龍斎、豊信、文調などの名が見られる大きな島の間に位置する小さな島をとってお いた。もしも彼が写楽と別人であったならば、この小さな島に置かれるべきである艶鏡は、 どこにも発見されなくなってしまう。この公算は最終的に確実なものになる。つまり、簡潔 ートーの共犯証人で、 に書かれている『本朝画家人名辞書』 ( 一八九四 ) あるいは、バルプ こうしたことに熱、いに取り組んでいる林 ( 忠正 ) の一つまたは複数の資料にも、写楽は歌舞 妓堂とも署名したという覚書が載っている。しかし、それは艶鏡ではないのか ? ここで人 は同一の絵師の手になる一つのシリーズに歌舞妓堂と歌舞妓堂艶鏡の両方の署名が見られる ことに気づく。これにより両者が同一人物であることが証明されたことになる。

7. 写楽

喜多川歌麿の『画本虫撰』 ( 一七八八年初め ) の刊行は、日本美術の発展における偉業で ある。なぜなら、チョウ、ガ、トンボ、エンマコオロギ、キリギリスといった愛くるしい生 物の生命と群集を描写したこの作品には、浮世絵版画芸術に全く新しい要素、すなわち写実 主義的傾向が与えられたからである。それはナイープな創作において発見されたわけでもな く、また偶然によって発見されたわけでもない。それは十分な意図をもって現われてきたの である。そしてきわめて卓越した歌麿の師匠である古老の鳥山石燕が、棺桶に片足をつつこ んでいるような状態にありながら、この本のために、きわめて若々しい詩情の魅力とともに、 、こ。皮よこの新しい方 発見に対する抑えがたい満足感を漂わせた、感動的なあとがきを書しオ彳 ( 向を「心の絵画」と称し、創造的精神はそうした方向性を持ち、固定化された古くからの伝 統やその寓意的、象徴的形態を基礎にして仕事をするのではなく、まず無私な心で自然の生 写実主義的傾向の目覚め

8. 写楽

私には常に、あたかも八百蔵の目から写楽自身が私を見つめているかのように感じられる 言うに言われぬ悲しみを湛えて、ただし非常にしつかりとみつめているのだ。グロテス こうした目の創作者に クな銀色の地の大首絵の創作者を人々は賛美しているに違いない、 人々は好意をもったにちがいない , ( 、図版番号 無駄な骨折り。源歌麿が同じ八百蔵を彼の美人画で好んで用いた技法で、美しい若者とし て描くということを敢えてしたとき、彼の浮世絵は大騒ぎを引き起こした。誰も新しい才 ~ を望まなかったし、硬直してしまっている舞台の馬鹿者たちのかっての旧態依然たる仕事ぶ りはドグマになってしまった。歌麿はそれにもかかわらずそれをむだ骨に終わらせるために、 気に掛けてない態度をとっていた。しかし、歌舞妓堂写楽はどうだったのか ? 「彼は気に 入られなかったのである」これがすべてであった。失脚したこの偉人の言うことは、もはや 信用されなくなっていた。歌舞妓堂もまた、他の絵師たちの中に、彼をほとんどコピーした 初代国政のような模倣者を見つけた。ズッコは彼の『 ToyokuniJ ( 図版 ) で、この絵師 ( 国政 ) の絵を一枚発表したが、この絵は我々の八百蔵の絵のお粗末な盗作の印象を与える。 アーサー・ディビソン・フイケは、ある女方の役者の非常に出来の悪い半身像を描いた彼の カタログの摺物 ( ・Ⅷ ) の中に、自身の名前を「春門」という暗示的な筆名で隠した写楽 の門人の筆跡を見分けようとした。しかしこれは思い違いである。白 ( 柏 ) 楊亭春門は書き 添えられた歌の詩人で、その絵自体には落款は押されず、それに後期のこの作品には写楽の

9. 写楽

石燕は「心の絵画」の表現を通じてきわめて明央に述べている。 皮等よ主要な性 かっての狩野派の巨匠たちは、確かに詳細きわまる自然研究を行ったが、彳一 , 格描写のために、奇妙で、旋律的な線の遊びを発明することによって、その研究をまさに速 記的に短縮された形に要約してしまった。そして次にこの種の一連の基本的タイプが作られ、 そして有名になったあとに、硬直化が起きた。そして浮世絵の巨匠たちの活力自体は、歌麿 を他方でようやく指導者に再び祭り上げた客観的な自然観察のことを伝承された形式に順応 する快適さのせいで忘れてしまった。 写楽はまず初めに、模索する初心者の態度をとる。彼は徐々に写実的な線を、しかも初め は顔に対してだけ用い始める。天真爛漫な歌麿は、自分がどんな凶器を彼の手に渡してしま ったのか、まだ何も気づいていなかった。 当時江戸で最も有名な本と絵の版元は、耕書堂蔦屋重三郎であった。蔦の葉越しの富士山 の頂という彼の印が浮世絵版画のどこかにあるときは、我々は大抵の場合、本物と思われる 作品と係わり合わねばならないことになる。彼の仕事場は江戸の最も面白い土地の一つ、ま さに江戸の中心である日本橋界隈にあった。城をめぐる大きな濠にかかっていたすべての橋 の中で一番北にあった松幡橋から北東に向かって行くと、本町にいたる。ここは広くて便利 な町で、ここの四つの街区にはたくさんの薬屋 ( 薬種店 ) があったが、なかでも良質の薫香 粉を売っていた「鰯屋」か有名であった。香り漂うこの町は大伝馬町に続いていたが、この IOI

10. 写楽

幸を見て、心底喜び、そして笑った。 怒りの嵐が突然に起きた。 どのような人物を彼が想定したのかわからない。 他の浮世絵の巨匠たちがどのように対処したかもわからない。歌麿は恐らくあとになって 初めて、つまり彼が一七九九年に豊国と国政の本の中に、三人の美女が背中を向けている例 の物静かな役者を描き、そして一一枚目の浮世絵に脱ぎ捨てられた能役者の帽子、面、華麗な 装東を描いたときに、この騒動の結論を導き出したものと思われる。八百蔵が美女を演じて いるところを描いた彼の有名な浮世絵がいっ制作されたかは、正確にはわからない。それが 主に写楽を意識していることは、間違いないことである。写楽は失脚した。い まや彼は重三 郎とも、すべての版元とも縁を絶った。そして、思い上がった能役者東洲斎写楽もそれと同 時に死んだのである。 174