度信用に足るものなのか、私にはわからないが、この本に登場する美しくも、愛くるしい人 物たちは、あたかも実生活についての研究が彼等の基礎になっているかのような印象を非常 に強く与える。巨匠がいたく改まった態度で、自分のモデルと何らかの個人的関係を持っこ とをはげしく拒絶していること、例のポヘミアンたちとは社会的距離をおくという彼の考え を表明している。彼は自分の読者と観察者に、あたかもこれらの賤民を観客席からのみスケ ッチしていて、決して彼等の私宅は訪れていないように信じ込ませようとしている。しかし そんなことよりはるかに注目すべきは、庶民の英雄が日常の服装でいるところを彼が初めて 描いたということである。 こうしたことがまさに彼の芸術家としての活動の三回目のルストルム《五年目毎の清めの 供儀》ののちに初めて行われたということは、伝統的な描写がどのぐらい好まれていたかを 証明するとともに、他方、人々が気分転換を求めていたことを認識させる。人々は一貫して 自然主義的ポートレートを期待していたようだが、この人気のあった巨匠はこのことに関し ところが彼の序文からは、そもそも彼の方からこの てだけ、あまりにも廩重すぎたのだ , 考え方に歩み寄っていったのだという言い訳がましいことか、かなりはっきりと聞こえてく る。それはつまり、彼の描く人物像が決して例の軽蔑すべきならず者たちではないからであ る。彼等は化粧や豪華な舞台衣装がなくても、はるかに逍遙する貴族のように見えるし、従 って彼等の暗い日常生活を特徴づけようと努力しても無駄である。しかしいずれにせよ、こ靭
Ⅱ糸判。三枚絵。 6 、 7 を参照。カエデ、黄色い地面。 欠けている。〔多分、男方の六代目団十郎か半五郎、左側の絵。ヴィニエは中央の 絵川として紹介している。〕 市川八百蔵。白いリンドウが刺繍されている、袖の非常に広い緑の着物を着ており、 肩にはスズメが装飾されている。長く垂れた帯状の肩掛けを羽織り、赤い帽子をか い黒の着物。紫の帯。ひどく驚いて主な連中に背を向けている。岩の左側の部分。 左側の絵。膸。図版。 熊十 ( 坂田 ) 半五郎。赤褐色の着物を着て、全体的に赤で塗られ、下に力士の化粧 回しを付けて、敵に向かって刀を抜こうとしている。着物と帯には模様として熊十 家の紋が付いている。トラの毛皮で作られた一種の袋には、その役割を示めす三石 の紋が付いている。中央の絵。。。。閥。 > 繝。図版。 六代目市川団十郎。同じく刀を抜こうとしている。左手に房の付いた絹の袋に入れ られた鏡を持っている。非常に調和のとれた青と赤が似合っている。丸い大きな模 様として二羽の鶴が描かれているが、これは紋であろうか ? 右側の絵。。。 図版。
ときに、一方は最初の単語を見落とし、もう一方は二番目の単語を見落としたわけである。 なぜなら、まさに両方とも同じ字で始まっていたからである。しかし八郎兵衛の名前が、十 郎兵衛の名前と並んでいるのは一体なぜか ? 確かに、彼が両方の名前を名乗った確率は小 そこで私は敢えて次の回答を提案する。つまり、模写する人が多いために、原文が きわめて様々な形で表れてくるようなきわめて古い文献では、八丁堀も八郎兵衛の名前も見 られるが、ハチには別の字つまり「蜂」の字が使われていた ! 本文批評では同じく非常に なじみのある整合現象によって、模写する人は名前のハチの字を住居のそれに適合させ、そ して次にこの模写する人のまた模写する人が、別の混乱を引き起こしたということである。 非常に多くのことが得られたのである , このことから得られたものは何か ? ・ というのは、「蜂」の字で始まるのは、阿波藩主の蜂須賀侯の名前だったからであるー 十郎兵衛はつまり彼に敬意を表してこの新しい名前をつけたのであろう。そしてこのことか ら容易に推測させることは、藩主と芸術家の間が良好な関係にあったであろうということで ある。 結局、事情はどうであれ、読者は少なくとも日本の文献研究の並はずれた困難さについて のイメージだけでも得たはずである ! 東洲斎がすでに阿波で絵筆をとりはじめていたこと に間違いはないであろう。刺激に不足していなかったことは確かで、徳島には有名な江戸の 浮世絵版画、「吾妻錦絵」が、長崎やその他の港町と同じように船で送られていた。それで
私には常に、あたかも八百蔵の目から写楽自身が私を見つめているかのように感じられる 言うに言われぬ悲しみを湛えて、ただし非常にしつかりとみつめているのだ。グロテス こうした目の創作者に クな銀色の地の大首絵の創作者を人々は賛美しているに違いない、 人々は好意をもったにちがいない , ( 、図版番号 無駄な骨折り。源歌麿が同じ八百蔵を彼の美人画で好んで用いた技法で、美しい若者とし て描くということを敢えてしたとき、彼の浮世絵は大騒ぎを引き起こした。誰も新しい才 ~ を望まなかったし、硬直してしまっている舞台の馬鹿者たちのかっての旧態依然たる仕事ぶ りはドグマになってしまった。歌麿はそれにもかかわらずそれをむだ骨に終わらせるために、 気に掛けてない態度をとっていた。しかし、歌舞妓堂写楽はどうだったのか ? 「彼は気に 入られなかったのである」これがすべてであった。失脚したこの偉人の言うことは、もはや 信用されなくなっていた。歌舞妓堂もまた、他の絵師たちの中に、彼をほとんどコピーした 初代国政のような模倣者を見つけた。ズッコは彼の『 ToyokuniJ ( 図版 ) で、この絵師 ( 国政 ) の絵を一枚発表したが、この絵は我々の八百蔵の絵のお粗末な盗作の印象を与える。 アーサー・ディビソン・フイケは、ある女方の役者の非常に出来の悪い半身像を描いた彼の カタログの摺物 ( ・Ⅷ ) の中に、自身の名前を「春門」という暗示的な筆名で隠した写楽 の門人の筆跡を見分けようとした。しかしこれは思い違いである。白 ( 柏 ) 楊亭春門は書き 添えられた歌の詩人で、その絵自体には落款は押されず、それに後期のこの作品には写楽の
はあったが、八百蔵は美男子の一家に属すると書いている。しかしここでは彼は理想的な美 男子と解されている。聖職者風の貴族的髪型にもかからわず、明るい血紅色の礼服を着てい るにもかかわらず、煤のように黒く、ほとんど渦巻き状に置かれた眉毛にもかかわらずー この巨匠・写楽は以前、同じ服装で黄色の地の大首絵シリーズの六代目団十郎を描出した。 そこで恐ろしい要素を増すために、まさにこの ( 美男子だという ) 挑戦的な考え方を利用し たのであった。これが同じ役のことを指しているのかどうか ? いずれにせよ我々はここに 叙情的な、ほとんど感傷的な要素にかなった表現を見い出しているが、あらゆる人を追って いるこの大きく、暗く、表情豊かな目を一度見た者は、人それぞれの好みはあるにしても、 その目の憂鬱なまなざし、その強い悲しみは決して忘れないだろう。同時代の報告によると 八百蔵は非常に重要な芸術家であったに違いない。彼の卓越した能力が不幸な写楽を役者た ちと和解させたのだろうか ? 四つの大首絵のすべてに、何か円熟の境地に達したもの、この世のものとは思えないもの がある。前に見たあの唯一の本 ( 版下絵 ) に見られるような、かっての能力の総括だけでは ない。それはまた、普遍的なものへの躍動、硬直したナショナリズムの束縛から一般的な人 間特有のものへと押しやってくれる。これらの大首絵は我々を非常に魅了する。他の絵師の 大首絵と比較すれば、それらから何か一風変わったもの、何か優れたものがわかってくる。 地味な情熱、内に秘めた火山性の興奮は気高い理解力によって抑圧されて :
の本に対してなされた多数の評論は、省略することにする。一つの非常に重要な論文「日本 博士 (Dr. 木版画の中の劇場 (Das Theater im 」 apanischen Holzschnitte) 」を、・シュミット smidt) が『プレーメン・コレクション年報』—の五十二頁以降に書いている。 彼は日本の有名な劇についての個々の木版画の連作の配置の問題を、感謝するに値する方 法で論評して、きわめて注目すべき成果を上げた。この優れた研究を、私はしばしば取り上 げることになろう。フリードリッヒ・ズッコ (FriedrichSucco) の『豊国と彼の時代 (Toyo- パイバー出版社、ミュンヘン、一九一三ー一四 ) は、 kuni und seine zeit) 』 ( 全二巻、・ 我々の研究にとって一つの事件であった。彼は写楽の問題を様々な角度から論じた。アメリ カ人のアーサー・ディビソン・フイケ (Arthur Davison Ficke) のいくつかの作品に関して いえば、彼の集大成的著作であり、私の写楽を非常に詳しく批評している『日本版画閑話 (ChatsonJapanesep 「 ints) 』 ( ロンドン、一九一五 ) をあげるとともに、彼自身のみごとな コレクションと、日本の演劇についての数多くの貴重な覚書を載せているすばらしいカタロ グ『稀覯日本木版画 (Rare and valuable Japanese prints) 』 ( ニューヨーク、一九二〇 ) を取 り上げたい。ルイス・オーベルト (Louis Aubert) も、写楽の問題を芸術学的というよりは むしろ美学的に扱った『日本版画の巨匠たち (Maitres de l'estampe 」 aponaise) 』 ( パ 1 九一四 ) で、優れた批評を展開している。その他の一連の研究については、のちほど言及し なければならないであろう。
雲母摺絵は世の注目を引いた。写楽は一夜にして時の芸術家になった。このことは、この イ品が他の芸術家たちに与えた影響を見れば、はっきりと見て取れる。歌麿と非常に繊細な 栄之は、役者たちに対して冷やかで侮蔑的な態度をとり、彼等を自分たちの筆にとって不向 きすぎると考えていた。しかし、歌麿は近寄りがたい存在ではなかったし、かっての御用画 家も尊大すぎて、役者の肖像画家の色彩の魅力に耳を貸さなかったわけではない。二人とも 非常に喜んで自分たちのお気に入りの婦人のために、優美の三女神を後光で包んだ例の銀色 に輝く雲母摺絵の箔を借用したり、歌麿はそれ以降特に好んで夢のように美しい版画に、写 楽が武士と花魁の版画で見せたような例の魅力的なピンクがかった銀色の半襟を用いた。若 く、そして感激する能力を備えていた歌川豊国は、はりきって新しい要素に取り組んだ。た くさんの人気役者の雲母摺絵は、彼が熱中したことの成果であった。長喜はすべての段階を 通して、混合された金属的色調の雲母を使って、自分のパレットを完全なものにした。また ある史料はそのうえ、英山と北斎もこの技法を借用したと伝えている。要するに、この「雲 母摺の年」は、一七六五年の錦絵の年以降の浮世絵版画の発展全体における最も豊饒な年だ ったのである。 この史料が信じるに足るものであれば、偉大な「古典派芸術家」である鳥居派四代目清長 はこの年に活動を中止したことになる。実際のところ、彼の版画は一七九〇年以降ほとんど 一枚も確認されていない。その理由はわかっている。つまり、より偉大な人物が彼を凌駕し リ 3
は非常に重要なので、これについてより正確に検討してみることが適切である。当然、二十 四点の役者絵のうちの欠けているのが六代目団十郎であると推測される。ここで、次の役者 リストが作成された。 嵐龍蔵。 坂東彦三郎、二代目三津五郎。 市川五代目団十郎。 ( 六代目団十郎 ? ) 高麗蔵。門之助。男女蔵。八百蔵。 羆十半五郎。 松本二代目幸四郎。 森田勘弥。 尾上松助。 大谷鬼次。徳次。 沢村宗十郎 谷村虎蔵。 男方 143
飛ばすための火花だけを期待するという、一触即発の状態にあった。 その火花を写楽は自分に向けて放ってしまったー 「彼は実際の姿を描写せずに、むしろ不自然な形態を描いたために、世間の評判は芳しくな かった」と、どの資料もほほ一致して伝えている。「あまりにも写実的な形態」と、ある資 料は咎めていたが、別の資料を書いた愚か者の「美術史家」は、あえて「彼は美術に関して は能なしだった」などと愚鈍な意見を述べている。もう一人別の批評家は非常に具体的に書 と。 いている、彼は「顔を特徴づける」に当って、すべてのほくろを正確に描写した , これらのそっけない数行の文章からは、なんと深い悲しみが感じられることか ! 太陽の 輝きの中でさまざまに色を変えながら、かろうじて翼を広げる華麗な蝶に、石を投げてはの かっての同時代の文献の著者は、この冷淡で無関心 根を止めるとは何たる事であろうかー 破滅、一七九五年頃 167
バルプートーが自らのカタログの中で写楽の全著作を模範的な形で公表したことは、我々 の研究のために彼が成した数多くの貢献の中の一つである。しかし本は印刷されなかった ! その本、いやもっと正確に一言えば、その原本つまり芸術家写楽のオリジナルの下絵は、これ までのところ確認不能であった。この貴重な著作は、 x 訂の判型のほば漫画形式の七枚 の全身像と、表題の半身像から成っている。非常に薄い紙に描かれていて、たくさんの訂正 と、薄く塗られた色彩が認められる。前者はこれが原本であって、模写ではないことを証明 している。これは浮世絵版画のために墨版を彫り上げたもの ( を摺ったもの ) ではなくて、 ひきうっしたと言われている。表題の浮世絵には落款が入っている。つまり、写楽画とそれ に加えて初代豊国独特の「丸印」があるわけである。ということは、この人がこの著作の所 、 158 、図版番号 間ー ) 。現在では多分、問題の浮世絵は 有者であったわけである ( ・ 写楽の未発行本〔訳注写楽の「版下絵」をさす〕 175