黒雲母 - みる会図書館


検索対象: 写楽
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1. 写楽

襟は淡紅色の雲母。垂れている大きな帯は黒。左向き。翫 -. 0 0 、 0 1 。図版。 1 4 中山富三郎。女方。左手を上げている。着物は淡い革のような黄色 ( 一般的には水 色 ) 。下着は、白い輪の模様が入った橙色がかった黄色 ( 一般的には赤 ) と、白い 雲丹の模様が入った黄褐色。帯は暗黄色で、模様が入っている。左向き。 <0 + 。而。 ( 違い摺あり、一枚では、帯に模様なし ) 。図版。 国佐野川市松。一カ茶屋の芸者役 ? 両手で扇子を持っている。半襟は恐らく淡紅色 の雲母。着物の縁飾りは格子模様。色 ? + 。Ⅷ。。 >ä0 図版。 瀬川菊之丞。カ弥の花嫁小浪役。右手を黒い帯の中に差し込んでいる。右向き。着 物は赤味をおびた淡褐色 ( 一般的には暗黄色、一般的には白 ) で、暗黄色 ( 一般的 には紫 ) の雲丹の模様が入っている。下着は、白い菊の模様が入ったプロンズ色が かった緑色と、白い輪が入った赤。半襟は淡紅色の雲母。紫帽子は暗い黄緑色 ( 一 般的には暗い黄褐色 ) で、鉢巻きは明るい淡褐色 ( 一般的には明るい黄褐色 ) 。 z 。。十。 rn z 6 瀬川富三郎。塩谷の妻顔世役。右手は羽織を摘んでいる。右向き。着物は肉のよう な赤。羽織は黒で、色彩豊かな菊の花の模様が入っている。半襟は淡紅色の雲母。 帯は黒で、光沢だしされている。翫Ⅲ。多分。図版。

2. 写楽

黒雲母。大名塩谷の沢村宗 十郎。 No. 30qo クルト所蔵 黒雲母。従者の大谷徳次。 No. 30po 東京で所蔵 黒雲母。加古川本蔵の谷村虎蔵 ( 30C を参照 ) 。 No. 30ro モスレ所蔵 黒雲母。由良之助の妻お石の岩井 半四郎。 N 。 .30S 。シュミット所蔵

3. 写楽

黒雲母。高師直の五代目市川団十郎。 No. 30d0 以前、ヤ工ケル所蔵 黒雲母。侍の市川門之助。 No. 30go クルト所蔵 49 50 51 黒雲母。浪人定九郎の市川高麗蔵 ( 300 を参 . …。 No. 30f 。シュトラウスーネグバウア所蔵 52

4. 写楽

57 黒雲母。浪人の態十 ( 坂田 ) 半五郎。 No. 30k0 シュトラウスーネグバウア所蔵 58 60 黒雲母。浪人の大谷鬼次またはスパイのクダ ヤ ? ( ヴィニエ : 定九郎役 ) 。 30f を参照。 No. 300 。 Th. べーレンス (Behrens) 所蔵 59 黒雲母。浪人の尾上松助。 N 。 .30n 。 シュトラウスーネグバウア所蔵

5. 写楽

70 方鉛鉱色の雲母。花魁の佐野川市松と市川富 右衛門。 N 。 .31b 。王立工芸博物館、ベルリン 69 黒雲母。カ弥の花嫁、小浪の瀬川 菊之丞。 No. 30xo 東京で所蔵 郎。 No. 31e 。デレンベルグ所蔵 ゾウ ( 中村万世の誤 ) と瀬川富三 方鉛鉱色の雲母。女方の中村マン

6. 写楽

65 66 軽蔵 お所 魁で 花京 兵 z 与郎 ・◆・影 を , ◆◆◆′ 黒雲母。女方の中山富三郎。 クルト所蔵 No. 30vo 67 黒雲母。芸者 ? の佐野川市松。 No. 30wo 東京で所蔵

7. 写楽

は人気があったから、場合によってはすでに品切れになっていたかもしれない。他方、裕福 な座元にとっては、彼の舞台に登場する役者のための宣伝は重要だったが、また彼自身のポ ートレートの発行も重要だったに違いない。なぜなら、彼はそのためにこの芸術家のモデル にならなければならなかったからである、と。 それから間もなくして刊行される二番目のシリーズが、黒雲母摺のこの大首のことを指し ズを恐らくすでに大芝居である浪人劇の舞台稽 ていることに疑いはない。写楽はこのシリー 古のときに制作していたことであろう。 写楽の名を聞くと、例の黒雲母摺大首絵のシリーズをすぐに心に思い浮かべる人もいるで 7 ー、ー間 ) 。これらは一般にこの巨匠の特技、彼の頂点と見な あろう ( 図版番号 4 されている。確かに、文献は大体において彼についてはこの作品しか知らないようで、それ 一七九四年の黒雲母摺大首絵 141

8. 写楽

の お立 っ 2 黄 45 黄つぶし。女方の中山粂太郎。 N 。 .28C 。 シュトラウスーネグバウア所蔵 黒雲母。由良之助の坂東彦三郎。 以前、レックス所蔵 No. 30b0 47 黒雲母。嵐龍蔵。 N 。 .30a 。 シュトラウスーネグバウア所蔵

9. 写楽

押し当てると、銀色に輝き、そして透明に見える雲母粉を浮世絵に使うようになったのは、 異論があるものの、比較的最近になってからである。この雲母は稚拙な浮世絵版画の上にあ る場合、しばしば傷ついた箇所を隠すために、あとから雲母がかぶせられた。春信の版画の 紙は、優雅な絹の光沢を引き立てるために、ときおり雲母の粉末の中に置かれていたにもか かわらず、春信も湖龍斎もこの技法を知らなかった。これが生まれた年は恐らく一七七六年 せいろうびじんあわせすがたかがみ であろう。この年に春章と重政の合作になる華やかな『青楼美人合姿鏡』 ( 「青楼」の美 しい女たちが集まっている場所の姿見 ) が刊行され、その最高級の版の「秋」の版 東洲斎写楽 一七九〇年の雲母摺絵の発明 127

10. 写楽

画では、例のきらきら輝く塊で覆われた氷の板が取り出される様が描かれている。雲母粉は、 もともとこうした小部分に使用してしまうぐらいか適していたと同時に、この場合は魅力た つぶりに塗布されてもいた。それから数年を経ずして、歌麿は『潮干のっと』で彩色面にも 雲母を敷いて、それによって貝殻の透明性を見違えるほどすばらしくするというやり方で、 この技巧を見事に完成した。このとき彼は一種の虹のように光る粉も使用したが、これによ り海岸の真珠の小さい殻の輝きがきわめて見事に再現された。彼の『画本虫撰』はこの様式 を冉び取り入れ、他の巨匠たちも彼に同調を見せたものの、誰も小さい面積を越えなかった。 一七九〇年、写楽は史料が伝える通り、背景全体に雲母の粉末を摺り込むことを発見し、 それ以降これらの絵は雲母絵〔訳注クルトは Kirara ・ e (Kira ・ e) という言葉を紹介している。本訳 書では以下雲母摺絵または雲母摺を用いる〕と呼ばれた。同じ時期に彼は自分の絵師としての名 前である写楽の前に、彼のかっての名前であった東洲斎を付けた。これら両方の出来事は、 我々か知る通り密接に関連しているか、そう一言うと最初は奇妙に聞こえるかもしれない。 の雲母は無色の紙の地を、版画を光に対して斜めに置いて初めて気づくぐらいに薄く、透き 通るように覆った。写楽はいかにしてこの雲母摺に思い至ることができたのか ? 我々西洋 人だったらその回答を簡単に述べてしまうであろう。つまり、それはまさに央適に見え、魅 惑的に反射し、それ以外の面の色調を高めるからだと。しかし日本の美術を観賞する場合に は、それだけでは不十分なのである。なぜなら、見た目が美しいためだけでなく、徹頭徹尾 128