神州は盤石不滅なりーーその言葉とは裏腹 に「万死もとより帰するが如く七生報国の 念願を深くして」「傷病者は後送せざるを ( 本旨とす」「戦友の看護・付添はこれを認 めず」「戦闘中の部隊の後退は之を許さず。 「徒手の将兵は第一線戦死者または敵の 器を執り」など、読む者を震撼させる内容 ( が綴られた、昭和二〇年発行の本土決戦了 ニュアル『国土決戦教令』。これを読みや チく復刻。あわせて、本土決戦準備の実情 小わかる記事を収録した、本土決戦につい そ知りたい方必携の書 ,
本土の守りかた 日本陸軍式 ー復刻・昭和一一〇年「国土決戦教令」ー ( 付録帝国陸軍第四十軍による 本土決戦準備の実情、戦後の教訓 ) 大本営陸軍部発布 版元ひとり刊
国土決戦教令目次 第一章要旨 第二章将兵の覚悟及び戦闘守則 第三章作戦準備 第一節要則 第二節教育訓練 第三節築城 第四章決勝会戦 第一節要則 第二節沿岸防御戦闘 第三節機動 第四節攻撃戦闘 第五章持久方面の作戦 第六章情報勤務 第七章交通、通信 第八章兵站 国土決戦教令目次終 彡※本書は、昭和二〇年四月二十日に大本営陸軍部が発行した彡 ー『国土決戦教令』を、旧字体の新字変更、最小限の句読点追 / 2 日、ひらがな書きの変更等を施し、読みやすく整理したも要 ーのです。なお、原典は防衛省防衛研究所戦史研究センター所ー / 蔵のものであり、本書制作者が許諾を得て収録しております 2
・本資料について これまで、私ども「版元ひとり」では、堀栄三陸軍少佐が中心となって作成した『敵軍戦 法早わかり』の復刻をきっかけとして、帝国陸軍の「上陸防御」に関する資料を復刻してま いりました。 『敵軍戦法早わかり』は、 3 分冊で発行され、のちに合本となりました。続く『島嶼守備 部隊戦闘教令 ( 案 ) の説明』は、『島の守りかた』という別題をつけ、まず「抄本」を復刻。 つづいて、完全版を制作いたしました。また、完全版制作にあたり、『島嶼守備部隊—』 のあとに出された指示である『島嶼守備要領』も収録。帝国陸軍の島嶼守備についての考え 方がわかる資料としてご愛読いただいております。 『島嶼守備要領』につづいては、本書にも名前が出てきております、本来昭和十九年十月 発行の『上陸防御教令 ( 案 ) 』があり、さらには『橋頭陣地ノ攻撃』 ( は昭和二十年五月発 行、本書より一ヶ月あとです ) 等もあるのですが、今回は本土決戦をテーマとして、それに 最もふさわしいと思われる資料『国土決戦教令』を復刻いたしました。 一部には「沖縄戦の悲惨さ」を説明する資料としても使われているらしいのですが、実の ところ、沖縄戦が始まったのは本書発行より前であり、本書の存在が影響したとは考えにく いのです。あくまで「本土決戦用に作られた資料」という前提で、お読みいただければ幸い です。なお、次。ヘージ以降は、以前刊行いたしました同人誌から、本土決戦にまつわる内容 を再録しましたので、あわせてお読みくださいませ。
本土決戦。 読者の皆さんは、この言葉にどんなイメージをお持ちだろうか。多くの方にとっては、大東亜戦争 ( 太 平洋戦争 ) 末期に計画をされたものの、実際には行われなかった戦いである、という程度の認識だろう。 一方で、仮想戦記好きな方にはおなじみのテーマといえるかもしれない。現代日本における仮想戦記の 草分けともいえる檜山義昭氏の『日本本土決戦』 ( 光文社 ) などはまさにそのひとつ。かく言う私自身、 この檜山版本土決戦を夢中になって読み、またその脳裏に残るようなリアルな表現のためか、読んだ後は 怖くて夜眠れなくなったことを覚えている ( 同じ名字の「臼井軍曹」なるキャラクターが登場したことも また怖くなった原因だったような ) 。 前置きが長くなったが、本土決戦である。 戦後生まれ ( どころかこの本を読む方には平成生まれもいるのだろう ) にとって、本土決戦とは歴史上 のできごとでもなく、ただ仮想戦記やマニア向けの書籍で見られるだけのことがらになっているのだ、と いうことだけはおわかりいただけるだろう。 実のところ、ちょっとしたミリタリー・歴史趣味者である私にとっても、本土決戦はせいぜい本で読む にあたって興味深いテーマ、というだけでしかなかったのだが、あることをきっかけに「さらに突っ込ん で調べたくなる」テーマへと変わったのだ。 本書は、その一端をまとめたものである。 ※本書の資料引用・転載部分では異字が用いられているなど、旧字の運用に伴い読みにくい点があります。 例 ) 着↓著 ( 到着↓到著 ) 、逐↓遂 ( 逐次↓遂次 ) 等。あらかじめご了承ください。
その最後に、第五章として「教訓其ノ他」という項目があることが気にかかった。 戦争は終わった。惨敗だった。おそらく数十年単位で日本は立ち直れないだろう : : : そう言われていた 終戦直後に遺された「教訓」。本土決戦に備えていた軍人たちは、現代の私たちにも通じるような教訓を 残してくれているというのだろうか。そしてそれはいったいどんな内容なのか。 実は、私の祖父の著書にも、未来への教訓や戦訓めいた内容が散見された。 終戦直後にまとめられた資料とは違い、祖父の本は昭和六十三年、戦後四十年以上経ってからの作であ る。そこにも「将来戦になったとしたら・ : 」という内容が盛り込まれていたのだ。 もしかすると、先の大戦を生き抜いた軍人たちは、私たちにもっと伝えたかったことがあるのではない か。その「遺言」であり「戦訓」を、現代の私たちも真剣に受け止めなくてはいけないのではないか 私はそう思い、第四十軍が遺した教訓を、そのまま出版することにしたのである。それが、ここから先 収録する内容だ。『第四十軍作戦行動の概要』と祖父の本である『わが八十年史ーー生きて、戦って、 働いてーーー』を引用・掲載しつつ本土決戦準備に臨んだ第四十軍と、我が祖父の足跡、そして彼らの遺し た教訓を見ていくことにしたい。 まずは祖父の本から「第六章第四十軍高級副官」の部を引用する。 昭和一一十年一月十一日、国軍最終の ( ※注・何をもって最終となしているのかは不明。例えば五 十七軍のほうが編成は後である ) 第四十軍なる新設部隊を編成して、米軍の予想上陸地点たる台湾 の南部防衛の任にあたらしめたのである。 軍司令官は当時予科士官学校長の中澤三夫中将、参謀長は安達大佐、参謀ーー こま戸梶、長宗両少佐
( 付録 ) 帝国陸軍第四十軍による 本土決戦準備の実情、 一三ロ 戦後の教川 同人誌『本土決戦準備—鹿児島 1945S 』 臼井総理著より再録
・臼井総理 ( うすい・そうり ) 本業はライター・編集者、よろず企画者。偉そうな名前だが、もち ろんべンネーム。 インタビューを得意とし、主に PC ・ IT 関係雑誌・書籍、広告媒体等 の仕事を行うが、 2014 年からは自衛隊オフィシャルマガジン『 MAMOR 』 ライターとしても活躍中。第一線部隊の取材よりも市ヶ谷でのインタ ビューが多いが、最近はあの「硫黄島」にも取材で足を運んだ。 近年はタルタルソース、麻婆豆腐の素、魚肉ソーセージ、ツナ缶と 「食」分野の同人誌ばかり作っているが、 ミリタリーも少年時代から 長年親しんでいる分野のひとつ。プラウザゲーム「艦これ」もリリー ス初期から遊んでいる ( が、最近は停滞気味 ) 。その他鉄道 ( 寝台列 車好き ) 、車、モータースポーツ、モバイルテパイス、 PC など趣味 多彩。家庭では一児の父。 ※本書後半で再録した原稿は、平成 25 年 12 月、に発行した『本土決戦準備 鹿児島 1 9 4 5 ~ 』の内容を基にしております。 印刷・サンライズ 発行・版元ひとり 著者・臼井総理 本土の守りかた ~ 復刻・昭和 20 年「国土決戦教令」 ~ 〒 160 ー 0018 東京都新宿区須賀町 3 ー 18 ー 301 臼井方「版元ひとり」係 初版第 2 刷発行・平成 29 年 8 月 12 日 初版発行・平成 28 年 12 月 29 日 臼井総理プログ 版元ひとり公式サイト http://souri.hatenablog.jp/ http://hanmotol.net/ 48
第一章要旨 第一国土作戦の目的は来寇する敵に決戦を強要して絶対必勝し皇国の悠久を確 保するに在り 之が為、国土作戦軍は有形無形の最大戦力を傾倒し、猛烈果敢なる攻勢により敵 上陸軍を殲滅すべし 第一一国土に於ける決勝作戦の成否は、皇国の興廃に関す。仰いで国体の無窮を 念 ( おも ) い俯して建軍の本義に稽 ( かんが ) え挙軍一心匪躬 ( ひきゅう・我が身 をかえりみることなく主君、国家のため忠節を尽くすことの意 ) の節を致して一死 君国に報い絶倫の努力を傾倒して作戦目的の必成を期すべし 第三およそ戦捷は之を確信して最後の瞬時まで敢闘するものに帰す。宜しく全 軍相信倚 ( しんい ) し至難に処していよいよ鉄石の団結を堅持し、上は大命を拝し 下は国民に魁け仇敵を大海に排擠 ( はいせい・押しのけること ) し、以て戦捷を獲 得する為、最後の一人まで敢闘すべし 第四神州は盤石不滅なり。皇軍は自存自衛の正義に戦う。即ち将兵は皇軍の絶 対必勝を確信し渾身の努力を傾倒して無窮の皇国を護持すべし 必勝の信念は作戦準備の完整、就中周到適切なる訓練、築城、後方兵站の整備等 に依り培養せらる。各級指揮官は身を以て之が完整に努力すべし
みたい。 ( 以下『戦史叢書・本土決戦準備《 2 》九州の防衛』 357 ページ「十第四十軍の統帥発動と薩摩半島 方面作戦準備」より ) 陸軍中央部は、九州に決戦が生起した場合の統帥機構についての研究を進めていた。そしてその 場合広大な南九州全域を担任している第五十七軍のほかに、その作戦地域を分割して薩摩半島方面 を担任する一軍司令部が必要であり、また別に、機動的に重点運用ができる一軍司令部 ( 機動軍司 令部 ) を編成し、これを直轄として控置する必要があるとの結論に達した。 しかし、人的関係上軍司令部を新編成することは、きわめて困難な状況にあったので、薩摩半島 方面には台湾から第四十軍司令部 ( 軍司令官中澤三夫中将 ) を転用することになった ( 後略 ) 。 前述の内容を改めて戦史叢書で確認してみると、以下の通りである。 第四十軍司令部は昭和一一十年一月八日、軍令陸甲第五号により臨時編成。一月二十五日、台北で編成完 結、第十方面軍司令官の隷下に入ったが、先に引用した通りの事情で、五月中旬には九州に転用されるこ ととなった。 以降、第四十軍は第十六方面軍の戦闘序列に編入され、南九州のうち薩摩半島を防備する役割を受け持 っことになったのである。 さて、この第四十軍の任務は具体的に何だったのだろうか。参考として、第十六方面軍司令官が六月十 一一日に発した命令をみてみよう ( 睦西作戦甲第百六十一一号※ ) 。なお、後述するが第四十軍司令部は当初 鹿児島県宮之城に位置していた。 ※注 : 「睦」は第十六方面軍の通称号