とす 故に兵站部隊に対する対米必勝の基礎戦技に関する訓練の課目、程度は第一線兵 団と異なるところなし 第七十兵站作戦の準備の主要なる事項左の如し 一、沿岸防御に任ずる兵団の作戦 ( 戦闘 ) 計画に即応する集積及び配置 一「方面軍 ( 軍 ) 兵站の基礎展開、集積、防空、対爆施設 三、輸送機関の配置準備 四、第一線への補給水深の要領及び之に伴う諸施設 国土決戦教令終
「第四十軍とは何か」 歴史好きのミリタリーマニアとはいえ、日本陸軍の編成にはあまり詳しくない私の、その時に抱いたちょっ とした疑問が、本書を書くに至る出発点となる。 そういえば今思い出したが、祖父の葬儀には士官学校当時の教え子が集まっていた。出棺の折には、老 齢の教え子たちがその時だけは背筋をピンと伸ばし、敬礼で祖父を見送った、その光景には目頭が熱くなっ たものだ。 ■第四十軍とは ここで、本書のタイトルにもある日本陸軍「第四十軍」について簡単に述べておこう。 昭和一一十年。もはや誰の目にも敗色濃厚と見えた日本、そして帝国陸海軍。絶対国防圏のサイバンを失 4 陥し、レイテ決戦に敗れ、フィリピンの状況は絶望的だった。 次は沖繩か、台湾かーー。本土、及び周辺地域の防備を急ピッチで固める中編成されたのが「第四十軍」 である。 昭和一一十年一月八日、第四十軍編成。台湾南部防衛に備え、台湾の嘉義に司令部を置き、第一〇方面軍 隷下となる。ところが、三月下旬には沖縄方面への攻撃が始まり、四月一日、沖縄本島に米軍が上陸。台 湾はスルーされる形になったのだ。 かくして第四十軍は本土決戦に備えるため、司令部を鹿児島県に移し、南九州防備の任につくことになっ た。最終的には司令部を鹿児島県の伊集院に置き、同地で終戦を迎えている。 ではここで、日本の戦史研究には欠かせない「戦史叢書」より、第四十軍に関わる部分を少し引用して
吹上浜防衛のために第四十軍の指揮下に入っていた。 なおこれとは別に上位集団である第十六方面軍直轄の第七七師団が四十軍の指揮下に入っていたが、三 〇三師団の編成、現地到着とともに任務を交替。四十軍の指揮からはずれ、移動して後日に備えることに なった ( 交替は一一十年七月一三日 ) 。 また「七〇七師団戦車団」がよくわからない。 第四十軍の指揮下にあった戦車部隊は、元海上機動第三旅団戦車隊から改称した「独立戦車第十三中隊」 くらい ( 軽戦車・九 ) 。「第四十軍作戦行動の概要」によれば、その後八月一日になって、戦車第六旅団 を指揮下にいれた、となっている ( ただし、部隊に欠けがあったようだ ) 。 さらに、祖父が言う大隅半島の「第十六軍」は間違いである。おそらく上位部隊である「第十六方面軍 . の十六が頭に残っていたのであろうが、正確には第五十七軍がお隣大隅半島の防御を担当していた。 ■四十軍の決戦準備 さて、ではその新生第四十軍の本土決戦準備はどうだったのだろうか。再び祖父の言葉を引用する。 然るに当時米軍の爆撃が激化し、兵力の集結が遅れ、わずかに予定の三分の一の輸送済み兵力で、 而も武器弾薬の輸送も著しく遅れる状況を呈した。特に川内川鉄橋の爆撃により著しく輸送力の低 下を招来したのである。之が為、集結はしたが丸腰の兵が現れるに至ったのである。又処によって は、草鞋履の竹槍部隊まで現れる始末である。終戦末期に於ける我が航空兵力の弱体化と、物資の 欠乏は益々之に拍車を掛けるに至った。
( 前略 ) 三第四十軍司令官ハ別紙ノ部隊ヲ併セ指揮シ薩摩半島方面ノ作戦準備ヲ速急完整シ該方面ニ来攻 スル敵ヲ撃滅スへシ ( 中略 ) 特ニ吹上浜及薩摩半島南岸地区ノ戦備ヲ速急強化スルト共ニ敵ノ鹿児島湾侵入企図ニ対シ指宿地 区ヲ確保シ海軍及第五十七軍 ( 注 : 同じ第十六方面軍隷下で大隅半島の防備を担当した ) ト協同シ 同湾ロノ閉塞ヲ強化スへシ ( 後略 ) ※太字筆者 ↓吹上浜 これでおわかりの通り、第四十軍は薩摩半島の 守備を担当することになっていた。特に、米軍が 上陸地点としうる九十九里浜及び薩摩半島南岸を 固めろ、と命令されているわけだ。 吹上浜は上記地図でも分かるとおり、かなり開 けた大きな海岸だ。鹿児島県民 ( 薩摩の住民 ) に とってはお馴染みの海水浴スポットである。 ちなみに筆者も子どもの頃たまに連れて行かれ た場所だ。次のページに、吹上浜の写真を何点か 収録してある。 ( 地図 1 ) 吹上浜の位置
その最後に、第五章として「教訓其ノ他」という項目があることが気にかかった。 戦争は終わった。惨敗だった。おそらく数十年単位で日本は立ち直れないだろう : : : そう言われていた 終戦直後に遺された「教訓」。本土決戦に備えていた軍人たちは、現代の私たちにも通じるような教訓を 残してくれているというのだろうか。そしてそれはいったいどんな内容なのか。 実は、私の祖父の著書にも、未来への教訓や戦訓めいた内容が散見された。 終戦直後にまとめられた資料とは違い、祖父の本は昭和六十三年、戦後四十年以上経ってからの作であ る。そこにも「将来戦になったとしたら・ : 」という内容が盛り込まれていたのだ。 もしかすると、先の大戦を生き抜いた軍人たちは、私たちにもっと伝えたかったことがあるのではない か。その「遺言」であり「戦訓」を、現代の私たちも真剣に受け止めなくてはいけないのではないか 私はそう思い、第四十軍が遺した教訓を、そのまま出版することにしたのである。それが、ここから先 収録する内容だ。『第四十軍作戦行動の概要』と祖父の本である『わが八十年史ーー生きて、戦って、 働いてーーー』を引用・掲載しつつ本土決戦準備に臨んだ第四十軍と、我が祖父の足跡、そして彼らの遺し た教訓を見ていくことにしたい。 まずは祖父の本から「第六章第四十軍高級副官」の部を引用する。 昭和一一十年一月十一日、国軍最終の ( ※注・何をもって最終となしているのかは不明。例えば五 十七軍のほうが編成は後である ) 第四十軍なる新設部隊を編成して、米軍の予想上陸地点たる台湾 の南部防衛の任にあたらしめたのである。 軍司令官は当時予科士官学校長の中澤三夫中将、参謀長は安達大佐、参謀ーー こま戸梶、長宗両少佐
等がいた。軍は五個師団約十万人である。司令部の所在地は台湾中部の嘉義であった。私は昭和一一 十年一月十一一日、当日朝出発にあたり、私は戦況上愈々之が最後となるやも図られずと思ったので、 予てより愛用の短刀を持ち出し長男 ( ※注・筆者の伯父 ) を座敷に座らせ、短刀を前に置き、之が 最後となるやも図られないから、之を形見としてお前に与える旨を申し渡して、小田急線で出発し た次第である。 ( 後略 ) この時点での第四十軍は、台湾の防衛にあたるために編成されたことがわかる。以降本の内容を追って みると、一月十八日に台北着、米軍の上陸を予想して準備をしたものの、台湾を避けて沖縄に上陸。その ため四十軍司令部の中枢部のみ再び反転し、鹿児島県宮之城へと司令部を置いた、となっている ( ※注・ 祖父の本には本土反転の日取りについては未記載 ) 。ただ、その後「後方に退がりすぎるため」再び伊集 院に司令部を移した、とある。祖父によれば、その鹿児島における編成は以下の通りだという。 かくして新編成部隊として北より三〇三師団、一一〇六師団、一五四師団、独立混成旅団、七〇七師団 戦車団、砲兵団、其他地区特警隊等、兵力約十万を以て新第四十軍を編成し、薩摩半島防衛に任ぜし めたのである。又、大隅半島防衛の為には第十六軍を編成し之にあたらしめたのである。 さすがに戦後四十年も経っと、記憶も曖昧になっているようでいくつかの疑問点もある。 私の調べた第四十軍戦闘序列によれば、同軍の隷下にあるのは、第一四六師団、第三〇三師団、独立混 成第一二五旅団ほか、砲兵はじめ軍直轄部隊がいくつかあった。 祖父の言う「独立混成旅団」は独立混成一一一五旅団なのは間違いないが、一五四師団はお隣の大网半島 ー宮崎を受け持つ、第五十七軍所属の部隊。一一〇六師団は元々上位集団である「第十六面軍」の直轄部隊。
続いて、祖父の著書から先ほどの続きを抜き出してみよう。あまり詳細には語られていないが、一気に 終戦へと向かっていく。 さて之より先、座間 ( ※現在の神奈川県座間市 ) に残せし家族を如何にするやの件については、 私の第四十軍 ( 陽部隊 ) 転任と同時に前任者の一切の連絡世話は社絶し、家族への配慮も全然皆無 となったのである。我軍としては、此辺の考慮が全然欠けていることは洵に遺憾の極みであり、招 来のため、この辺の規定の大綱を定めておく必要を強調する次第である。 ( ※ 1 ) ※ 1 : 本書のテーマでもあるが、先人たちは先の敗戦にあたり、多数の純軍事的な、またそうで はない部分も含めた教訓をたくさん残してくれている。私たちがそれを活かさない法はないと思 う筆者である。ちなみにこの部分も昭和六十三年、戦争などはるか過去のものになってから書か れた文であることを考慮されたい。 さて前述の我家族に対しては、戦況上死は何処に居ても同じなるが故に、死ぬならば故郷の鹿児 島で死ねと命じ、予め準備せし宮之城に住まわせる目的で帰鹿を命じた。折しも軍医の家族を同伴 し、途中何回も空襲を受けながら、八月十三日 ( 終戦前日 ) ( ※誤記 ? ) に伊集院に到着した。私 は其日の午後、車に乗せて宮之城へ準備せし家へ運び、帰隊した次第である。 翻って、戦況は愈々最悪の状況を呈するに至り、ついに八月十五日終戦の詔勅が降り、戦は終わっ たのである。私は此の御詔勅の放送を、伊集院の小学校の防空壕内に於いて聞いていたのである。 我々の身柄は如何になるや、私等は最悪を予想して、家族に対する遺言書を書いたのである。此の 遺言書は大事に格納した。米軍による武装解除の準備のため、一切の武器弾薬軍装品を呈出し、完
又、弾薬糧食の格納倉庫を鹿児島の伊敷や伊集院の丘陵地帯に構築したのである。就中 ( ※なか んずく ) 司令部は伊集院の一丘陵を之に充当し縦横に洞窟を掘り、洞窟の長さだけでも三百米位に 達したと思われる。それ迄は伊集院小学校の校舎を利用していたが、絶えず米軍機の急降下銃爆撃 を受けるに至ったのである。此時問題となったのは、住民の避難を如何にするやの件であったが、 なにぶんにも地域が狭い関係で如何とも致し難く、恐らくは、戦闘が起これば無残の状態を呈した ものと思われるのである。 読むだけで悲惨さが分かる状況。「こんな様子でどうやって戦えるんだ ? 」という怒りにも似た感情が 表れているように思えるのは私だけだろうか。「草鞋 ( わらじ ) 履きの竹槍部隊」・ : 。これでシャー マン戦車とやりあえると思ったのだろうか。 そうした「人はいても武器がない」状態は他の資料からも容易にうかがえる。ここでは、何度も取り上 げている「第四十軍作戦行動の概要」からいくつか抜き出してみる。 八月十五日 ( 終戦 ) 時点での軍隊編成を示した部分には、こういう言葉が出てくる。一四六師団の項に は「本師団は機動力なし」「編成の半部を欠く」「装備未完」との注記。一一〇六師団の砲兵部隊には「迫 撃砲の大部未受領」「山砲一一十四門」「迫撃砲三十六門 ( 十三門未受領 ) 」などとある。三〇三師団につ いては「本師団装備未完又機動力なし」。 その他にも「兵器半数未受領」「部隊未着」「主要兵器未着」 : : : そんなコメントが満載なのだ。なに をか言わんや、である。 祖父の当時の苦労も忍ばれる。副官というのは、ある意味では究極の雑用係であり、司令官の身の回り のことはもちろん、あるときは司令官に成り代わってさまざまな仕事をこなさねばならないのだ。 4
みたい。 ( 以下『戦史叢書・本土決戦準備《 2 》九州の防衛』 357 ページ「十第四十軍の統帥発動と薩摩半島 方面作戦準備」より ) 陸軍中央部は、九州に決戦が生起した場合の統帥機構についての研究を進めていた。そしてその 場合広大な南九州全域を担任している第五十七軍のほかに、その作戦地域を分割して薩摩半島方面 を担任する一軍司令部が必要であり、また別に、機動的に重点運用ができる一軍司令部 ( 機動軍司 令部 ) を編成し、これを直轄として控置する必要があるとの結論に達した。 しかし、人的関係上軍司令部を新編成することは、きわめて困難な状況にあったので、薩摩半島 方面には台湾から第四十軍司令部 ( 軍司令官中澤三夫中将 ) を転用することになった ( 後略 ) 。 前述の内容を改めて戦史叢書で確認してみると、以下の通りである。 第四十軍司令部は昭和一一十年一月八日、軍令陸甲第五号により臨時編成。一月二十五日、台北で編成完 結、第十方面軍司令官の隷下に入ったが、先に引用した通りの事情で、五月中旬には九州に転用されるこ ととなった。 以降、第四十軍は第十六方面軍の戦闘序列に編入され、南九州のうち薩摩半島を防備する役割を受け持 っことになったのである。 さて、この第四十軍の任務は具体的に何だったのだろうか。参考として、第十六方面軍司令官が六月十 一一日に発した命令をみてみよう ( 睦西作戦甲第百六十一一号※ ) 。なお、後述するが第四十軍司令部は当初 鹿児島県宮之城に位置していた。 ※注 : 「睦」は第十六方面軍の通称号
に関する資料や名簿をあさった。が、実のところどれにも正しく「臼井一雄」と記されているのである。 つまり、これは戦史叢書編纂作業における「誤植」ということなのだろう。 そういえば戦史叢書の改訂と電子化が進められるとか進められないとかいう話を聞いたことがある。私 もわずかな祖父孝行として、名前の訂正を願い出ておこうと思う。 ちなみに軍司令官の中澤中将と筆者である私には、ほんのわずかだが因縁めいたものがある。中澤三夫 氏は山梨県の生まれ。幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業。その後陸軍大学校も出ている ( 三十一一期 ) 。 氏はさらにその後、一九一一一一年四月から陸軍委託学生として東京外国語学校でドイツ語を学んだのだとい う。東京外国語学校は後の新制・東京外国語大学、私が数年籍を置いた ( 卒業はしていない ) 学校なので ある。 わずかな糸だが、こんなところに縁があったかと思うと不思議なものである。 なお、中澤中将は昭和五十五年、八十九歳で亡くなっている。 ■第四十軍は何をして、何の教訓を残したのか こうして第四十軍の資料をいくつも見ていく中で、面白いものを発見した。それは、終戦後に第四十軍 の作戦行動についてまとめた資料で、恐らく中澤司令官もそのとりまとめに関わっているというものであ る。 「南九州に於ける第四十軍作戦行動の概要」 というのがその資料の名前で、第四十軍が南九州に転身した後の行動について事細かにまとめてあるのだ。