仏教 - みる会図書館


検索対象: 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利
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1. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

まったのだ。 こうてい そして大通元年 ( 五二七 ) 、彼は捨身を行う。この捨身というのは、皇帝が寺に行き、そこで大 かど 会をし、捨身をして三宝の家奴になることをいうのである。つまり皇帝という尊い身をなげ捨てて じど 寺奴になってしまうことを意味する。もちろんそのままにしておくことはできないので、文武百官 ごと こうてい こうていそくい は、大金をもって皇帝を買いもどしに行き、再び皇帝は即位の礼の如きものを行ったというのであ る。武帝が捨身を行ったのは、大通元年 ( 五二七 ) 、中大通元年 ( 五二九 ) 、中大同元年 ( 五四六 ) 、 たいしゃ 太清元年 ( 五四七 ) の四回で、そのたびごとに年号を変え、大赦を行っている。 ぶてい ねはんぎよう ねはんぎよう じようらくがじよう 武帝のもっともよく読んだ仏典は涅槃経であるが、この涅槃経はふつう常楽我浄の名でよばれる こうてい 教義をもち、無常の人生の中にある永遠な仏性を肯定するとともに、その仏性があらゆるものに宿 じひ じひしそう るゆえ、慈悲を万物にそそぐべきであるとする考えが強い。大乗仏教の慈悲思想、平等思想がもっ じんじ ともよく現れている経典の一つである。武帝のもって生まれた仁慈の性格が、このような仏教の教 義に共鳴し、このような教義の仏教がまた武帝をしていささか異常な宗教的行動にかりたてたとい ってよかろう。 りよう ねつきようてき こういう熱狂的な仏教信者の皇帝が中国に現れたのである。しかも梁と対立していた北朝の強大 にくぎ にろ りよう さいぎぶんれつ 国・北魏が五三四年に滅び、東魏と西魏に分裂して以来、梁は中国に君臨するもっとも強大な国家 こうてい となっていた。その強大な文明国の皇帝が、仏教のために尊い身を捨てたのである。世界の仏教徒 かんげき ち - ようこう した は、それを大いなる感激をもって受けとったのは当然である。中国に朝貢し、中国の文明を慕う諸 まね 国が、どうしてそれを真似せずにいられようか。 ぶてい こうてい とうぎ ぶてい ぶてい こうてい

2. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

りよう い成果として北魏 ( 三八六ー五三四 ) の巨大な仏寺建造、梁 ( 五〇二ー五五七 ) の深遠な仏教教学 研究があげられる。 らくよう らくようがらんき 洛陽伽藍記を見ると、北魏によって洛陽に建てられた当時の仏寺はたいへんすばらしいものであ がらんくぎ ったことがわかるが、しかしこの伽藍は北魏の滅亡によって灰燼に帰し、今は盛大の様を、大同の りゅうもん うんこうらくよう 雲崗、洛陽の龍門の石仏によってわずかにしのぶことができるのみである。 こうけいしゃ しかしこのような巨大な寺院や仏像をつくる仏教も、漢人の文化の正統の後継者をもって任ずる こじんきょえい みかど 南朝の帝から見れば、笑うべき胡人の虚栄であったかもしれない。 こうりゅう しんずい 経典の研究が中国の文化の真髄であるとすれば、仏教の興隆も、寺院の建造より理論の追究、経 典の研究においてこそ図られねばならぬ。 りよう 梁はまさにこのような仏教文化の花が満開になった時代である。 たんじよううかい りようぶてい の 染の武帝ーー仏教国の誕生と崩壊 る りよう しようえん そうたお せいたいそこうていしようどうせいえんじゃ 味梁の国の創設者・蕭衍は、前代のこれまた宋を倒して国をつくった斉の太祖皇帝・蕭道成の縁者で きようりようおうしようしりよう かれ せいぶてい 窈あったが、彼は武将であるとともに、文学を好み、斉の武帝の第二子、竟陵王蕭子良の文学サ しんやくにんう きようりようはちゅう 伝ロンに出人りし、一級の文人、沈約や任昉などと親しくつき合い、竟陵の八友の一人とされたので 仏ある。 めいていそくい おちい 章 ところが、斉の武帝が死ぬと、次に明帝が即位したが、政治は不安定になり国は混乱に陥った。 りよう じようきよう しようえん せいろ 第 かかる状況において、人望は蕭衍に集まり、ついに兵をあげて斉を滅ぼし、梁を興した。 くぎ せいぶてい きょだい にくぎ きょだい めつう かいじん せいだい

3. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

しやり こころねがひまま みづうか しやり くたやぶ またしやり みづなげい 壊れぬ。而れども舎利をば摧き毀らず。又、舎利を水に投る。舎利、心の所願の随に、水に浮 しづ び沈む。 きせき きせき このような奇蹟は、すでに東アジアの各地に起こり、史書は、その奇蹟を報告している。今、極 東の日本にそれが起こっても何の不思議はない。 おこなひ しめだちと とけのみのりたもちう うまこのすくねまた うまこのすくね いけへのひた 馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等、仏法を深信けて、修行すること懈らず。馬子宿、亦、 おこ ほとけのみのりはじめこれ いしかはい、 とけのおはとのつく 石川の宅にして、仏殿を修治る。仏法の初、茲より作れり。 すうぶつ たしかに崇仏派は、ここでもやはり少数派である。しかし馬子は、それが歴史の必然の方向であ おさ すうはい ることをはっきり信じていたにちがいない。仏教崇拝は、抑えようたって抑えきれるものではな こどく かれせんくしゃ嶽こ い。彼は先駆者の誇り高い孤独を十二分に味わっていたにちがいない。 おこ ほとけのみのりはじめこれ 「仏法の初、茲より作れり」と日本書紀は語る。まさに仏教移人以来、三十三年目、ここに確実 に仏教は、日本に根づきはじめたのである。 はるきさらぎっちのえねついたちみづのえとらのひ そがのおおみうまこのすくねたふおほののをかきたた 十四年 ( 五八五 ) の春二月の戊子の朔壬寅に、蘇我大臣馬子宿、塔を大野丘の北に起 さきえ しやり だい をがみ すなはだちと たふはしらかみをさ てて、大会の設斎す。即ち達等が前に獲たる舎利を以て、塔の柱頭に蔵む。 とう とうしやか の 部 たしかにいちおう寺は完成した。しかしまだ何かがたりない。塔である。塔は釈迦の骨を収める 物 とところである。そしてそれは、まさに寺院を寺院たらしめるものである。すでに舎利が発見されて レ」う とう 飾いるとしたらなぜ塔を建てないのか。塔はそれまでの日本にはない高い建物である。この何よりも とう あた あか おそ 章 新しい仏教文化の証しである塔が、いかなる恐れを当時の人に与えたか、これは蘇我氏の排仏派に 3 第 たいする堂々たる宣戦布告であるような気がする。 しか おさ おこた はいぶつ

4. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

みまかものくに またかさい まつりごとっとをさ みまな みことのりたがそむ 勅に違ひ背くべからず。任那の政を勤め修むべし」とのたまふ。又瘡発でて死る者、国 ごと う くだ みや かさやものい に充盈てり。其の瘡を患む者言はく、「身、焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」といひて、啼 つみ これほとけのみかたや みまかおいたるわかきひそかあひかた 泣ちつつ死る。老も少も窃に相語りて曰はく、「是、仏像焼きまつる罪か」といふ。 とう あま ぶつぞん だんあっ たしかに弾圧は前と同じであった。しかし今度は馬子は仏殿をつくり、塔をつくり、尼を置き、 だんあっ たまわ きせき 仏を厚く祭り、仏もまたその奇蹟を二回にわたって現し賜ったこの仏教の弾圧に、仏が報復しない だんあっしゃびだっていもののべのもりやてんわんとう はずはない。ついに仏教の弾圧者、敏達帝と物部守屋が天然痘にかかった。そしてそれによって、 みまな ぜんてい 前帝からの日本の悲願であった任那回復もならなかったという。 たた これを見て世論は変わったのであろうか。この病気は古来からの日本の神々の祟りではなくて、 たた だんあっ 弾圧された新しい神、仏神の祟りではないか。世論というのはまことに頼りないものである。一つ の現象の解釈がまったくちがってしまう。こういう世論の操作に馬子は、はなはだ長けていたのか もしれない。 さむうちから いまいた やっかれやまひおも まう うまこのすくねまう なつみなづき 争 夏六月に、馬子宿禰、奏して曰さく、「臣の疾病りて、今に至るまでに愈えず。三宝の力を いましひと のたま うまこのすくねみことのり かた すくをさ かうぶ 教 蒙らずは、救ひ治むべきこと難し」とまうす。是に、馬子宿禰に詔して曰はく、「汝独り かへさづ うまこのすくね すなはみたりあまも あたしひとや にとけのみのりおこな 部仏法を行ふべし。余人を断めよ」とのたまふ。乃ち三の尼を以て、馬子宿に還し付く。 むかい あらたみてらっく みたりあまをが よろこ めづらしきことなげ うまこのすくね 馬子宿、受けて歓悦ぶ。未曾有と嘆きて、三の尼を頂社む。新に精舎を営りて、迎 ( 人れて 我 いたはりやしな 蘇 供養ふ。 章 先に馬子の病気が仏の加護によって治ったとあるが、まだ治らなかったのであろうか。あるいは四 しんこう いなめ 第 馬子は病気を口実して、父・稲目のような私的仏教信仰の許可を求めたのであろうか。おそらく病 たよ い た

5. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

こ・つく . り・ しらぎ ていこうかん くだら れているが、新羅には高句麗や百済とちがって、外来の宗教にたいして強い抵抗感があり、法興王 の時まで仏教は公認の宗教にならなかったのである。 いしとんしゅんきよう 三国史記および三国遺事は、この仏教公認に当たっての異次頓の殉教とでもいうべき死について そう 語っている。法興王は仏教を興そうとしたが、群臣の多くは反対した。その反対の理由は、僧の姿 が童頭、異服で、その議論が奇詭で常道ではないということであった。ところがそれにたいして異 しとん ひじゃうひと しかのちひしゃう 次頓は群臣のいうことを非として次のようにいった。「非常の人ありて、然る後、非常の事あり。 しん いまき とけをしへえんあう おそ すう 今聞く、仏の教、淵奥なり、恐らく信ぜざるべからず」と。王は群臣に命じて、ただ一人、仏教崇 ごと いしとんき はい 拝を主張する異次頓を斬らしめたが、斬ったところから流れ出た血は乳の如く白かったので、それ 以後、誰も仏教をそしる人はなかったというのである。 しらぎ ちょうてい すうはい この仏教崇拝の是非に関する新羅の議論を、日本のそれと比べてみるとおもしろい。日本の朝廷 しらぎ えでは、海外の文明をどうするかということが専ら議論の中心であるが、新羅のほうは議論が一歩進 いしとん のんで、仏教という宗教の思想的本質にふれているように思われる。異次頓は今の時代を一種の非常 興の時とみていたのであろう。非常の時には非常の人が必要なのだ。非常の人には非常の教えが必要 しようきよう ちが いしとん ちが 国なのだ。おそらくこのような時代状况の認識の違いが、異次頓と他の群臣たちの違いであろうか。 」ししらぎ むか 一新羅はまさに一つの非常な時代を迎えようとしていたのである。 そくい しんこう 仏法興王の政策を受けて、五四〇年に即位した真興王は、仏教の振興につとめた。三国史記によれ しゅんこう ぎおんじ こうりゅうじしゅんこう 一一ば、真興王は五四四年に興輪寺を竣工し、五六六年に祇園寺と実際寺を建立し、また皇龍寺を竣工 こうりゅうじじようろく きんときん 第 し、五七四年には皇龍寺の丈六の仏像を完成した。銅の重さ三万五千七斤、鍍金の重さ一万百九十 だれ き い 155

6. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

ならぬというありさまとなっていた。 じよう がんごうじ とうろばんめい せいおうせいめいおう よろずのみのりのうちとけのみのりもっともじよう っ 元興寺の塔露盤銘に、聖王 ( 聖明王 ) は「万法中、仏法最上なり」と告げ、また丈 しゅぎよう ろくぶつこうはいめい せいおう とけのみのりすぞせけんむじようみのりすめらみこと 六仏の光背銘に、聖王が「いわゆる仏法は既に世間無上の法、天皇もまたまさに修行すべ うら じゅよう ぶつきようこうゼん ちゅうごくなんちょうぶんか くだらぶんか し」とのべたとあるが、仏教公伝のその裏には、中国南朝の文化を受容した百済文化にたいす りよう せいじてきぐんじてき わこくしはいしゃ る倭国支配者のあこがれ、それを利用しての政治的軍事的かけひきもひそんでいたと考えられ うえだまさあきしようとくたいし る ( 上田正昭「聖徳太子」 ) 。 これは期せずして私と同じ見解であるが、東アジア史から日本古代史を見ようとする多年にわた る氏の学問の方向としても、当然の帰結でもあろう。 日本の国論をニ分した仏教伝来 あんもく もちろんこのような大きな外交的事件には、これに先だってすでに送り手と受け手の間に、暗黙 え りようかい きんめいてんのう のの諒解があったことが考えられる。送り手は聖明王、受け手は欽明天皇であるが、とくに聖明王と あんもく りようかい きんめい 国いなめ 興稲目の間に暗黙の諒解があったのではないかと思う。なぜなら欽明十一二年 ( 五五二 ) という時代に A 」 はたきぬがさ ちょうていくだらちょうてい 国おいて、このような仏像や幡蓋や経典などを、日本の朝廷が百済の朝廷から受けとることにたいし 一て、日本の国内において異論があったからである。 仏聖明王が贈った物は、疑いもなく最新の南朝文化の香りの高い文化財なのである。かっての贈り ふなん 章 物は、たとえば五経博士や扶南の財物のように、それを受けとって悪いはずがない。しかしここに 第 問題があるのである。仏像その他は一つの文化財である。しかしそれは単なる文化財につきるもの かお かんが おく

7. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

あま あま かんたか 甲高い声が聞こえてくる。ここで尼になることが一つの新しいファッションとなる。その新しく尼 おおとものさぞひこむすめぜんとくおおとものこま となった女の中には大伴狭手彦の娘の善徳や大伴狛の夫人のように名家の女性も含まれている。ま こうりゅう ぜんしんに たすな しめだちと た司馬達等の子の多須奈、善信尼の兄弟も僧になる。まさに仏教興隆の時が来たのである。 すしゅん 崇峻四年は法興元年 すうはい たしかに仏教崇拝の機運は熟し、君臣一体になって新しい寺院の建築に努力はしているが、なに しこう ぶん日本でははじめてのことである。何をとりあえず始めてよいかよくわからない。あちこち試行 じようきよう さくご 錯誤を重ねつつ、一歩一歩進んでゆくという状況なのである。 かりがきかりそうぼう すしゅん そして法興寺に関して、崇峻一二年ごろまでは仮垣、仮僧房程度で、本建築にいたっていないこと ていたい すしゅん がんごうじえんぎ は、日本書紀、元興寺縁起で明らかなのである。この停湖していた法興寺建立が、崇峻四年 ( 五九 きゅうげき 一 ) を境に急激に進行するように思われる た こ だいふこうじ ぶつだうらう つき すしゅん の ( 崇峻五年十月 ) 是の月に、大法興寺の仏堂と歩廊とを起っ。 寺 かいろう ほろう すしゅん 法日本書紀は崇峻五年十月に仏堂と歩廊、おそらく金堂と回廊が建てられたというのである。そし とう ふく つくをは ほふこうじ 亡て推古四年 ( 五九六 ) 十一月に「法興寺、造り竟りぬ」とある。これは塔や講堂を含めて法興寺の じようろく 窈建造が完成したということであろう。法興寺はこのようにして建てられたが、本尊の丈六の仏像が 物つくられたのは、推古十四年 ( 六〇六 ) のことである。 じようろく 章 日本書紀では、丈六の仏像を法興寺の金堂に坐せしめたのが、推古十四年四月八日、そしてその四 四 しようまんぎよう 第 . 完成を記念して、そこで太子が勝鬘経を講じたのが、その年の七月のことであるとする。とすれば そう

8. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

ではないのである。この文化財の背後に宗教があり、しかも宗教は国家のあり方にかかわるもので ある。仏像その他を移入することは、仏教という新しい宗教を受け人れることになる。そしてこの 新しい宗教は、海外においても、たちどころに国中に弘まり、古い宗教を断絶しかねない勢いであ る。とすれば仏教の移人は国家の運命にかかわる問題なのである。 かんき きんめいてんのう この仏像は、よほどすばらしいものであったにちがいない。欽明天皇はそれを見て、歓喜、踊躍 ほとけかにきらぎら もはいまかつあら にしのとなりのくにたてまっ して「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曾て有ず」といわれたと日本書紀にある。欽 かお めいてんのう 明天皇は、この仏像の背後にある先進文明の香りに圧せられたのであろう。しかしいやしくも仏教 移人は一国の運命を決める大事であり、臣下の意見を聞く必要がある。 にしのとなりのくに おおおみそがのいなめ 群臣の意見は二つにわれた。一つは大臣蘇我稲目を中心とする開明派の意見である。「西蕃 やよい くにぐにもはらみなゐやま とよあきづやまとあにひとそむ の諸国、一に皆礼ふ。豊秋日本、豈独り背かむや」。これはおそらく弥生時代から現代にいたる、 多くの日本人の典型的な意見である。外国に文化の国がある。そしてその外国で価値とされている ものは、必ず価値がある。それをとり人れて何が悪い。むしろそれをとり人れるのが日本の義務で いなめ あるとする考え方である。このような二千年間にわたる日本人の考え方を稲目はそこで代表したの である。 そこで稲目が仏教の理論について一言もふれていないのはおもしろい。この仏教というものがど じようきよう のような理論をもち、それが当時の日本の状況の中で、どのような意味をもっているかという考察 さんかん はまったくない。ただそれが外国文明の産物であり、中国や三韓で流行しているならば、どうして かれ それをとり人れずにおかれようかというのが彼の意見である。この意見にたいして反対を表明した いなめ ひろ ようやく きん 108

9. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

むかし 守ってくれるであろう。これを見ると、日本は昔から精神主義の国であることがわかる。全力をあ げて戦え、そしたら必ず神の加護があるだろうというのは、つい先ごろわれわれが聞いた言葉であ る。 てんのう てんのう この天皇の返書を見て聖明王はどう思ったであろう。わが危急の声は、少しも日本の天皇にとど のんき いていないのだ。何という呑気さ、何という己の国の運命に関する無関心さ、聖明王はこの返書 かれ きゅうえんぐんようせい どんかん に、彼が前に日本に送った少なからずオー ーな救援軍の要請のことも忘れて、日本の外交的鈍感 さに腹をたてたにちがいない。 どうしたらよかろうか ようせいきんめいてんのう この要請は欽明天皇十三年五月のことであり、そしてその十月に仏教の伝来があったのである。 もうここにきて、仏教伝来の政治的意味は誰の眼にも明らかであろう。それはけっして、単なる くだら の文化的事件ではない。それは百済の危機に直面した聖明王の一つの賭けなのである。かって父・武 みまな 、もねいおう る寧王は、一人の五経博士によって、任那の四つの土地を日本から手に人れた。今、海外の新しい文 みぞう 味 化、仏教でもって聖明王は日本の軍隊を求め、末曾有の自国の国難を救おうとするのである。 意 きんめい しらぎとうばっ の先に引用した欽明六年の日本書紀の記事を見てほしい。新羅討伐の軍を起こすために、現地で百 らりよう めずら みまな あた てんのう 伝済は梁から輸人した珍しい財を日本府の役人や任那の王に与えるとともに、仏像をつくって天皇が くだらみまな 仏徳を得ることと百済と任那の安全を祈っているのである。七年後同じようなことを、日本内地でし 章 ようとしたのであろう。 くだら りよう 第 おそらく百済の使者がもって来た釈迦仏というものも梁から手に人れたばかりの、とりわけ美し しやかぶつ いの ノ だれめ くだ

10. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

すうけい しまうのだ。馬子は仏教崇拝にふみきろうとするのである。幸いにして二体の仏像を得た。その仏 像を本尊として寺を建てよう。そして寺には僧が必要なのだ。 そう くだら きんめい 欽明十三年、仏像とともに百済から僧が日本に来朝し、五経博士などとともに、一定の期間日本 そう こうたい にいて交替することになっていたが、それも聖明王の死以後、絶えていたのであろう。僧は多く帰 だんあっ そう きんめい かのえとら ってしまっていたのであろうが、たまたま日本に残った僧も、庚寅の年、欽明一二十一年の仏教弾圧 こ - つくり・ えべん げんぞく そう げんぞく にあって還俗し、姿をくらましていたのであろう。こうした還俗した僧の一人、高句麗の恵便を馬 りよう 子は探しだして師とし、三人の女性を出家せしめたのである。日本の最初の出家者が梁の人といわ しめたちと むすめしま れる司馬達等の娘・嶋、法名を善信という少女であった。年が十一というから、馬子と父の命に従 ったのであろう。そしてその善信に弟子二人、いずれも帰化人系の家の少女である。この時、馬子 はどうして男子ではなくて、女子を出家せしめたのか。理由はよくわからないが、法をやぶって仏 すうはい 教崇拝を行うのである。まだしも男性より女性を出家させたほうが問題が少ないと考えたのであろ そうあま これで仏像があり、僧や尼がいるとしたら寺をつくらねばならない。 をが たい みたりあまいま ほとけのおほとのいへひむがしかたっ みろくいしのみかたま 仏殿を宅の東の方に経営りて、弥勒の石像を安置せまつる。三の尼を屈請せ、大会の設 み 斎す。 しんこう きせき しんこう これで信仰の形はできたが、その心が必要だ。信仰には奇蹟が必要だ。 も うまこのすく とき うまこのすくねたてまっ いもひうへえ すなはしやり だちと ほとけしやり 此の時に、達等、仏の舎利を斎食の上に得たり。即ち舎利を以て、馬子宿に献る。馬子宿 そ あてっち ことごとくくだ くろがねっちふる ねこころみしやり くろがねあてうちお 彌、試に舎利を以て、鉄の質の中に置きて、鉄の鎚を振ひて打つ。其の質と鎚と、悉に摧け こ そう う 212