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検索対象: 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利
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1. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

けいたいてんのうみよ だんように って日本に伝えられた。また継体天皇の御世には五経博士・段楊爾がやって来た。以後のことをい こうく - り・ えじ こうく。り・ えば、推古三年には高句麗から慧慈がやって来て、推古十三年には高句麗から黄金三百両がもたら された。われわれは、こういう一連の事実を非人称か受身形で語り、あたかもそういうものが自然 ごと に日本にもたらされたかの如く語る。しかしそれらは、自然に日本にやって来るというようなもの じゅきよう そう ではない。ほうっておいて儒教や仏教が、五経博士や僧が、まして黄金三百両がやって来るわけで わた はない。当時すぐれた学者が海を渡って日本に来るのは、けっして容易なことではなかった。海路 の大きな苦難が予想される。そういう苦難をおしきって、それらの人やものが日本に伝来されたの しようこ は、送り手と受け手の意志がはたらいている証拠である。そしてこれは、個人の意志ではなく、国 と国との意志である。 くだら せいほうきしだちそちぬりしちけいっか この日本書紀の記事には、百済の聖明王が西部姫氏達率怒喇斯致契を遣わして、釈迦仏などを賜 きんめいき くだらんき の ったとある。おそらくこれは、欽明紀の他の記事と同じように、百済本記によったのであろう。西 、もにうきし ぬりしちけい る 部姫氏と書かれているのは、怒喇斯致契がちゃんとした氏の出であることを示し、その位は達率と くだら だちそちはけん 味いう百済で第二番目の高い位であることを示す。使者としての達率の派遣は、異例なことであり、 のこの仏教伝来という事件が大きな政治的意味をもっていることを示している。 くだら 伝いったいこの仏教伝来の政治的意味とは何であろう。百済は何のためにこの時日本に、かくも重 仏大な政治的意味をも 0 ている仏教伝来を行 0 たのであろうか。これを理解するには、過去の文化移 こうり . よ ちょうせん じようきよう 章 人の実例を考慮するとともに、当時の朝鮮半島の政治的状況を省察しなければならぬ。 ちょうせん ぶてい らくろうぐんたいほうぐん 第 漢の時代の朝鮮半島の中央には、武帝によ 0 て建てられた漢の植民地、楽浪郡、帯方郡があった しやかぶつ

2. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

とも またみまな きこしめ こころあはちからもはら かくごと 聞しぬ。亦任那と共に、心を拜せ力を一にすべし。猶尚し茲の若くせば、必ず上天の擁き護 いきひかうぶまたかしこすめらみことみたまのふゅよ る福を蒙り、亦可畏き天皇の霊に頼らむ」とのたまふ。 これはいかにも日本的な返答なのである。軍隊を出すとも、出さないともいわないのである。お くだらみまな 前さんたちのいい分はよくわかった。百済が任那とともに心を合わせ力を合わせたら、必ず神の助 てんのうれい けと天皇の霊の助けがあるにちがいないという。 くだらみまな ようせい これはいったいどういう意味であろう。百済や任那諸国が要請しているのは、日本国の武力的援 じよ くだらみまな 助である。もとより百済と任那が心を合わせ、力を合わせても、この国難はとてものりきれるもので はない。しかるに二国が心を合わせ力を合わせたら、神の加護があるであろうという。これでは返 かしこすめらみことみたまのふゅ 事にならない。しかしここで「可畏き天皇の霊」という言葉に深い意味があるのであろう。こ てんのうれい たま れはおそらく歴代の天皇の霊が加護をし給うであろうという意味であるが、しかし二国がほんとう てんのうれい てんのう えに力を合わせるならば、歴代の天皇の霊とともに、現在の天皇もまた力を貸そうとする意味が含ま たく のれているのかもしれない。どうにでもとれるという点で、これは巧みな外交的返答といえるが、少 くだら 興なくともこの時点において、百済にすぐに軍を送る用意も意志も、日本はもち合わせていなかった 国ように思われる。 もっと強く、もっと効果的に出兵の要求をしなければならぬ。次の出兵依頼の使節は、翌五五三 教 仏年の正月に来た。 章 一国の外交使節というものは、一国の運命にかかわる大事なものであり、したがってそれには、 第 その任務にふさわしい官位や役職をもった人が任命されるのが当然である。 しゆっぺいいらい かならあめ いだまぼ ふく えん 101

3. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

すうはい もちろん仏教は、すでに相当前から帰化人によって日本で崇拝されていたのであろう。それ以前の はつくっ っしま ものであると思われる仏像が、対馬などで多く発掘されている。 しようこ こういう証拠をあげて、仏教伝来の五五二年という年にたいした意味を認めない人があるが、そ ふく れではこの伝来に含まれている大事な政治的意味がまったく見失われるのである。 だんように くだら それはとにかく百済がこの時、段楊爾とともにいってきた要求は、いささか厚かましすぎるよう はヘのくに はけん に思われる。感謝の気持ちをこめた五経博士の派遣であるが、その上にまた伴跛国の件についても よろしく頼むという。 へんぼう たしかにこの買い物は、日本にとって高い買い物であった。しかしおそらく日本は今、変貌しょ じゅうりん やばん ちょうせん うとしているのである。かって朝鮮半島を、その強大な力でもって蹂躙した、あの野蛮なる武人の へんぼう さんかん 国から、中国や三韓なみの文化をもった国に、日本は変貌をとげようとしていたのであろう。おそ こうかん けいたいおうちょう らく継体王朝の意志はそこにあり、そういう意志で五経博士とこの四つの県という異例の交換に応 じよじよ じたのであろう。そしてこの効果は、すぐに現れるものではないが、徐々に以後の日本を変えてゆ く原動力になったことはまちがいない。そして仏教伝来も、このような文化政策の線にそったもの であった。 こうしよう この取り引きは、一見日本の損である。そしてその損な取り引きは、その交渉の当事者の賄賂の おおとも うわさ おおとものかなむらしつきやく 噂さえうんで、大伴金村は失脚し、以後の大伴氏の政治的不運の原因にもなった。しかし、もし ゆず みまな おおとものかなむら 大伴金村をしていわしむれば、どっちみち任那の支配は保ちがたい、とすればそれを譲って文化 を移人し、日本を文明国にするという政策をとったほうがはるかに有利ではなかったかと弁明する たの わいろ

4. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

むねいおう とうしゅう えいまい すべてにおいて聖明王は、父の武寧王の政治を踏襲し、英邁な知能と高い品性によって政治につ こくい せいたい かれ とめたが、国威がいっこうに盛大にならなかったのはどういうわけか。その原因として彼の仏教 ( たんぞきしてき くだら の耽溺を指摘することができるであろう。仏教によって、百済という国を改新しようとしたため くだら ごうけん にゆうじゃく くだらすいう に、百済を国難から救った剛健な宗教はおとろえ、国民が柔弱になったことが百済の衰亡の原因で はないか。とすれば聖明王は国を強くしようとする強い意志と、仏教信者であろうとする強い意志 の、本来相反する強い意志にひきさかれた悲劇的な、あまりにも悲劇的な国王ではなかったか。 えいまい りようぶてい 私は聖明王の晩年は、もち前の英邁な知性も乱れがちであったと思う。とくに梁の武帝の死を聞 かれ むう しらぎしん いた時から、彼は急に理性を失ってしまったのではないかと思う。あの無謀としかいえない新羅長 こうさく きしゅう むじゅんた 攻策、そして軽率としかいえない夜の奇襲。は己の存在の深い矛盾に耐えかねて、無意識のうち あま ゅうわく くだら に甘いタナトスの誘惑に、わが身と百済の運命をさらそうとしていたのであろうか。 おのれおもごと つねいた 日本書紀に載せられている聖明王の最期の言葉「寡人念ふ毎に、常に痛きこと髄に人らむ。顧 いやしくい 計るに荷も活くべからず」という一一一〕葉も、編者が史記の言葉を、そのままとったために意味がわか しさく りにくいが、もし何らかの意味がそこにあるならば、「私は人生について思索する度に、いつも痛 こつずい みが骨髄に人るような苦しみをもった。むしろ早く死んだほうがましだ」ということなのであろう か。聖明王の中には、とくに晩年の聖明王の中には、何か深いニヒリズムのようなものが存在して かれ いたように思われる。彼にとって生というものは、耐えがたい何物かであったのではないか。 あわ めつぼうしんえんしず かくてこの哀れな王は、ほとんど自国をたちあがれないほどの滅亡の深淵に沈めて死んだ。それ にもかかわらず、その国民が王を聖王と名づけたのは、王の中によほど国民の心をひきつける何物 の 138

5. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

に田 5 う。 こうくり・ この高句麗の使がいっ帰ったかは、日本書紀に書かれていない。おそらく高句麗の使は、腹をた てていたであろう。しかし腹をたてるよりバカバカしいと思 0 ていたにちがいない。とても文化の やばん 程度がちがうのである。極東のこの国はまだ野蛮な風習を脱却していない国である。この国と正規 の外交関係を結ぼうとしたことがまちがいなのである。 こうくり・ かんげい 高句麗の使は、この国では、ま 0 たく歓迎されない客であった。はじめの使が歓迎されたのは、 めずら たい ( ん珍しいからだけの理由である。正式な外交を結ぼうとする意志もなければ、その用意もな こうくり・ い。おそらく失望というより、何か阿呆らしい気持ちで高句麗の使は国 ( 帰 0 た。そしてその時以 来、高句麗は長い間正式の使節を日本に出さなかった。 たんじよう 太子誕生のころの国際情勢とあやふやな太子伝説 びだっ もしも聖徳太子が敏達三年 ( 五七四 ) の生まれであるとすれば、この太子出生の時に起こ 0 た事件 しようちょう は、太子の一生を考えるに当たって、はなはだ象徴的な事件であった。 こうく「り . はけん たしかにこの三回にわたる高句麗の使節の派遣は失敗であった。しかしそれはそれで意味があっ たと思う。このような経験があ 0 たからであろう。太子の活躍するころになると高句麗の使が盛ん に日本にやって来る。この失敗はやがて歴史の中で実を結ぶのである。それは高句麗ばかりではな しゅうたい い。日本政府も国際的に外交的な無知と醜態をさらしたが、それもまた稀代の外交の天才が出現す る前夜の出来事としては意味をもつのである。

6. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

しらぎせいばつみことのり は思われないのである。とすればいったいこの新羅征伐の詔の真の意味は何か。 しらぎせいばっ この新羅征伐の挙が、少しも外交的理由ではなく、まったく内政的理由で行われたと考える人が芻 すしゅんてい ある。つまりそれは、次に起こった馬子の崇峻帝暗殺の計画のためであるというのである。主だっ すしゅんてい た武将たちを九州にやっておいて、その留守に崇峻帝を暗殺してしまおうという馬子の意志によっ て行われたという人がある。 私は、その可能性はまったくないわけでもないが、そういうことはありにくいと思う。あったと えんせい しても、この国をあげての遠征は、それだけの理由ではないと思う。 たしかに将軍たちを九州に すしゅんてい やれば、崇峻帝は容易に暗殺できるかもしれない。しかし九州にいる二万の軍隊は、馬子にとって きようい すしゅんてい あら こうい だんがい てんのう も脅威のはずである。崇峻帝の暗殺を臣下に非ざる行為として弾劾し、どこかで天皇の血を引く皇 きようい 子をたてて、一挙に攻めよったら、大きな脅威であるはずだ。大軍の留守をねらって暗殺計画を くわだ じようじゅ めんどう 企てることは、事が成就したとしても、後がかえって面倒ではないか。 すしゅん 馬子が崇峻を殺したのは、将軍たちが留守で、計画が実行しやすいと馬子が考えたこともあろう が、それは原因と結果を逆にしているのではないかと私は思う。馬子はたまたま車隊が外に出てい すしゅん とど たので、その機会を利用して、崇峻を殺したという程度に止まるのではないか。 ゆず はけん 一歩譲って、馬子の九州 ( の大軍の派遣の動機の一つを、そのような暗殺計画と考えてもよい。 しかし私は思う。すぐれた政治家の打つ手は、必ず多面的である。一つの手には多くの意味をもた せてあり、そしてそれは局面の変化に応じて、自由自在に変わってくる。それゆえ敵は容易にこの かれやくろうちゅう ような手が読めない。そして敵は、後手にまわって、いつの間にか彼の薬籠中のものとなる。

7. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

であり、政治的意味をもっか、あるいは政治的意味づけによ 0 て行われる。それは社会主義国家が むかし 成立してからのことではあるまい。中国はずっと昔から、このような政治偏重の国であった。わず しん へんちょう かに魏、晋から北朝にかけての時代 ( 三ー六世紀 ) は、そういう政治偏重の思想にたいする否定の 動きが出現した時代であるが、それとても中国人の政治優位の考え方を変えるまでにいたっていな 中国がそういう考え方であるならば、東アジア世界全体がそういう考え方であったと見なければ ならない。日本は島国で、こういう国々と比べると、政治的には無知で、非政治的考え方も通用す じようきよう じゅんすい る状況にある。日本においては、純粋に文化の移人という考えもありうるかもしれないが、文化を 輸出する外国のほうでは、それがはたして何の政治的意味ももたない行為であったかどうか。とす カくカ れば、従来、単に仏教伝来とか、慧慈が来たとか、覚哿が来たとか、黄金三百両をもって来たとか いわれる事実が何を意味するか、深い省察が必要であろう。 じせき て め 以上のように私は、聖徳太子の事績を東アジア全体の関係において見ることと同時に、政治や経 を済や文化を一体として考察すること、こういう二つの視点をとり人れることにより、今まで明らか 実にならなかった聖徳太子の姿が、ある程度明らかになると思う。 子この二つは、一つは地域的な総合観、一つは分野的な総合観の上にたつものであるが、いずれも てつがくてき 総合という点において、はなはだ哲学的な見方といわねばならないであろう。 聖 章

8. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

第一章仏教伝来の意味するもの

9. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

中国文化の香りをたたえているものであったほうが、日本においていっそう喜ばれることになった と田 5 - っ 0 りよう すうはい 私は仏教伝来を五三八年におくことは、聖明王の仏教崇拝の経過および梁仏教の移人の具合から みても早すぎると思う。それにもっと決定的なことは、このような論者たちが、仏教を政治と離し て考え、この仏教伝来を一つの文化的事件とのみ考えていることである。後に述べるように仏教伝 来は、けっして単なる文化的事件ではなく、同時に政治的事件でもあるのである。 政治的事件としての仏教伝来 くだら だちそちぬりしちけいは 百済の聖明王が、この仏教伝来をいかに重んじていたかは、大臣クラスの達率の怒喇斯致契を派 けん きんめい 遣したことによってもわかる。そして、この事件の政治的意味は、欽明十一二年 ( 五五二 ) 十月とい う時期におかないと、よく理解されないのである。この時期におかないと、三国史記や日本書紀に 書かれる、あの危急の時における、この歴史的事件の意味が、まるで理解できなくなると思う。 歴史は全体として理解されなくてはならない。仏教伝来をこの時におき、その政治的意味を考え ないと、後にでてくる国内および国外のさまざまな事件、聖徳太子に関する事件も、まったくとい ぶんけん っちのえうま うほど理解できないと思う。仏教伝来をただ文献的考証によって、戊午の年におくのは、木を見 っちのえうま いなめ て山を見ない歴史観である。戊午の年は何か蘇我氏にとって決定的な年、たとえば稲目が蘇我氏 すうはい としてはじめて大臣になった年か、あるいは蘇我氏がはじめて仏像を祟拝した年を示すのではない かと思われる。 かお おおおみ はな

10. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

かわちべのあしひた くだらかんり かれやと のが来ているが、河内部阿斯比多は正式な百済の官吏ではあるまい。彼は雇われた外交係、ある ごと くだら いは通訳の如きものであろうか。こういう使節では十分百済の意見を日本に伝えることができな きゅうてい しなのししゅ い。日本人であり、日本の事情にも精通し、日本の宮廷にも知人の多い科野次酒なるものに、一挙 とくそち あた くだら しなのししゅ に徳率の位を与え、この重要な外交使節の長にしたのであろう。後に百済の使がこの科野次酒のこ うちのおみ てんのう しなのししゅ とを有至臣といっている。これは天皇に信任のあつい臣という意味であろう。もし科野次酒が文字 うちのおみ どおり「有至臣」であるとすれば、そういう人間を何とうまく聖明王は利用していることであろ 0 はけん 今度はもうほうっておくわけにはゆくまい。だからといって軍隊を派遣する意志はない。それで ちょうていくだら うちのおみ やむなく日本の朝廷は百済に使を出すのである。この使の名もやはり内臣とのみあり、ほんとうの くだら くだらにんぎ 名がわからない。それは、この日本書紀の百済関係の記事は百済本記をもとにしたからであり、百 らんぎ くだらじん え済本記では百済人の名は正確に記名したが、日本人の名については、はっきり記名しなかったらし のいからであろう。 ちょうてい うちのおみ ひきもろきふねにせき 興日本の朝廷はこの内臣に良馬二匹、同船一一隻、弓五十張、箭五十具をもたせて次のように伝えた 国という。 亡 まうところいくさ こきしもち まま 「請す所の軍は、王の須ゐむ随ならむ」 教 はけん くだらおう 仏派遣する軍隊は、百済王の意志のままに使えというのであるが、いつ、どれほどの軍隊を送るか 章は明言していないのである。そればかりか、この日本の内臣は次のようにいったという。 くすしのはかせやくのはかせこよみのはかせらつがひょ まう・てまか いまかみのくだりしなひと 第 まさあひかは としつき 「医博士・易博士・暦博士等、番に依りて上き下れ。今上件の色の人は、正に相代らむ年月 115