てんねんとう き」とある。この天然痘の流行は、保守派に絶好の排仏の口実を与えた。仏教を移人したから国神 - も・つ てんのう はいぶつは えきびよう おこ が怒って疫病をはやらせたのである。この新しい神をたたきだせ。排仏派は天皇に奏す。 かならまさ いまと やみしにいた いむさきやっかれはかりこともち 「昔日臣が計を須ゐたまはずして、斯の病死を致す。今遠からずして復らば、必ず当に ねむごろのちさいはひもと よろこびあ はやなす 慶有るべし。早く投げ棄てて、懃に後の福を求めたまへ」 えんぎ えんぎ こうぎ てんのう この抗議にたいする天皇の態度も、日本書紀と縁起とでは少しちがっている。縁起では、ひそか しんこう いなめ いなめ に稲目に改宗をすすめたが、稲目は表面では他臣に従うとも、内面では信仰を捨てないと答えたの もののべ てんのう で、天皇もまた稲目の態度をよしとされたとある。日本書紀では、天皇は物部氏の抗議を受け人れ だんあっ なにわ たので、役人は仏像を難波の人江に流し、寺に火をつけたという。つまり書紀では第一回仏教弾圧 いなめ えんぎ きんめい きんめい を欽明十一二年の少し後のこととしているが、縁起では欽明三十一年 ( 五七〇 ) の稲目の死後におい ている。 だんあっ これはいったいどちらが正しいのか。第一回仏教弾圧は仏教伝来後まもなくであったか、それと はいぶついなめ えんぎ きんめい いなめ も稲目の死んだ欽明一二十一年以後であったか。私は縁起の語るようにこの第一回の排仏を稲目の死 後において考えたほうがよいと思う。 おおおみそがのいなめ きんめいちょう 欽明朝では、大臣蘇我稲目は、実力第一人者である。いくら仏教について意見が異なっているに かれ すうはい せよ、その第一人者が生きている間は、彼がもっとも崇拝してい・る仏像を難波の人江に捨てるわけ だん くだら にはゆかなであろう。またそれは百済の聖明王にたいしてもたいへん失礼なことになる。この弾 きん むかし あっ 圧が起こったのは、やはり権力者の死後まもなく、聖明王もとっくの昔に死んでいたと思われる欽 だん めい 明三十一年以後と考えたほうが自然である。また書紀の記事は「後に」とあるのみで、この仏教弾 いなめ いりえ こ はいぶつ あた なにわ かへ いりえ こうぎ 112
いなめ と調和することを信じているのである。新しい神を古い神とともに祭る、それが稲目の宗教につい ての考え方である。その後も蘇我氏はだいたいそのような宗教政策の立場にたつ。蘇我氏の宗教政 すうはい 策を、古い神々の崇拝の否定と考えることはできない。 いなめ くだらめつぼう すうはい もしも稲目のいうように、百済の滅亡の原因は、聖明王が仏教を崇拝したことにあるのではな すうはい くだらめつぼう 、むしろ古い神の崇拝を忘れたことにあるとすれば、別に百済の滅亡によって、自己の宗教的立 いなめ かれ 場を再検討しなくともよいことになる。それが稲目の自己防衛策であり、彼はそういう論理を、こ ゅうえっかん の敗戦にうちしおれている王子に、ある種の優越感をもって語ったのであろう。 いなめ たしかにそれによって稲目は、自己の宗教的信念のきびしい検討をまぬがれた。しかしそれによ って問題は解決されたわけではない。 にろ ニ人の王を減ぼした仏教 え の仏教は国家にとってはたして有益か否か。仏教はその精神や本質において、何か国家の成立を危 興うくさせるような、危険な何物かを秘めているのではないか。 かれ すうけい 国聖明王が死んだのは五五四年のことである。彼がおそらく誰よりも崇敬したであろうと思われる りようぶてい りよう 一梁の武帝が死んでからちょうど五年後である。そしてこの時、もう梁はほとんど国家の実質を失っ にろ 仏ていたが、それから三年後、五五七年に滅んで陳が興った。 わっれつ 章 歴代の中国の王の中で、もっとも熱烈な仏教信者であり、その徳において非難さるべき点のない 3 にろ 第 この武帝は、悲劇の中に死に、そしてその国家は滅んだ。 ぶてい ちん だれ
くだら するどしてき たことを、百済滅亡の原因として指摘しているのではないかと思う。それは鋭い指摘である。百済 すうはい の宗教政策がまちがっていたのである。なぜ古い建国の神、国家を守る神の崇拝がおとろえたの すうはい むちゅう か、それは仏教が流行したためである。聖明王が仏教に夢中になり、古い建国の神の崇拝をおろそ かにしたからである。 ここで蘇我稲目は、仏教という名も聖明王という名もだしていない。聖明王という名をださない のは、不幸な死をとげた、この哀れな王をあからさまに非難することを避けたためであろうが、古 すうはい い建国の神を祭らなかったのは、明らかに聖明王の仏教崇拝のせいである。 くだらめつう もしも蘇我稲目に代わって物部尾輿をしていわしめるならば、百済滅亡の原因は、聖明王の仏教 くだらほろ なんじゃく にたいする耽溺の結果であり、この仏教という軟弱な外来宗教によって百済は滅び、王は死んだの だと口をきわめて仏教をののしるにちがいない。 しかし稲目はそういう見解をとるわけにはいかない。彼はすでに仏教のほうに賭けているのであ る。政治家というものは、いったん自分の道を選んだからには、もうその道をひき返すことはでき いなめ うかい かれけんい ない。もしそうしたら、政治家としての彼の権威は崩壊するからである。稲目は仏教を非難するわ すうはい くだら けにはゆかない。それゆえ聖明王の死と百済の敗北を仏教崇拝のせいにするわけにはゆかない。そ ほろ れで彼が考えたのは、百済は仏教を信じたが故に滅んだのではない、むしろ古い建国の神を祭らな ろ かったが故に滅んだという答えである。 すうはい かれ いなめ ここにきてわれわれは、稲目の宗教的立場をはっきり知ることができる。彼は仏教を崇拝するこ とによって、古い神を祭らなくてもよいと考えているわけではない。後の新しい神、仏が、古い神 かれ 132
きんめいてい そうそふ そがのいなめ る。つまり父方、母方ともに祖父は欽明帝であり、曾祖父の一人は蘇我稲目である。 きんめいていそがのいなめ いなめ おおおみ ところでこの欽明帝と蘇我稲目とは、切っても切れない関係にある。この稲目が犬臣の位につい せんかてんのうみよ もののべ たのは、宣化天皇の御世であるが、蘇我氏が物部氏とともに、最高の権力の地位にのぼり、次代の きそ きんめいてい きんめいていいなめ そが 独裁的な権力の基礎を固めたのはこの欽明帝の時代であった。欽明帝と稲目の結びつきに、蘇我氏 はんえいきそ 繁栄の基礎があり、その固い結びつきの結果として太子の父も母も生まれ、おそらく皇族の生まれ こうごう でなかったら皇后にもなれず、したがってその子も皇太子になれないという定めによって、このと けっこん もに蘇我の血を引く母をもっ異母兄妹の結婚を成立せしめて、聖徳太子を生んだのである。しかも すうぶつは この二人は、仏教の移人と保護という点でも同志的結合で結ばれていた。崇仏派の馬子はもちろ きんめいてい ひそ ものの・ヘ はいぶつは ん、欽明帝も仏教の密かな味方であった。しかし物部氏を中心とする排仏派も多く、この宗教の戦 じよしょ しようきよう いは、徐々に氏族の戦いに転化しようとする状況であった。 すうはい てんのう の この情勢の中で、蘇我氏は自己の血を引く、仏教崇拝の心の厚い、将来の天皇をしきりに求めて いなめ るいた。聖徳太子は、その血統から見て、かかる要求を満たすものとして、稲目の強い意志によって 、す . じんいてき 味人為的につくりあげられた人間のように思われる。聖徳太子は、おそらくは意識的につくりあげた のにちがいないと思われる血の配合により、すでに一つの使命を果たすべく生まれたというより、生 かれ かれ 伝まれさせられた人間であるが、この使命が彼の一生を支配し、この使命を彼は見事に果たした。 仏 仏教伝来は五五ニ年 章 くだら イチニイチニ 第 私が子供のころ、日本史を学んだ時、仏教は百済から一二一二とやって来たと覚えた。当時の日 っ 0
ふとたましきのおうじ たにちがいない。それが無理であるとしても、やはり太珠敷皇子の皇太子就任をできるだけ遅くし びだっ ふとたましきのおうじ きんめい たほうがよい。もし敏達紀にいうように太珠敷皇子の皇太子就任が欽明二十九年であるならば、そ いなめ ていこう きんめい いなめ くだら れはやはり稲目の抵抗ゆえと考えられる。欽明二十九年は稲目の死の二年前であり、百済外交の失 いなめ いしん いしん 敗などで稲目の威信がかなりおちていた時期である。稲目の威信がおちた時期になってはじめて、 ふとたましきのおうし 太珠敷皇子は皇太子になれたのではなかろうか。 きんめいていみよ うおうていせつ 欽明帝の御世は日本書紀にしたがえば三十二年間であるが、法王帝説によれば四十一年間であ そがのいなめきんめいてい る。三十二年間、あるいは四十一年間、蘇我稲目は欽明帝とともに政治をとってきたのである。こ きゅうてい の間に蘇我氏の勢力は、宮廷深く根をおろした。 じよう、よう けいしようけん ふとたましきのおうじ かかる状況においては、その血統において問題なく、皇位継承権を主張できた太珠敷皇子といえ えんりよ ども、蘇我氏および蘇我氏の血を受けている異母弟たちに遠慮しなければならなかったであろう。 ふとたましきのおうじ がいせきえんじよ せんかてい 残念ながら太珠敷皇子には強力な外戚の援助がない。宣化帝の一族には有力な権力者はなく、また にんけんてい ふとたましきのおうじ 祖母方の仁賢帝の一族は消えなんとする灯のように残存する氏族である。太珠敷皇子にとってはそ たよ ふとたましきのおうじ の血統だけが頼りなのである。こうした中でおそらく太珠敷皇子は、蘇我氏の血を受けた異母兄弟 かれ たちに複雑な感情をもったにちがいない。たしかに私は彼らとちがって尊い血統の人間だ、天皇位 かれ につくのは当然だ。そう思っても、権力者をバックに、いささか彼をあなどりがちな蘇我の血を引 かれけいかいせんう く多くの異母兄弟を、彼は警戒と羨望の交じりあった眼でもって見たのではなかろうか。 ちょうせん じようきよう こうく - り 朝鮮半島の状況ーー高句麗のあせり いなめ てんのうい おそ 174
ではないのである。この文化財の背後に宗教があり、しかも宗教は国家のあり方にかかわるもので ある。仏像その他を移入することは、仏教という新しい宗教を受け人れることになる。そしてこの 新しい宗教は、海外においても、たちどころに国中に弘まり、古い宗教を断絶しかねない勢いであ る。とすれば仏教の移人は国家の運命にかかわる問題なのである。 かんき きんめいてんのう この仏像は、よほどすばらしいものであったにちがいない。欽明天皇はそれを見て、歓喜、踊躍 ほとけかにきらぎら もはいまかつあら にしのとなりのくにたてまっ して「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曾て有ず」といわれたと日本書紀にある。欽 かお めいてんのう 明天皇は、この仏像の背後にある先進文明の香りに圧せられたのであろう。しかしいやしくも仏教 移人は一国の運命を決める大事であり、臣下の意見を聞く必要がある。 にしのとなりのくに おおおみそがのいなめ 群臣の意見は二つにわれた。一つは大臣蘇我稲目を中心とする開明派の意見である。「西蕃 やよい くにぐにもはらみなゐやま とよあきづやまとあにひとそむ の諸国、一に皆礼ふ。豊秋日本、豈独り背かむや」。これはおそらく弥生時代から現代にいたる、 多くの日本人の典型的な意見である。外国に文化の国がある。そしてその外国で価値とされている ものは、必ず価値がある。それをとり人れて何が悪い。むしろそれをとり人れるのが日本の義務で いなめ あるとする考え方である。このような二千年間にわたる日本人の考え方を稲目はそこで代表したの である。 そこで稲目が仏教の理論について一言もふれていないのはおもしろい。この仏教というものがど じようきよう のような理論をもち、それが当時の日本の状況の中で、どのような意味をもっているかという考察 さんかん はまったくない。ただそれが外国文明の産物であり、中国や三韓で流行しているならば、どうして かれ それをとり人れずにおかれようかというのが彼の意見である。この意見にたいして反対を表明した いなめ ひろ ようやく きん 108
あんたい につける。そういう血の支配なしに、権力というものは、けっして安泰ではない。この後宮政治 ふじわら は、蘇我稲目の始めたものであるが、それもまた藤原氏によって受け継がれていくのである。 いなめ きそ 馬子は、父・稲目によってつくられたこのような二面にわたる権力の基礎を、ほぼ絶対といって よい独裁的権力に発展させた。いったいそれは何によって可能であったのであろうか。それは馬子 こうみよう きんめい のはなはだ巧妙なマキアベリズムによると私は思う。欽明十三年 ( 五五二 ) 、仏教が日本に移人さ すうぶつ はいぶつ きんめい れた時、崇仏派は、ほとんど蘇我氏一氏に限られて、排仏派がはなはだ優勢であった。欽明三十一 そがのいなめ 年、蘇我稲目が死に、馬子が父の権力を引き継いだ時も、事情はほとんど変わっていなかった。か いなめ ちょうせん ほうむ すうぶつ えって稲目の死後、排仏派は対朝鮮外交の失敗を責めて、一挙に崇仏派を葬らんとする勢いにあっ もののべ てんのう しかし仏教移人から三十五年後、用明一一年には、排仏派は物部一氏のみで、天皇はじめすべての ごう、く すうぶつ 皇子や豪族は、崇仏派・蘇我馬子に従った。三十五年にして、情勢は一変したわけであるが、それ くだら 寺は何によって可能か。もとより一つには時代のせいである。この三十五年の間に、百済ばかりか日 しらぎさか 法本の敵対国・新羅も盛んに仏教をとり人れ、新しい国づくりに熱中していた。東アジア世界は一面 亡に仏教熱におおわれていたのである。 の たしかに一つには時代のせいであるが、一つには馬子の政治力のせいである。馬子は、守屋より 部 物はるかに先の見える政治家であった。馬子はすぐれた政治家がするように、うまく敵の権力の分断 章 を謀ったのである。 第 はか そがのいなめ はいぶつ そがのうまこ そが はいぶつ 259
むすめ みめ きたしひめ 二人の娘ほど多くの皇子、皇女をもうけたものはない。このことはこの二人の妃、とくに堅塩媛に てんのうちょうあい いなめ いな たいする天皇の寵愛がとりわけ深かったことを物語るものであろうが、たとえ稲目は死んでも、稲 むすめ ちょうあい いなめ 目の二人の娘が後宮にいて寵愛をほしいままにしているとすれば、おのずから稲目批判にも限度が あろう。 おこし ほりえ おそらく尾輿たちは、寺を焼き、仏像を堀江に流して長年の憂さを晴らしたわけであろうが、そ れによって日本の外交方針を根本的に変えることができなかったし、また国際的な文化潮流として とど 止めがたい仏教の勢いをそぐこともできなかった。 きんめい ところで欽明一二十一年には、日朝関係の上で、一つの新しい事件があった。それは高句麗の使 こし こうくり・ ちょうせん きゅうてき が、越の国に着いたことである。高句麗は日本とは長い間、朝鮮半島で仇敵の関係にあった国であ つか あらし ひょうちゃく るのに、この年どうしたわけか使を遣わしたが、嵐にあってその船は越の海岸に漂着した。越の くにのみやっこみちのきみ てんのう みつぎ えぬのおみもしろ え国造道君は自らを天皇といつわって、その調をあざむき盗ったが、江渟臣裙代というものの知 ちょうてい こ・つくり・ のらせで、朝廷は使を遣わして、このはじめて日本に来た高句麗の使を手厚くもてなした。結局この びだってんのうみよ こうくれ′ 興使が都 ( 着いたのは、次の敏達天皇の御世になるが、その時点で高句麗はなぜはるばる日本に使を とっか こうくり わた 国遣わしたのであろう。高句麗から日本に来るには広い日本海を渡らねばならぬ。もとより航路はは なんば - なはだ危険であり難破の例が多い。こういう危険を冒してまで、なぜその時高句麗は日本に使を送 仏ろうとしたのか。 こ・つくり・ とうぎ こうけいこくくせいりようこうけいこくちん 章 三国史記によれば、そのころ高句麗はしきりに東魏の後継国・北斉や梁の後継国・陳に使を派遣 はけん 第 している。日本 ( の使の派遣もおそらくそのような積極的な外交方針にそったものであろうが、動 おか
はしひとこうどう うおうていせつ おどろ の 間人皇后は聖徳太子の母である。この母について、法王帝説はまことに驚くべき事を載せている。 -4 せいわうまませ のちせいわうみははあなべのはし ためのみこそみちちいけの・ヘのすめらみことようめい 聖王の庶兄・多米王、其の父・池辺天皇 ( 用明 ) 、たまひし後、聖王の母・穴太部間 ひとのみこみあ みこさにのみこ 人王に娶ひまして生みませる児、佐富女王なり。 ためのみこ ためのおうじ ようめいてい いなめむすめいしきな この多米王というのは、日本書紀には田目皇子とあり、用明帝と稲目の娘・石寸名との間にでき いなめ た皇子である。聖徳太子の異母兄に当たり、稲目の孫である。 みめ たとえ父の死後といっても、子にして、父の妃と通じるとは。もとより許されたことではあるま けっこん けっこん けっこん けっこん い。二人は正式に結婚したのか。結婚したとしても、二人の結婚は、けっして祝福されない結婚で はしひとこうごう さほのみこ あり、そしてそこに生まれた佐富女王は、冷たい目で見られたにちがいないのである。間人皇后に かげ かげ はしひとこうごう は、どこか暗い影がある。この間人皇后の存在は、わが聖徳太子に暗い影を投げている。この暗い かげ はしひとこうごう かげ ためのおうじ 影はいかにして生じたか。今まで私は間人皇后の暗い影は、田目皇子との関係において生じたと考 かげあなほ・ヘのおうじ えてきた。しかしそうでないのかもしれない。それより以前、その暗い影は穴穂部皇子との関係に おいて、すでに生じていたのではないか。 はしひとこうごう びようしよう あなべのおうじ とよくにのうし ようめいてい おそらく穴穂部皇子が豊国法師を連れて病床にある用明帝のもとへ参ったのは間人皇后の手引き かのじよ によるのであろう。彼女は今、カと頼む夫を失おうとしている。わが子・聖徳太子はまだ幼い。そ たよ けんめい れゆえいちばん力と頼ることのできるのは同母兄弟だ。とくに同母兄弟の中でもっとも賢明で、カ ちょうてい あなほべのおうじ のある穴穂部皇子である。皇子を用明死後の朝廷において有利な立場につけねばならぬ。この守屋 おこ ひょうへん はしひとこうごうはいりよ を怒らせた皇子の豹変には間人皇后の配慮があると私は思う。 あんたい はしひとこうごうはいりよ この間人皇后の配慮は姉弟の情としてはよくわかるが、この姉の配慮が皇子の安泰につながるか たの はいりよ
もと すめらみことのたま まうまま つかさすなはほとけのみかたも 求めたまへ」とまうす。天皇曰はく、「奏す依に」とのたまふ。有司、乃ち仏像を以て、 ここ なには ほりえ またひ またあまりな ながす てらっ っ あめかぜくもな 難波の堀江に流し棄つ。復火を伽藍に縦く。焼き燼きて更余無し。是に、天に風雲無くして、 たちまちおとのひのわざはひ 忽に大殿に災あり。 えきびよう てんのう あるいは日本書紀が語るように、またこの時も疫病の流行があったのかもしれない。天皇はこの てんのう 排仏派の主張を否定することができなかった。人たちは天皇の命によって寺に火をつけて焼き、 りえ なにわほりえ あの聖明王がもって来たという仏像を難波の堀江に流したという。難波の堀江に流したというのは、 あ はらい けが なかとみのはらいのりと 悪しく穢れたものはすべて川から海へ流すという、後に中臣祓の祝詞などに理論化される祓の なにわ けが 思想にもよろうが、やはり仏像は難波の港を通って海外から来たもの、その穢れたものは港でほう そがのいなめ むれという主張があったのであろう。私はこの難波というところに、蘇我稲目を中心に進められた きんめいちょう もののべのおこし 欽明朝の外交政策にたいする物部尾輿などの批判があると思う。 おこし てんねんとう きんめいちょう 尾輿などが表面的に批判しているのは、欽明朝の宗教政策である。天然痘の流行を仏教移人のせ いなめ すうはい いにして、稲目の仏教崇拝を否定しているのである。しかしおそらくその批判は、単に宗教批判に ようせい くだら きんめいちょう とどまらず、欽明朝の外交政策全体に及ぶものであろう。あの聖明王の要請による百済への出兵、 きんめい みまな めつぼう そしてそれにつぐ連合軍の大敗北。そしてその結果として生じた任那の日本府の滅亡。すべて欽明 ちょう 朝の外交は大失敗といわねばならぬ。 おこし きんめいてい 尾輿などは、実はそれを責めたかったのであろうが、それを責めるのは、欽明帝の存在そのもの きんめいていきたしひめおあねのきみ そがのいなめ むすめみめ きたしひめ を否定することになる。欽明帝は堅塩媛と小姉君という蘇我稲目の二人の娘を妃とし、堅塩媛には おあねのきみ てんのう みめ いなめ 七男六女、小姉君には四男一女があった。もちろん天皇には皇后および他の妃があったが、稲目の はいぶつ なにわ およ なにわ や 162