記事 - みる会図書館


検索対象: 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利
75件見つかりました。

1. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

対比によってはじめて可能であろう。 たしかに三国史記は、中国側の史書によってつくられた部分が多くあるが、中国側の史書は、そ ちょうせん の他にも朝鮮一二国や倭、すなわち日本についてもしばしば語っている。この中国の史書のとくに東 そうごかんけい いぞんてっていてき 夷伝を徹底的に理解し、その四国と中国との間の関係、あるいは四国の相互関係についてよく理解 とういぞん した上で、日本書紀を読み直すことが必要である。この際、東夷伝だけでは十分ではない。三国お ていき わ よび倭に関係する記事は帝紀にもあり、またそれに関係するものは列伝にもあり、また三国の仏教 こうそうゼんぞくこうそうゼん に関する記述は高僧伝や続高僧伝などにもある。それらの一つ一つの記事をていねいに読み、東ア ジア諸国の政治的文化的関係についてよく知る必要がある。 これが、私が光を外から当てるということであるが、この方法によって、まだ日本古代史におい て解かるべき問題は多いと思う。 この東アジア世界から日本の歴史を見るという史観は、戦後の日本の学界において、ようやく採 えがみなみお きばみんぞくせいふくせつ せんくてき 用されはじめようとしている。江上波夫氏の騎馬民族征服説など、その先駆的な仕事というべきも のであり、新しい視野を開いたものとして、その方法論的意味は、高く評価さるべきものであろ あとしてき きんだるす ちょうせん う。また金達寿氏による、日本に残存する朝鮮文化の跡の指摘もこのような史観の延長線上にたっ 成果であろう。 今私は聖徳太子について、この方法によって明らかにしてゆこう。十分によく明らかにすること ができるという自信はないが、とにかくそれを試みてみよう。この方法はすでに多くの人によって 思いっかれていることである。しかしそれにもかかわらず、この方法を使っての画期的な聖徳太子 わ とう ワ 1

2. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

っちのえうま せんと ゅうしん 熊津から泗泚への遷都に忙しい戊午の年、五三八年に、こういうことを行うことはありえない と思う。まだこの時は仏教熱はさほどでもなく、日本との関係もあまり密接ではないのである。ま にちょうへいりつ むか た迎えるほうの日本でも、もし二朝並立という事実があるとすれば、そういう時期は新しい宗教を おおとものかなむら むか 迎えるには、不安定な時期である。まだその時、大伴金村は権力の地位にあったはずである。とす もののべのあらかび かれ すうはい れば、どうして仏教崇拝の是非について彼の意見が求められないのか。物部麁鹿火だって生きてい もののべのおこし すうはい たはずである。どうして仏教崇拝に反対しなかったのか。しかるに反対の張本人は物部尾輿であ あらかび 、麁鹿火の名がでないのはどういうわけか。 くだらんき くだらほんき きんめいき 欽明紀の対外関係の記事は、主に百済本記によっている。仏教伝来のこの記事も、この百済本己 によるか、それとも、それを参照したものであることはまちがいなかろう。人によれば、たとえば がんごうじえんぎ 太子の死の記事について、日本書紀より元興寺縁起や法王帝説のほうが、正確であるという理由に のより、仏教伝来に関するこの記事も信用できないとするが、こういう見解はなりたたないと思う。 くだら きんめいき る この欽明紀の対百済関係の記事は、全体として大きな歴史の流れを記載している。こういう大き 味な歴史の流れの中に、この仏教伝来という事実が位しているのである。その一つの事実を単独にと ぶんけん くる の・りだして、それを前の時代におくと、すべてが狂ってしまうのである。そういう見方は、ただ文献 伝にのみとらわれて、歴史を生きた全体として考えることを忘れた見方であろう。 くだらせいきゅう くだらりようせいきゅう 仏百済が梁に請求したものを見ると、それは日本が百済に請求し、やがて日本に伝来するものばか なかっ くだら 章 りである。百済はここで一つの文化の仲継ぎ業をしているのである。もとより日本に来た仏教は、 くだらりよう 第 百済が梁からもって来た仏教そのままであったわけではなかろうが、この場合、できるだけ新しい しひ いそが ほうおうていせつ きさい 二 = ロ

3. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

くだら この記事について多少問題がある。百済は聖明王の時、国土を上、前、中、下、後に分けた。こ ぜんうとくそち くだら こで上部は東部、下部は西部、前部は南部、後部は北部をさす。それゆえ百済の人名は、前部徳率 しんもせんもん - ちゅううかんそちけいしようらい 真慕宣文とか中部杆率掠葉礼とかいうふうに、まず所属の部、次に位、次に氏名が書かれる。とこ せいほうきしだちそちぬりしちけい ろが日本書紀には、西部姫氏達率怒俐斯致契と書かれている。西部はもとより下部をいうのである くだら が、こういう書き方は、百済の後期になってからである。またここで位が氏と名の間に書かれてい くだら いまにしりゅう るが、これも異例なことである。それゆえ今西龍氏などは、この記事は日本書紀の他の百済関係の くだらんき 記事と違い、百済本記によったものではなく、日本側の史料によったものであり、必ずしも信用で きないという。 こんきょ たしかにこの点において問題が残っている。しかし日本書紀の記事はまったく根拠のないもので だちそちうんぬん あり、達率云々というのも、日本書紀編集者の製作であろうか。そうとはとても思えない。この時 じようを、よう だちそち くだら 点でこの状況において、百済の聖明王が達率を長とする使節を日本に送るのは、大きな意味をもっ とくそち だちそち からである。二つの徳率を長とした派兵の使節の間に、この達率を長とした親善使節を人れて考え はあく る時、はじめてその後の二国の外交関係の展開を正確に把握できると私は思う。 ほんこう この点について、私が本稿を書くのとほとんど同時に、上田正昭氏は聖徳太子について一冊の本 を書き、その中で仏教伝来について次のようにいう。 こ・つくり・ はん はってん ぶっぽうこうりゅうはいご くだらぶつきようせいおう 百済仏教は聖王の時期にいっそう発展する。だがその仏法興隆の背後には、高句麗への反 こうくり・ わこく えんべい ないらんじよう げきしらぎ たいりつ れい 撃、新羅との対立があった。五四八年に例をとれば、高句麗の内乱に乗じて、倭国よりの援兵 しらぎえんじよ 。もとこうくり・せ ぎやくこうくり を求め高句麗を攻めようとするが、逆に高句麗の侵攻をうけ、やむなく新羅に援助をこわねば ちが しんこう 106

4. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

くらっくりきぬずりへび かわちのくにしぶかわ ほんがんえんぎ 寺所蔵の本願縁起に、四天王寺の領地として、河内国の渋河郡の地として、弓削、鞍作、衣摺、地 くさあじろ 草、足代、御立などの地名があることから、やはりこの日本書紀の記事はまちがいのないものであ してんのうじ けんじよう もののべ 、物部氏の領土を献上して四天王寺が建てられたものであるということを主張している。 にうりゅうじ たぶん法隆寺についての上原氏の説と同じく、この出口常順管長の説も正しいと思われる。 しろ とみのおびといちひたま たよろづしろも ここでもう一つの問題は、「田一万頃を以て、迹見首赤檮に賜ふ」という記事である。田一万頃 しゆくんしゃ そがのうまこ とみのおびといちい というのは、相当な広さである。迹見首赤檮が、蘇我馬子と聖徳太子とともに最高の殊勲者として ものの・ヘのもりや 賞せられていることはまちがいない。たしかに敵の大将・物部守屋を射殺したのであるから、その とみのいちい きみよう 功は甚大であると考えるのは当然である。しかし奇妙なことに、この迹見赤檮なる人物は、これ以 もの なかとみのかつみ とつじよ 後、正史に登場しないのである。この人物は突如として用明一一年に登場して、中臣勝海を殺し、物 の・ヘせいとう 部征討に参加し、守屋を射殺するという大功をたてただけで、それ以後、杳として姿をくらまして もしまう。 せっしよう とねり とみのいちい たいしゼんりやく 寺もし太子伝暦がいうように、迹見赤檮が聖徳太子の舎人であるならば、太子の摂政としての登場 かつやく 法とともに、推古朝で活躍するであろうが、そういう記事はいっさいない。この点から考えて、やは とねり ひこひとのおうじ とみのいちい 亡り迹見赤檮は、彦人皇子の舎人とみなくてはならない。 ひこひとのおうじ かれ びみよう とみのいちい 窈考えてみれば、迹見赤檮は、はなはだ徴妙な立場にたっている。彼は、いわば彦人皇子の代理と はっせ・ヘのおうじ 物して戦いに参加しているのである。泊瀬部皇子などは、いち早くこの戦いに参加している。当然、 とみのいちい じゅくりよ 章彦人皇子もこの戦いに参加すべきであった。しかし皇子は熟慮の末に参加せず、迹見赤檮を代理と四 いちい しゆくん とみのいちい 第 して送ったのである。そして迹見赤檮は、守屋を射殺するという大殊勲をたてた。赤檮は代理の役 してんのうじ よう

5. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

みなづき しらきっかひまだ みつきたてまっ にヘさつねあとまさ あはせたたら ち わだ 六月に、新羅、使を遣して調進る。多に常の例に益る。拜て多多羅・須奈羅・和陀・発 くゐよ むらみつきたてまっ 鬼、四つの邑の調を進る。 びだっ ふゅしもっきかのえうまついたちのひ くだらのくにこきしかへるつかひおわけのおほきみら きゃうろんそ ( 敏達六年 ) 冬十一月の庚午の朔に、百済国の王、還使大別王等に付けて、経論若 こばくあはせりつし ぜんし びくに じゅこむのはかせほとけつくるたくみてらっくるたくみむゆたりたてまっ つひなには 干巻、拜て律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏エ・造寺工、六人を献る。遂に難波の おほわけのおきみてらは・ヘ 大別王の寺に安置らしむ びだっ ふゆかむなづき しらききしさなま まだ みつきたてまつあはせほとけのみかたたてまっ ( 敏達 ) 八年の冬十月に、新羅、枳叱政奈末を遣して調進り、井て仏像を送る。 びだっ なつみなづき しらきあとなま しせうなま まだ をさ みつきたてまっ ( 敏達 ) 九年の夏六月に、新羅、安刀奈末・失消奈末を遣して調進る。納めたまはずして かへしつかは 還す。 びだっ ふゆかむなづき しらきあとなましせうなま まだ みつきたてまっ をさ ( 敏達 ) 十一年の冬十月に、新羅、安刀奈末・失消奈末を遣して、調進る。納めたまはず かへしつかは して還す。 いけうちひろし 日本書紀に書かれるこれらの記事が全部事実であったかどうかわからない。池内宏氏のいうよう しんぎ 戦に、事実とフィクションとをはっきり区別する必要があろう。しかしその真偽を明らかにするのは さくご 宗容易ではない。九年と十一年にまったく同じ記事がある。錯誤とも考えられるが、ここでは、いち しらぎ 部おう日本書紀の本文を信じて、二度にわたって新羅の使が来朝したと考えよう。この記事を見ては びだっ ちょうていきんめい いなめ とっきりわかることは、敏達外交は、前の朝廷の欽明ーー稲目外交と、外交方針がちがっているとい 蘇うことである。 しらぎ くだら びだっ くだら しらぎ 章 ここで対新羅外交は六件であり、 対百済外交は三件である。つまり敏達朝では、百済より新羅と きんみつ くだらいつべんとうきんめい 第 のほうが、外交関係が緊密なのである。これはほとんど百済一辺倒の欽明 稲目外交とまったく いなめ すなら

6. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

し ただねんだいあや てん はいれっさくご てん にほんしよき にほんこくみんはうてん 知られる。但し年代を誤まった点や、配列を錯誤した点はある。日本書紀が日本国民の宝典で せかいうてん ことたじっか おも にほんしよき あるのみならず、世界の宝典であるといふ事を他日書いてみたいと思うて居る。日本書紀の記 さんごくしき さんごくゐじ さんせう けんきう せいかく 事は三国史記や三国遺事の記事と参照して研究してゆけば、如何に其の正確なものがあるかゞ さんごくしき しよき きじあきらかに しよき しきあきらかに 知られる。 ( 中略 ) 三国史記や遺事で書紀の記事を証し、書紀で史記を証するのは一寸見 あやま ろんばふやうおも しよき ばあひさやう りゃうしやそのかんなんら ると誤った論法の様に思はれるが、書紀と史記との場合は左様でない。両者は其間に何等の交 せふ くわんけい どうやうきじ とき さうはうみ 渉もなく関係もなく撰まれたものであるから、同様の記事が双方に見えたる時は、斯る古い伝 せつ ふるきろく さうはうった かくじっせいま 説なり古い記録なりが双方に伝はったものと見てよいので、其の確実性を増すのである。ツマ さうはうまうた ことさうはうただ ことあきらかに ちゅうい リ双方の申し立ての合ふ事が双方の正しい事を証する事になるのである。たゞ注意すべきこ しよき きさい ちうだいしじつわづ いちせうぶぶんちうさらいちせう とは、書紀でも史記でも夫れに記載されてある事は、重大史実の僅かに一小部分中の更に一、 しる しる ちうだいしじっ いくた もちろん 部分にすぎない。彼に記せられて此に記してない重大史実が幾多あるのは勿論であるから、 ゅゑもつうたがことまう いまにしりゅうくだらしけんきゅう かゝる史実を此の故を以て疑ふ事は申すまでもなく非である。 ( 今西龍「百済史研究し て め 今西氏の方法は三国史記や三国遺事との連関において日本書紀を考え、それによって、日本書紀 きさい むに記載された事実のより深い意味を探ろうとするのであるが、この方法に私は賛成である。 実今西氏のいうように、日本書紀は単に日本史のみならず、世界史、とくに東アジアの歴史を研究 ちょうせん いっち 子するのに欠くべからざる貴重な史料である。もしもそれが中国側、朝鮮側の史料と一致すれば、そ きさい こに記載された事件は事実と考えなければならない。しかもその記述は、氷山の一角である。その 聖 氷山の下には、実際に起こった多くの重要な事実が隠されているのである。その氷山の一角を探る 章 ひが ことによって、氷山の下に存在している重要な事実を推察する。そのようなことは、彼我の史料の ぶぶん しじっこ いか

7. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

あっ えきびよう だんあっ 圧の時を書いていない。疫病の記事のついでに弾圧の記事をも書き加えたのであろう。この点につ えんぎ 0 いてまだ問題もあるが、ひとまず縁起の説をとっておく きんめい くだら それはとにかくとして、この欽明十一二年十月、百済の聖明王の国の運命をかけた文化的プレゼン えきびよう トも、日本の国論を二つに分裂させた上に、副産物として疫病の流行をまねくという思いがけない 結果になった。 えきびよう なや 国論が二つに分かれ、疫病の流行に悩む国家が積極的に海外派兵を行えるはずはない。 聖明王の期待にこたえられない日本 私はすでにこの時、日本の軍事力は二世紀前に比して、相当後退していたと思う。おそらく日本 にんとくてい がもっとも強い軍事力をもっていたのは四世紀末、日本書紀でいう応神、仁徳帝のころであろう。 くだらしらぎ えそれから以後は、日本の軍事力が低下したと思われる。それは、一つは百済や新羅がようやく統一 ちょうせん の国家としての力をつけてきたこととともに、日本が朝鮮から先進文化を移人することによって、国 にゆうじゃくか すいたい 興民が文明化し柔弱化したことも、この国力衰退の一つの原因であったであろう。 ゅうりやくてい 国日本が軍事力において優位を保っていたのは、倭の五王の最後の武王・雄略帝のころまでで、そ みまな 一れからはもう半島を制圧する強い武力を日本はもっていなかった。任那の経営が思わしくなかった くだら さんかん きようふ 仏のは当然であるが、この時百済が日本に期待していたのは、まだ三韓の地にその恐怖の思い出が強 章 く残っていたと思われる日本軍のあの野蛮な軍事力であったのである。 第 すでにこの時日本は海外に兵を出し、まちがいなく戦勝を収めることのできる軍事力をもたなか ぶんれつ やばん わ 1 13

8. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

こりつかん なみだ なみだ くだら 私は使節の流した涙は、同時に百済の置かれた国際的孤立感への涙であったと思う。 しらぎ しらぎほんぎ ところが新羅はちがう。同じ五四九年、新羅本紀には次のようにある。 カくレ」く わうひやくくわん つか ぶっしやり はるりゃうつかひにふがくそう ( 真興王 ) 十年春、梁、使を人学僧・覚徳とともに遣はして、仏舎利を送る。王、百官をし こうりんじ まへみちむかたてまっ て興輪寺の前の路に迎へ奉らしむ。 りようこうけい これははたして事実であろうか。五四九年春といえば、太清一二年、梁が侯景に苦しめられ、武帝 のまさに死なんとする時である。 りよう この使節が梁を出発したのは、いったいいつなのであろうか。それはおそらく、恐ろしい事件が しらぎ おそ 起きる以前のこと、まだ新羅の人はもちろん覚徳も使たちも、恐ろしい運命を知らなかったのかも しれない。 むか しらぎりよう くだら それにしてもこの記事は、百済の同年の記事とまったくちがう。新羅は梁から文化使節を迎え て、うきうきしている感じがある。 り・よう けいき この太清三年の梁の使者による仏教移人が、この国の仏教発展の大きな契機となったと三国遺事 は語るのである。 くだらか しやかぶつ 百済の賭けーー一体の釈迦仏にこめられた悲願 くだら こりつ このように、こういう国際的な孤立を感じて百済は一世一代の賭けにでたのであろう。 つか へいいちまんひき はるしゃうぐわっわうしゃうぐんだつみ ( 聖明王 ) 二十八年 ( 五五〇 ) 春正月、王、将軍・達巳を遣はして、兵、一万を領ゐて、 くだらはんぎ たうさつじゃうせと さんぐわっかうくり へいきんけんじゃうかこ 高句麗の道薩城を攻め取る。三月、高句麗の兵、金蜆城を囲む ( 百済本紀 ) 。 お ぶてい -8

9. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

きさらぎはつかあまりふつかきのえいぬのひょなかひつぎのみこう 銘に「 ( 推古三十年 ) 二月廿二日甲戌の夜半に太子、崩せましぬ」とあるからである。 こうくり・ みずのえうま うおうていせつ また法王帝説には、太子は壬午の年二月二十二日の夜半に死に、その師である、高句麗に帰っ の えじ た慧慈は、その翌年の二月二十二日に死んだという記事を載せている。 そがのうまこ ものの・ヘのもりや ひのとひつじ ほうおうていせつ また同じく法王帝説には、丁未の年の六、七月、蘇我馬子が物部守屋を討ったという記事があ ひのとひつじ ねんれい せうわうみとしとをちあまりよっ り、この年の聖徳太子の年齢を「聖王の生、十四年にましき」という。この丁末の年というの さい びだっ は、用明一一年 ( 五八七 ) に当たるが、この年太子が数え歳の十四歳とすれば、太子はやはり敏達三 ひのとひつじ ものの・ヘせいばっ しようとくたいしぞんけつき 年の生まれとなる。聖徳太子伝補闕記もこの物部征伐の年を丁末の年、用明二年とし、その時の さい 太子の年齢を十四歳としている。 このように考えると、太子の生年を敏達一二年、その没年を推古一二十年とすることが、もっとも正 しいように思われるが、その没年について多少問題があろう。たしかに史料的には、この点につい しんらい て法王帝説のほうが、日本書紀よりはるかに信頼すべきであるが、日本書紀がまったくまちがって 戦いるといえようか。日本書紀がつくられた年は、太子が死んでからまだ百年とたっていないが、太 こくめい てんのう 宗子にたいする尊敬は異常といってもよく、その死を、いかなる天皇の死以上に克明に報告してい の 部る。 はな 物 このようにまだ編集の時から、そんなに離れていない時代につくられた日本書紀がなぜ太子のよ 我 うおうていせつ ぼつねん 蘇うな、とりわけ重要な人物の没年を、まちがえたのであろうか。法王帝説や、その元になったよう 章 な史料を、書紀の編集者は、見ていなかったとは考えられない。見ていたとしたら、どうしてこの 2 にうおうていせつ ちが 第 ようなくい違いが生じたのであろう。日本書紀の編集者は、なぜ法王帝説などの推古三十年説を捨 めい うおうていせつ ねんれい ぼつねん びだっ つねん

10. 聖徳太子Ⅰ仏教の勝利

きんかんから とくじゅんとくことん しらぎくだ くだら り日本府があった金官加羅と、卓淳、碌己呑などは新羅に降り、また西方の四県は百済に帰した。 きんかんから 残ったのは十国で、その中心が加羅国であり、そこに金官加羅に代わって日本府が置かれていたら しらぎ ちょうせん しいが、それがここにおいて新羅に帰し、ついに日本は四世紀以来、保有し続けていた朝鮮半島の こんきょち 根拠地を失ってしまうのである。 みまな 任那をめぐって、あれほどくわしい報告を書いている日本書紀としては、この最後の記事はまこ いけうちひろし きんめいき いぞん くだらほんき とにあっけない。これは池内宏氏のいうように、欽明紀が多く依存した百済本記なるものが、聖明 王の死で終わっていて、この辺は専ら日本側の記録によっているためかもしれない。 なぞ みまなかんらく 謎につつまれた任那陥落 きんめい みまなめつぼう しらぎみまなせいふく 日本書紀にはこの欽明二十三年 ( 五六一 l) 一月の任那滅亡の後、六月に、新羅の任那征服にたい こうぎみことのり りようしよおうそうべんぞん えする抗議の詔がだされたことが述べられているが、これは梁書の王僧弁伝にある文章をほとんど しらぎ とど のそのまま使ったものである。ついで七月に新羅の使が来たが、国交の断絶にあって帰らず日本に留 興まった。そしてこの月ついに日本は軍を出したが、利あらず敗戦する。書紀はこの戦いの様子を、 かわべのおみにえ つきのきしいきなふうふ 国河辺臣瓊缶のはなはだだらしのない行動と、調吉子伊企儺夫婦のはなはだ果敢な行動とを対照的に 一物語風に書いている。 くだらんき 仏この記事は百済本記のような正確な事実報告にもとづいていない。場所も時間もあいまいであ かげ 章 、話も大まかである。しかし私は、そこには不十分ながら歴史的事実の陰のようなものがあると菊 第 思う。おそらくこの戦争の話が物語のような形でどこかに伝えられていたのであろう。それゆえわ かかん