スモス・クラ・フ Kosmos Club においては、地理学会に関係ある人はべィッの家計の不如意をあげている。しかしマレ ー諸島から帰ったウオレスは、きわめてわずかな収入の中 ある探検家たちの中にしばしば顔を出した。彼はこうした 多くの役割の中で、分類学を標榜する博物学者として、開で科学者としての生涯を全うした。べィッの心の柔軟性あ けた学者的な官僚政治家として、実にたくさんのよい仕事るいは趣味の広さが、彼の死去するまでの四半世紀の間に をしたが、なかでも旅に興味を持つ者と、博物学に求知心し・ほんでしまったためでもない。彼は絶えず周囲の人びと に夢を抱かせるような刺激的な話題の豊富な話好きの人で をいだく者とを相互に補足し合えるよう、人びとを結びつ あった。「彼の話すことすべてに不思議な新鮮さがあった。 けることにおいて最も力を尽した。 とはいえ、あのように情熱と夢を抱いてアマゾンの地にそして彼の話し方には不思議な魅力があった。彼の言語形 趣き、十一年に及ぶ困苦欠乏の中にあって青春のすべてを式はいつも奇妙な ( イフォンで区切られていた。しかし構 博物学の探究に捧げ、ようやくにして探りえた自然解明の成は完璧で、冗長でなく、純粋な英語で、言い換えること ひとつの鍵を、これから全世界の人びとの前に問いただそも、他の言葉をさしはさむ必要もなかった : : : 」とクロッ ドは後に思い出の中で語っている。 うと、かくも希望に燃えて帰国した学徒のその後の半生が、 このことについての説明として、ウッドコックはつぎの なにゆえこのような平凡なものに終わってしまったのか、 ように書いている。「べィッにとってアマゾンの旅の経験 今その理由を明らかにしようとしても途方に暮れる。『ア マゾン河の博物学者』が、かくも素晴らしい探検旅行記では、科学の追求よりも、精神的により重大な意味を持って いたと敢えて結論するより他に道がない。べィッがアマゾ ありながら、なにゆえに著書はこれひとつに終わってしま ンにあった年月こそは、彼の生涯で事実最高に燃え上がっ ったのかも大きな疑問として残る。ある人はこれは、・ヘ た時期であった。彼の独創的な仕事はすべてそれから生ま 説ツの帰国後の健康の不調のためであるとしている。しかし ダーウインも後世に残る数かずの名著を書いた頃は、ほとれた。アマゾンによって彼の中に眠る創造性は一挙に解き 解 んど健康というものを味わうことのなかった毎日であった。放たれ、最も強烈な審美感から、最も深刻な退屈と憂鬱に 461
de は、エクアドルのキト Quito を出発、ナポ Napo 川を経 二九頁にわたって、「三人の生物学者ーの表題のもとに、べ ィッ、ウオレス、ス。フルースの旅が紹介されている。またて本流をはじめて大西洋に出た。そしてその途中、弓矢を 「人はなぜ旅をするかー全一〇巻のうちの第六巻『庶民の持ったブラジルインディアンのタビアヤ族の女たちを見た ことから、ギリシア伝説に語られているアマゾン女人武族 旅と学者の旅』 ( 日本交通公社、一九八一 l) の中で、一七四 ~ 一九五頁にわたって、「アマゾンの博物学者ーの表題のもとの故郷はここであろうとした。アマゾンの名称は、これに べィッの旅の様子が紹介されている。これは先の大島由来するものとされている。一六一五年ポルトガル人力ル の訳書を参考にしたもので、第八章までの記述で、後半は 一アイラ Caldeira, do Castero Branco Francisco か、アマゾン ない。ともにたくさんの図版が併載されていて楽しい。 デルタのパラ川とグアマ川の合流点にパラの町を創設、ア マゾンの経営に乗り出した。いずれも初期の植民地拡大を ここで、アマゾンの博物学探検史の中で、べィッの旅とねらう侵略探検の時代の出来事である。国家的野望の遠征 著書『アマゾン河の博物学者』が、どのあたりに位置する から、黄金と香料を求めての欲と道づれの探検略奪、また かを知るために、簡単に十九世紀中ごろまでの探検の歴史布教を目的とした入植まで、ポルトガル、スペイン人のみ を概観しておこう。 ならず、英蘭仏さまざまな国の人びとがこの地に入ったこ プラジルが世界史の舞台に登場するのは、一五〇〇年四とは、想像に難くない。つぎに記す博物学、地理学探検を 月二十二日に、ポルトガル艦隊の司令官カブラル Cabral, 目的に入った人びとと合わせてたくさんの記録が残ってい Ped 「 0 Alva 「 es が、南米大陸北東部の南緯一七度の地点に上る。 (Baker, J. N. L. 【 A H 一 0 ( 。こ 0 一 GeographicaI Discovery and 陸、ポルトガル国領有を宣言したことに始まる。その時ア Exploration. George G. Harrap CO. に ondon. 544PP. 1931. 地 1 ラップ社、ロンドン ) 。 マゾン河口にスペイン人航海者のビンソン Pinz6n, Vicente 理学的発見探検の歴史。ジョージ・・ が達していた。一五四一 ~ 三年、スペインの探検家ビサ 自然科学の究明を目的とした博物学探検の最初は、一八 ロ Pizarro, Gonzalo の副宀目オレリアーナ Orellana, Francisco 世紀中葉の一七三五から四四年にかけて、フランス科学ア
解説 1908. の華やかなアマゾン博物学探検時代の中枢に位置する旅行 このうち = ドワーズの本は後述するように、べィッとウ家である。しかしその著書は、諸処移動した他の人びとの オレスをして、アマゾンの地に赴かしめた直接の誘因とな探検の記録とは異なり、小さなジャングル社会に唯一人の ヨーロッパ人として長期滞在し、そこを中心に近くの土地 ったもので、二人は出発前ロンドンでこの著者にも会って いる。スプルースは自身探検記を書くことなく終わり、右の博物や住民の生活を、克明に調査記録したことに大きな 特徴がある。事実、彼はアマゾンでの居住生活を記録した に言した本は、その没後友人のウオレスの手によって書か 。 ( 】ンドンとギポンの本はわが国では泉最初の英国人であり、豊かな感性の旅の作家である。奥本 れたものである 清一による抄訳がある ( 『アマゾン探検記』として世界探検記大三郎は、造化の神が用意した饗宴の場に、誰よりも先に 到着した至福の博物学者であると、アマゾンから転じてマ 行全集 ( 河出書房 ) 第八巻 ( 一九五六 ) に収められている ) 。 レー諸島を八年間にわたって踏査したウオレスの生活を評 一八四〇年代のアマゾン河の川筋における欧米人の社会しているが、それはそのままべィッにも当てはまることで、 蝶が乱舞し、甲虫がいこい、蝉が競い鳴く手づかずのアマ は、転々と移動する博物学探検家の他は、プランテーショ ゾンの大地に下り立って、すべてをわが物にした最恵の昆 ンの経営者、交易商人、商会員、あるいは宣教師などごく わすかな数で、上にあげた本のところどころにこれらの人虫学者こそべィッなのである。 べィッ、ウオレス以後学術研究を目的に、アマゾンに入 びとの名が共通して現れる。また必然的に、この十年間に おける旅行者の間にも、何らかのつながりがあって、べイ った自然科学者はおびただしい数にの・ほり、それぞれに意 ツについて言えば、ウオレスと共にアマゾンの川筋でス。フ義ある業績をあげているが、未だに未知の国である部分が 多い。しかしいつ。ほうでは、その後の一世紀半の間に、ア レス、ハーンドンに遭遇している。またアーダルベルト 王子や、カステルナウ伯のために働いた舟乗りや標本採集マゾンの開発は加速度的に進みつつあって、自然の破壊が 7 人をベイツは一時雇っている。かくべィッは一八四〇年代憂慮される深刻な時代に立ち至っていることは、多くの人
説 解 がアンデスに派遣した、』 地調査団の長で地理学 マゾン河渓谷が動植物の宝庫であることを明らかにした。 この間にフォン・ェシヴェージ von Eschwege,W. L. (1811ー 者のラ・コンダ、、、ユーヌ La Condamine, Charles-Marie de が帰途、マルドナ ード MaIdonado, J. A. と共にキトからマ 14Y マキシ、、、リアン王子 Prince Maximilian of Wied ・ Neuwied ラニョン Ma 「 afi6n 川を経てアマゾン河口に出る大旅行を遂 ( 1815 ー 17Y サン日ティレール St. ・ Hilaire, Auguste de ( 1816 ー 22Y ポールおよびナッテラー J. E. Pohl and J. Natterer 行した。しかしその後は、ナポレオン戦争が終わるまで、 博物学者、地理学者いずれによっても、アマゾン地帯はあ ( 1817 ー 21 ) らの探検があるが、しかし、ヨーロッパあるいは まり注目されるところとならすに過ぎた。一七九九 ~ 八〇アメリカの探検博物学者たちが続いてここに押し寄せたの 年、ドイツ人の地理学者フォン・フンポルト von Humbol ・ は、さらに四半世紀を過ぎた一八四〇年代に入ってからで dt, と xande 「 Freiher 「は、フランスの医学者で植物学者のある。 エメ・ポンプラン Bonpland, Aimé Go 三 aud と共に、ベネ 一八四二年、。フロイセン海軍の創設者、旅行家として知 ズエラのオリノコ O 「 inoco 川流域を踏査し、その結果からられた、アーダルベルト王子 P 「 inceAdalbert, Hein 「 ich Wil- この川は、今日カシキアレ Casiquiare 水道と呼ばれる水路 helm のアマゾン到着は、ヨーロッパやアメリカの科学者 によって、リオ・ネグロ Rio Negro 川を経てアマゾンに通たちの前に大河の扉を開き、アマゾンの自然科学探検ブー じていることを発見した。 Voyage aux régions équinoxialles ムの先がけを作った。彼はアンデス山麓の高原のタ・ハティ du NouveauContinent ( 新大陸熱帯地方旅行記 ) を残す。一八一 ンガ Tabatinga の村に達する遠方まで、アマゾンの主流を 九年、ドイツの博物学者のフォン・ス。ヒックス von Spix, 溯行、また大支流のひとっシングー x 一 ngfi 川を初めて探検 Johann Baptist とフォン・マルテイウス von Martius, Ca 「一した。四年後の一八四六年にアメリカ人のエドワーズ w. Friedrich Philipp の二人は、。、 , ラからアマゾン河を溯行し、 H. Edwards が、パラから・ハ 1 ラ Ba 「 ra まで主流に沿って 帰国後 ReisenachB 「 azilien ( プラジル旅行記 ) 三巻を一八二博物採集を行なった。そしてアマゾンデルタに横たわるマ 5 二年から三一年にかけて出版した。これらの旅行家は、ア ラジョー Maraj6 島と、メンアナ Mexiana 島の動植物相を
たとえアマゾンがエデンの園であろうとも、その半野生生はすでに子供たちに仕事をまかせ、半ば第一線から退いて いた。べィッはその日から三年以上もレスターとロンドン 活の精神的不毛に比べたら、この文明世界こそは、感性、 つばいに咲き競う、はるかの間を行き来して暮した。彼がロンドンをしばしば訪れた 雅趣、そして知性の花ばながい に優れた心の天地である」という意味の言葉を、思いをこその目的は、コレクションの残りを売り捌くためと、大英 めて書き記した。帰国以来、ことあるごとに体得したいっ博物館に買いとられた厖大な蒐集品の整理に当たるためで わらざる感慨である。そしてウッドコックの第一〇章「ダあった。この仕事の課程で、彼は二つの興味深い数値に到 達した。そのひとつは、彼が標本の売却を完了したとき、 1 ウインの影にかくれてーがこの後に続く。 八〇〇ポンドという利益がそこにもたらされた。これは彼 彼はアマゾンの素晴らしさをなっかしみ、夢見ながらも の十一年間に及ぶ、アマゾンでの困苦欠乏にたえた生活と 生涯二度と大河のもとへは戻って行くことはなかった。ア マゾンどころか、事実大がかりな旅行にはその後、どこへ労働に対する、金銭的な報酬である。もうひとつは、主に も出かけていない。故国はべィッのわが家となった。彼の昆虫からなるが、彼はアマゾンで一四、七一二種の動物標 この旅は、はじめはこれからの輝かしい自然科学者として本を集め、そのうちの八、〇〇〇種ほどが未記録であるこ とを知った。その詳細は哺乳類五二種、鳥類三六〇種、爬 の後半生を約東する、前奏曲であるかのように見えた。た しかに帰国して五年ほどは、彼の抱く希望の灯も輝かしく虫類一四〇種、魚類一二〇種、昆虫類一四、〇〇〇種、貝 燃え立ちはしたが、やがてその後は科学への奉仕に終始す類三五種、植虫類五種であるが、この発見の記録は、爾来 る不透明なものへと移り変わり、後半生は驚異に等しかっ南米大陸において他の博物学者たちが、まだ踏み越えたこ とのない数値である。一八六三年に出版された『アマゾン たアマゾンの旅の、単なるエ。ヒローグ、すなわち終結章と 河の博物学者』のまえがきに、この数字が記載されたとき、 説なっていった。 帰国したべィッは直接レスターに戻り、弟たちが父から一般からはその信憑性にかなりの疑いが持たれた。「月曜 解 引き継いでいた家業の、メリャス製造の仕事についた。父日の朝、私は大英博物館でスズメバチの巣の中に転け落ち 449
上唇と舌に相当するものである。これをびたりと皮膚に当ジル人は、近年ソリモンエス川に対してアルト・アマゾナ ス オてて、披針で刺傷をつくり、それからこれらの間を通って ス Alto Amazonas (High または Upper Amazones 上アマゾン ) 「血液を食道へ吸いこむ。だから残された丸い斑点は、唇のという便利な言葉を適用している。おそらくこれが次第に 形と一致する。二、三日するとこの赤い斑点は乾き上がり、昔の名前にとって代わることであろう。リオ・ネグロ川は、 ビ最後は一面にできた色の変わった、無数の刺傷で皮膚が黒河口から上流へか向ってかなり幅を広げていて、大きな湖 のような景観を呈している。その黒く染った水にはまった 一ずんでくる。人によ 0 て、このためにできた痒みによる焦 ン燥は、ほかの者よりいっそうひどく感ぜられる。私は一度 く流れがなくて、黄色く濁ったソリモンエス川の激流のた アある中年のポルトガル人といっしょに旅行したことがあるめに、あたかも堰き止められているかのように見える。っ ぶゅ が、この男は蚋の刺螫のために、三週間も寝ついてしまっ まりこちらは、このあたりで根こそぎされた木や草の塊を、 章 た。彼の両脚は著しくはれ上がって、刺傷は大きな腫物に途切れることなしに吐き出していて、支流とは著しい対照 第悪化していた。 をなしている。われわれは渡河の折、中間点より少し向こ 二十二日の早朝、東から快い風が吹き出した。直ちにわうの、両方の川の水が合して、はっきりとそれそれの境界 れわれはすべての帆を揚けて、リオ・ネグロ川の河口を目を画しているところで、この線を横切った。対岸に達して、 指した。アマゾン河との合流点におけるこの雄大な川は、 著しい変化をそこに発見した。すべての害虫が、あたかも その位置からは、あたかも直接本流の続きのように見える。魔法にでもかけられたかのように船艙からさえ、ことごと いつぼう直角に合流し、おまけに支流のリオ・ネグロ川よ く消え去ってしまい、あの轟々たる奔流の騒乱と、あの引 り若干狭いソリモン = ス川の方は、あの広漠たる水系の本ぎ裂かれたような垂直の土の岸は、今度は静かな流れと、 流ではなくて、逆に一支流であるかのように見える。だか なだらかな砂の岸辺に縁どられた、心地よげな湾の出入り ら初期の探検家たちが、このアマゾン河の上流部分に、別する、河畔にその席を譲っていた。アマゾン河の南側に多 の名を与えるようになった理由もすぐうなづかれる。ブラ いあの低い岸辺と、生き生きとした明かるい緑の無限に変
スにおいても感知できることが知られている事実を考える い一夜の休息が得られたのである。 小さな入江がジ = ン・アラクーの家の後の森を横切 0 てと、乾季における高潮時には、アゾン河からの大きな上 いた。そしてそれは、われわれが錨を下している場所からげ潮がタ。 ( ジ , ース川との間にほんのわずかな潮位の差が 数ャードのところで、川に注ぎ込んでいた。私は猟場〈のあること、その事実は乾季に川の流れがなくな 0 てしまう ことからわかるのである。この結論が正しいものであった 行き帰りに一日必ず二回それを横切っていた。九月初めの と私は信じて疑わない。 ある日のこと、川の水が朝方のそれよりも、午後には二 本流を通って、その河口から三八〇マイル上で、支流の 三インチ高くなっていることに気がついた。この現象はっ ぎの日も繰り返し見られた。そして実にそれは毎日繰り返ひとつに入り、さらに第三番目の枝に入る、アマゾン河上 流五三〇マイルの地点でこのように潮汐が感ぜられること 川の水位の連続的な沈下で、 されていたのである。クパリ は、アマゾンの谷の低地部を形成する土地の、極端な平面 入江が乾いてくるまで、水が上がって来る時間が日一日と 性を証明していることとなる。この水位の同一性はまた、 少しずつ変わっていた。私はこの状況をジョン・アラクー に指摘して見せた。彼は今までこれに気づいていなかった。谷を通ってアマゾン河の主流と連結するために、谷を縦断 もっとも彼がここに住居を定めてから、今年でわずか一一年している、主だった支流によって、それらの河口の近くに、 目である。しかし彼は、これをマレ ma 「 6 に違いないと言形成されている広い湖のような、水の広がりにおいても示 って私の考えに同意した。そうだ潮汐なのだ。偉大な大洋されている。 八月ニ十一日 ジョン・アラクーは私の狩猟と魚取り 潮の鼓動が、アマゾンの河口において、淡水の塊がはじめて の のために、彼の手下の男を一人連れて、滝までいっしょに 流海水とぶち当たる場所から数えて五三〇マイルもある、こ 行ってくれることとなった。私のこの遠出の目的のひとっ のような遠方において感じられたのである。私は最初この 「ような結論をもち出すことには、いささかためらいを感しは、スミレコンゴウインコの標本を得ることであった。こ 3 いんこ ア フラジル内陸を通って、南から最初 の鸚哥の生息区域は、・ た。しかし、潮汐は海から四〇〇マイル以上もあるオビド
上アマゾン河流域の四季は、下流の地域およびパラ地区 そしてしばしば野外の舞台で使われる竿のように真直ぐに 、くつかの点で異なっている。この上下二つ の伸びている。実った時の果実の房は、カのある男にも重荷のそれとは、し の地域は、われわれはすでにかなり見て、そして区別して で、それそれの木がこれを数房つける。モモヤシはアマゾ 工 ンではどこにも野生していない。インディアンが大昔から来た。工ガにおける一年は、河川の上昇と低下にしたがっ て分けられていて、それは雨季と乾季に一致する。住民た ン栽培していて、彼らが・フラジルへ初めて移住する時に、い ちの主な生活の順序は、すべてこれらの年ごとの繰り返し マっしょに持って来た数少い主食生産植物 ( マンディオカと、 上 アメリカ種のパナナを入れて三種 ) のひとつである。しかしこ発生する自然現象に左右される。この上流地方の特殊性は 一年のうちの二つの水位の上昇と、二つの水位の低下から 章れを栽培するまで持って来たのは、より進んだ部族だけで 第ある。下アマゾンと、 パラの付近に生育するモモヤシの実成り立っている。大きな年次的の水位の上昇は二月の下旬 ごろに始まり、六月中旬まで続く。乾季の間は、それそれ に対する、ソリモンエス川で生産されるその実の優位性に は、極めて顕著なものがある。工ガにおいてはおおむね普 普通の川底あるいは湖底の範囲に留まっていた川や湖が、 通の大きな桃ほどの、煮ると馬鈴薯のようにほかほかになしだいにその水嵩を増し、すべての低地に氾濫する。氾濫 るものが、パ は一インチ一インチと静かに進行する。そしてそれは森の ラではクルミほどには大きくならず、果肉も 繊維質である。不稔の、すなわち種子のない果実をつけた内部、高地の奥、川から数マイル離れたどこにいても感知 される。乾季にはたくさんの雨溝によって遮断され、乾い 房が時おり、上アマゾンでもまた下アマゾンでも取れるこ とがあるが、エガではそれがこの季節における主食のひとて広びろとした小さな谷間が形成されていた場所も、しだ っとなり、煮て糖蜜または塩をかけて食べられる。種子の 、こ犯濫の圧力で、木陰の下を小さな舟が航行できる、広 い水路に変わって来る。いろいろな種類の無数の亀が、主 ない果実十数個で、成人一人あたりの栄養のある食事とな る。モモヤシの栄養価は魚またはアマゾンマナティーのそ流を離れて、内陸の水溜りに移って行く。砂洲は水の下に れより多いということは、おおかたの信ずるところである。 かくれ、渉禽の群は、その方向から流れて来る支流の上方 298
かとさえ思われる。リオ・ネグロ川の森林の形状と色彩と、のほとんどが広葉 2 ( ショウ科や、クズウコン科の植物、 ス オアマゾン河のそれとの大きな対照は、そこで優勢を占めてそれに多肉質の草などから成っている。そして、これらが マ いる植物群が、それそれ異なっていることによっている。 ことごとく明るい緑色をしているのである。ところが、リ ス 本流の河畔では、二〇 ~ 三〇種からの椰子が樹塊の大半をオ・ネグロ河畔の森には、それらが繁茂するところではど ビ占めている。それに反してリオ・ネグロ川では、椰子はき こも、そこの植物景観を左右している、こうした広葉の木 や草が、ほとんどまったく存在しない。流れの縁といえば、一 一わめて従属的な役割を果たしているだけであゑリオ・ ンネグロ川地方における特徴的な植物種は、ジャラー蜀灌木や丈の低い木ぎにおおわれていて、大西洋に近い入江 マ ア ( トきミき、ミき ) である。これはアマゾン河の河畔で の岸に生えている、あのマングロー・フとまったく同じよう 下 は見られない種で、これ以外の森の色と同じ暗緑色の、細な陰鬱な景観を呈している。樹塊を作っている一様に小さ 章長い小葉の集まった貧弱な簇葉の頭を載ている。幹は平滑な、しかし優雅な葉をもった外生樹木は、大部分が月桂 第で、直径は約二インチ、高さは一二フィ ートないし一五フ樹、ギン・ハイカ、それからノウゼンカズラ科や、アカネ科 ィートを越えることはない。したがってアマゾン河畔のあ Rubiaceae の植物である。土壌はおおむね硬いロームで、 の広葉のムルムルーやウルクリー U 「 ucu 「一、細長いアサイその主要構成部分はタバティンガ粘土であるが、それがま ャン、高いジャウアリー そして扇葉のミリチャーヤシのた沿岸のあるところでは、粗い砂岩層の上になって、低い ように、他の外生樹木の簇葉の塊の中から、ひときわそび絶壁をなしている。この種の土壌と、そして同じ地質構造 え立ってその景観を特徴づけているということはない。本とは、これまでわれわれが見てきたように、アマゾン河畔 流の岸辺では、樹塊は椰子類のほかに、その高さ、葉、花、の多くの場所でもよく見られるもので、したがってこれら 実の形に至るまで、千差万別のマメ科の植物、パンヤ科の の二つの川の岸辺をおおう、森林間のあの大きな相違は、 木とか、サガリバナ科 Lecythidaceae の巨大な胡桃の木と このために起こるものとは考えられない。 か、ヤルマ属とからできていて、また下層林や水際は、そ 森の散策は非常に楽しいものであった。いっ果てるとも 186
私は、奥地の小旅行からここへ帰って来ては数ヶ月ずつ 襲い、数週間のうちに人口の四 % 以上を奪い去ってしまっ とどまるという風にして、一八五一年の十一月六日に、前 たのである。 、ならびに上アマゾ 今ではパラとアマゾン Amaz 。 n 。の二州に分けて呼ばれる、後実に七年半を費したタバジョ ンへの長期旅行に出発するまで、パラにはかれこれ併せて 以前のパラ州は、面積八〇〇、〇〇〇平方マイルもありな 一年半近くも滞在した。 がら、その人口は僅かに二三〇、〇〇〇人ほどで、これは 四 ) 方「イ ~ = 一人と」う割合となる。土地は一面森林 おおわれ、しかも土壌は熱帯園でありながら、きわめて肥 原注 * 〔 6 頁〕パラにおけると同様、リスポン Lisbon やオポルト 沃である。全土に広く、そして深い可航河川がくまなく交 0 を r ( 。で水汲車をひく、スペインのガリシア Galicia 出身 差している。アマゾン河は南アメリカの地中海であるとい の人びと。 , つのま、。、 ノラ人の誇りなのだ。この巨大な流れは、けだし 〔貰頁〕現在おそらくこの国の人口の大きな部分を占める 混血部族は、それそれ特色のある名称を持っている。マメル その名に価しよう。なぜかというに、本流とその主な支流 コ Mameluco というのは、白人とインディアンの間の子孫を は、広大な、しかも様ざまに変化する地方地方の岸を洗い ムラト Mu 一 a ( ( 。は白人とニグロ ( 黒人 ) のそれを、カ あの限りない水の広がりを擁しているばかりか、狭い水路 フゾ Cafüzo はインディアンとニグロの混しったもので、ク リボコ Curiboco はカフゾとインディアンの交雑部族を、シ によって本流につながり、あるいはまた、中には長さが一 ・ハロ Xibaro はカフゾとニグロの間のそれを呼んでいる。 五マイル、二〇マイル、さらに三〇マイルにも及ぶが、ひ しかし、これらに明確な限界をつけられることは稀で、あり とつづきの湖水を相互に直結する背後の水道組織網が、到 とあらゆる色合いがあって、これらの名前はごく大まかに当 てられている。クレオール Creole という一一口葉は、この国生 るところにあるからである。アマゾンの流域は、全部この れのニグロに限られている。開けたインティアンをタブョ 現ように、可航河川が網目のようにおお 0 ていて、川という Tapuyo あるいはカボクロ Caboc10 と呼んでいる。 ラよりむしろ無限の支脈を有する、偉大な淡水の内海を形成 補注 ( 訳者 ) タブョに対して、未開のインディアンをインディオ lndio 、 していると表現するのがふさわしい。